文路転生記 〜三島由紀夫と刻をこえた男〜
玉響転生記・第十九話


まえがき
十八度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻(とき)」へと導かれることになった。
野口英世との旅で、凪は「菌路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「文路(ふみじ)」であった。
美という一語のために、生涯をかけて言葉を紡ぎ続けた男。
昭和四十五年(一九七〇年)十月。齢四十五。四部作『豊饒の海』最終巻を書き上げようとしていた男――三島由紀夫。戦後日本を代表する作家として世界にその名を知られながら、その最晩年、自らの作品を世に送り出してくれた、一人の恩人への感謝を、静かに書き遺そうとした小説家の物語である。




プロローグ 神無月の来訪
東京は、秋の深まる、澄んだ夜だった。
榊原凪は、六十一歳になっていた。野口英世との旅から、半年余りが経っている。
アクラの研究室で、野口が恩師・小林栄への手紙を書いた、あの夜のことを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『恩を忘れぬ人』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い文芸誌の縮刷版を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、インクと、磨き上げられた木材のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の男が座っていた。
鍛え上げられた体躯。鋭い眼差し。だが、その目の奥には、どこか静かな覚悟の色が滲んでいた。
「夜分に、失礼」
男は、静かに言った。
「あなたは……」
「三島由紀夫と申す。小説を書いております」
凪は、息を呑んだ。
三島由紀夫。『仮面の告白』『金閣寺』をはじめ、世界的にその名を知られることになる、戦後日本を代表する作家。
そして、このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここにいるのか」
「さあ、私にも、分からぬ」三島は、静かに微笑んだ。「気づけば、この妙な部屋にいた。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰、伊藤、田中、渋沢、野口。あなたが会ってきた者たちの気配が、なんとなく伝ってくる。不思議な御仁だな、あなたは」
彼は、凪を静かに見つめた。
「私は今、輪廻転生をめぐる四部作の最後の一巻に、筆を入れている。書き上げねば、私の仕事は終わらぬ」
「三島様……」
「だが」作家の目に、澄んだ光が宿った。「その前に、書き遺しておきたいことがある」


一章 十九度目のたゆたい
その夜、凪は文芸誌の縮刷版に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの十八人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが三島由紀夫の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、三島は昭和四十五年十一月二十五日、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて、自らの信条に基づく行動の末、その生涯を閉じることになる。この出来事は、今なお、文学史上、また思想史上、様々な評価が分かれ続けている。本作では、その日に何が起きたかという評価そのものには立ち入らず、その直前の日々に、光を当てたい。
三島の生涯には、一人の恩人がいた。彼の文学を世界に紹介し続けた、海外の翻訳者・研究者たちである。
中でも、三島の親しい友人であった、ある若きアメリカ人研究者は、彼の作品を丹念に翻訳し、日本文学を海外に広める仕事に、生涯を捧げることになる。だが、その名は、三島由紀夫という、世界的な名声の陰で、日本国内では、さほど広くは知られていない。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
三島が最期に書き遺しようとしたのは、本当に「己の文学」だけだったのか。それとも、その文学を、世界へと運んでくれた者への感謝も、あったのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、文芸誌の匂いが、インクと木材の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。


二章 東京・馬込の家
気づくと、凪は、東京・大田区馬込にある、三島の自宅の書斎の外に立っていた。
秋の陽が、白い洋館の壁に、静かに差し込んでいる。
凪の身なりは、出版社の校正者風の姿に変わっていた。
「ごめんください」
玄関先にいた秘書に声をかけると、彼女は驚いた顔で凪を見た。
「先生に、お目にかかりたい」
「あなたは、どなたですか」
「先生のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
秘書は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「サカキバラさんとやら。お上がりください」
この秘書こそ、三島の原稿整理を手伝っていた、若い女性であった。


三章 三島の書斎
書斎には、洋の東西を問わぬ蔵書と、書きかけの原稿用紙が、几帳面に積まれていた。
三島は、机の前から、鋭い目で凪を見た。
「よく来たな」
「参りました」
「掛けたまえ」三島は、静かに言った。「私はこの四部作を、なんとしても完結させねばならぬ」
「なぜ、そこまで、この作品に、こだわられるのですか」
三島は、しばらく黙っていた。
「これは、私の文学の、集大成のようなものだ」彼は言った。「輪廻転生を巡る、長い物語だ。この最後の一巻を書き終えねば、私の仕事は終わらぬ」
「今、ご自身の作家人生を、どのように振り返っておられますか」
三島は、少し目を細めた。
「海外の翻訳者たちのことを、近頃、よく思い出す」


四章 名の記されなかった人
その夜、凪は三島の家の一室で、眠れぬまま過ごした。
三島の言葉が、頭から離れなかった。
――海外の翻訳者たちのことを、近頃、よく思い出す。
これまでの十八人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが三島の場合、彼は、自らの文学的な到達点を見つめると同時に、その文学を、国境を越えて運んでくれた者たちへの想いを、静かに抱いていた。
史実において、三島文学の海外への紹介には、多くの翻訳者・研究者の、地道な努力があった。彼らの丹念な翻訳と紹介活動なくば、三島の文学が、これほど早く、世界に届くことはなかったであろう。だが、その労苦は、三島自身の華々しい名声の陰に、隠れがちであった。
凪は、ふと思った。
三島が、これほどまでに己の文学を語る一方で、その文学を支えた翻訳者たちへの感謝は、これまで、どれほど、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、馬込の木々のざわめきが、遠く微かに聞こえていた。


五章 秘書との対話
翌日、凪は、書斎で原稿を整理していた秘書と、言葉を交わす機会を得た。
「先生は、海外の翻訳者の方々のことを、よく話されますか」
「はい」秘書は、頷いた。「特に、長年、先生の『金閣寺』を英語に訳してこられた方のことを、親しみを込めて話されます」
「その方のお名前は、日本では、広く知られておりますか」
秘書は、首を振った。
「いいえ。先生のお名前は、世界中で知られておりますが、翻訳者の方々のお名前までは、日本の読者には、あまり、知られていないように思います」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
「先生ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
秘書は、しばらく考えていた。
「先生は、いつも、感謝の言葉を、手紙に書いておられます。ですが、それを、広く公に語られたことは、まだ、あまりないように思います」


六章 編集者との対話
その日の夕刻、三島の担当編集者が、原稿を受け取りに訪れた。
「ベテランの校正者、榊原殿と申されるか。先生より、伺っております」
「あなたは、先生の作品を世界に届けた、翻訳者の方々のことを、どう見ておられますか」
編集者は、少し驚いた顔をした。
「あの方々の丹念な仕事なくば、先生の文学は、これほど早く、世界に届かなかったでしょう。言語の牢を越えて、作品の美しさを伝えるという仕事は、並大抵のものではありませんよ」
「それは、先生ご自身も、深く認めておられることですか」
「先生は……」編集者は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、その労苦への感謝を、抱いておられるはずです。ただ、ご自身の創作に、常に全力を注いでこられたゆえ、それを、大きく公にする間が、なかったのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし、先生が、この四部作を書き上げる前に、はっきりと、翻訳者の方々への感謝を、書き記されたら、何か、変わると思われますか」
編集者は、しばらく考えた。
「変わります。海外の版元は、著者本人の言葉一つで帯の文言を変える。先生が“翻訳は第二の創作だ”と一筆くれれば、次に刷る『金閣寺』の扉は変わる」


七章 夜半の対話
その夜、凪は三島に呼ばれ、二人だけで書斎に残った。
「秘書や、編集者から、聞いた」と三島は言った。「君が、翻訳者たちのことを、あれこれ聞いておるそうだな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」三島は、鋭い目で凪を見た。「私自身、向き合わねばならぬ角度だった」
「三島様は、ご自身の文学について、世界中で、あれほど雄弁に語られてこられました。ですが、翻訳者の方々への感謝については、あまり、多くを語る場が、なかったように見受けました」
三島は、しばらく、黙っていた。
「私は……」やがて彼は、静かに言った。「あの人たちの仕事を、誰よりも、有り難く思っている。言葉というものは、本来、国境を越えられぬものだ。それを越えさせてくれたのは、あの翻訳者たちの、地道な仕事だった。だが、それを、広く世に向けて、はっきりと語ったことは、なかったかもしれぬ」
「なぜですか」
「私自身、常に、次の作品のことばかりを、考えて生きてきたからだろう。裏方の仕事をした者への感謝を、言葉にする間を、後回しにしてきた」
凪は、深く息を吸った。
「三島様。あなたは今、四部作の完結を、何より優先しておられます。ですが、もし、翻訳者の方々への感謝を、はっきりと言葉にしないまま筆を置かれれば、その功績は、あなたの名声の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
三島の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の文学の完成だけでしょうか。それとも、その文学を支えた人々への感謝を、はっきりと言葉にして、遺すことも、含まれているのではないでしょうか」
三島は、長い間、目を閉じていた。


八章 筆を執る夜
その夜遅く、三島は、書斎の机に向かい、便箋を取り出した。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
三島は、便箋を一枚、指で押さえた。万年筆の先が、わずかに震える。インクが紙に触れた瞬間、かすかな音がした。
「あの人たちは……」
三島は、筆を運びながら、静かに言った。
「私の言葉を、もう一つの言葉に置き換えるという、孤独な仕事を、黙々と続けてくれた。それは、創作にも劣らぬ、一つの仕事だ」
便箋に綴られる文字が、静かに、余白を埋めていった。
彼の背は微動だにしない。
鍛え抜かれた肩が、原稿用紙の白さの上で、彫像のように止まっている。
「これを、感謝の手紙として、送っておこう。いつか、機会があれば、はっきりと、公の場でも、そのことを語りたい」
凪は、静かに、その筆の動きを見つめていた。
やがて三島は、筆を置き、便箋を封筒に収めた。
「これで、少しは、心が、軽くなった」


九章 遺されたもの
この夜からおよそひと月後、昭和四十五年十一月二十五日、三島は、自らの信条に基づく行動の末、四十五歳でその生涯を閉じることになる。その日の朝、彼は、書き上げたばかりの四部作最終巻の原稿を、担当編集者に手渡していたと伝えられている。
この出来事は、今なお、文学史上、また思想史上、大きな衝撃と共に、様々な立場から語り継がれている。本作は、その評価そのものに立ち入ることを、意図するものではない。
史実において、三島文学は、彼の没後も、世界中の翻訳者・研究者たちの手によって、読み継がれていくことになる。彼が最期に書いたとされる、感謝の言葉の数々もまた、後年、彼と親交のあった海外の研究者たちの回想録の中に、静かに記されている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
言葉を紡いだ者と、その言葉を運んだ者と。双方の仕事があって初めて、一つの文学は、国境を越えていくのかもしれない、と。


終章 もう一つの文路
数十年後。
世界各地の書店の書棚に、三島由紀夫の作品が、様々な言語に翻訳されて、並んでいた。
その一冊一冊の扉には、原著者の名と共に、それを訳した者の名も、小さく、しかし確かに、記されていた。
「世界的な作家」としてだけではなく、「多くの手によって、世界へと運ばれた文学」として。


エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、晩秋の風が、静かに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の文学の完成だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
デスクの上、パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の最後の一文が、静かに光を放っていた。
『昭和四十五年十一月、東京の空は、静かに暮れようとしていた。美という一語に殉じようとした男は、その最期の日々に、己の文学を語りながらも、もう一つの光を、確かに世界へと、書き遺したのである。』
風が吹いた。インクと、木材の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。

――了――


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あとがき
本作は三島由紀夫の最晩年を題材としたフィクションです。三島由紀夫は実在の人物ですが、物語における秘書や編集者との対話の内容、翻訳者への手紙の描写は、著者の創作です。
実際に三島は、昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日、自衛隊市ヶ谷駐屯地における事件の中で、四十五歳で亡くなりました。この出来事の政治的・思想的な評価については、今なお様々な立場からの議論が続いており、本作は特定の評価を下すことを意図していません。また、この出来事の詳細な経緯についても、本作では立ち入って描写しておりません。
三島の代表作『豊饒の海』四部作は、その最終巻の原稿が、事件当日の朝、編集者に手渡されたと伝えられています。三島文学は、彼の生前から没後にかけて、海外の翻訳者・研究者たちの尽力によって、世界中で読み継がれてきました。三島自身が、そうした翻訳者たちに、具体的にどのような感謝の言葉を伝えていたかについては、本作における描写は、著者の創作です。
本作は、前十八作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。