筆路転生記 〜芥川龍之介と刻をこえた男〜
玉響転生記・第二十話


まえがき
十九度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
 三島由紀夫との旅で、凪は「他者へ言葉を運ぶ道=文路(ふみじ)」という言葉を得た。今回、彼が辿り着いたのは「己の澱まで掬う道=筆路(ひつじ)」であった。
 繊細な感受性で、短編小説という形式を、極限まで磨き上げた男。
 昭和二年(一九二七年)六月。齢三十五。数々の名短編を世に送り出しながら、心身の不調に苦しんでいた男――芥川龍之介。その最晩年、自らを育ててくれた、一人の伯母への感謝を、静かに書き遺そうとした作家の物語である。





プロローグ 水無月の来訪
 東京は、梅雨の合間の、蒸し暑い夜だった。
 榊原凪は、六十二歳になっていた。三島由紀夫との旅から、半年余りが経っている。
 馬込の書斎で、三島が翻訳者たちへの感謝を、便箋に綴った、あの夜のことを、凪は今も思い出す。書き上げた小説『言葉を運ぶ人』は、静かな反響を呼んだ。
 その夜、凪は書斎で、古い文芸誌の縮刷版を眺めながら、うたた寝をしていた。
 ふと、インクと、古い畳のような匂いがした。
 顔を上げると、部屋の隅に、一人の痩せた男が座っていた。
 和服姿。神経質そうな、整った顔立ち。だが、その目には、深い疲労と、それでいて澄んだ知性の光が、共に宿っていた。
 「夜分に、失礼」
 男は、静かに言った。
 「あなたは……」
 「芥川龍之介と申します」
 凪は、息を呑んだ。
 芥川龍之介。『羅生門』『鼻』をはじめ、数々の名短編を世に送り出し、後に彼の名を冠した文学賞が創設されることになる作家。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
 「なぜ、ここにいるのでしょう」
 「さあ、私にも、分かりません」芥川は、静かに、力なく微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋におりました。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口、三島――あなたが会ってこられた方々の気配が、なんとなく、伝わってきます。不思議な御仁ですね、あなたは」
 彼は、凪を静かに見つめた。
 「私は今、ある、ぼんやりとした不安を、抱えております」
 「芥川様……」
 「ですが」作家の目に、澄んだ光が宿った。「その前に、書き遺しておきたいことが、あります」


一章 二十度目のたゆたい
 その夜、凪は文芸誌の縮刷版に埋もれながら、考え続けていた。
 これまでの十九人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
 だが芥川龍之介の場合、その重さは、また違う質のものだった。
 史実において、芥川は昭和二年七月二十四日、自ら命を絶ち、三十五歳でその生涯を閉じることになる。「ぼんやりとした不安」という言葉を遺書に記したと伝えられているが、その背景には、心身の不調、そして、生後間もなく心を病んだ母を持つ者としての、根深い不安があったとされている。本作では、その最期の詳しい経緯には立ち入らず、その直前の日々に、光を当てたい。
 芥川の生涯には、一人の恩人がいた。伯母のフキである。芥川の母・フクは、彼が生後間もない頃に心を病み、彼を育てることができなくなった。以来、母の姉であったフキが、生涯独身を貫きながら、龍之介の養育に、その人生の多くを捧げることになる。芥川自身、後年、随筆の中で、このフキへの複雑な、しかし深い想いを綴っている。
 凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
 芥川が最期に書き遺そうとしたのは、本当に「己の不安」だけだったのか。それとも――その不安の根にある、自分を育ててくれた伯母への感謝も、あったのではないか。
 凪は、暗い天井を見つめた。
 「行きます」
 呟くと同時に、部屋の空気が震え、文芸誌の匂いが、インクと古い畳の匂いに変わった。
 玉響。
 世界が、揺れた。


二章 東京・田端の家
 気づくと、凪は、東京・田端にある、芥川の自宅の庭先に立っていた。
 梅雨の湿った空気が、庭の木々を、しっとりと濡らしている。
 凪の身なりは、書生風の着流し姿に変わっていた。
 「ごめんください」
 庭先にいた書生に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
 「先生に、お目にかかりたい」
 「あなたは、どなたですか」
 「先生のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
 書生は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
 しばらくして、戻ってきた。
 「榊原さんとやら。お上がりください」
 この書生こそ、芥川の原稿整理を手伝っていた、若い門下生であった。


三章 芥川の書斎
 書斎には、和漢洋の書物と、書きかけの原稿用紙が、静かに積まれていた。
 芥川は、机の前から、疲れた、しかし澄んだ目で凪を見た。
 「よく来てくれました」
 「参りました」
 「お座りください」芥川は、静かに言った。「近頃、どうにも、気力が続かないのです」
 「何か、心にかかっておられることが」
 芥川は、しばらく黙っていた。
 「言葉にできぬ不安が、いつも、胸の底にあるのです」彼は言った。「母のことを、思い出すからかもしれません」
 「お母様のことを」
 芥川は、少し目を伏せた。
 「私が生まれてすぐ、母は、心を病みました」彼は、静かに言った。「私を育ててくれたのは、母の姉、伯母のフキでした」


四章 名の記されなかった人
 その夜、凪は芥川の家の一室で、眠れぬまま過ごした。
 芥川の言葉が、頭から離れなかった。
 ――私を育ててくれたのは、母の姉、伯母のフキでした。
 これまでの十九人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが芥川の場合、彼が向き合っていたのは、「己の不安をどう引き受けるか」だけでなく、「自分を育ててくれた者を、どう見つめ直すか」という問いであるように思えた。
 生涯独身のまま、裁縫の内職で家計を支えながら、甥の養育に自らの人生を捧げた一人の女性。芥川の文学的名声があまりに大きすぎるがゆえに、彼女の存在は、世間的にはその陰に静かに伏せられている。
 凪は、ふと思った。
 芥川が、これほどまでに己の不安を語る一方で、その不安の根にある、伯母フキへの想いは、これまでどれほど言葉にされてきたのだろうか、と。
 窓の外、田端の雨音が、遠く微かに聞こえていた。


五章 門下生との対話
 翌日、凪は、書斎で原稿を整理していた門下生と、言葉を交わす機会を得た。
 「先生は、伯母様のことを、よく話されますか」
 「はい」門下生は、頷いた。「随筆にも、時折、お書きになっています。ただ、その筆致は、いつも、少し複雑な色合いを帯びているように感じます」
 「伯母様のことは、世間に、広く知られておりますか」
 門下生は、首を振った。
 「いいえ。先生のご家庭のことは、あまり、大きく語られることは、ないように思います」
 凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
 「先生ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
 門下生は、しばらく考えていた。
 「先生は、伯母様のことを、恩人だと、はっきり仰います。ですが……その感謝を、まとまった形で、書き記されたことは、まだ、あまりないように思います」


六章 友人・菊池寛との対話
 その日の夕刻、芥川の親友であり、作家の菊池寛(きくち・かん)が、見舞いに訪れた。
 「榊原殿と申されるか。芥川君より、伺っております」
 「菊池様は、伯母様のことを、どう見ておられますか」
 菊池は、少し驚いた顔をした。
 「あの方なくば、芥川君は、ここまで育たなかったでしょう。生涯を懸けて、甥を育て上げた、並外れた方です」
 「それは、芥川様ご自身も、認めておられることですか」
 「芥川君は……」菊池は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、伯母様への感謝を、抱いているはずです。ただ、複雑な感情も、同時に抱えているのでしょう。だからこそ、それを、まっすぐに言葉にすることが、難しいのかもしれません」
 凪は、頷いた。
 「もし、芥川様が、はっきりと、伯母様への感謝を、書き記されたら――何か、変わると思われますか」
 菊池は、しばらく考えた。
 「変わりましょう。……芥川君の言葉には、それだけの重みがあります」


七章 夜半の対話
 その夜、凪は芥川に呼ばれ、二人だけで書斎に残った。
 「門下生や、菊池君から、聞きました」と芥川は言った。「あなたが、伯母のことを、あれこれ聞いておられるそうですね」
 「差し出がましいことを、申し上げました」
 「いえ」芥川は、静かに凪を見た。「私自身、向き合わねばならぬ角度でした」
 「芥川様は、ご自身の不安について、随筆の中で、繰り返し語られてこられました。ですが、伯母様への感謝については、複雑な想いのまま、まとまった形で、語られることが、なかったように見受けました」
 芥川は、しばらく、黙っていた。
 「私は……」やがて彼は、静かに言った。「伯母を、疎ましく思うこともありました。厳しく、時に、息苦しいほどに、私を案じる人でしたから。……ですが、それでも、あの人がいなければ、私は、今日まで、育たなかったでしょう」
 「なぜ、それを、はっきりと言葉にしてこられなかったのですか」
 「複雑な想いを、単純な感謝の言葉に、収めることが、恐ろしかったのかもしれません」
 凪は、深く息を吸った。
 「芥川様。あなたは今、言葉にできぬ不安を、抱えておられます。ですが――もし、伯母様への複雑な想いを、そのままの形ででも、書き遺さないままでいれば、その存在は、あなたの不安の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
 芥川は、ふっと力なく笑った。
 「……埋もれてしまっても、それもまた私の、あるいはあの人の宿命かもしれません。私は酷い男なのです。あの人の過保護さを疎み、逃げ出したいとすら思ってきた」
 「ですが」と凪は一歩踏み込んだ。「疎ましさの裏にある、不器用な愛を……あなたほどの筆を持つ方が、そのままにして逝かれるのですか。あなたが本当に遺したいものは、ご自身の不安だけでしょうか。それとも――伯母様という、複雑な感謝を捧げるべき人の存在を、はっきりと言葉にして、遺すことも、含まれているのではないでしょうか」
 芥川の目が、微かに揺れた。
 「そのままに、逝く……」
 彼は自身の白い手を見つめ、長い間、目を閉じていた。
 雨音だけが、古い柱時計の振り子のように時を刻んでいた。


八章 筆を執る夜
 その夜遅く、芥川は、書斎の机に向かい、一編の随筆の下書きを、書き始めた。
 凪は、その傍らに、静かに控えていた。
 「伯母は……」芥川は、筆を運びながら、静かに言った。「厳しい人でした。ですが、あの人の厳しさの根には、私への、不器用な愛情があったのだと、今なら、分かります」
 原稿用紙に綴られる文字が、静かに、マス目を埋めていった。
 「複雑な想いのままでいい。それでも、感謝していると、書き記しておきたいのです」
 凪は、静かに、その筆の動きを見つめていた。
 やがて芥川は、筆を置き、下書きを、静かに文机の上に置いた。
 「これで……少しだけ、心が、軽くなりました」
 「……筆は、路ですね」芥川は、ぽつりと呟いた。「己の暗がりに向かうしかない、細い路だ」
 凪は、その言葉を静かに受け止めた。
 これこそが、芥川龍之介という男が、最後に辿り着いた道――筆路なのだと、凪は確信していた。


九章 遺されたもの
 この夜からおよそひと月後、昭和二年七月二十四日、芥川龍之介は、自らその生涯を閉じることになる。享年三十五。
 この出来事は、今なお、日本近代文学史上、大きな衝撃と共に、語り継がれている。本作は、その最期の詳しい経緯を描くことを、意図するものではない。
 史実において、芥川が伯母フキについて綴った随筆は、彼の没後も、読み継がれている。複雑な感情を抱えながらも、深い感謝を捧げようとした、その筆致は、今日でも、多くの読者の心に、静かに響き続けている。
 凪は、その事実を知り、静かに思った。
 感謝とは、必ずしも、単純な言葉である必要はないのかもしれない、と。複雑な想いのままでも、それを言葉にしようとすること自体が、一つの誠実さなのだ、と。


終章 もう一つの筆路
 数十年後。
 ある文学全集の一冊に、芥川龍之介の随筆集が、収められていた。
 その中には、彼を育てた伯母・フキについて綴った、一編の随筆が、静かに、しかし確かに、置かれていた。
 「不安を抱えた天才作家」としてだけではなく、「複雑な感謝を、言葉にしようとした、一人の人間」として。
エピローグ もう一つの光
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
 窓の外では、明けきらぬ梅雨の雨が、静かに降っていた。
 「あなたが遺したかったのは、ご自身の不安だけではなかったはずです」
 凪は、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『昭和二年七月、東京の空は、雨に霞んで暮れようとしていた。繊細な感受性で言葉を紡ぎ続けた男は、その最期の日々に、己の不安を抱えながらも、もう一つの光を、確かに言葉として、書き遺したのである。』
 風が吹いた。インクと、古い畳の匂いが、微かにした。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
 本作は芥川龍之介の最晩年を題材としたフィクションです。芥川龍之介、菊池寛などは実在の人物ですが、物語における門下生との対話の内容、伯母フキとの関係の具体的な描写は、著者の創作です。
 実際に芥川は昭和二年(一九二七年)七月二十四日、三十五歳で自ら命を絶ちました。遺書には「唯ぼんやりした不安」という言葉が記されていたと伝えられていますが、本作ではその最期の詳しい経緯を描くことは意図しておらず、簡潔な事実の記載にとどめています。
 芥川の伯母・フキ(母フクの姉)が、生涯独身のまま彼の養育に尽力したことは、芥川自身の随筆などからも知られています。彼女との関係については、敬愛と息苦しさが入り混じった複雑なものであったとする研究も多く、本作における晩年の対話や随筆の描写は、著者の創作です。
 なお、本作は自殺という主題を扱っておりますが、特定の行為を美化したり、肯定したりすることを意図するものではありません。
 本作は、前十九作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。凪が触れた「筆路」は、書くことに携わる全ての人の足元に、今も続いています。