憲路転生記 〜伊藤博文と刻をこえた男〜
玉響転生記・第十五話
まえがき
十四度の邂逅を経て、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
吉田松陰との旅で、凪は「志路」という言葉を得た。今回、彼が得る言葉は「憲路」であった。
師の志を継ぎ、新しい国の骨格を、その手で築こうとした男。
明治四十二年(一九〇九年)九月。齢六十八にして、なお公務のために異国へ向かおうとしていた男――伊藤博文。松下村塾に学び、後に日本初の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の制定に、生涯の多くを捧げた政治家の物語である。
プロローグ 長月の来訪
東京は、初秋の、涼やかな夜だった。
榊原凪は、五十八歳になっていた。吉田松陰との旅から、半年余りが経っている。
伝馬町の獄舎で、松陰が同志・金子重之助への想いを書き記した、あの筆の動きを、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『留められた魂』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い憲法の解説書を眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、葉巻と、洋紙のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老紳士が座っていた。
洋装の礼服。白髪交じりの口髭。だが、その目には、鋭く、それでいてどこか人懐こい光が宿っていた。
「夜分に失礼。泥棒じゃねえよ、伊藤だ」
老紳士は、静かに笑った。
「あなたは……」
「伊藤博文と申す。今は、枢密院議長を務めておる」
凪は、息を呑んだ。
伊藤博文。吉田松陰の松下村塾に学び、後に日本初の内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の制定を主導した政治家。
そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここに」
「さて、わしにも分からん。気づきゃこの妙な部屋におった」伊藤は、葉巻がないのを残念そうに指先でなぞった。「由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉、玄白、定信、松陰――君が会うてきた者たちの気配が、なんとなく、伝わってくる。不思議な御仁だな、君は」
彼は、凪を穏やかに見つめた。
「わしは今、満州へ、公務で向かおうとしておる。ロシアの蔵相と、会談するためにな」
「伊藤様……」
「そういえば」老政治家の目に、懐かしむような光が宿った。「松陰先生の塾で学んでおった頃のことを、近頃、よく思い出す」
一章 十五度目のたゆたい
その夜、凪は憲法の解説書に埋もれながら、考え続けていた。
これまでの十四人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが伊藤博文の場合、その重さは、また違う質のものだった。
これまでの人物たちの多くは、自らの死期を、ある程度、悟っていた。だが伊藤は違う。史実において、彼は明治四十二年十月二十六日、満州のハルビン駅にて、韓国の青年・安重根に銃撃され、突然その生涯を閉じることになる。本人は、その日が来ることを、まだ知らない。
伊藤の生涯には、もう一つ、あまり知られていない事実があった。
明治二十二年(一八八九年)に公布された大日本帝国憲法。その公式な解説書『憲法義解』は、伊藤博文の名で著されている。だが、その実際の執筆の多くを担ったのは、井上毅という、法制官僚であったと伝えられている。井上は、明治二十八年(一八九五年)、四十七歳で世を去っていた。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
伊藤が、あとひと月後に迎える死を前に、書き遺すべきものが、あるとすれば――それは、憲法という己の功績だけなのか。それとも、その陰で、共に憲法を作り上げた者への想いも、含まれているのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、解説書の匂いが、葉巻と洋紙の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
二章 相州大磯・滄浪閣
気づくと、凪は、相州大磯、滄浪閣の松林の庭先に立っていた。
初秋の海風が、松を抜けていく。
凪の身なりは、書生風の洋装に変わっていた。
「ごめんください」
庭先にいた書生に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「閣下に、お目通り願いたい」
「あなたは、どなたですか」
「閣下のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
書生は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「榊原さんとやら。お上がりください」
この書生こそ、伊藤の秘書官の一人であった。
三章 伊藤の書斎
書斎は、洋風の机と、和漢洋の書物で満たされていた。机の上には、満州行きのための書類と共に、古い『憲法義解』の一冊が、置かれている。
伊藤は、机の前から、鋭い目で凪を見た。
「よう来たな」
「参りました」
「掛けたまえ」伊藤は、顎で椅子を示した。「わしはこれから、満州へ向かう。ロシアの蔵相・ココフツォフと、会談するためにな」
「憲法のことを、近頃、よく思い出されるとのことでしたが」
伊藤は、しばらく黙っていた。
「この憲法義解は、わしの名で世に出ておる。だが、その実、細部を書き上げたのは、井上毅という男であった。あの男の緻密な仕事なくば、この解説書は、成らなんだやもしれぬ」
「井上様は、今、どうしておられますか」
伊藤は、少し目を伏せた。
「もう、十四年前に、亡くなった」彼は、静かに言った。「あの男のことを、わしは、世に、どれほど、はっきりと語ってきただろうか」
四章 名の記されなかった男
その夜、凪は滄浪閣の一室で、眠れぬまま過ごした。
伊藤の言葉が、頭から離れなかった。
――あの男のことを、わしは、世に、どれほど、はっきりと語ってきただろうか。
これまでの十四人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが伊藤の場合、彼自身は、自らの死が、ひと月後に迫っていることを、まだ知らない。それでも彼は、老いと共に、過去を振り返る時間を、多く持つようになっていた。
史実において、井上毅は、法制局長官として、大日本帝国憲法の起草に深く関わり、その公式な解説書『憲法義解』の実質的な執筆者であったと、多くの研究者に指摘されている。井上は無口な男だった。酒も飲まぬ。だが条文の一点一画に、鬼のように厳しかった。
凪は、ふと思った。
伊藤が、これほどまでに憲法という功績を語られる一方で、井上への感謝は、これまで、どれほど世に向けて、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、大磯の波音が、遠く微かに聞こえていた。
五章 秘書官との対話
翌日、凪は、書斎で書類を整理していた秘書官と、言葉を交わす機会を得た。
「井上毅様のことを、閣下は、どのように語られますか」
「井上様は……」秘書官は、少し言葉に詰まった。「憲法義解の緻密な文章を、実際に書き上げられた方だと、伺っております。ですが、世間では、あまり、そのことは、知られていないように思います」
「閣下ご自身は、それを、どう思っておられるのでしょうか」
秘書官は、首を傾げた。
「閣下は、時折、懐かしそうに、井上様のお名前を、口にされます。ですが……それを、公の場で、はっきりと語られたことは、まだ、あまりないように思います」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
六章 旧友・金子堅太郎との対話
その日の夕刻、伊藤の旧友であり、憲法制定にも関わった金子堅太郎が、訪ねてきた。
「榊原殿と申されるか。閣下より、伺っております」
「金子殿は、井上毅様のことを、どう見ておられますか」
金子は、少し驚いた顔をした。
「あの御方なくば、憲法義解の緻密な条文解釈は、成らなかったでしょう。伊藤閣下の大きな構想と、井上殿の緻密な法文――その両方があって、初めて、あの憲法は、形を成したのです」
「それは、伊藤閣下ご自身も、認めておられることですか」
「閣下は……」金子は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、井上殿への敬意を、抱いておられるはずです。ただ、御自身が、憲法制定の象徴的な人物として、世に知られる立場になられたことに、いささか、心苦しさも、抱いておられるのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし、閣下が、はっきりと、井上様の功績を、世に向けて語られたら――何か、変わると思われますか」
金子は、しばらく考えた。
「変わりましょう。……閣下のお言葉には、それだけの重みがございます」
七章 夜半の対話
その夜、凪は伊藤に呼ばれ、二人だけで書斎に残った。
「秘書官や、金子から、聞いた」と伊藤は言った。「君が、井上のことを、あれこれ問うておるそうだな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」伊藤は、鋭い目で凪を見た。「わし自身、向き合わねばならぬ角度であった」
「閣下は、憲法という己の功績について、あれほど雄弁に語られる場を、お持ちです。ですが、井上様の功績については、あまり、多くを語る場が、なかったように見受けました」
伊藤は、しばらく、黙っていた。
「わしは……」やがて彼は、絞り出すように言った。「井上の緻密な仕事を、誰よりも、有り難く思うておる。あの男の法文への厳密さがなくば、この憲法は、これほどの精緻さを、持ち得なんだ。……だが、それを、世に向けて、はっきりと語ったことは、なかったやもしれぬ。政治というものの表舞台に、いつしか、慣れてしもうたのやもしれぬな。裏方の仕事をした者への感謝を、言葉にする間を、作ってこなんだ」
凪は、深く息を吸った。
「井上様のことです」凪は、静かに言った。「閣下は、あの方の仕事を、誰に、どんな言葉で遺されますか」
伊藤の目が、微かに揺れた。
「わしはこれから、満州へ向かう。ココフツォフと、国のこれからを話し合う」伊藤は、窓の外の闇を見た。「だが、その前に、しておかねばならんことがある。そうじゃのう?」
八章 筆を執る朝
旅立ちの朝、伊藤は、書斎の机に向かい、筆を執った。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「井上は……」伊藤は、筆を運びながら、呟くように言った。「わしよりも、はるかに、法文というものに、厳密な男であった。彼の緻密な仕事なくば、この憲法は、ただの大きな器で終わったやもしれぬな」
筆先から生まれる文字が、書きかけの覚書の余白を、埋めていった。
「これを、金子や、後進の者たちに、託しておこう。井上の功績を、はっきりと、記録に残すようにと」
凪は、静かに、その筆の動きを見つめていた。
やがて伊藤は、筆を置き、鞄に覚書を収めた。
「これで……少しは、心が、軽うなった」
「閣下」凪が言った。「それが、あなたの憲路、かもしれません」
伊藤は目を細めた。「憲の路、か。面白いことを言う。わしが歩いてきたのは、なるほど、憲路であったか」
九章 遺されたもの
伊藤は、その後、横浜から船に乗り、満州へと向かった。
史実において、彼は明治四十二年十月二十六日、ハルビン駅頭にて、韓国の青年・安重根に銃撃され、その生涯を閉じることになる。安重根は、伊藤が韓国の保護国化を主導した人物と見なし、その行動に及んだと伝えられている。もっとも伊藤自身は、当時の政府内では、性急な韓国併合には、比較的慎重な立場を取っていたとも言われており、この出来事は、今なお、立場によって、異なる評価がなされている。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
伊藤が満州へ発つ前に、静かに書き遺した、井上毅への想い。それは、後に、金子堅太郎らの手によって、憲法制定の記録に、丁寧に書き加えられることになった。
終章 もう一つの憲路
数年後。
東京のある資料室に、大日本帝国憲法の制定過程を記した、詳細な記録が、収められていた。
その中には、伊藤博文の大きな構想と共に、井上毅という、一人の法制官僚の、緻密な仕事が、はっきりと記されていた。
「伊藤博文の憲法」としてだけではなく、「多くの手によって、丁寧に織り上げられた憲法」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、初秋の風が、涼やかに吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『明治四十二年十月、満州の空は、静かに暮れようとしていた。新しい国の骨格を築き続けた男は、その最期の旅路で、もう一つの光を、次の時代へと書き遺した。』
風が吹いた。葉巻と、洋紙の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
――了――
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あとがき
本作は伊藤博文の最晩年を題材としたフィクションです。伊藤博文、井上毅、金子堅太郎などは実在の人物ですが、物語の展開は著者の創作です。実際に伊藤は明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、満州のハルビン駅にて、安重根により銃撃され亡くなりました。この出来事については、日本と韓国をはじめ、立場によって評価が大きく異なっており、本作では特定の立場を取ることを意図せず、史実として簡潔に触れるにとどめています。安重根は韓国では独立運動家と評されています。
大日本帝国憲法の公式解説書『憲法義解』は伊藤博文の著作として公刊されていますが、その実質的な起草作業の多くを法制官僚・井上毅が担ったことは、多くの研究者によって指摘されています。伊藤自身が井上の功績について、どこまで、どのように語っていたかについては、本作における描写や対話の内容は、著者の創作です。
本作は、前十四作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいいるのかもしれません。

