忠義転生記

〜大石内蔵助と刻をこえた男〜


まえがき
 由井正雪、明智光秀、石田三成、真田信繁、土方歳三、坂本龍馬――六度の邂逅を経て、榊原凪は、一つのことをはっきりと自覚するようになっていた。
 自分が向き合ってきたのは、いつも「大義のために死ぬこと」を、当然のものとして背負わされた男たちの背中だった。
 玉響(たまゆら)――魂の微かな揺らぎ。
 その揺らぎは今度は、元禄の江戸へ、彼を運ぼうとしていた。
 元禄十六年(一七〇三年)二月。吉良邸討ち入りから、一月半余り。
 赤穂浪士四十六人の頭領――大石内蔵助良雄。主君の仇を討ち、自らの死をもって忠義を示すことになる男。そして、齢わずか十五にして父とともに死地へ赴くことになる、その息子・主税(ちから)の物語でもある。




プロローグ 睦月の来訪
 東京は、正月気分の抜けきらぬ、底冷えのする夜だった。
 榊原凪は、五十一歳になっていた。坂本龍馬との旅から、半年余りが過ぎている。
 横浜の港で、洋装の龍馬が笑っていた姿――伝説になることを退け、自らの目で未来を見ることを選んだ男の顔――を、凪は時折、深い愛おしさともにお思い出していた。
 書き上げた小説『刀を納めた維新の男』は、世間に賛否両論の嵐を呼んだ。「龍馬は暗殺されてこそ伝説になった」「歴史を汚すな」と批判する声も、少なくなかった。だが凪は、その批判の痛みに、静かに耳を傾けていた。
 伝説として死ぬことと、泥をすすっても生きること。そのどちらが「正しい」のか、凪にはまだ分からない。
 その夜、凪は資料の山に埋もれながら、うたた寝をしていた。
 ふと、畳に落ちる線香の煙と、凍てつく雪の匂いが鼻腔をくすぐった。
 顔を上げると、部屋の隅に、男が座っていた。正座の姿勢のまま、微動だにしない。
 羽織袴の、質素な装い。年の頃は四十四、五。痩身だが、その背筋には一分の隙もない。顔立ちは温和だが、目の奥には、底の知れない深い覚悟が沈んでいた。
「夜分に、ご無礼つかまつる」
 男は、静かに一礼した。
「あなたは……」
「赤穂浪士、大石内蔵助良雄にござる」
 凪の呼吸が、止まった。
 大石内蔵助。播州赤穂藩の筆頭家老。主君・浅野内匠頭の刃傷事件による切腹、そしてお家断絶ののち、一年九ヶ月にわたる雌伏を経て、四十六人の同志とともに吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った男。そして――このおよそひと月半後、幕命により、自ら腹を切ることになっている男。
「なぜ、ここに」
「分からぬ」内蔵助は答えた。「気づけば、この見慣れぬ部屋におった。由井殿、明智殿、真田殿、土方殿、坂本殿――そなたが会うてきた方々の気配が、この空間に微かに感じられる」
 彼は、澄んだ瞳で凪をまっすぐに見つめた。
「拙者は今、細川家の御預かりの身にて、江戸の屋敷にて沙汰を待っておる。近々、切腹の命が下ろう。拙者一人のことならば、とうに覚悟はできておる。じゃが……」
 内蔵助の声が、わずかに震えた。
「倅の主税のことが、心に、重うのしかかっておる」
「主税殿は……おいくつか」
「十五じゃ。数えで、十五にすぎぬ」

一章 六度目のたゆたい
 内蔵助の姿が掻き消えたあとも、凪は机の前で考え続けていた。
 正雪、光秀、信繁、歳三、龍馬――それぞれに、己自身の生死を懸けた問いがあった。
 だが大石内蔵助の場合、問われるべきは、彼自身のことだけではない。
 史実において、内蔵助は元禄十六年二月四日、幕命により切腹する。享年四十五。同志四十六人全員が、同日、四つの大名家に分かれて切腹を命じられた。その中には、内蔵助の嫡男・主税、わずか十五歳の少年も含まれていた。
 この集団切腹は、後世「忠臣蔵」として、日本人の心を捉え続けることになる。主君への忠義を貫き、自らの命と引き換えに本懐を遂げた四十六人の、非の打ち所がない美しい物語として。
 だが、と凪は思う。
 主税は、討ち入りに加わった時点で、まだ十四歳だった。彼が本当に、父と同じだけの思想と覚悟をもって、この死を受け入れているのか。それとも――偉大な父の背を追うことしか、選べなかっただけなのか。
 完璧な悲劇の美しさを保つために、十五歳の少年の命が消費されていいはずがない。
「行きます」
 凪が呟くと同時に、部屋の空気が激しく震え、蛍光灯の光が掻き消えた。現代の温室の空気が、剥き出しの江戸の冬の香りに変わる。
 玉響。
 世界が、ぐにゃりと揺れた。

二章 細川屋敷
 気づくと、凪は雪の深く積もった江戸の屋敷の、薄暗い庭先に立っていた。
 高輪にある細川越中守綱利の下屋敷。内蔵助以下、赤穂浪士十七人が、ここに「御預かり」の身として留め置かれている。
 凪の身なりは、いつの間にか浪人風の地味な羽織袴に変わっていた。
「もし」
 かがり火の傍らで警戒する警護の武士に声をかけると、彼は怪訝な顔をして刀の柄に手をかけた。
「内蔵助殿に、お目通り願いたい。榊原が参ったとお伝えいただければ、通じるはずです」
 武士は訝しみながらも、その佇まいに気圧されたのか、奥へと入っていった。
 しばらくして、吐く息を白くさせた案内の者が戻ってきた。
「榊原殿とお見受けする。内蔵助様がお待ちだ。ご案内いたす」

三章 内蔵助の座敷
 通された座敷は、驚くほど質素だった。畳の上に、文机と、書きかけの手紙が数通。
 内蔵助は、現代の凪の部屋に現れた時と同じ、微動だにしない正座で凪を迎えた。
「よう参られた、榊原殿」
「参りました、内蔵助様」
 凪が腰を下ろすと、内蔵助はみずから静かに茶を淹れ、勧めた。
「沙汰が下るまで、あとひと月ほどであろう」内蔵助は、淡々と言った。「細川様は、我らを罪人としてではなく、大義の士として遇してくださっておる。夜着や食事に至るまで、身に余る優しさじゃ。有り難きこと極まりない」
「内蔵助様は、ご自身の切腹の沙汰を、完全に受け入れておられるのですね」
「無論じゃ」内蔵助は、静かに頷いた。「主君の仇を討ったこと、それ自体に、拙者は一片の悔いもない。武士としてこれ以上の本懐があろうか。……だが」
 彼は、そこで初めて、言葉を詰まらせた。視線が、文机の上に置かれた一通の手紙へと落ちる。
「主税のことだけは、幾晩考えても、答えが出ぬのだ」
「主税殿は、討ち入りに加わることを、ご自身で望まれたのですか」
「望んだ、と言えば、望んだのであろう。血気盛んな若者たちの前で、凛として見せた」内蔵助は、苦しげに目を伏せた。「じゃが、あの子に、真に己の意志で選ぶ余地が、どれほどあったか。父が、赤穂藩の筆頭家老が頭領を務める企てじゃ。断ることなど、あの子にできたであろうか。拙者が、あの子の選択肢を、最初から奪っていたのではないかとな……」

四章 問いの重さ
 その夜、凪は細川屋敷の一室で、冷える身体を抱えながら眠れぬまま過ごした。
 内蔵助の言葉が、耳の奥で何度もリフレインしていた。
 かつて出会った真田信繁は、我が子・大助を、豊臣秀頼とともに死なせるか、生かすかで苦しんだ。だが大石内蔵助の場合、事情はさらに複雑で、残酷だった。
 討ち入りという「事件」そのものは、すでに終わっている。主税はすでに吉良邸の門をくぐり、すでに幕府に自訴し、四十六人の一人として世間に名前が知れ渡っている。
 今さら、主税だけを生き延びさせることが、物理的に可能なのか。
 そしてそれは、「忠義を貫いた赤穂浪士」という完璧な物語に、取り返しのつかない瑕(きず)をつけることにならないか。後世の人間は、「大石の息子だけが命を惜しんで逃げた」と嘲笑うかもしれない。
 だが――と凪は激しく葛藤する。
 その「物語の完全さ」という、生きている人間の身勝手な美意識のために、十五歳の少年の未来を、当然の供物として差し出させて良いはずがない。
 凪は、暗闇の中で、これまで出会ってきた男たちの言葉を思い返していた。
『生きて訴え続けることが、最大の武士道だ』
『近藤の名誉は、拙者が死ぬことでは、取り戻せぬ』
 それらの言葉は、当事者自身が「生きる」ことを選ぶ場面で意味を持ってきた。だが主税の場合、生きることを選ぶ主体は、彼自身なのか、それとも父・内蔵助なのか。
 窓の外で、雪がしんしんと、すべてを埋め尽くすように降り積もっていた。

五章 主税との対話
 翌日、凪は内蔵助の計らいにより、他の浪士たちの目を盗んで、主税と対面することを許された。
 目の前に座る少年は、まだあどけなさが残る細面に、産毛の生えた顎をしていた。しかし、その瞳には、無理に大人びようとする静けさが張り付いている。
「榊原殿と申されるか。父上より、伺うております」
「主税殿、お身体の加減はいかがですか」
「変わりなく過ごしております」主税は、微かに笑った。「細川の方々は皆お優しく、案じてくださり、忝い」
 凪は、少し躊躇いながらも、彼の目をまっすぐに見つめて切り出した。
「主税殿。単刀直入に伺います。あなたは、これから訪れるであろう切腹の沙汰を、どう思っておられますか」
 主税は、しばらく黙っていた。その細い指が、膝の上でぎゅっと袴を掴む。
「正直に申せば……」と、彼は声を震わせた。「怖くないと申せば、嘘になりましょう。夜、目を閉じると、首筋が寒くなることがございます。……ですが、父上と、四十六人の方々と、共に主君の本懐を遂げたこと。それは、拙者の誇りでございます。大石の家名に恥じぬ生き方ができたと」
「もし――もしもの話ですが」凪は、慎重に、しかし熱を込めて言葉を選んだ。「もし、あなただけが、この屋敷を抜け出し、生き延びる道があるとしたら、それを望まれますか」
 主税は、初めて、驚いたように目を見開いた。
「そのようなことが、あり得るのですか」
「分かりません。ただ、主税殿、あなた自身の『本音』が知りたいのです」
 主税は、長い間、じっと畳の一点を見つめて考え込んだ。やがて、ぽつり、ぽつりと、十五歳の少年の本当の肉声が漏れ出した。
「拙者は……父上とともに、大義の中に死にたいと思う心と――正直に申せば、生きて、この先の世を見てみたい、母上や弟たちの元へ帰りたいという心と、両方がございます。どちらが本当の拙者の心なのか、拙者自身にも、もう分かりませぬ」
 凪は、そのあまりに誠実な告白に、胸を締め付けられた。
「ただ」と主税は顔を上げ、きっぱりと言った。「父上が、拙者のために、ご自身の忠義に瑕をつけるようなことをなさるのは……それだけは、拙者の本意ではございません」

六章 同志たちの声
 その日の午後、細川屋敷の廊下で、凪は堀部安兵衛に呼び止められた。
 血気盛んで、江戸急進派のリーダーであった男。安兵衛の目は、鋭く凪を値踏みしていた。
「榊原殿とやら。お主、内蔵助様に、妙な入れ知恵をしておるのではあるまいな」
「入れ知恵、とは」
「主税殿を、逃がそうなどという戯れ言だ」安兵衛は一歩詰め寄り、低い声で言った。「そのようなこと、我ら赤穂浪士の忠義を、根底から汚すものぞ。世間は『大石は我が子だけを助けた』と指を差す。主税殿の武士としての誇りは、どこへ行く」
「安兵衛殿は、主税殿が死ぬことを、当然だと思っておられるのですか」
「当然だ!」安兵衛の瞳に、烈火のような純粋さが宿る。「我ら四十六人、心を一つにして、命を捨ててここまで来た。一人だけ抜け駆けのように生き延びるは、義に反する。主税殿とて、立派な赤穂の武士。死を汚すことこそ、あの子への不義理だと思わぬか!」
 安兵衛の言葉には、彼なりの狂信的なまでの「愛」と「武士道」があった。
 一方で、大石内蔵助の遠縁にあたり、討ち入りには加わらなかった大石信興は、夜陰に乗じて凪にそっと耳打ちした。
「榊原殿。拙者は、内蔵助殿に、密かに文を送ったことがござる。主税殿だけは何とか病死とでも偽り、逃れる道を、と。……だが、内蔵助殿からの返事はなかった」
「なぜだと思われますか」
「内蔵助殿は、義と情の狭間で、身動きが取れずにおられるのだ。頭領としての顔と、父親としての顔。そのどちらを選んでも、地獄だからな……」

七章 夜半の対話
 その夜、凪は再び内蔵助に呼ばれ、二人だけで灯籠の薄明かりの中に座った。
「拙者は、激しく迷うておる」と内蔵助は言った。その顔は、昼間よりも酷くやつれて見えた。
「主税殿のことですね」
「うむ。安兵衛たちの申すことも、一理、いや万理ある。四十六人が一人も欠けることなく本懐を遂げてこそ、この義挙は完成する。誰か一人が欠ければ、それはただの『私怨の殺戮』と擦り切れるやもしれぬ。だが……」
 内蔵助は、痛みに耐えるように固く目を閉じた。
「あの子は、まだ十五じゃ。これから、美味いものを食い、恋を知り、新しい世を見るはずの命じゃ。拙者の、浅野家への忠義のために、あの子の未来まで、すべて差し出して良いものか。拙者は、悪鬼羅刹か……」
「内蔵助様」
 凪は、一歩這い寄った。そして、内蔵助の、寒さで強張ったその手の上に、みずからの手を重ねた。現代人の体温が、歴史の闇に触れる。
「あなたが本当に守りたいのは、『四十六人が一人も欠けることなく死んだ』という、後世の人間が喜ぶ『完璧な物語』ですか? それとも――浅野内匠頭様への、純粋な忠義の心そのものですか」
 内蔵助は、弾かれたように凪を見た。
「忠義の心そのもの、じゃ。そこに偽りはない」
「ならば」と凪は、まっすぐにその眼差しを受け止めた。「主税殿が生き延びることは、その忠義を裏切ることにはなりません。むしろ、主税殿が生き延び、この討ち入りの真意を、あなたの苦悩を、本当の心を後の世に語り継ぐことこそが、忠義の、もう一つの形ではないでしょうか」
 内蔵助は、長い間、言葉を失っていた。
「そなたは……真田殿にも、同じようなことを申したのか」
「はい。あなたが誰かを生かすために戦い、その誰かが未来に命を繋いだとしたら、その方が遥かに大きな意味を持つのではないか、と。主税殿自身も、生きて先の世を見てみたいと、本音を漏らしてくれました。ただ、あなたが忠義に瑕をつけてまで、無理に生かされることは望まないと」
 内蔵助の目から、一筋の涙が溢れ、頬を伝って畳に落ちた。それは、完璧な頭領という石像が、一人の「父親」へと溶けた瞬間だった。
「あの子は……拙者よりも、よほど、腹が据わっておるな」

八章 沙汰の前夜
 それから数日、内蔵助は、他の浪士たちに気づかれぬよう、静かに一通の文をしたためていた。
 宛先は、細川家の家老・堀内伝右衛門。浪士たちの世話役を務め、彼らに深い同情と敬意を寄せていた人物である。
 沙汰の日が数日後に迫った夜、内蔵助は凪を呼び出した。その表情には、憑き物が落ちたような、別の覚悟が宿っていた。
「堀内殿に、命を懸けた頼み事をした」と内蔵助は囁いた。「沙汰の日、もし叶うならば――主税を、幼き頃より仕えてきた、体格の似た若党と、密かに入れ替えることができぬか、と」
「入れ替える……。しかし、幕府の目付(検使役)の目は厳しすぎます。もし露見すれば、細川家もお家断絶、堀内殿の首も飛びます」
「分かっておる。あまりに無茶な、独善の博打じゃ」内蔵助は、微かに笑った。「だが、堀内殿は、我らに深い情けをかけてくださっておる。万に一つの望みじゃ。もし、これが露見し、拙者が不忠の者として惨殺されようとも、一構えもない。拙者は、武士の形骸たる忠義よりも、あの子の命を選びたい。それが、大石内蔵助の、最後の我が儘じゃ」

九章 沙汰の日
 元禄十六年二月四日。
 江戸の空は、厚い雲に覆われ、大粒の雪が舞い散っていた。
 幕府からの上使が細川屋敷に到着し、大石内蔵助以下十七名に、正式に「切腹」の沙汰が下った。
 だが、その直前――。
 堀内伝右衛門の、命懸けの手引きがあった。主税は「急な腹痛により、検使の前に出せる状態にない」として、隔離された奥の一室に移されていた。そこには、あらかじめ用意されていた、主税の衣服を纏い、うつむいた若党が控えていた。
 検使役の臨検は苛烈を極めたが、細川家の家臣たちが一丸となって「主税殿に間違いございませぬ」と、その肉の壁で視線を遮った。浪士たちへの深い同情が、幕府の厳命という巨大なシステムを、一瞬だけ麻痺させたのだ。
 主税は、その日の夜陰に乗じ、堀内の手引きで密かに細川屋敷を脱出した。
 白洲の切腹の座に、内蔵助は臨んだ。
 隣の座にいるのが、我が子ではなく、身代わりの若党(のちに細川家によって密かに逃がされた)であることを、彼は知っていた。
 内蔵助の最期の姿は、史実の伝えるところと、何ら変わりはなかった。従容として、乱れることなく、見事な手際で腹を切り、忠義の士としてその生涯を閉じた。
 ただ、その今際の際、彼の唇が、誰にも聞こえない小さな声で「生きよ」と動いたのを、影から見守っていた凪だけが目撃していた。

終章 もう一人の忠臣蔵
 それから数年後。
 京の外れの、風が吹き抜ける小さな寺の境内で、一人の若い僧が、静かに経を読んでいた。
 名を変え、僧籍に入ったその青年は、かつて「大石主税」と呼ばれていた面影を、その涼やかな目元に残していた。
彼は、父や同志たちの物語を、誰にも語らなかった。ただ、毎年二月四日の雪の降る日になると、本堂の片隅で、静かに手を合わせるのだった。
 生き延びた彼は、父の願い通り、新しい時代をその目で見た。武士の世が少しずつ傾き、人々が泰平を謳歌する姿を。
 晩年、彼は一冊の、決して表に出ることのない記録を書き残した。
 討ち入りの真実、そして、父・内蔵助が最後まで抱えていた、一人の父親としての迷いと、自分を逃がしてくれた愛について。
 それは、後世「忠臣蔵」という完璧な美談として語られる物語には、決して描かれることのない、泥臭くも温かい、もう一つの忠義の記録だった。

エピローグ もう一つの忠義
 東京の書斎で、凪は、書き上げたばかりの原稿を、愛おしそうに読み返していた。
 窓の外では、あの夜と同じように、雪が静かに降っていた。
「あなたの本当の忠義は、全員が死んで人形になることでは、なかったはずです」
 凪は、誰もいない空間に向かって、静かに呟いた。
 パソコンの画面には、彼が書き上げた物語の、最後の一文がまたたいていた。
『元禄十六年二月四日、江戸の空には、雪が静かに舞っていた。四十六の忠義の士は、粛々とその本懐を遂げた。だが、そのうちの一人の父は、美しき忠義よりも遥かに重い我が子の命を、歴史の闇の中に、そっと逃してみせたのである。』
 ふっと、冷たい風が部屋を吹き抜けた。線香の懐かしい匂いが、微かに鼻をかすめ、そして消えた。
 玉響の揺らぎは、今日もまた、凪の心の中で、静かに、優しく続いている。

――了――


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【作者注】
 本作は赤穂事件・忠臣蔵を題材としたフィクションです。大石内蔵助、大石主税、堀部安兵衛、堀内伝右衛門などは実在の歴史人物ですが、物語の展開は著者の創作によるものです。実際の赤穂事件(元禄十五〜十六年、一七〇二〜一七〇三年)では、大石内蔵助以下四十六人の赤穂浪士は、元禄十六年二月四日、幕命により四つの大名家に分かれて切腹し、その中には当時十五歳であった大石主税も含まれていました。
 本作は、前六作と同じく、「もし介入できたなら」という思考実験として書かれています。
 そして、玉響(たまゆら)は、いつの時代にも、静かに揺らいでいるのかもしれません。