雲の上、また会おう
〜 一之瀬航介、五十一分の物語 〜
まえがき
窓際の席に座り、飛行機が雲を突き抜ける瞬間、私はいつも小さく息を止めてしまいます。
地上がどれほど厚い雨雲に覆われていても、どれほど激しい雨が降っていても、雲の上には必ず、言葉を失うほどの青空と眩しい太陽が待っています。
それは当たり前の科学的な事実ですが、同時に、どこか救いのような、祈りのような力を秘めている気がしてなりません。
本作『雲の上、また会おう』は、人生のひとつの節目である「還暦」を目前にした一人の男が、羽田から伊丹という、ごくありふれた国内線のわずかな時間の中で体験する、小さくて大きな奇跡の物語です。
歳を重ねるにつれ、私たちは多くのものを手放し、多くの「別れ」を経験します。もう二度と行けないかもしれない場所、もう二度と会えないかもしれない大切な人。
けれど、本当にそうでしょうか。
もしも、雲の上が「記憶と大切な人をつなぐ場所」だとしたら――。
フライト中にお茶を一杯飲み干すような、そんな気軽な気持ちで、航介と共に五十一分の空の旅へと飛び立っていただければ幸いです。
一
窓際の席を予約するとき、航介はいつも同じことを思う。新幹線ならもっと安く、もっと早く着く区間さえある。それでも彼は空を選ぶ。理由を聞かれるたびに「窓から見える景色が好きだから」と答えてきたが、六十歳を目前にした今、その答えは半分しか正しくないと自分でも気づいている。
残り半分の理由は、雲の上にはいつも晴れの空が広がっている、という子どもじみた確信だった。地上がどれほど曇っていても、どれほど雨が降っていても、飛行機が雲を突き抜けた瞬間、必ずそこには青がある。何十回、何百回とその瞬間を見てきたのに、航介はまだ、それを見るたびに小さく息を止めてしまう。
羽田から伊丹まで、空の旅は一時間余りだ。滑走路を離れてから着陸態勢に入るまでを差し引けば、雲の上にいられるのは正味四十分の奇跡。客室乗務員がお茶を配り終え、それを飲み干す頃には、もう降下が始まっている。慌ただしい旅程だ。けれど、その慌ただしさの中にこそ、航介がどうしても手放せない何かがあった。
窓の外を、雲の下から、雲の中を通り、雲の上へと移りゆく景色として眺めるとき、彼の中で何かが静かに巻き戻される。眼下に見覚えのある街並みが差し掛かれば、思わず身を乗り出して目を凝らす。ああ、あいつの家は確かあの川の向こう側だったな、などと、もう何年も連絡を取っていない友人の記憶が、風景と一緒に浮かび上がってくるのだった。
その日も航介は、大阪出張のために羽田空港の搭乗口に立っていた。六月にしては珍しく晴れ渡った朝で、滑走路の向こうに広がる空には雲ひとつない。だが彼は知っていた。この時季、伊丹に近づく頃には決まって雲海が待ち構えていることを。
搭乗を待つ間、航介はふと自分の年齢を意識した。今年の誕生日で、彼は還暦を迎える。六十年生きてきて、しかしこの国のことを、まだ何も知らずに来た気がしてならなかった。仕事の合間を縫って出かけた先はいつも海の向こうで、パスポートのスタンプは増えても、国内の地図は驚くほど白いままだった。
けれど、ここ数年で世界は変わった。長時間のフライトは、以前ほど気軽なものではなくなった。歳を重ねた体は、時差より先に、狭い座席に何時間も縛られること自体を億劫がるようになっていた。
だったら、と航介は思う。これからは、この国を巡ろう。会いに行けるうちに、会いに行こう。
そんなことを考えながら搭乗した便で、航介はまだ知らなかった。その日の飛行が、彼のこれからの六十年を、静かに書き換えることになるとは。
二
案内された座席は、いつも通りの窓際だった。三十六番、翼のやや前方。離陸してすぐ、機体は東京湾の上空で大きく旋回し、それから西へと機首を向けた。
客室乗務員がお茶のカートを押してやってきたのは、水平飛行に入ってまもなくのことだった。制服の名札には「雲田」とあった。雲の田んぼ、か。空を飛ぶ仕事には出来すぎた名前だな、と航介は心の中で小さく苦笑した。
「緑茶でよろしいでしょうか」
穏やかな声だった。妙に懐かしい響きがある、と感じたが、それがなぜなのかは分からなかった。カップを受け取り、一口すすったところで、機は雲海に突入した。
窓の外が白く塗りつぶされる。何度体験しても、この瞬間だけは慣れることがない。まるで世界そのものが真っ白な紙に還ってしまったかのような、心もとない数秒間。だがそれも束の間、機体はふわりと浮き上がるようにして雲の層を抜け、次の瞬間には、抜けるような青の中に躍り出た。
眼下には、綿菓子を敷き詰めたような雲の絨毯が、地平線の果てまで続いている。その上を渡る太陽の光は、地上で見るどの晴天よりも眩しく、そして静かだった。
「――大丈夫」
航介は、口の中でそっとつぶやいた。それは、もう何十年も続けてきた小さな呪文のようなものだった。地上がどれほど曇っていても、この雲の上はいつも晴れている。だから大丈夫。すぐにまた、青空に戻れる。
そのとき、機体が小さく揺れた。シートベルトサインが点いたわけでもないのに、揺れは思いのほか長く続いた。カップの中の緑茶が、縁ぎりぎりまで波打つ。航介は慌ててそれを支えたが、揺れが収まった頃には、お茶は半分ほどこぼれ、トレーの上に小さな水たまりを作っていた。
「――失礼いたしました」
いつの間にか、雲田という乗務員が隣に立っていた。カートの音は聞こえなかったはずなのに。彼女は手際よくおしぼりで水たまりを拭き取りながら、航介の顔を覗き込んで、少しだけ微笑んだ。
「よろしければ、少しお時間を差し上げましょうか」
意味の分からない申し出だった。時間を差し上げる、とはどういうことか。聞き返そうとした瞬間、航介は自分の体が、妙に軽くなっていくのを感じた。
三
気がつくと、機内の様子が変わっていた。
いや、正確には、機内そのものは何も変わっていない。座席の配置も、天井の読書灯も、窓の外に広がる雲海も、すべて元のままだ。変わったのは、隣の座席だった。
さっきまで空いていたはずのそこに、見覚えのある横顔があった。
「――哲」
思わず声が出た。その男は、航介より少し若い顔つきのまま、こちらを見て、昔と変わらない笑い方をした。
「久しぶりだな、航介」
哲は、大学時代からの友人だった。二人で富士山に登ったことがある。あの夏、山頂で朝日を待ちながら交わした他愛のない話を、航介は今でもよく覚えている。哲は三十代の半ばで病を得て、この世を去った。もう二十年以上前のことだ。
「お前、まさか、ここは……」
「さあな」哲は肩をすくめた。「俺にも、はっきりとは分からん。ただ、時々こうして、誰かの隣に座らせてもらえるんだ。相手が、本当にこっちのことを思い出してくれたときだけ」
窓の外を見ると、雲海はさっきよりもさらに輝きを増していた。まるで光そのものが、層になって降り積もっているようだった。
「さっき、思い出しただろう。俺の家がどのあたりだったか、上から探そうとして」
図星だった。羽田を発ってすぐ、地上を流れる街並みを眺めながら、航介はふと、哲が昔住んでいた街の上空を通過したことに気づいていた。あの辺りだったな、と、ほんの数秒、思いを馳せただけだった。
「それだけで、十分なんだよ」哲は言った。「雲の上ってのは、そういう場所らしい。誰かが、誰かのことを、本気で懐かしいと思った瞬間に、扉が開く。長くは開いていないけどな」
航介は言葉を失った。哲との再会が嬉しいという気持ちより先に、腑に落ちない疑問が浮かんでくる。
「なら、どうして今なんだ。俺はこれまでだって、何度も、お前のことを思い出してきた」
「思い出す、ってだけじゃ足りないんだと思う」哲は少し考えるように、窓の外に目をやった。「たぶん、お前は今、何かを手放そうとしてるんだろう。だから、扉が開いた」
手放そうとしている。その言葉に、航介は思い当たる節があった。長時間のフライトが億劫になったこと。もう海の向こうの友人たちに、自分から会いに行くことは難しいかもしれないという諦め。この国の中だけを、これからは巡っていこうと決めたこと。
それは、何かを諦める話のはずだった。だが哲の言い方だと、まるで、それこそが何かを受け取るための条件のようだった。
四
「なあ、航介」哲が言った。「お前、まだ富士山、覚えてるか」
「忘れるわけがない」
「あの時さ、俺たち、山頂で何を話したか覚えてるか」
航介は記憶をたぐり寄せた。夜通し歩いて、御来光を待つ間、凍えるような寒さの中で、二人はくだらない話ばかりしていた。将来の夢、好きな女の子の話、就職なんかしたくないという愚痴。今思えば、何一つ立派なことは話していない。
「くだらない話ばかりだったよ」
「だろうな」哲は笑った。「でも俺は、あの夜のことを、ずっと覚えてる。こっちに来てから、時間の感覚なんてほとんどないはずなのに、あの朝陽の色だけは、はっきり覚えてるんだ」
窓の外では、雲海の切れ間から、遠く富士山の頂が覗いていた。この季節にしては珍しく、山頂近くにまだわずかな雪が残っているのが見える。
「俺たちが立った場所、あそこだ」航介はそれを指差した。
「見えるのか」
「見える」
二人はしばらく、黙って窓の外を見つめていた。カップに残っていた緑茶は、いつの間にか湯気を立てていた。こぼれたはずなのに、いつの間にか満たされている。ここでは、そういう理屈は通用しないのかもしれない、と航介は思った。
「なあ哲。俺、来月で六十になる」
「知ってるよ」
「この国のこと、何も知らないまま歳を取っちまった気がしてな。だから、これからは、日本中を巡ろうと思ってる。まだ会える友達に、会いに行こうと思う」
「いいと思うよ、それ」
「でも、そのぶん」航介は言葉を選びながら続けた。「向こうにいる友達には、もう会いに行けないかもしれない。それが、ずっと引っかかってる」
哲は少しの間、何も言わなかった。それから、静かにこう言った。
「向こうに行けないなら、向こうから来てもらえばいい。それか」哲は窓の外の雲海を指差した。「ここで、会えばいい」
「ここで」
「お前が本気で誰かを懐かしいと思えば、扉は開く。さっき、俺に起きたみたいにな。距離なんて、ここでは関係ない。羽田から大阪だろうと、成田からサンフランシスコだろうと、同じことだ」
にわかには信じがたい話だった。だが、目の前に哲がいるという事実そのものが、すでに信じがたいことだった。ならば、この話もまた、信じてみてもいいのかもしれない。
「本当に、また会えるのか。お前とも、他の誰とも」
「保証はできない」哲は正直に言った。「俺にも、仕組みの全部が分かってるわけじゃないからな。ただ、一つだけ確かなことがある」
「なんだ」
「近くにいる人間を大事にしない奴には、この扉は開かない。お前がこれから日本中を回って、会える友達にちゃんと会いに行くなら、たぶん、その先で、もっと遠くにいる誰かにも、ちゃんと会えるようになる。近さと遠さは、たぶん、ここでは別のものさしで測られてるんだ」
五
機内アナウンスが響いた。「間もなく伊丹空港に着陸いたします」という、ごくありふれた声だった。航介ははっと我に返った。
伊丹の到着案内が流れる。離陸から、ちょうど五十一分が経っていた。
隣の座席には、誰もいなかった。トレーの上のカップには、飲みかけの緑茶が半分残っていて、それはすっかり冷めていた。
窓の外は、いつもの雲の上の光景だった。哲の姿はどこにもない。だが、富士山だけは、さっきと同じ角度で、まだ小さく見えていた。
通路を、乗務員がカートを押しながら通り過ぎていく。航介はその顔を確かめようとしたが、名札には別の名前が書かれていた。雲田という乗務員は、どこにもいなかった。ただ、トレーの端に、小さな水滴が一つだけ残っていた。こぼしたはずのお茶か、それとも雲の粒か。
夢だったのだろうか。あるいは、ただの居眠りだったのかもしれない。年甲斐もなく、そんな都合のいい話を信じかけている自分に、航介は少し苦笑した。
けれど、機体が雲を抜けて降下を始め、大阪の街並みが徐々に姿を現していく間、航介の胸の内には、たしかな温かさが残っていた。夢だったとしても構わない、と彼は思った。今、自分がこれから何をすべきかは、はっきりと分かっていたからだ。
伊丹空港に着陸したその足で、航介はスマートフォンを取り出し、しばらく連絡を取っていなかった友人たちのリストを開いた。関西の友人、九州の友人、東北の友人。一人ひとりの名前を見ながら、彼はメッセージを打ち始めた。「久しぶり。近いうちに、会いに行ってもいいか」
それから数か月、航介は本当に日本中を巡り始めた。北海道の友人を訪ね、沖縄の友人を訪ね、その合間に、若い頃に世話になった恩師のもとにも足を運んだ。飛行機に乗るたび、窓際の席を予約し、雲の上の景色を眺めた。もちろん、あの日のようなことは、二度と起こらなかった。哲に再会することもなかったし、雲田という乗務員に会うこともなかった。
それでも航介は、雲の上を飛ぶたびに、遠くにいる友人たちのことを、これまで以上に強く思うようになった。かつてはただの習慣だった「窓の外を眺めながら記憶をたどる」という行為は、いつからか、彼にとって一種の祈りのようなものになっていた。
そしてある晩、太平洋の向こう側、サンフランシスコに住む古い友人から、思いがけないメールが届いた。
「変なことを聞くようだけど、先週、妙な夢を見た。お前と、なぜか知らない女の乗務員が出てくる夢だ。目が覚めてから、無性にお前に連絡したくなってな。元気にしてるか」
航介はそのメールを、何度も読み返した。それから、静かにこう返信した。
「元気だよ。近いうちに、そっちに。いや。今度、その話は、会って直接しよう。きっと、思ったより早く、会えると思う」
窓の外に、彼はまだ見ぬ雲の上の景色を思い浮かべた。地上がどれほど曇っていても、その上はいつも晴れている。そのことを、航介はもう、疑ってはいなかった。
(了)
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ー原詩ー
あとがき
この物語は、羽田から伊丹までという、飛行機好きにとっては少し慌ただしい、けれどどこか愛おしい路線を舞台に生まれました。
作中で、亡き友人・哲は「近さと遠さは、別のものさしで測られている」と言いました。
私たちは今、世界中のどこにでも一瞬でメッセージを届けられる便利な時代に生きています。その一方で、本当に大切な人との心の距離や、かつて共に過ごした時間の愛おしさは、どれだけテクノロジーが進化してもデジタルな数字では測れないものだとも感じます。
身近にいる人を、会える友人をちゃんと大事にすること。その地道な歩みの延長線上にこそ、かつて別れた大切な人や、遠く離れた誰かと、心の深いところで再びつながる「扉」があるのではないか。そんな願いを込めて、この筆を執りました。
読者の皆様が、次に飛行機に乗って窓の外の雲海を眺めるとき。あるいは、ふと遠くの街空を見上げたとき。この物語が、心の中にある「大切な誰かの記憶」を優しく温める小さなきっかけになれば、とても嬉しく思います。
またいつか、どこかの雲の上でお会いしましょう。


