プログレス
―― 終電のない駅



まえがき

日々の仕事に追われ、ふと立ち止まったとき、「自分は一体どこへ向かって走っているのだろう」と、妙な焦燥感に駆られることはないでしょうか。

誰かの成功を素直に喜べなかったり、他人のつまずきに小さく安堵したり。そんな、誰にも言えない心の澱(おり)は、きっと誰もが厳重に鍵をかけて隠し持っているものです。

本書『プログレス ―― 終電のない駅』は、そんな日常の迷路に迷い込んでしまった一人の男の、一夜の奇妙な体験を描いた物語です。

深夜の静寂のなかで、あるいは通勤の喧騒の合間に、主人公と共にひとときの「心の旅」を楽しんでいただければ幸いです。






残業を終え、いつもの改札を抜けたはずだった。
気づくと僕は、見覚えのないホームに立っていた。

蛍光灯は妙に白く、時刻表には数字がひとつもない。「次発」の欄は、ずっと空白のままだ。
ベンチに人影はなく、線路の向こうには闇より濃い闇が沈んでいる。

スマートフォンを取り出すと、電波は圏外。時刻だけが「0:00」で止まっていた。

「終電、逃したみたいだね」

振り向くと、駅員の制服を着た老人が立っていた。皺の奥の目だけが、妙に若い。

「ここは……何駅ですか」

「駅名はないよ。強いて言うなら――『振り出し』かな」

老人は改札の奥を指さした。そこには、小学校の校庭が広がっていた。
かけっこの前の、あの緊張と高揚が入り混じった空気。

「キミも、もう一度走ってみたいんじゃないかね」

断る理由が見つからないまま、僕は吸い寄せられるように改札をくぐった。




校庭には、同じ年頃の子どもたちが横一列に並んでいた。
その中に、見知った顔がいくつもある。

隣のクラスだった陸。父親は市議会議員で、いつも高そうな靴を履いていた。
少し離れた場所には、美咲。広い庭のある家に住んでいた。

生まれた場所も、育った環境も、手にしているものも違う。
それでも、この瞬間だけは、同じ白線の上に立っていた。

「位置について」

声と同時に、僕らは駆け出した。

走るごとに景色が変わっていく。校庭が中学の廊下になり、高校の教室になり、やがて見知らぬオフィスビルの通路になった。
走りながら、僕らは大人になっていくのだ。

最初のうちは、ただ楽しかった。誰が速いかなんて、些細なことに思えた。

けれど、しばらく走ると、陸が僕より頭ひとつ前に出た。
父親の名刺を握りしめ、「コネ」と書かれた小さな扉を迷いなくくぐっていく。

猛烈な悔しさが、喉の奥から黒くこみ上げた。




僕は走り続けた。焦りが足を重くする。

あるとき、コースの脇で陸が石につまずいて派手に転んだ。膝から血を流し、顔をしかめている。

「大丈夫か」

口では心配そうに言いながら、胃の底から醜い喜びがせり上がるのを止められなかった。

――いい気味だ。ざまあみろ。

その瞬間、照明が一斉に消えた。

闇の中に、あの老人が立っていた。

「見えたかね、自分の顔が」

老人が掲げた小さな鏡には、僕が映っていた。
心配そうな表情の下に、歪んだ笑みを必死で隠している、浅ましい自分の顔が。

「これが、あの日のキミだ。忘れたふりをしているだけで、な」

僕は何も言い返せなかった。





レースは再び動き出した。

景色はさらに移り変わり、僕はいつの間にか名刺入れとネクタイを持つ年齢になっていた。
周りを走る人々の顔にも、深い皺が刻まれている。

あの日横一列に並んでいた子どもたちは、もういない。

僕はまだ走っていた。「まだ」「もっと先へ」と自分に言い聞かせながら。

けれど、走っても走っても、あの日思い描いていた理想の自分には近づけない。

息が切れ、足が縺れた。立ち止まると、目の前に深い溝が横たわっていた。
その向こうに、まだ形にならない光のような景色が揺れている。

――今さら失敗したくないというプライドか。
――現状維持への執着か。

一歩踏み出せば何かが変わる気がするのに、その一歩がどうしても怖い。

「怖いのかね」

いつの間にか、老人が隣にいた。

「怖いというより……この歳になって傷つくのが、怖いんです。何が待っているのか、わからないから」

「それは、みんな同じだよ。生まれも育ちも、カネも名誉もコネも違うが――この一歩の前で立ち尽くすのは、誰も変わらない」

老人は僕の背を、優しく、しかし拒めない力で押した。




溝の向こうに足を踏み入れた瞬間、景色は真っ白になった。

気づくと、僕は表彰式の会場にいた。壇上に立っているのは――陸だった。

彼は自分の会社を立ち上げ、倒産寸前の町工場を救ったという。

マイクを握る白髪混じりの頭髪、ゴツゴツとした手。
話し始める前に一瞬だけ見せた照れた笑顔は、あの日の陸のままだった。

かつての驕りは消え、静かで温かい声。
コネという近道を通った彼も、その先で泥水をすすり、自分の足で必死に走り続けてきたのだ。

会場を埋める拍手の中に、僕も立っていた。

不思議なことに、胸に湧いたのは嫉妬でも恨みでもなかった。

――よかったな、陸。

そう思えた瞬間、僕の両手は自然に動き、誰よりも大きな拍手を送っていた。
目の奥がじんわりと熱くなる。

あの日、シメシメと思った自分。コネを恨めしく思った自分。
そのどちらもが、静かに溶けて消えていくのを感じた。




「気づいたようだね」

老人の声で、僕は再びホームに立っていることに気づいた。
時刻表には、相変わらず数字がひとつもない。

「キミは、いったい……」

「さあ、何だろうね。キミが忘れたくて、でも忘れられなかった誰かかもしれない」

老人は微笑み、改札の奥を指さした。

「レースにゴールはない。あるのは、歩き方を選び直す瞬間だけだ。
誰かの一歩先を妬むことも、誰かのつまずきを喜ぶことも、キミ次第でやめられる」

言い終えると、老人の姿は霧のように薄れていった。

次に目を開けたとき、僕はいつもの駅のベンチに座っていた。
始発を待つ人々がぽつりぽつりと集まり始めている。

空はまだ薄暗いが、東の端がわずかに白んでいた。

スマートフォンを見ると、時刻はいつも通りに動いている。
あれは夢だったのだろうか。それとも――。

気づくと、ポケットの中の手がじんわりと温かい。
まるで、たった今まで誰かと固く握手をしていたかのように。




数日後、後輩の一人が大きな契約を取ってきたと、社内が沸いた。

以前の僕なら、素直に喜べなかったかもしれない。
心のどこかで、自分と比べてしまっていただろうから。

けれど、今の僕は違った。

「おめでとう。よくやったな」

自然と口から出た言葉に、自分自身が驚いた。

生まれも育ちも、手にしているものも、人それぞれ違う。
横一列で並んだあの日から、僕らはずっと違う速さで、違うコースを走り続けている。

理想の自分には、今もほど遠い。
それでも――今なら、キミの成功に、心から拍手ができる。

改札へ向かって、僕は一歩を踏み出した。
ふと、向こうで白い光が揺れた気がした。

(了)



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あとがき

本作のテーマである「プログレス(Progress)」という言葉には、単なる「前進」だけでなく、「進歩」や「なりゆき」という意味が含まれています。
人生には明確なゴールなどなく、私たちはただ、それぞれが選んだ速度とコースを走り続けることしかできません。時に嫉妬に足を縺(もつ)れさせ、時にプライドから一歩が踏み出せなくなるのも、また人間らしさなのだと思います。

主人公が最後に手に入れたのは、劇的な成功ではありません。ただ、「他人の成功に心から拍手を送れるようになった」という、ほんの少しの心の進歩でした。それこそが、何よりも美しい「プログレス」なのではないか。そんな願いを込めて、この筆を執りました。

読み終えたあなたの明日が、ほんの少しだけ温かい光に照らされることを願っております。