闇路転生記 〜鼠小僧次郎吉と刻をこえた男〜
玉響転生記・第二十八話
まえがき
二十七度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
宮本武蔵との旅で、凪は「剣路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「闇路」であった。
大名屋敷ばかりを狙い、闇に紛れて生きた男。
天保三年一八三二年七月。齢三十六。百を超える武家屋敷に忍び込み、江戸中を騒がせた盗賊――鼠小僧次郎吉。世に「義賊」として語られることになりながら、その実像は、伝説とは、いささか異なっていた男の物語である。
プロローグ 文月の来訪
東京は、蝉の声がかまびすしい、蒸し暑い夜だった。
榊原凪は、六十六歳になっていた。宮本武蔵との旅から、半年余りが経っている。
霊巌洞で、武蔵が弟子寺尾孫之允への想いを筆に込めた、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。書き上げた小説『道を継ぐ者』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い瓦版の写しを眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、墨と、夜露のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の小柄な男が座っていた。
やつれた着物姿。だが、その目には、どこか人懐こい、ちゃっかりとした光が宿っていた。
「よう、邪魔するぜ」
男は、軽い調子で言った。
「あなたは……」
「次郎吉ってもんだ。世間じゃ、鼠小僧なんて、呼ばれてるらしいがな」
凪は、息を呑んだ。
鼠小僧次郎吉。江戸中の大名屋敷、武家屋敷、百を超える場所に忍び込み、後に「義賊」として、歌舞伎や講談の題材となる盗賊。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにいるんだ」
「さあな、俺にも分からねえよ」次郎吉は、へらへらと笑った。「気づいたら、この妙な部屋にいた。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山、将門、道真、崇徳院、植村、手塚、武蔵――あんたが会ってきた連中の気配が、なんとなく分かる。妙な男だな、あんたは」
彼は、凪をじろりと見た。
「俺は今、奉行所の牢に繋がれてる。もう間もなく、市中引き回しの上、獄門ってやつだろうよ」
「次郎吉様……」
「だがな」盗賊の目に、複雑な光が差した。「一つだけ、はっきりさせておきたいことが、ある」
一章 二十八度目のたゆたい
その夜、凪は瓦版の写しに埋もれながら、考え続けていた。
これまでの二十七人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。だが鼠小僧次郎吉の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、次郎吉は天保三年八月十九日、市中引き回しの上、小塚原にて獄門に処されることになる。享年三十六。生涯に、百を超える武家屋敷に忍び込み、盗んだ金は二千九百四十六両余と記録にある。
だが、後世、彼を「義賊」として語り継ぐことになる伝説――盗んだ金を貧しい人々に分け与えた、という物語には、確かな裏付けがない。実際のところ、次郎吉が盗んだ金の多くは、博打や酒、遊興に費やされていたと、多くの記録は伝えている。
一方で、あまり知られていない、次郎吉の実際の行いがあった。
重罪人は、当時、家族にまで刑罰が及ぶ「連座」の定めがあった。だが次郎吉は、既に親から勘当されており、天涯孤独の身であった。加えて、数人いた妻や妾には、あらかじめ離縁状を渡し、自分の罪が、彼女たちに及ばぬよう、細やかな配慮をしていたと伝えられている。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
次郎吉が、あとひと月後に迎える死を前に、はっきりさせておきたいこととは――世間が語る「義賊」の物語なのか。それとも、その物語の陰で、彼が実際に守ろうとした、身近な人々への想いなのか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、瓦版の匂いが、墨と夜露の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
二章 奉行所の牢
気づくと、凪は、北町奉行所の牢屋敷の裏手に立っていた。
夏の夜風が、薄暗い塀の内側を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、牢役人風の姿に変わっていた。
「もし」
門番に声をかけると、彼は訝しげに凪を見た。
「次郎吉に、お目通り願いたい」
「お前さん、何者だい」
「次郎吉のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
門番は、訝しみながらも、奥へと入っていった。しばらくして、戻ってきた。
「榊原とやら言うたな。入りな」
この牢の奥に、次郎吉は、繋がれていた。
三章 次郎吉の牢中
牢の中は、狭く、蒸し暑かった。だが、次郎吉は、思いのほか、飄々とした様子であった。
次郎吉は、格子の奥から、ちゃっかりとした目で凪を見た。
「よう来たな」
「参りました」
「まあ、座れよ」次郎吉は、軽い調子で言った。「もっとも、大した椅子もねえがな」
「なぜ、そこまで、多くの屋敷に、忍び込まれたのですか」
次郎吉は、しばらく黙っていた。
「博打の借金さ」彼は、正直に言った。「格好いい理由なんて、ありゃしねえよ」
「世間では、あなたのことを、貧しい人々に金を分け与える、義賊だと、噂されているようですが」
次郎吉は、少し苦笑した。
「そいつは、買いかぶりすぎだな」彼は、静かに言った。「盗んだ金はほとんど、博打と酒と女に使っちまったよ」
四章 語られなかった気遣い
その夜、凪は牢屋敷の片隅で、眠れぬまま過ごした。
次郎吉の言葉が、頭から離れなかった。
――そいつは、買いかぶりすぎだな。
これまでの二十七人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが次郎吉の場合、彼が向き合っていたのは、「世間が作り上げた美しい物語」と、「己が実際にした、地味な気遣い」との間の、隔たりであるように思えた。
確かに彼は、盗んだ金を使い果たしたろくでなしだったのかもしれない。だが、捕まる前に妻や妾たちへ手渡していたという離縁状の存在が、凪の胸に強く引っかかっていた。
世間から「義賊」として華々しく語られる一方で、彼が実際にした身近な女たちへの、地味で確かな気遣いは、これまでどれほど正しく語られてきたのだろうか。
窓の外、夏の夜の虫の声が、遠く微かに聞こえていた。
五章 牢役人との対話
翌日、凪は、牢屋敷の見回りをしていた牢役人と、言葉を交わす機会を得た。
「次郎吉は、世間で言われるような、義賊なのでしょうか」
「さあて、どうだかね」牢役人は、苦笑した。「調べじゃ、盗んだ金は、ほとんど、博打と遊びに、消えちまったらしいよ」
「それでは、次郎吉には、褒められるところは、何もないのでしょうか」
牢役人は、少し考えた。
「一つだけ、感心したことがあるよ」彼は言った。「あいつ、捕まる前から、女房や妾に、離縁状を渡してたんだと。自分の罪が、あいつらに及ばねえようにってな」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。腰の痛みを堪えて立ち上がる。倍近く生きた自分の身体が、今の次郎吉より重たかった。
「そのことは、世間に、広く知られておりますか」
牢役人は、首を振った。
「いいや。世間じゃ、義賊だ何だと、勝手な物語ばかりが、独り歩きしてらあ」
六章 元女房との対話
その日の夕刻、次郎吉のかつての女房であった女性が、密かに牢屋敷を訪れた。
「榊原さんと申されるか。次郎吉さんより、伺っております」
「あなたは、次郎吉様のことを、どう見ておられますか」
女性は、少し目を伏せた。
「あの人は、博打狂いで、ろくでもない人でした」彼女は、静かに言った。「ですが……あの時だけは、あの人らしくない、真面目な顔をしていました」
「それは、次郎吉様にとって、どれほどの意味を持つ行いだったのでしょうか」
「あの人は……」女性は、言葉を選びながら言った。「口では、いつも、ちゃらんぽらんなことばかり言っていました。ですが、あたしらを巻き込みたくないという想いだけは、本物だったように思います」
凪は、頷いた。
「もし、次郎吉様が、世間の作り話ではなく、ご自身の本当の想いを、はっきりと言葉にされたら――何か、変わると思われますか」
女性は、しばらく考えた。
「変わるかどうかは、分かりません。ですが……あの人らしい、正直な言葉を、聞いてみたい気は、いたします」
七章 夜半の対話
その夜、凪は次郎吉に呼ばれ、二人だけで牢に残った。
「牢役人や、あの女から、聞いたよ」と次郎吉は言った。「あんたが、俺のことを、あれこれ聞いておるそうだな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」次郎吉は、静かに凪を見た。「俺自身、向き合わなきゃならん角度だったよ」
「世間では、あなたのことを、貧しい人々を助けた義賊として、語り継ごうとしております。ですが、あなたご自身は、それを、はっきりと否定なさろうとしています」
次郎吉は、しばらく、黙っていた。
「俺は……」やがて彼は、静かに言った。「義賊なんて、上等なもんじゃねえ。盗んだ金は、博打と酒と女に使っちまった、ただの、しょうもねえ男よ。……だがな、女房や妾たちに、罪が及ばねえようにと、離縁状だけは、ちゃんと渡してきた。それだけは、誰にも、恥じるところはねえ」
「なぜ、それを、もっとはっきりと、語ってこられなかったのですか」
「義賊だなんだと、勝手な物語が、独り歩きしてる方が、都合が良かったのかもしれねえな。本当のことを言うのは、なんだか、照れくせえもんだ」
凪は、深く息を吸った。
「次郎吉様。あなたは今、世間の作り話と、ご自身の本当の姿との間で、揺れておられます。ですが――もし、本当の想いを、はっきりと言葉にしないまま終われば、あなたの、地味だが確かな気遣いは、義賊という華やかな伝説の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
次郎吉の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、世間が作り上げた、義賊という物語だけでしょうか。それとも――女房や妾たちへの、不器用ながらも確かな気遣いを、次の時代へと、はっきり伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
次郎吉は、長い間、目を閉じていた。
八章 語られた言葉
その夜遅く、次郎吉は、牢役人を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「俺は、義賊なんかじゃねえ」次郎吉は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「ただの、博打好きの、しょうもねえ盗人だ。だがな、女房や妾たちにだけは、迷惑をかけたくなかった。それだけは、本当だ」
牢役人は、静かに、その言葉を聞いていた。
「もし、後の世で、俺のことが、義賊だなんだと語られることがあったら」次郎吉は、静かに続けた。「それは、買いかぶりだと、誰かが、正直に、伝えてくれりゃあ、それでいい」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて次郎吉は、深く息をついた。
「これで……少しは、気が、済んだよ」
九章 残されたもの
この夜からおよそひと月後、天保三年八月十九日、鼠小僧次郎吉は、市中引き回しの上、小塚原にて獄門に処されることになる。享年三十六。
史実において、次郎吉が盗んだ金を貧しい人々に分け与えたという「義賊」の伝説には、確かな裏付けがなく、実際には、博打や遊興に費やしていたと、多くの記録は伝えている。一方で、天涯孤独の身であったこと、そして、妻や妾たちに、あらかじめ離縁状を渡していたという逸話は、記録に残されている。
次郎吉の没後、彼を題材にした歌舞伎や講談が数多く作られ、「義賊・鼠小僧」の物語は、庶民の間で、大いに人気を博すことになる。回向院にある彼の墓は、後に、博打の御守りとして、墓石の欠片を持ち帰る人々で、賑わうことになった。
華やかな伝説と、地味な真実と――どちらもまた、一人の人間が、確かに生きた証なのかもしれない、と凪は思った。
終章 もう一つの闇路
数十年後――いや、凪の生きる令和の現代。
東京回向院の一角にある鼠小僧次郎吉の墓には、今も「義賊」としての御利益を求める多くの参拝者が訪れ、墓石を削っていく。
だが、その賑わいの陰で、あの男が本当に遺したかったものは、別のところにある。
「貧しい人々を救った義賊」としてだけではなく、「不器用ながらも、身近な人への気遣いを忘れなかった、一人の人間」としての足跡。
自宅の書斎で、凪は書き上げたばかりの原稿を静かに読み返していた。
窓の外では、夏の夜風が、まだ蒸し暑く吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、義賊という伝説だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『天保三年八月、江戸の空は、静かに暮れようとしていた。大名屋敷ばかりを狙い、闇に紛れて生きた男は、その最期の日々に、世間の作り話を否定しながらも、もう一つの光を、確かに、身近な人々へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。書斎に、夏草を焼くような匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
――了――
あとがき
本作は鼠小僧次郎吉の最期を題材としたフィクションです。次郎吉は実在の人物ですが、物語における牢役人や元女房との対話の内容は、著者の創作です。
実際に次郎吉は天保三年一八三二年八月十九日、市中引き回しの上、小塚原にて獄門に処されました。享年三十六。生涯に百を超える武家屋敷に忍び込んだとされていますが、盗んだ総額は二千九百四十六両余との記録があります。盗んだ金を貧しい人々に分け与えたとする「義賊」の伝説には、確かな裏付けがなく、実際には博打や遊興に費やしていたことが、多くの記録から窺えます。一方で、親から勘当され天涯孤独の身であったこと、また、複数いた妻や妾に、あらかじめ離縁状を渡し、自らの罪が及ばぬよう配慮していたことは、記録に残されています。
本作は、華やかな伝説と、より地味な史実との間にある隔たりを、一つの思考実験として描いたものです。犯罪行為そのものを美化する意図はありません。
本作は、前二十七作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

