名路転生記 〜力道山と刻をこえた男〜
玉響転生記・第二十一話
まえがき
二十度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
芥川龍之介との旅で、凪は「筆路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「名路」であった。
空手チョップ一つで、敗戦国の人々に、誇りを取り戻させた男。
昭和三十八年(一九六三年)十一月。齢三十九。日本プロレス界の礎を築き、国民的英雄として、絶大な人気を誇っていた男――力道山。だが、その輝かしい名声の陰で、生涯、公にできなかった、もう一つの名と、もう一つの家族を抱えていた男の物語である。
プロローグ 霜月の来訪
東京は、初冬の、乾いた夜だった。
榊原凪は、六十二歳になっていた。芥川龍之介との旅から、半年余りが経っている。
田端の書斎で、芥川が伯母フキへの感謝を、原稿用紙に綴った、あの夜のことを、凪は今も鮮明に思い出す。書き上げた小説『複雑な感謝』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古いスポーツ新聞の縮刷版を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、汗と、リニメント剤のような匂いが鼻腔をくすぐった。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の大柄な男が座っていた。
鍛え上げられた体躯。精悍な顔つき。その目には、リングの上と同じ、射るような光があった。
「よう、邪魔するぜ」
男は、部屋の空気を一変させるような声で言った。
「あなたは……」
「力道山だ。日本プロレスの、力道山よ」
凪は、息を呑んだ。
力道山。空手チョップを武器に、アメリカ人レスラーたちを打ち破り、戦後日本の国民的英雄となったプロレスラー。そして――このおよそひと月後、その生涯を不意に閉じることになっている男。
「なんで、俺は、ここにいるんだ」
「さあな、俺にも分からんよ」力道山は、豪快に笑った。「気づいたら、この妙な部屋にいた。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島、芥川――あんたが会ってきた連中の気配が、なんとなく分かる。妙な男だな、あんたは」
彼は、凪をじろりと見た。
「俺は今、絶好調だ。プロレスも、事業も、うまくいってる」
「力道山様……」
「だがな」レスラーの目に、ふっと深い翳りが差した。「誰にも、言えねえことが、一つある」
一章 二十一度目のたゆたい
その夜、凪はスポーツ新聞の縮刷版に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの二十人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが力道山の場合、その重さは、また違う質のものだった。
これまでの人物たちの多くは、自らの死期を、ある程度、悟っていた。だが力道山は違う。史実において、彼は昭和三十八年十二月八日、東京のナイトクラブで暴力団員に腹部を刺され、その傷がもとで、同月十五日、三十九歳の若さでその生涯を閉じることになる。本人は、まだ、その日が来ることを知らない。
そして、力道山の生涯には、公にできなかったもう一つの真実があった。
彼は、朝鮮半島北部、現在の北朝鮮にあたる地で生まれ、幼名を金信洛(キム・シンラク)といった。十五歳で日本へ渡る際、既に妻子がいたが、終戦後の朝鮮半島の分断により、故郷の家族とは連絡を絶たれてしまう。長崎の百田家の養子となり、「百田光浩」の名で日本国籍を得た彼は、レスラーとしての栄光の陰で、自らが朝鮮半島の出身であることを周囲に隠し続けて生きていた。この年の一月、二十年ぶりに故郷に近い韓国を訪れたが、その事実を報じた新聞記事に、彼は激しく激昂したと伝えられている。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
力道山が、あとひと月後に迎える死を前に、誰にも語れずにいるとすれば――それは、あの日、玄界灘の向こうに残してきた、家族への想いではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、古新聞の匂いが、濃密な汗とリニメント剤の匂いに変わった。
玉響。
世界が、大きく揺れた。
二章 東京・赤坂の事務所
気づくと、凪は、赤坂にある力道山の事務所の裏手に立っていた。
初冬の冷たい風が、ビル風となって街を吹き抜けていく。
凪の身なりは、事務所の若手社員風の姿に変わっていた。
「失礼します」
裏口にいた付き人に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「先生に、お目にかかりたい」
「あんた、何者だ。アポはあるのか」
「先生のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
付き人は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、どこか狼狽した様子で戻ってきた。
「サカキバラさんとやら。……入ってくれ。先生がお待ちだ」
この付き人こそ、力道山の身の回りの世話を黙々と務めていた、痩身の若い弟子であった。
三章 力道山の応接室
応接室には、屈強な対戦相手との写真や、黄金に輝くトロフィーが、所狭しと飾られていた。だが、重厚なマホガニーの机の引き出しの奥には、一枚の、古い、朝鮮半島の風景を写した写真が、そっと仕舞われているのを凪は知っていた。
力道山は、革張りのソファーから、鋭い眼光で凪を射抜いた。
「よう来たな」
「参りました」
「座れよ」力道山は、胸を張って豪快に言った。「俺は、この空手チョップ一つで、負け犬みたいになってた日本中を、元気にしてきたんだ」
「なぜ、そこまで、リングの上で戦い続けられるのですか」
力道山は、しばらく黙っていた。
「戦争に負けて、みんな、うつむいて歩いてた時代があった」彼は遠い目をして言った。「俺が、でかいアメリカ人を投げ飛ばすと、みんな、街頭テレビの前で地響きみたいな歓声を上げた。あの顔を見るのが、たまらなく好きなんだ」
「今、ご自身の来し方を、どう振り返っておられますか」
力道山は、少し目を伏せた。
「故郷のことを、近頃、よく思い出す」彼は、周囲を気にするように声を潜めて言った。「今の北朝鮮にあたる、あの土地のことをな」
四章 名の記されなかった家族
その夜、凪は事務所の一室に用意された夜具の中で、眠れぬまま過ごした。
力道山の言葉が、耳の奥から離れなかった。
――故郷のことを、近頃、よく思い出す。
かつて十五歳で海を渡ったとき、彼はすでに一人の夫であり、父であったという。だが、引き裂かれた地平の向こうにいる家族とは、もう二十年近く音信が途絶えている。「百田光浩」という新たな籍を得て、日本の太陽となった男の胸の奥底。そこには、誰にも触れさせない「金信洛」の孤島があった。
凪は、ふと思った。
力道山がこれほどまでにリングの上での栄光を語る一方で、故郷に残してきた家族への想いは、これまで、誰にも、はっきりと語られたことがなかったのではないか。自分が語らなければ、彼らの存在そのものが歴史の闇に消えてしまう――そんな焦燥が、彼を突き動かしているのではないか。
窓の外、赤坂の夜の喧噪が、ネオンの光とともに遠く微かに響いていた。
五章 付き人との対話
翌日、凪は、応接室を掃除していた付き人と、言葉を交わす機会を得た。
「先生は、故郷のことを、お話しになりますか」
「めったに、ありませんよ」付き人は、廊下に人影がないかを確認するように少し声を落とした。「ただ、今年、韓国に行かれてからですかね……時折、誰もいない部屋で、遠い目をされることが増えたように思います」
「先生のご出身については、皆様、ご存知なのですか」
付き人は、ぴたりと手を止め、きっぱりと首を振った。
「表立ってそんなこと言う奴はいません。先生ご自身がそれを一番嫌がりますし、そんな噂を立てたら、それこそ……。でも、皆、分かっているんです。触れてはいけないんだと」
凪は、その沈黙の重さを、静かに受け止めた。
「先生ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
付き人は、雑巾をきつく絞りながら、しばらく考えていた。
「先生は、いつも豪快で、怖いほどのエネルギーに満ちた方です。ですが……お一人になられた時、時折、ひどく、寂しそうな背中をされていることが、あります」
六章 同郷の知人との対話
その日の夕刻、力道山と同じ朝鮮半島の出身で、彼を古くから知る、在日の知人が事務所を訪ねてきた。凪は、彼が帰る間際に声をかけた。
「榊原殿と申されるか。先生より、話は伺っております」
「あなたは、先生の故郷のご家族のことを、ご存知ですか」
知人は、一瞬、警戒するように周囲を見回し、それから低く深い声で言った。
「先生が日本へ渡られる前、故郷に奥様とお子様がおられたと聞いております。終戦後、完全に連絡が取れなくなってしまったと」
「それは、先生ご自身にとって、どれほどの重みを持つことなのでしょうか」
知人は、苦渋をにじませながら言葉を選んだ。
「計り知れないものがあるでしょう。故郷を離れ、名を変え、日本の英雄となる一方で、故郷の家族とは二度と会えないかもしれない。……その痛みは、私たち、同じ境遇の者にしか分からないかもしれません。あの方は我らの希望であり、同時に、あまりに遠くへ行ってしまった人だ」
凪は、深く頷いた。
「もし、先生が、はっきりと故郷の家族への想いを誰かに語り遺されたら――何か、変わると思われますか」
知人は、しばらく目を閉じていた。
「変わるかどうかは、分かりません。ですが……それを誰にも語らぬまま、胸に秘めたまま終わるのは、あまりに、寂しいことのように思います」
七章 夜半の対話
その夜、凪は力道山に呼ばれ、二人だけで応接室に残った。
「付き人や、同郷の知人から、聞いたよ」と力道山は、ブランデーのグラスを傾けながら言った。「あんたが、俺の故郷のことを、あれこれ聞いておるそうだな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」力道山は、鋭い目で凪を見た。「俺自身、向き合わなきゃならん角度だったよ」
「力道山様は、リングの上での栄光について、日本中にあれほど語ってこられました。ですが、故郷に残してこられたご家族への想いについては、誰にも語る場が、なかったように見受けました」
力道山は、しばらく黙っていた。
「うるせえな。栄光に決まってるだろ。俺は力道山だぞ」
凪は黙って見ていた。力道山は舌打ちして、机の引き出しを乱暴に開け、すぐに閉めた。
「……だがよ」
彼は、絞り出すように言った。
「あっちに、女房と、子供を、残してきた。終戦の後、国が分断されて、連絡が取れなくなって……もう、二十年近くになる。生きているのか、死んでいるのかも分からねえ」
「なぜ、それを誰にも語らずにこられたのですか」
「日本で成功するには、朝鮮の出だということを隠すしかなかった。……だが、隠せば隠すほど、あっちに残してきたものが、最初からなかったことになっちまうようで、怖かったんだ」
力道山は、分厚い手のひらで、自らの頑強な腹を無造作にさすった。その肉体はいかなる刃も受け付けない威容を誇っていたが、凪の目には、そこに一瞬、冬の冷たい刃の影が落ちたように見えた。
凪は、深く息を吸った。
「力道山様。あなたは今、リングの上で輝き続けておられます。この先、何が起こるかは誰にも分かりません。ですが――もし、故郷の家族への想いを誰にも語らないまま過ごされれば、その存在は、あなたの栄光の陰に、永遠に埋もれたままになってしまうかもしれません」
力道山の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に大事にしたいものは、リングの上での栄光だけでしょうか。それとも――故郷に残してきた、今は語られることのない家族の存在を、誰かに、はっきりと語り遺すことも、含まれているのではないでしょうか」
力道山は、長い間、大きな身体を縮めるようにして、目を閉じていた。
八章 語られた言葉
その夜遅く、力道山は、机の引き出しから、あの古い写真を取り出した。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「あっちの女房と、子供のことは……」力道山は、セピア色に変色した写真を見つめながら、静かに言った。「誰にも話したことがなかった。だが、あんたには話しておく」
彼は、ぽつり、ぽつりと、故郷の村の緑のこと、幼い頃に走った土の匂い、そして、日本へ渡る船の上で見た、遠ざかる海岸線の美しさを語った。
「もし、いつか、あっちと、こっちが、自由に行き来できるようになったら」彼は、写真の我が子の顔を、ごつい指でなぞりながら言った。幼子の顔は、彼の太い指にすっぽり隠れてしまうほど小さかった。「その時は、誰かに、俺の本当の名前と、あっちに残してきた家族のことを伝えてほしい。……金信洛という名前をな」
凪は、静かに、その言葉を胸の原稿用紙に書き留めるように聞いていた。
やがて力道山は、写真をそっと引き出しにしまい、深く、重い息をついた。
「これで……少しは、気が済んだよ」
九章 残されたもの
この対話からわずか半月後の昭和三十八年十二月八日、力道山は東京のナイトクラブで暴力団員に腹部を刺され、その傷がもとで、同月十五日、三十九歳でその生涯を閉じることになる。
史実において、力道山が朝鮮半島の出身であり、本名を金信洛といったこと、故郷に妻子を残していたことは、彼の生前、公になることはなかった。この事実が広く報じられたのは、彼の死から二十年以上を経た、昭和五十九年(一九八四年)のことである。
その後、北朝鮮では、力道山は「民族の英雄」として高く評価されるようになった。二十一世紀に入り、彼の孫娘が、北朝鮮の代表として国際的なスポーツ大会に姿を現したことも伝えられている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
彼が生前、ついに語ることのできなかった、もう一つの名と、もう一つの家族。それは、彼の死後、長い年月を経て、ようやく歴史の中にその姿を現すことになった。だが、あの夜、彼が凪に言葉を遺したからこそ、歴史のグラデーションは、確かに優しく変わったのだと。
終章 もう一つの名路
数十年後。
朝鮮半島の、ある古い写真の中に、若き日の一人の青年の姿があった。
その青年は、後に日本で「力道山」と呼ばれ、国民的英雄となる。だが、その写真の中の青年は、まだ、故郷の家族と共に、静かに、優しく写っていた。
「戦後日本の英雄」としてだけではなく、「引き裂かれた時代を精一杯に生きた、一人の人間」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、初冬の風が、冷たく吹いていた。
「あなたが大事にしたかったのは、リングの上での栄光だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『昭和三十八年十一月、東京の空は乾いた風の中、静かに暮れようとしていた。空手チョップ一つで敗戦の闇を払った男は、己の中に二つの名と、二つの故郷を抱いたまま、確かに北の空へ、もう一つの光を語り遺したのである。』
風が吹いた。汗と、リニメント剤の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
――了――
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あとがき
本作は力道山の最晩年を題材としたフィクションです。力道山は実在の人物ですが、物語における付き人や同郷の知人との対話の内容、故郷の家族への具体的な語りの場面は、著者の創作です。作中の付き人は架空の人物です。
実際に力道山は、当時の朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)に生まれ、本名を金信洛(キム・シンラク)といいました。十五歳で日本へ渡る際、既に妻子があったとされていますが、終戦後の朝鮮半島の分断により、故郷の家族との連絡は絶たれたと伝えられています。長崎県の百田家の養子となり「百田光浩」の名で日本国籍を得た後、レスラーとしての活動の中で、自らの出自を公にすることはありませんでした。この事実が広く報じられたのは、彼の没後、昭和五十九年(一九八四年)のことです。
実際に力道山は昭和三十八年(一九六三年)十二月八日、東京のナイトクラブで暴力団員に刺され、その傷がもとで同月十五日に死去しました。本作ではこの出来事の詳しい経緯を描くことは意図しておらず、簡潔な事実の記載にとどめています。
在日コリアンをはじめ、当時の日本社会における朝鮮半島出身者への差別的な状況については、様々な研究や証言が残されています。本作はその歴史的事実を踏まえつつ、特定の立場からの断定的な評価を下すことを意図するものではありません。
本作は、前二十作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

