将転生記  〜平将門と刻をこえた男〜
玉響転生記・第二十二話


まえがき
二十一度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
力道山との旅で、凪は「名路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「将路」であった。
都から遠く離れた坂東の地で、新しき国を興そうとした男。
天慶三年(九四〇年)二月。自ら「新皇」を名乗り、坂東に独立した政権を打ち立てようとした男――平将門。朝廷からは「逆賊」と呼ばれながらも、坂東の民からは、千年を経てなお慕われ続ける武将の物語である。
なお、平安時代中期という遠い時代のことゆえ、将門の生涯については、同時代の記録『将門記』に基づく史実と、後世に積み重ねられた伝説とが、分かちがたく織り交ざっている。本作もまた、その伝説の重なりの上に、一つの物語を紡ぐものである。





プロローグ 如月の来訪
東京は、まだ寒さの残る、静かな夜だった。
榊原凪は、六十三歳になっていた。力道山との旅から、半年余りが経っている。
赤坂の応接室で、力道山が故郷の家族への想いを、静かに語った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『引き裂かれた名』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い軍記物語の写本を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、馬の匂いと、乾いた土の匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の武人が座っていた。
質素な水干は泥にまみれ、太い腕には馬を乗り潰してきた男の筋が浮く。冬の利根川のように澄んだ目だけが、坂東の広い空を映していた。
「夜分に、無礼つかまつる」
武人は、静かに言った。
「あなたは……」
「平将門と申す。坂東の地を、治めておる者じゃ」
凪は、息を呑んだ。
平将門。朝廷に対して兵を挙げ、自ら「新皇」を称し、坂東の独立を目指した武将。
そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにおるのか」
「さて、それがしにも、分からぬ」将門は、口の端だけで笑った。「気づけば、この妙な部屋におった。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川、力道山――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってくる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は、凪をじろりと見た。
「それがしは今、坂東の地に、新しき国を築こうとしておる。朝廷は、それがしを、逆賊と呼んでおるがな」
「将門様……」
「されど」武人の目に、鋭い光が宿った。「坂東の民は、それがしを、慕うてくれておる。それだけが、それがしの、拠り所じゃ」



一章 二十二度目のたゆたい
その夜、凪は軍記物語の写本に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの二十一人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが平将門の場合、その重さは、また違う質のものだった。
これまでの人物たちの多くは、自らの死期を、ある程度、悟っていた。だが将門は違う。『将門記』は、彼が天慶三年二月、下総国北山の戦いで、藤原秀郷、平貞盛らの軍勢に敗れ、流れ矢に射られて落命したと伝えている。本人は、まだ、その日が来ることを、知らない。
将門の生涯には、大きく揺れ動く評価があった。朝廷からは、逆賊として、厳しく断罪された。だが坂東の民からは、都の役人による理不尽な収奪に立ち向かい、自分たちを守ろうとした将として、慕われ続けていた。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
将門が、あとひと月後に迎える死を前に、遺しておきたいものがあるとすれば――それは、己の新皇としての大義だけなのか。
朝廷の記録は将門の名を「逆賊」の二文字で塗り潰す。だが、その墨の下には、名も無き百姓の田を守った男の汗が滲んでいるはずだ。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、写本の匂いが、馬と土の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。



二章 坂東・下総国の館
気づくと、凪は、下総国にある、将門の館の裏手に立っていた。
早春の冷たい風が、広い坂東平野を、吹き抜けていく。
凪の身なりは、館に仕える下人風の姿に変わっていた。
「もし」
館の前にいた郎党に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「殿に、お目通り願いたい」
「そなた、何者じゃ」
「殿のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
郎党は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラとやら申したな。お入りくだされ」
この郎党こそ、将門に長く仕えてきた、若き従者であった。



三章 将門の館
館の中は、質素ながらも、坂東の広大な田畑を望む、開けた造りであった。
将門は、床几に腰掛け、鋭い目で凪を見た。
「よう参った」
「参りました」
「座れ」将門は、静かに言った。「それがしは、この坂東の地に、新しき国を、興そうとしておる」
「将門殿。あんた、帝に弓引いてまで、何が欲しいんだ」
将門は、しばらく黙っていた。やがて、ふっと息をつく。
「欲しいもんなどありゃせん。ただ、坂東の百姓が、娘を売らずに春を迎えられる国が欲しいだけよ。都の役人どもは、坂東の民から、際限なく、年貢を取り立てる。それがしは、そうした民の訴えを聞き、共に、立ち上がったまでのこと」
「今、ご自身の戦いを、どう思っておいでです」
将門は、少し目を細めた。
「悔いはない」彼は、静かに言った。「ただ、坂東の民のことが、気にかかる」



四章 名の記されなかった民
その夜、凪は将門の館の一室で、眠れぬまま過ごした。
将門の言葉が、頭から離れなかった。
――ただ、坂東の民のことが、気にかかる。
これまでの二十一人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが将門の場合、彼自身は、自らの死が、ひと月後に迫っていることを、まだ知らない。それでも彼は、新皇としての大義を語る一方で、坂東の名もなき民のことを、繰り返し口にしていた。
小規模な小競り合いが続くなか、将門は、兵たちの多くを一度それぞれの郷里へと帰していた。今の館の周りには、わずかな精鋭の兵しか残っていない。この静けさのすぐ裏側に、史実の刃が迫っている。
凪は、ふと思った。
史実において、平将門という名は、朝廷側の記録の中では、長く「逆賊」として位置づけられることになる。だが坂東の地では、都の圧政に立ち向かった将として、民の間に、密やかな敬慕の念が、受け継がれていくことになる。
窓の外、坂東平野を渡る風の音が、遠く微かに聞こえていた。



五章 従者との対話
翌日、凪は、館の庭先で馬の世話をしていた従者と、言葉を交わす機会を得た。
「殿は、坂東の民のことを、よく話されますか」
「はい」従者は、頷いた。「特に、都の役人に、田畑を奪われかけた百姓たちのことを、よく話されます」
「その方々のお名前は、都では、広く知られておりますか」
従者は、首を振った。
「いいえ。都の記録には、殿のことしか、残らぬでしょう」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「殿ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
従者は、しばらく考えていた。
「殿は、いつも、民のためにと、仰います。ですが……それを、はっきりと、後の世に向けて、書き記されたことは、まだ、ないように思います」


六章 豪族・藤原玄明との対話
その日の夕刻、将門と共に戦う、坂東の豪族・藤原玄明が、館を訪ねてきた。
「サカキバラ殿と申されるか。殿より、伺っております」
「玄明殿は、坂東の民のことを、どう見ておられますか」
玄明は、少し驚いた顔をした。
「殿がおらねば、我らは、都の役人の理不尽な取り立てに、なすすべもなく、苦しめられ続けたでしょう。殿は、我ら坂東の民の、盾となってくださった御方です」
「将門様ご自身も、大切に思っておられることですか」
「殿は……」玄明は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、我ら坂東の民のことを、大切に思うておられるはずです。ただ、新皇としての大きな戦い、それもいまや敵に囲まれつつある厳しい日々のなかで、それを、一つ一つ、丁寧に語る間がなかったのかもしれません」
凪は、頷いた。
「もし、殿が、はっきりと、坂東の民への想いを、言葉に遺されたら――何か、変わると思われますか」
玄明は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……殿のお言葉には、それだけの重みがございます」


七章 夜半の対話
その夜、凪は将門に呼ばれ、二人だけで館に残った。
「従者や、玄明から、聞いた」と将門は言った。「そなたが、坂東の民のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」将門は、鋭い目で凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度であった」
「将門様は、新皇としてのご自身の大義について、あれほど堂々と語られてこられました。ですが、坂東の民への想いについては、あまり、はっきりと言葉にされる場が、なかったように見受けました」
将門は、しばらく、黙っていた。
「それがしは……」やがて彼は、絞り出すように言った。「坂東の民を、誰よりも、大切に思うておる。都の記録が、それがしを、どれほど逆賊と呼ぼうとも、この地の民が、それがしを、どう見てくれておるか――それこそが、それがしにとっての、真の評価じゃ」
「なぜ、それを、はっきりと語ってこられなかったのですか」
「戦いの日々に、追われておったゆえ、じゃろう。多くの兵を一度郷里へ帰し、静かになった今だからこそ、ようやくこうして落ち着いて考えられるのかもしれぬな。民への想いを、言葉として、残す間を、作ってこなんだ」
凪は、深く息を吸った。
「将門様。あんたが討たれた後、坂東の子は誰に縋ればいい。『新皇』は記録から消される。でも『俺たちの殿様が、俺たちを見てくれた』その一言だけは、消しちゃいけない。あんたの口から、そいつらに遺してやってくれ」
将門の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、新皇としてのご自身の大義だけでしょうか。それとも――坂東の、名もなき民への想いを、次の時代へと、はっきり語り伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
将門は、長い間、目を閉じていた。



八章 語られた言葉
その夜遅く、将門は、従者と玄明を呼び、静かに語り始めた。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「坂東の民は……」将門は、ゆっくりと、言葉を選びながら言った。「都の記録には、決して残らぬであろう。だが、それがしにとっては、この坂東の地で、共に生きてきた民こそが、すべてじゃ」
従者と玄明は、深く頭を下げた。
「よいか、玄明。もし俺が野に果てたら、坂東中に触れて回れ。『将門は、お前たちの竈の煙が絶えぬよう戦った』と。『年貢に娘を取られるな、都の顔色を窺うな、坂東は坂東の者の国だ』と。それだけは、誰に斬られようと曲げるな」
凪は、静かに、その言葉を聞いていた。
やがて将門は、深く息をついた。
「これで……少しは、心が、定まった」



九章 残されたもの
貞盛・秀郷の追討軍が迫る天慶三年二月十四日。将門は僅かな手勢で出陣し、北山で流れ矢に斃れた。享年三十八。
史実において、平将門は、朝廷側の記録の中では、長く「逆賊」として位置づけられることになる。だが坂東の地では、都の圧政に立ち向かった将として、民の間に、密やかな敬慕の念が、受け継がれていった。
後世、彼の首を祀ったとされる塚が、江戸に築かれ、また、彼を祭神の一柱とする神田明神が、今日に至るまで、多くの人々の信仰を集め続けている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
朝廷の記録が、彼を「逆賊」と断じても、坂東の民の記憶は、また別の物語を、静かに、語り継いできたのかもしれない、と。



終章 もう一つの将路
千年余りの後。
東京・大手町の一角に、平将門の首を祀ったとされる塚が、今も、静かに佇んでいた。
高層ビルの立ち並ぶ都心にありながら、この塚だけは、手つかずのまま、大切に守り続けられている。
「朝廷に叛いた逆賊」としてだけではなく、「坂東の民と共に生きようとした、一人の武将」として。



エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、早春の風が、まだ冷たく吹いていた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『天慶三年二月、坂東の空は、静かに暮れようとしていた。都から遠く離れた地に、新しき国を築こうとした男は、その最期の日々に、己の大義を語りながらも、もう一つの光を、確かに、坂東の民へと、語り遺したのである。』
風が吹いた。馬と、土の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。 

 
――了――



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あとがき
本作は平将門の最期を題材としたフィクションです。平安時代中期という遠い時代のことゆえ、将門の生涯については、同時代の記録『将門記』に基づく史実と、後世に積み重ねられた伝説とが、分かちがたく織り交ざっており、本作もその伝説の重なりの上に書かれています。藤原玄明などは実在の人物ですが、物語における対話の内容は、著者の創作です。
実際に将門は、天慶二年(九三九年)に坂東で兵を挙げ、自ら「新皇」を称しましたが、翌天慶三年(九四〇年)二月十四日、下総国での戦いに敗れ、その生涯を閉じたと伝えられています。朝廷側の記録では逆賊として扱われた一方、坂東の地では、民衆を圧政から守った将として、後世まで敬慕され続けました。彼を祭神の一柱として祀る神田明神や、東京・大手町に残る首塚は、現在も多くの人々に大切にされています。
本作は、前二十一作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。