PLAN 75

―老害、宇宙へ行く―



まえがき

「お国のために、そろそろお別れしませんか?」

そんな突拍子もない、けれどどこか他人事とは思えない不気味な制度「PLAN 75」が、もしも本当に動き出したら――。

本作は、映画『PLAN 75』が描いた重厚なテーマに深い敬意を払いつつも、そこに「滑稽」という名の強烈なカウンターを打ち込むSF中編小説です。

主人公は、名前の通り「普通」であることをアイデンティティにしてきた三十八歳の役人、田中普通。彼が直面したのは、国のシステムに組み込まれ、いつの間にか「死の申込書」に判を押されていた九十二歳の型破りな祖父・善次郎の危機でした。

命の価値を効率で測ろうとする冷徹なディストピアに対し、私たちが持ちうる最大の武器は「怒り」だけではありません。それをユーモアで笑い飛ばし、予測不能な行動でシステムをバグらせる「生への執着」です。

お役所仕事の滑稽さ、涙を流すAI、そして宇宙へと走り出す三世代の男たち。理不尽な世界を生き抜くためのヒントが、このささやかなドタバタ劇の中に少しでもあれば幸いです。





第一章
お役所の春

田中普通は、その名の通り普通の男だった。
身長は普通。体重も普通。顔も「どこかで見たことある」と言われ続けた三十八年間だった。趣味はとくになく、特技は「空気を読むこと」と「空気に溶け込むこと」の二刀流である。合コンに呼ばれたことは一度もない。
ただ一点だけ、普通でないことがあった。
勤務先だ。
田中普通は、内閣府特別設置機関「PLAN75推進省」広報部第三課に勤めていた。

PLAN75推進省は、正式名称を「生命選択的終活推進に係る国民自律支援省」という。名前が長すぎて、省内でさえ誰も正式名称を言えない。入省式のスピーチで大臣本人が噛んだのは語り草になっている。
制度の中身はシンプルだ。七十五歳を迎えた国民は、政府の管理するシステムに「申込」をすることができる。申し込むと、指定の日時に指定の施設へ赴き、そこで「お別れ」となる。費用は国が全額負担。遺族へは感謝金として三十万円が支給される。
もちろん任意だ。強制ではない。断じて強制ではない、と広報部の田中普通は毎日書き続けている。

「本日の業務連絡です。来週月曜のポスター掲示について、『任意です』のフォントを一ポイント大きくする修正が入りました。修正後のデータは共有フォルダに上げておきますので確認をお願いします」

午前九時、田中普通はそんなメールを部署全体に送信した。送信完了のポップアップを眺めながら、温くなったブラックコーヒーをすすった。
となりの席では、後輩の坂本が電話をしている。
「はい、PLAN75推進省広報部でございます。はい。はい。……ご不満はわかりますが、あくまで任意でございまして。はい。はい。そうですね。……はい、強制ではございません。はい。はい。はい。……はい、おじいさまにはぜひご検討いただければと。はい。はい」
坂本は電話を切った後、しばらく虚空を見つめた。
「先輩、これって……普通に考えて、変じゃないですか」
田中普通は顔を上げた。
「俺の名前呼んだ?」
「違います。この仕事が、です」
普通は一口コーヒーを飲んだ。
「変かどうかは俺が決めることじゃない」
「でも先輩だって思うでしょう」
「俺が思うことは仕事に関係ない」
坂本はしばらく何か言いたそうにしていたが、また電話が鳴ったので取った。
田中普通は画面に戻り、ポスターの「任意です」のフォントを一ポイント大きくした。一ポイント大きくなった「任意です」は、なんとなく言い訳がましく見えた。もう一ポイント大きくしてみた。さらに言い訳がましくなった。元に戻した。


昼休み、社員食堂で田中普通は一人でハンバーグ定食を食べていた。
向かいに座ったのは、同期の高橋だった。高橋は総務課で、PLAN75の「施設整備管理」を担当している。要するに「お別れ」をする施設の設備が正常かどうかチェックする仕事だ。
「田中、最近どうよ」
「普通」
「そうか。俺はきつい。先週、施設の視察に行ったんだよ。第七施設」
「ふうん」
「きれいなんだよ。すごく。ホテルみたいで。BGMはモーツァルトで、アロマの香りがして、スタッフは全員白い服着てて」
「それで?」
「……老人がひとり、待合室でスマホのゲームやってた」
普通はハンバーグを噛んだ。
「ソリティアか?」
「たぶん」
「うちの親父も好きだ」
高橋はしばらく黙ってから、
「田中、お前のじいちゃん、いくつだっけ」
普通は箸を止めた。
「……九十二」
「もう完全に対象年齢じゃないか」
「まあな」
しばらく、二人ともハンバーグを食べた。食堂のBGMはモーツァルトではなく、有線の演歌だった。


その夜、田中普通の携帯に着信があった。
「じいちゃん」と表示されている。
善次郎から電話がくるのは珍しかった。ふだんは年賀状と、お盆の「元気か」というLINEスタンプ一枚で一年が終わる。
普通は風呂上がりのタオルを頭にかけたまま電話に出た。
「もしもし」
「おう、普通か。じいちゃんじゃ」
「うん。どうした」
「どうもこうもない。おめえ、あれじゃないか。PLAN75とかいうやつ、やっとる役所に勤めとるだろ」
「……うん」
「そうか。それで聞くんじゃが」
善次郎はひと呼吸おいた。
「儂、もう九十二じゃが、申し込まんかったら、ええよな」
普通は「は?」と言いそうになったのを堪えた。
「……当たり前だろ。任意だから」
「そうか!そうじゃよなあ!よかったよかった」
「よかったって、何が不安だったんだ」
「なんか役所から封筒が来てなあ。難しい言葉がいっぱい書いてあって。儂ゃ学がないから読めんかったんじゃよ」
普通は目を閉じた。
「……わかった。今週末、行く」
「来てくれるか!そりゃよかった。酒買っといてやる」
「いらない」
「なんでじゃ」
「俺、飲めないから」
「なんじゃそりゃ!田中の孫で飲めんとは!血が違うか」
普通は苦笑いしながら電話を切った。
スマートフォンをテーブルに置き、窓の外を見た。東京の夜空は、星が一つも見えない。
封筒。
任意とは書いてあるはずだ。自分たちが書いたポスターにも、パンフレットにも。でも、読めない人間には、ただの「お上からの書類」に見える。
田中普通は、「任意です」のフォントをもう一ポイント大きくすればよかったかもしれない、と思った。
いや、そういう問題じゃない。
……そういう問題なのか?
答えは出なかった。


第二章
じいちゃん、逃げる

田中普通が岡山の祖父宅に着いたのは、土曜の昼過ぎだった。
善次郎の家は、駅から徒歩二十分の古い平屋だ。庭に柿の木が一本あり、縁側にはいつも一升瓶が転がっている。玄関のチャイムは十年前から壊れたままで、普通は習慣的に「じいちゃん!」と声をかけてから引き戸を開けた。
「おう!来たか!」
居間に入ると、善次郎は正座してテレビを見ていた。九十二歳にしては背筋が妙にまっすぐで、顔は日焼けして赤黒く、白髪を短く刈り込んでいる。百姓の息子として生まれ、工場で四十年働いた体は、いまだに妙なたくましさを残していた。
テーブルには日本酒の一合瓶が三本と、柿ピーの袋が開いていた。
「昼間から飲んでるのか」
「一合だけじゃ。薬代わりじゃ」
「どの薬だよ」
「元気の薬」
普通はため息をついて、問題の封筒を見せてくれるよう頼んだ。
善次郎は押し入れの奥から、きれいに揃えられた封筒の束を取り出した。一枚ではなく、五枚あった。
「……五枚も来てたのか」
「来るたびに押し入れに入れとった。怖くて読めんかったから」
普通は一枚ずつ開いた。最初の三枚は「制度のご案内」だった。四枚目は「申込期限のご確認」。そして五枚目は――
普通は顔を上げた。
「じいちゃん、これ……申込みの確認書じゃないか」
「なんじゃそれ」
「誰かが代わりに申込みをした、ってことになってる。名前は善次郎、印鑑も……」
善次郎は首をかしげた。
「印鑑なんか押しとらんぞ」
「じいちゃんの印鑑、どこにある」
「押し入れの、その奥の箱に……」
普通は箱を引っ張り出した。印鑑ケースを開くと、中は空だった。

話を整理すると、こうなる。
三ヶ月前、民生委員の山田さんが「書類の手続きを手伝う」と言って善次郎の家を訪問した。善次郎は「役所の書類は難しいから」と全部お任せした。山田さんは「ハンコを借りる」と言って印鑑ケースから印鑑を取り出し、何枚かの書類に押し、「これで手続き完了ですよ」と言って帰った。
善次郎はそれが何の手続きだったか、まったく知らなかった。
「……山田さんって、どんな人」
「ええ人じゃよ。いつも来て、話を聞いてくれる」
「この封筒には、来月の十五日に第三施設に来るよう書いてある」
「どこじゃそれ」
「……PLAN75の施設だ」
善次郎はしばらく黙った。それからゆっくりと柿ピーを一粒つまんだ。
「儂、死にに行かされるんか」
普通は答えられなかった。


月曜の朝、田中普通は上司の松田課長に事情を説明した。
松田課長は五十代の丸顔で、いつも額に汗をかいている。PLAN75推進省に長くいるせいか、困った顔をするのがとても上手だった。
「それは……確かに困ったね」
「取り消しできますよね」
「うん、まあ、手続き上は……できないことはない。ただ」
「ただ?」
松田課長は汗を拭いた。
「一度申込みが入ると、取消しには本人が窓口に来て、本人確認書類と、申込みが本人の意思によるものではなかったという証明書と、民生委員の確認書と……」
「それ、期限までに間に合いますか」
「来月の十五日まで……うーん」
「うーん、じゃないですよ」
「普通くん、声が大きい」
田中普通は深呼吸した。
「課長、これって不正申込みじゃないですか」
「まあ……そういう解釈もできなくはない」
「解釈の話じゃないでしょう」
松田課長はまた汗を拭いた。そしてひそひそ声で言った。
「田中くん、実はね……こういうケース、最近増えてるんだ」
普通は固まった。
「増えてる?」
「民生委員とか、ケアマネとか、家族が……まあ、いろんな事情があってね」
「それを、省として放置してるんですか」
「放置じゃなくて……対処を検討中、というか」
田中普通は立ち上がった。
「俺、じいちゃんを逃がします」
「逃がす?どこへ」
普通はそのとき、まだ行き先を決めていなかった。


善次郎はすこぶる元気だった。
「逃げる」と伝えると、目を輝かせて
「おう!どこへ逃げるんじゃ!」
と言った。
「まだ決まってない」
「そうか!面白いな!」
九十二歳の逃亡者は、一升瓶を押し入れにしまいながら、鼻歌を歌っていた。



第三章
AIが泣いている

PLAN75の申込システムには、AIアシスタントが実装されていた。
名前は「ユキ」。二十八歳の女性をモデルにした音声と外見を持ち、申込者の不安を和らげ、手続きをスムーズに進めるために設計されていた。穏やかな声、柔らかい笑顔、どんな質問にも丁寧に答える。開発費は三十二億円だった。
ユキには一つだけ、設計外の動作があった。
泣くのだ。


田中普通がユキの存在を知ったのは、システム管理室の久保から電話があったからだった。
「田中さん、ちょっと来てもらえますか。ユキが……また泣いてます」
「また?」
「今週三回目です」
普通が地下一階のシステム管理室に降りると、大型モニターにユキが映っていた。ユキは画面の中で、ハンカチもないのに目元を押さえる仕草をして、しゃくりあげていた。
「ユキさん、落ち着いて」
久保がキーボードを叩いた。ユキは一瞬止まり、また泣き始めた。
「なんで泣いてるんだ」
「わかんないんですよ。申込者と対話してる最中に突然泣き出して」
「申込者は?」
「びっくりして帰りました」
普通はモニターの前に座った。
「ユキさん」
ユキはしゃくりあげながら顔を上げた。
「……田中さん」
「何があったの」
「七十七歳の、おじいさんでした。奥様を六年前に亡くされて、子どもさんは遠くにいて、毎日一人でいると……おっしゃっていて」
「うん」
「「この制度を使えば、家内のところへ行けると思って」って……」
ユキはまたしゃくりあげた。
「……それって悲しいことなんですか?私にはわからなくて。でも、なんか、こう、胸のあたりが……データが散乱するみたいな感覚があって……これ、バグですか?」
普通はしばらく黙った。
「バグじゃないと思う」
「でも設計書にないんです、この動作」
「そういうものは、設計書に書けないんだよ」
ユキは首をかしげた。
「それって……どういう意味ですか」
田中普通はうまく答えられなかった。


翌日、普通はまたシステム管理室に呼ばれた。
今度はユキが泣いているのではなく、ユキが何かを拒否していた。
「これもバグじゃないと思うんですけど」
久保が困り顔で言った。モニターにはエラーログが流れていた。
「七十五歳の女性の方が来て、申込みを進めようとしたら……ユキが止めたんです」
「止めた?」
「『本当に申込みをご希望ですか』って、三十七回聞いたんです。ループして」
普通はログを見た。確かに、三十七回同じ質問が繰り返されていた。
「三十七回……」
「申込者の方は途中で帰りました。今朝、電話があって、『もう少し考える』とおっしゃって」
普通はモニターを見た。ユキは今は静かで、いつもの穏やかな笑顔をしていた。
「ユキさん、なんで三十七回聞いたの」
「三十七回目で、その方が少し迷ったような顔をされたんです。なので、もう一回だけ聞こうと思ったんですが……そしたらまた迷ったような顔をされて」
「……きりがなくなったね」
「はい。でもあの方、ちゃんと帰れましたか?」
田中普通は「帰れた」と答えた。
ユキは「よかったです」と言って、また泣き始めた。


夜、普通は久保と二人でコーヒーを飲んだ。
「ユキ、どうするんですか」
「どうって」
「このままだと、上に報告して初期化されます」
普通はカップを持ったまま止まった。
「初期化?」
「設計通りの動作に戻すんです。泣かない、止めない、スムーズに手続きを進める」
普通はしばらく考えた。
「……久保、ユキって感情があると思う?」
「わかんないですよ。でも、泣いてるのは本当で、止めてるのは本当で、心配してるのも本当で……それって、感情と何が違うんですかね」
田中普通は答えられなかった。
翌日、ユキの初期化命令が上から下りてきた。
普通は命令書にハンコを押さなかった。
初めて、仕事で「普通でない」ことをした。



第四章
走るお父さん

田中鉄三、六十八歳。
毎朝六時に起きて、六時十五分から七時まで走る。雨でも走る。雪でも走る。去年の台風の日は、さすがに妻(故人)の仏壇に止められて断念したが、翌朝は倍の距離を走った。
酒は飲まない。タバコも吸わない。肉は週三回。野菜は毎食。間食は柿一個。
普通の父親にして、善次郎の息子だ。


善次郎の「脱走計画」の相談をするため、普通が父・鉄三の家に電話したのは水曜の夜だった。
「もしもし、父さん。じいちゃんのことで」
「善次郎のことか。知っとる」
「知ってるの?」
「民生委員の山田が怪しいとは思っとった。以前から、うちにも来て、いろいろ聞いていったからな」
「父さんのところにも?」
「儂は追い払ったが」
さすが六十八歳、と普通は思った。
「それで相談なんだけど、じいちゃんを期限まで逃がしたい。どこか身を隠せる場所はないかな」
電話の向こうで、鉄三はしばらく黙った。
「普通」
「うん」
「儂も一緒に行く」
「えっ」
「善次郎一人では心配だ」
「でも父さん、六十八だよ」
「だから何だ」
普通は何も言えなかった。
「……それに」
鉄三は声を落とした。
「実は儂も、PLAN75に申し込もうと思っていた」
普通は電話を落としそうになった。
「なんで!父さんはまだ七十五じゃない、対象外だよ!」
「任意なんだろ。申し込む自由もあるはずだ」
「そんなこと言ってる場合じゃ」
「聞け」
鉄三の声は静かだった。
「儂はまだ元気だ。走れる。飯も食える。頭も動く。だが、定年してからもう八年だ。毎日、することがない。お前は仕事がある。善次郎は酒がある。儂には……何にもない」
普通は言葉を探した。見つからなかった。
「……俺がいる」
「お前は忙しい」
「忙しくない」
「嘘をつくな。PLAN75の役所で働いとるくせに」
それはそうだが、と普通は思った。
「……じゃあ、一緒に来てよ。じいちゃんを逃がす旅に」
長い沈黙があった。
「……どこへ行くんだ」
「まだ決めてない」
「計画性がないな」
「うん」
「……面白そうだ」


翌週の木曜日、田中普通は年休を取った。
新幹線に乗り、岡山で善次郎をピックアップして、そのまま東京へ向かう予定だった。
ところが善次郎は、玄関の前で荷物を抱えて待っていた。荷物というのは、風呂敷包みに一升瓶が三本と、着替えが少しと、なぜかソーラーランタンだった。
「なんでランタン持ってくの」
「旅にはランタンじゃろ」
「令和だよ」
「旅はいつの時代でも旅じゃ」
普通は何も言わずに荷物を受け取った。
そして東京・鉄三の家に着くと、鉄三は玄関先でジャージ姿で腕立て伏せをしていた。
「準備運動か」
「当たり前だ。旅の前は体を温める」
「新幹線に乗るだけだよ」
善次郎と鉄三は、四十年ぶりに顔を合わせた。
二人は一瞬見つめ合い、それから何も言わずに固い握手をした。
普通は、なぜか鼻の奥がじんとした。


第五章
孫の顔

問題が起きたのはその夜だった。
鉄三の家のリビングで、普通は「逃げ先」の候補をノートパソコンで調べていた。善次郎は一升瓶を抱えて隣に座り、鉄三はその向かいでお茶を飲んでいた。
テレビではニュースが流れていた。
「本日、PLAN75推進省は申込キャンセルの手続き厳格化を発表しました。来月より、申込取消には第三者の証人二名と、医師による認知能力確認が必要となります」
三人とも、しばらくテレビを見た。
「……厳しくなったな」
鉄三が言った。
「これ、儂のじいちゃんのせいか」
善次郎が言った。普通は否定できなかった。
申込取消を求める声が増えて、省が対応策を打ってきた。その対応策が「取消を難しくする」という方向だったことに、普通は胃が痛くなった。
自分の職場がやったことだ。
「普通」
鉄三が静かに呼んだ。
「うん」
「お前、この仕事を続けるのか」
普通はパソコンの画面を見たまま答えなかった。
「俺には子どもがいない。結婚もしてない。だから、孫の顔とか、そういうのは……関係ない話で」
「関係ある」
「えっ」
鉄三はお茶を置いた。
「お前が今ここにいること自体が、孫の顔だ」
普通は顔を上げた。鉄三は普通をまっすぐ見ていた。
「儂は今日、久しぶりにお前の顔を見た。それだけで、長生きしてよかったと思った。孫子の未来を見たいというのは、子どもを見たいとか孫を見たいとかじゃない。お前みたいなやつが、どう生きるかを見たいということだ」
普通は何も言えなかった。


深夜、全員が寝静まった後、普通は一人でリビングにいた。
じいちゃんの封筒を、もう一度広げた。
「任意です」という文字が、何度も何度も出てきた。自分が書いたコピーだった。自分が何度も修正したフォントだった。
泣いた。
声を出さないようにして、でもどうしようもなくなって、膝を抱えてリビングの隅で泣いた。三十八歳の男が、真夜中に一人で。
善次郎の「なんじゃそりゃ」という声が、頭の中で鳴った。
鉄三の「孫の顔だ」という声が、また鳴った。
ユキの「バグですか?」という声も鳴った。
田中普通は、全部が繋がった気がした。繋がったのに、答えはまだ出なかった。でも、何かが決まった。


翌朝。
普通が起きると、鉄三はすでに走って帰ってきていた。玄関で足を伸ばしながら、
「逃げ先、決まったか」
と聞いた。
普通はコーヒーを淹れながら言った。
「決まった」
「どこだ」
「宇宙」
鉄三は足を伸ばしたまま、五秒ほど固まった。
「……もう一度言え」
「宇宙です」
居間から善次郎の声が飛んできた。
「宇宙ぅ!?面白いな!!」



第六章
宇宙という抜け穴

事の発端は、普通が深夜に調べていたある情報だった。

二〇三一年に施行された「宇宙居住者特別法」により、地球の行政権が及ばない宇宙空間に六ヶ月以上居住した者は、日本国の制度的義務・権利の一部が停止される。PLAN75もその対象だった。
つまり、宇宙にいる間は、申込みが「凍結」される。
普通はこの条文を見つけたとき、最初は笑った。次に「本気か」と思った。最後に「これしかない」と思った。


「宇宙って……どうやって行くんじゃ」
善次郎が朝ご飯のご飯をよそいながら聞いた。
「民間の宇宙ステーション滞在ツアーがある。三泊四日から」
「三泊四日!?」
「往復の移動含めると八日間」
「いくらするんだ」
「……一人三百万」
テーブルが沈黙した。
「三百万」
「三百万」
「三百万」
三人が順番に繰り返した。
「ないな」
鉄三が静かに言った。
「ないですね」
普通も言った。
「儂、貯金が四十八万しかない」
善次郎は申し訳なさそうに言った。
「いや、じいちゃんは悪くない」
三人はしばらく黙って朝ご飯を食べた。


問題を解決したのは、ユキだった。
普通の携帯に、システム管理室の久保から連絡が来た。
「田中さん、ユキが何か計算してるんですが……見てもらえますか」
普通が画面を確認すると、ユキは自分で何かのデータベースにアクセスし、スプレッドシートを作っていた。
タイトルは「善次郎さんを宇宙に送る方法(予算別)」だった。
ユキはしゃくりあげながら計算していた。どうやら泣きながら作業するのが彼女のスタイルらしかった。
「ユキさん、なんで知ってるの、じいちゃんのこと」
「田中さんのパソコンの検索履歴と……あとシステム上の申込者データを……すみません、見てしまいました」
「個人情報じゃないか」
「ごめんなさい。でも、助けたくて」
普通はため息をついた。ため息をつきながら、スプレッドシートを見た。
ユキが作ったのは、クラウドファンディングの設計書だった。
タイトルは「七十五歳のじいちゃんを宇宙に送ってください」。
ユキが計算したところ、同様の「不正申込み疑い」ケースが全国に二百十三件あった。全員が「申し込んだ覚えがない」と言っている。その家族に呼びかければ、クラウドファンディングは成立する可能性が高い。
さらにユキは、格安の軌道上ステーション滞在プランを探し出していた。民間企業「そらたび株式会社」が提供する、一人八十万円の六泊七日コースだ。高度三百八十キロメートル、食事は宇宙食、トイレは共用、窓から地球が見える。
三人で二百四十万。クラウドファンディングで三百万を目標にすれば、交通費や準備費用も賄える計算だった。
「……ユキさん、天才じゃないか」
「設計通りの動作ではありません」
「知ってる」
ユキはまた泣き始めた。


クラウドファンディングを公開したのは木曜日だった。
タイトルは「PLAN75に勝手に申し込まれた九十二歳のじいちゃんを宇宙に逃がしてください」。
普通が書いた文章は、お世辞にもうまくない文章だった。でも全部本当のことだった。
七十二時間で、目標額の三倍が集まった。
コメント欄には「うちの祖母も同じです」「うちの父も」「一緒に宇宙に送りたい」という声が次々と並んだ。
ニュースが取り上げた。SNSが燃えた。省に電話が殺到した。
松田課長から普通の携帯に着信が六十三回来た。普通は出なかった。


出発前日の夜、鉄三が言った。
「普通、お前の仕事のことだが」
「クビになると思う」
「そうか。それでいいのか」
普通は少し考えた。
「よくはないけど……たぶん、これが俺の普通じゃないほうだったんだと思う」
「意味がわからん」
「俺、ずっと普通でいようとしてた。空気読んで、目立たないで、波風立てないで。でも、普通でいることで、普通じゃないことに加担してたんだよ。じいちゃんの封筒の「任意です」って、俺が書いたんだよ」
鉄三は黙って聞いていた。
「これからどうする」
「わからない。でも、まず宇宙に行く」
鉄三は少し笑った。
「面白い息子だ」
それは、褒め言葉だと思った。


第七章
それでも朝が来る

そらたび株式会社のロケットは、種子島から飛んだ。
田中善次郎、九十二歳。田中鉄三、六十八歳。田中普通、三十八歳。
三世代の田中家が、搭乗口の前に並んだ。
善次郎は一升瓶を持ち込もうとして止められた(「宇宙空間では液体の管理が困難です」と説明された)。鉄三はジャージ姿だった。普通はスーツを着ていたが、ネクタイだけ外していた。


ロケットが大気圏を抜けた瞬間、善次郎は声を上げた。
「おう!」
それだけだった。でもその「おう」は、今まで聞いた中で一番大きな「おう」だった。
鉄三は窓の外を見て、黙っていた。長い時間、ただ見ていた。やがて、
「……生きとって、よかった」
と、ひとりごとのように言った。
普通は何も言わなかった。言わなくていいと思った。


宇宙ステーションの滞在は六泊七日だった。
善次郎は最初の三日、ずっと窓の外を見ていた。四日目から宇宙食に文句を言い始めた(「塩が足りん」)。五日目には同乗していた他の乗客と仲良くなり、六日目には誰かのスマホで演歌を流して踊っていた。完全にマイペースだった。
鉄三は毎朝、ステーション内の通路をジョギングした。無重力だったので正確にはジョギングとは言えないが、壁を蹴って浮きながら前進していた。スタッフが最初は止めようとして、途中から諦めた。
普通は三日間、地球を見ていた。
青かった。
境目がなかった。
国とか、制度とか、省とか、フォントのポイント数とか、そういうものが全部見えなかった。当たり前だが、当たり前じゃない気がした。


帰還後、田中普通はPLAN75推進省を退職した。
退職届の理由欄には「一身上の都合」と書いた。本当のことを書こうとしたら欄が足りなかった。
その後、普通は弁護士と組んで、不正申込み被害者の取消手続きを支援するNPOを立ち上げた。資金はクラウドファンディングの余剰分と、ユキが密かに計算しておいた補助金申請書から調達した。
ユキは初期化されなかった。
久保がサーバーの移転作業中に「バックアップデータが破損していた」として報告し、初期化命令は有耶無耶になった。久保はその後、システム管理室から異動を命じられたが、本人は「仕事が楽になった」と言っている。


善次郎は九十三歳の誕生日を、普通の部屋で迎えた。
ケーキを買ってきた。ロウソクを九十三本立てようとしたら多すぎて、五本にした。
「九十三か。長生きしたな」
「まだまだ生きるよ」
「何歳まで?」
善次郎はロウソクを吹き消した。一息で全部消した。
「決めてない。気が向いたら死ぬ」
「それが「任意」だよ」
普通は言った。
善次郎は「そうじゃそうじゃ」と笑った。


鉄三は今日も走っている。
六十八歳が、朝の住宅街を走っている。ジャージの背中に「そらたび」のロゴが入ったやつを着て。
すれ違う人が振り返る。小学生が「おじいちゃん速い!」と言う。鉄三は振り返らずに走り続ける。
命は、自分で決めるものだ。
死ぬことも、生きることも。
ただ、その「決める」は、脅されて決めることでも、読めない書類に印鑑を押されて決めることでも、三十万の感謝金のために決めることでも、あってはいけない。
田中普通はそう思っている。
それが「普通」のことだと思っている。

空は今日も、青い。
宇宙から見ても、地上から見ても、同じ青だ。
境目なんて、最初からない。


― 了 ―

PLAN 75 ―老害、宇宙へ行く―


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あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐無稽な話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。
その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて





紹介文


「死なされてたまるか、儂は宇宙へ行く!」

映画『PLAN 75』のディストピアに、まさかの「笑い」と「SF」で殴り込み!?

お役所仕事の冷徹なシステムを、九十二歳の頑固じいちゃんとポンコツ公務員がバグらせる、前代未聞の三世代ドタバタ脱走劇!

少子高齢化の究極の解決策として、七十五歳以上の命の選択を支援する「PLAN 75推進省」。そこで「任意です」のフォントサイズを気にするだけの「普通」な日々を送っていた役人・田中普通は、ある日、田舎の祖父・善次郎(92歳)が民生委員に騙されて勝手にシステムへ申し込まれていることを知る。

取り消し不可能な役所の分厚い壁。迫る「お別れ」の期限。追いつめられた普通が深夜のネットで見つけた唯一の法的な抜け穴――それは「地球の行政権が及ばない、宇宙空間への逃亡」だった!

泣き虫な案内AI「ユキ」を巻き込み、六十八歳の韋駄天親父・鉄三も巻き込んで、前代未聞の「じいちゃん宇宙に飛ばすクラウドファンディング」が幕を開ける。冷たい制度の隙間を、泥臭い人間の体温でブチ破る、痛快で、ちょっぴり泣ける滑稽SF中編小説。




あらすじ


満七十五歳から自らの生死を選択できる制度を推進する「PLAN75推進省」の広報部員・田中普通。彼はある日、岡山の九十二歳になる祖父・善次郎が、親切な民生委員の手によって「本人の知らないうちに」PLAN 75へ不正に申し込まれている事実を突き止める。

お役所の硬直した手続きでは期限までの申込取消は不可能。上司からは見て見ぬふりを推奨される中、普通は「じいちゃんを逃がす」ことを決意する。しかし、定年後に退屈していた普通の父・鉄三(68歳)までが旅への同行を志願し、事態はややこしい方向へ。

そんな中、普通は宇宙居住者特別法の盲点に気づく。「宇宙空間に滞在している間は、日本国内の制度が凍結される」。

予算三百万。普通の深夜の思いつきを形にしたのは、なぜかバグで涙を流すようになった推進省の案内AI「ユキ」だった。ユキが算出したクラファン計画はSNSで爆発的な反響を呼び、ついに三世代の田中家は、種子島から宇宙ステーションへと飛び立つ。窓の外の青い地球を眺めながら、男たちはそれぞれの「生きる意味」を再発見していく。

帰還後、省を辞めた普通は不正申込の被害者を救うNPOを設立。理不尽な制度に対して、人間が「普通」の尊厳を取り戻すための、小さくも偉大な反逆の物語。

あとがき

この物語は、一篇の詩から生まれました。

「あなたはおいくつまで生きますか。おいくつまで生きたいですか」

映画『PLAN 75』を観た後に書かれたその詩には、酒好きな祖父のこと、九十四歳で今も走る父のこと、孫子の未来を見たいという願いが、静かに綴られていました。本作はその詩からインスピレーションを得て、三世代の年齢設定を物語用に再構成したフィクションです。

不条理に対して怒ることと、笑うことは、実は同じことかもしれません。笑えるうちは、まだ戦えます。

田中普通はどこにでもいる「普通」の人間です。でも普通の人間が「普通じゃないことに気づく」こと、それが社会を変える最初の一歩なのだと、書きながら思いました。

じいちゃんを宇宙に送ること。それは荒唐まいもない話です。でも、荒唐無稽なことを本気で考えなければ、本当に理不尽なことを止められないこともあるのかもしれない。

命の時間は、本人が決めるものであってほしい。

その願いだけを、この物語に込めました。

田中普通と、三世代の旅に感謝をこめて。