医路転生記
〜杉田玄白と刻をこえた男〜
玉響転生記・第十二話
まえがき
十一度の邂逅を重ね、榊原凪は、また新たな「刻」へと導かれることになった。
松尾芭蕉との旅で、凪は「句路」という言葉を得た。今回、彼が得た言葉は「医路」であった。
異国の書物と格闘し、日本の医学に、新たな扉を開いた男。
文化十四年(一八一七年)四月。齢八十五にして、なお筆を執り続けた男――杉田玄白。『解体新書』の翻訳という大事業を成し遂げながら、その晩年、一冊の回想録に、自らの生涯と、共に苦しんだ仲間たちの姿を、書き遺そうとした蘭学者の物語である。
プロローグ 卯月の来訪
東京は、初夏に向かう、穏やかな夜だった。
榊原凪は、五十六歳になっていた。松尾芭蕉との旅から、半年余りが経っている。
大坂の花屋の離れで、芭蕉が従者・次郎兵衛に向けて残した、あの最期の言葉を、凪は今も思い出す。
書き上げた小説『旅を継ぐ者』は、静かな反響を呼んだ。
その夜、凪は書斎で、古い医学書の写しを眺めながら、うたた寝をしていた。
ふと、墨と、異国の紙のような匂いがした。
顔を上げると、部屋の隅に、一人の老人が座っていた。
質素な羽織袴。白髪の多い頭。だが、その目には、驚くほど明晰な光が宿っていた。
「夜分に、恐れ入る」
老人は、穏やかに言った。
「あなたは……」
「杉田玄白と申す。若狭小浜藩の、藩医を務めた者にござる」
凪は、息を呑んだ。
杉田玄白。『解体新書』の翻訳という、日本の医学史における一大事業を成し遂げた蘭学者。そして――このおよそひと月後、その生涯を閉じることになっている男。
「なぜ、ここに」
「さて、それがしにも、分かり申さぬ」玄白は、静かに笑った。「気づけば、この妙な部屋におり申した。由井、明智、石田、真田、土方、坂本、大石、楠木、伊能、北斎、芭蕉――そなたが会うてきた者たちの気配が、なんとのう、伝わってまいる。不思議な御仁じゃな、そなたは」
彼は、凪を穏やかに見つめた。
「それがしは今、齢八十五。この身は、もう長くはございますまい」
「玄白様……」
「されど」老いた医者の目に、鋭い光が宿った。「まだ、書き遺さねばならぬことが、ござる。それを果たさずして死ぬのは、心残りでござる」
第一章 十二度目のたゆたい
その夜、凪は医学書の写しに埋もれながら、考え続けていた。
これまでの十一人には、皆、「死をどう引き受けるか」という、それぞれの重さがあった。
だが杉田玄白の場合、その重さは、また違う質のものだった。
史実において、玄白は安永三年(一七七四年)、前野良沢、中川淳庵らと共に、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』として刊行する。その三年前、小塚原の刑場で行われた腑分けに立ち会い、蘭書の図の正確さに衝撃を受けたことが、翻訳を志す直接の契機となったと伝えられている。
辞書もなく、手引きとなる師もない中での翻訳作業は、困難を極めた。玄白は後年、その苦労を「艪舵なき舟の大海に乗り出せしが如し」と振り返っている。
だが、この大事業を成し遂げた仲間の一人、前野良沢の名は、刊行された『解体新書』の訳者として、記されることがなかった。
凪の胸に、一つの問いが浮かんだ。
玄白が晩年に書き遺そうとしたのは、本当に「己の功績」だけだったのか。凪には、そうは思えなかった。むしろ、その功績の陰で、見過ごされてきた仲間への想いも、あったのではないか。
凪は、暗い天井を見つめた。
「行きます」
呟くと同時に、部屋の空気が震え、医学書の匂いが、墨と異国の紙の匂いに変わった。
玉響。
世界が、揺れた。
第二章 江戸・杉田玄白の屋敷
気づくと、凪は、江戸の武家屋敷の裏庭に立っていた。
小浜藩の江戸屋敷に近い、玄白の隠居所。庭先には、初夏の若葉が茂っている。
凪の身なりは、書生風の着流し姿に変わっていた。
「もし」
庭先にいた若い門人に声をかけると、彼は驚いた顔で凪を見た。
「先生に、お目通り願いたい」
「あなたは、何者ですか」
「先生のお導きで参った者です。到着を告げていただければ、通じるはずです」
門人は、訝しみながらも、奥へと入っていった。
しばらくして、戻ってきた。
「榊原さんとやら。お上がりください」
この門人こそ、玄白の孫弟子にあたる、大槻玄沢の弟子の一人であった。
第三章 玄白の書斎
書斎は、狭いながらも、書物で埋め尽くされていた。机の上には、書きかけの原稿――後に『蘭学事始』と呼ばれることになる回想録の草稿が、置かれている。
玄白は、文机の前から、鋭い目で凪を見た。
「よう参られた」
「参りました」
「お座りなされ」玄白は、穏やかに言った。「それがしは、この草稿を書き上げねば、死ぬに死ねぬ思いでござる」
「何を、書き遺そうとしておられるのですか」
玄白は、しばらく黙っていた。
「蘭学が、いかにして始まったか。それがしと、仲間たちが、いかに苦しみ、いかにして一書を成したか」彼は言った。「あの頃のことを知る者は、もう、それがし一人になり申した。今、書き遺さねば、すべてが忘れ去られる」
「今、その仲間たちのことを、どのように思い返されますか」
玄白は、少し目を伏せた。
「良沢のことを、思い申す」彼は、静かに言った。「あの男の蘭語の力なくば、『解体新書』は、成らなんだ」
第四章 名の記されなかった男
その夜、凪は玄白の屋敷の隅で、眠れぬまま過ごした。
玄白の言葉が、頭から離れなかった。
――良沢の蘭語の力なくば、『解体新書』は、成らなんだ。
これまでの十一人は、皆、有限の生の中で、何を選ぶかという問いを抱えていた。だが玄白の場合、彼が晩年に向き合っていたのは、「何を選ぶか」だけでなく、「何を、正しく後世に伝えるか」という問いであるように思えた。
史実において、前野良沢は、当時の蘭学者の中でも、随一の語学力を持つ人物であったと伝えられている。だが彼は、『解体新書』刊行に際し、自らの名を訳者として記すことを固辞したという。訳文には、なお不完全な点が残っている。それが、良沢の言い分であった。
結果として、世に名を知られたのは、玄白であり、良沢の名は、長く歴史の陰に置かれることになった。
凪は、ふと思った。
玄白が、これほどまでに仲間への想いを語る一方で、その想いは、これまで、どれほど世に向けて、はっきりと語られてきたのか。
窓の外、江戸の町の喧噪が、遠く微かに聞こえていた。
第五章 良沢の消息
翌日、凪は、書斎で墨を磨っていた玄白の孫弟子と、言葉を交わす機会を得た。
「前野良沢様は、今、いかがお過ごしでしょうか」
「良沢先生は……」若い門人は、少し言葉に詰まった。「もう随分前に、亡くなられました。晩年は、江戸の片隅で、静かに暮らしておられたと聞きます」
「世に、その功績が、広く知られることは」
門人は、首を振った。
「『解体新書』には、良沢先生のお名前は、記されておりません」
凪は、その言葉の重さを、静かに受け止めた。
第六章 弟子・大槻玄沢との対話
その日の夕刻、玄白の高弟、大槻玄沢が、見舞いに訪れた。
「榊原殿と申されるか。先生より、伺っております」
「玄沢殿は、前野良沢様のことを、どう見ておられますか」
玄沢は、少し驚いた顔をした。
「あの御方なくば、蘭学は、今日のようには、花開かなかったでしょう。蘭語の読解にかけては、当代随一の御方でございました」
「それは、玄白先生ご自身も、認めておられることですか」
「先生は……」玄沢は、言葉を選びながら言った。「内心では、誰よりも、良沢先生への感謝を抱いておられるはずです。されど、それを世に示す筆を、いまだ執ってはおられぬ。御自身が世に名を知られる立場になられたことに、いささかの心苦しさも、抱いておられるのでしょう」
凪は、頷いた。
「もし、先生が、今書いておられる回想録に、はっきりと、良沢様の功績を、書き記されたら。何か、変わると思われますか」
玄沢は、しばらく考えた。
「変わりましょう。先生のお言葉には、それだけの重みがございます」
第七章 夜半の対話
その夜、凪は玄白に呼ばれ、二人だけで書斎に残った。
「弟子どもから、聞き申した」と玄白は言った。「そなたが、良沢のことを、あれこれ問うておるそうじゃな」
「差し出がましいことを、申し上げました」
「いや」玄白は、鋭い目で凪を見た。「それがし自身、向き合わねばならぬ角度でござった」
「玄白様は、ご自身の功績について、あれほど雄弁に語られる場を、お持ちです。ですが、良沢様の功績については、あまり、多くを語る場が、なかったように見受けました」
玄白は、しばらく、黙っていた。
凪が踏み込むと、玄白は不審の目を一瞬だけ鋭くした。だが、文机の上の筆を取ろうとして、老いた手のひらが小さく震えるのを見つめ、やがて深く、重い溜息をついた。
「……」
玄白は筆を持つ手を止めた。
「それがし自身、世の評判というものに、いつしか、寄りかかってしもうたのやもしれぬ」声は、搾り出すようだった。「良沢の頑なな引き際を、都合よく解釈しておった。あれは謙遜だと。そう思うことで、己を守っておったのだ。いまさら己の器の小ささを認めるのが、怖かったのかもしれん」
凪は、深く息を吸った。
「玄白様。あなたは今、蘭学の始まりを、後の世に書き遺そうとしておられます。ですが、もし、その回想録に、ご自身の功績だけを記して終われば、良沢様の献身は、あなたの名声の陰に、埋もれたままになってしまうかもしれません」
玄白の目が、微かに揺れた。
「あなたが本当に遺したいものは、ご自身の功績だけでしょうか。それとも、良沢様という、かけがえのない同志の姿を、次の時代へと、はっきり書き伝えることも、含まれているのではないでしょうか」
玄白は、長い間、目を閉じていた。
第八章 筆を執る夜
その夜遅く、玄白は、文机に向かい、筆を執った。
凪は、その傍らに、静かに控えていた。
「良沢は……」玄白は、筆を運びながら、呟くように言った。「あの頃、蘭語の読める者など、ほとんどおらなんだ。辞書もなく、手引きもなく、一つの言葉の意味を知るために、幾日もかかることが、しばしばであった。それでも、良沢は、決して諦めなんだ」
筆先から生まれる文字が、草稿の余白を、埋めていった。
「あの男がおらねば、それがし一人では、とても、成し得なんだ事業でござった。それを、はっきりと、書き記しておかねばならぬ」
――艪舵なき舟で、大洋に乗り出すが如き日々であった。
玄白が呟きながら走らせる筆の音だけが、深夜の書斎に響く。
「良沢という舵取りがいたからこそ、あの荒海を渡りきれたのだ」
玄白はそこで一度、筆を止めた。
「……のう、榊原殿」
凪は、静かに、その筆の動きを見つめていた。
やがて玄白は、再び筆を進め、深く息をついた。
「これで、ようやく、心残りが、一つ、減り申した」
第九章 書き遺されたもの
その後、玄白の回想録は、『蘭学事始』と名付けられ、静かに書き継がれていった。
史実では、この回想録の原本は、玄白の死後、火災によって失われてしまう。だが、幸いにも写本が残されており、玄白の没後、半世紀以上を経た明治二年(一八六九年)、蘭学者・福澤諭吉によって、その写しが見出され、世に広く紹介されることになる。
この書物のおかげで、前野良沢という人物の功績もまた、後世に、正しく伝えられることになった。
凪は、その事実を知り、静かに思った。
もう一つの結末は、既に、史実そのものの中に、静かに息づいていたのかもしれない、と。
終章 もう一つの医路
数日後。
玄白の書斎には、書き上げられた回想録の草稿が、静かに置かれていた。
その中には、玄白自身の功績と共に、前野良沢という一人の同志の、蘭学に懸けた情熱と献身が、はっきりと記されていた。
この草稿は、いつか、誰かの手によって、次の時代へと、受け渡されることになるだろう。
「良沢先生」としてではなく、「共に道を切り拓いた同志」として。
エピローグ もう一つの光
東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、静かに読み返していた。
窓の外では、初夏の風が、心地よく吹いていた。
「あなたが遺したかったのは、ご自身の功績だけではなかったはずです」
凪は、静かに呟いた。
パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文が残されていた。
『文化十四年四月、江戸の空は、静かに暮れようとしていた。己の功績を語りながらも、確かに次の時代へと、もう一つの光を書き遺した男がいた。異国の書物と格闘し続けた、八十五年の生の果てに。』
風が吹いた。墨と、異国の紙の匂いが、微かにした。
玉響の揺らぎは、今日もまた、静かに続いている。
――了――
Amazon Kindle
【作者注】
本作は杉田玄白の晩年を題材としたフィクションです。杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢などは実在の人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際に玄白は安永三年(一七七四年)、前野良沢、中川淳庵らと共に『解体新書』を刊行し、その翻訳の苦労を晩年の回想録『蘭学事始』に書き遺しました。この回想録には、前野良沢の功績についても、詳しく記されています。
前野良沢が『解体新書』の訳者として名を記さなかった経緯については、諸説あり、本作における彼の心情や、玄白との関係の描写は、著者の創作です。また『蘭学事始』の原本は玄白の没後に火災で失われましたが、写本が残っており、明治二年に福澤諭吉によって見出され、出版されたことで、後世に広く伝わることになりました。
本作は、前十一作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
そして、玉響は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。

