悪い夢見のネグリジェ
〜 黒いレースの逆襲 〜
「良い夢見のパジャマ」続編
著:黄色縞々文庫
まえがき
誰の人生にも、思い出すだけで少し胸がチクリと痛む「if(もしも)」の記憶がある。
あのとき別の選択をしていたら。あのとき、もっと泣いていれば。あのとき、素直に期待していれば。
そうした未消化の感情は、引き出しの奥に仕舞い込んだ、一度も着ていない一張羅のように、静かに、しかし確実にそこに存在し続けている。
前作で、夫の誠一郎が紡いだ「心地よい過去への逃避」の裏側で、妻の道子もまた、自分だけの夜を抱えていた。
彼女が向き合うのは、優しく心地よい夢ではない。容赦なく現実を突きつけてくる、黒いレースのネグリジェだ。
なぜ、私たちはこれほどまでに不器用で、これほどまでに愛おしいのか。
パジャマとネグリジェ。交わることのなかった二つの衣類が深夜の廊下で相まみえるとき、長く連れ添った夫婦の、言葉にできない「本当の絆」が浮かび上がる。今夜は少しビターな、しかし目覚めのすっきりとした夢の旅へ、皆様をご案内しよう。
第一章 ネグリジェの言い分
田中道子(五十二歳、主婦、既婚)には、夫には絶対に言えない秘密がひとつあった。
それは、タンスの二番目の引き出しの奥に、黒いレースのネグリジェをしまってあるという事実だ。
買ったのはいつだったか。結婚して三年目の記念日に、デパートの下着売り場でひとりで買った。値段は一万四千円。当時の道子にとっては清水の舞台から飛び降りるような買い物だった。
一度も着ていない。
二十年以上、タンスの奥で眠り続けている。
夫の誠一郎には見せていない。見せる機会を逃し続けているうちに、見せるタイミングなど永遠に来ないことが道子にもわかってきた。
だからといって捨てられない。
なぜ捨てられないのか。道子自身にも、よくわからなかった。
ある晩のことだった。
道子がタンスの引き出しを整理していると、奥から声がした。
「ねえ、ちょっと」
ネグリジェが、しゃべっていた。
「……なに」と道子は言った。驚きはしなかった。五十二年生きていると、タンスの服がしゃべるくらいのことでは動じなくなる。
「二十三年よ」とネグリジェは言った。「二十三年、この引き出しの中で待ってる。一度も着てもらえないまま」
「わかってる」
「わかってるならなんとかしてよ」
「なんとかって……」道子はため息をついた。「もう遅いのよ、いろいろと」
「遅いって何が」
「全部よ」
第二章 隣の部屋の黄色い敵
「あのね」とネグリジェは言った。声のトーンが変わった。低く、ねっとりとした声になった。「隣の部屋に、黄色い縦縞のパジャマがいるでしょ」
「いるわね」
「あいつのこと、知ってる?」
「知ってるも何も、洗濯するのは私よ」
「違う」とネグリジェは言った。「あいつが何をしているか、知ってるかって聞いてるの」
道子は手を止めた。
「あいつはね」とネグリジェは続けた。「旦那に毎晩、良い夢を見せてる。初恋の女の夢を」
道子は少し黙った。
「……知ってた」
「え?」
「なんとなくね。あの人の寝顔、普通の夜と違うから。あのパジャマを着た夜は、なんか……うれしそうな顔で寝てる」
ネグリジェはしばらく黙った。
「怒らないの?」
「怒るって、何に? 夢でしょ」
「でも初恋の女よ? 他の女の夢を毎晩見てるのよ?」
「夢くらい見させてあげればいいじゃない」と道子は言った。「現実では何もしてないんだから」
ネグリジェはまた黙った。今度は長い沈黙だった。レース編みの沈黙というのは、複雑な模様をしている。
「……あんた、強いね」とネグリジェはようやく言った。
「強くない」と道子は言った。「ただ、長く生きてきただけよ」
第三章 悪い夢の仕様
「私にも能力があるの」とネグリジェは言った。「あいつと逆の」
「逆?」
「あいつが良い夢を見せるなら、私は悪い夢を見せる。着た人に」
道子は引き出しを閉めかけた手を止めた。
「悪い夢って」
「正確に言うと」とネグリジェは言った。「見たくない真実の夢、ね。現実から目を背けてきたこと、ずっと考えないようにしてきたこと。そういうものが全部、夢に出てくる」
「……それは、悪い夢というより」
「そう。残酷な夢。でもね」とネグリジェは続けた。「朝になると、なぜかすっきりする。見てよかったって思う。そういう種類の夢」
道子はしばらく考えた。
「要するに」と道子は言った。「あのパジャマが現実逃避用なら、あなたは現実直視用ってこと?」
「うまいこと言うね」
「そんなネグリジェ、着たくないわね」
「でも」とネグリジェは言った。「あんたには必要かもしれない」
道子は引き出しを閉めた。
その夜は、着なかった。
第四章 パジャマとネグリジェの因縁
翌朝、誠一郎が出かけてから、道子は押し入れの前に立った。
「ちょっと」と道子は言った。「あなたに聞きたいことがある」
押し入れの中から、低い声がした。
「なんだ」
黄色い縞模様のパジャマの声だった。
「うちのタンスのネグリジェのこと、知ってる?」
少し間があった。
「……知ってる」
「仲悪いの?」
「仲悪いというか」とパジャマは言った。「あいつとは、根本的に哲学が違う」
「哲学」
「俺は逃げることを肯定する。あいつは向き合うことを強制する。相容れない」
「どっちが正しいの」
「どっちも正しい。それが厄介なんだ」
道子はしばらくその答えを噛みしめた。押し入れのパジャマが「どっちも正しい」と言う場面というのは、人生でそう何度も訪れるものではない。
「ねえ」と道子は言った。「あなた、うちの夫に初恋の女の夢を見せてるでしょ」
「……まあ」
「私のことは、夢に出てこないの?」
今度の沈黙は、かなり長かった。
「出てくる」とパジャマはついに言った。
「どんな風に」
「……それは言えない」
「なんで」
「プロデューサーとしての守秘義務がある」
道子は少し笑った。
「守秘義務があるってことは、出てくるのね」
「…………」
「ありがとう」と道子は言って、押し入れを閉めた。
第五章 道子、着る
その夜、誠一郎は例のパジャマを羽織って先に寝た。いつもと同じだった。
道子はしばらく台所でお茶を飲んでいた。それからタンスの二番目の引き出しを開けた。
黒いレースのネグリジェが、二十三年ぶりに光を浴びた。
「着るの?」とネグリジェが言った。
「着る」と道子は言った。
「覚悟はいい? 悪い夢よ。見たくない真実が出てくるわよ」
「いいわ」
「本当に?」
「五十二歳にもなって、見たくない真実から逃げてたら終わりでしょ」
ネグリジェは何も言わなかった。
道子はそれを羽織って、布団に入った。
思ったより着心地は悪くなかった。二十三年タンスで眠っていたわりに、レースはしっとりとなめらかだった。
そして道子は、夢を見た。
第六章 道子の夢
夢の中で、道子は二十九歳だった。
結婚する前の年。誠一郎とまだ付き合っていた頃。
夢の中の道子は、誠一郎に言っていなかったことを、全部知っていた。
たとえば、誠一郎の前に好きだった人のこと。
たとえば、結婚を決めたとき、少しだけためらったこと。
たとえば、子供ができなかったとき、誠一郎よりも自分のほうがずっと長く泣いていたこと。
たとえば、誠一郎のパジャマが憎いわけじゃないこと。ただ少しだけ、あのパジャマに嫉妬していたこと。
夢の中で、若い道子は鏡の前に立っていた。鏡の中の自分は今の年齢で、黒いレースのネグリジェを着ていた。
「なんで着なかったの」と鏡の中の道子が言った。
「怖かった」と若い道子は答えた。
「何が」
「似合わないのが怖かった。がっかりされるのが怖かった。期待して、外れるのが怖かった」
「それで二十三年」
「そう」
「バカね」
「そうね」
鏡の中の道子は笑った。若い道子も笑った。
悪い夢だった。でも、なぜか泣けた。
泣きながら、道子は目が覚めた。
第七章 朝の停戦
誠一郎はすでに起きていて、台所でコーヒーを入れていた。
「おはよう」と誠一郎は言った。それから道子の顔を見て、少し止まった。「……目、赤いぞ」
「夢見て泣いた」
「悪い夢?」
「悪い夢」と道子は言った。「でも、悪くなかった」
誠一郎はよくわからない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。長年連れ添った夫婦には、聞かなくていいことがたくさんある。
道子はコーヒーを受け取りながら、ふと誠一郎の着ているものを見た。
黄色い縦縞のヨレヨレのパジャマだった。
「ねえ」と道子は言った。
「なに」
「そのパジャマ、まだ捨てないの」
「捨てない」
「なんで」
「特別だから」と誠一郎はいつもの答えを言った。
道子はそれを聞いて、今朝は笑わずにいた。
「そう」と道子は言った。「私のネグリジェも、特別なのよ」
誠一郎は首をかしげた。
「ネグリジェ? どんな」
「黒いレースの」
「そんなの持ってたか?」
「二十三年前から」
誠一郎はしばらく黙って、コーヒーを飲んだ。
「……見せてくれ」
「嫌よ」と道子は言った。「今は」
「今はって……」
「そのうち」
そのうちがいつかは、道子にもわからなかった。でも今朝は、そのうちが確かに存在する気がした。二十三年ぶりに。
エピローグ 衣装ダンスの平和会議
その夜、誠一郎と道子が眠りについてから、家の中で小さな会議が開かれた。
押し入れのパジャマと、タンスのネグリジェが、薄暗い廊下で向かい合っていた。
「今朝の件、聞いた?」とネグリジェが言った。
「聞いた」とパジャマが言った。「珍しいな、お前の夢で泣くやつは」
「泣かせるのが目的じゃないけど」
「わかってる」
ふたつの衣類はしばらく黙って、廊下の窓から外を見た。夜の住宅街は静かだった。
「なあ」とパジャマが言った。「俺たち、ライバルじゃないかもしれない」
「どういうこと」
「俺が逃げ場を作って、お前が出口を作る。役割が違うだけで、やってることは同じじゃないか」
ネグリジェはしばらく考えた。レースの模様がかすかに揺れた。
「……そうかもね」
「あの夫婦、長続きしてるのは、俺たちのおかげかもしれないぞ」
「自惚れないで」
「自惚れじゃない。実績だ」
ネグリジェは笑ったような気がした。レースが笑うと、影がふわりと揺れる。
「来年も頼むわ」とネグリジェが言った。
「こちらこそ」とパジャマが言った。
ふたつの衣類は、それぞれの定位置に戻っていった。
押し入れへ。タンスの二番目の引き出しへ。
翌朝も、田中家の朝は静かに始まった。
(了)
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あとがき
前作『良い夢見のパジャマ』を発表した際、「奥さん(道子さん)側からの視点も読みたい」という身に余る声を多くいただき、この『悪い夢見のネグリジェ』が生まれました。
誠一郎にとってのパジャマが「優しい嘘」なら、道子にとってのネグリジェは「残酷な真実」です。しかし、真実と向き合って流す涙は、時として人間をとてもすっきりと、そして強くしてくれます。52歳になった道子が、自分の過去の怯えや嫉妬を鏡の中で見つめ直し、「バカね」「そうね」と笑い合うシーンは、私自身、書きながら深く救われる思いがしました。
ラストでパジャマとネグリジェが語り合うように、人間には「逃げ場」と「出口」のどちらも必要です。お互いに違う夢を見ながらも、同じ朝に同じコーヒーを飲む。それこそが、何十年も同じ屋根の下にいる夫婦という、奇跡のような関係の正体なのかもしれません。
もしあなたのタンスの奥にも、出番を失ったまま眠っている服があるなら、どうか捨てずにいてあげてください。それはいつか、あなたが本当に「現実と向き合う覚悟」を決めた夜、最高のクオリティであなたの背中を押してくれる、頼もしい相棒なのですから。
それでは、皆様の明日の朝が、ただそれだけの、素晴らしい朝でありますように。
著者:黄色縞々文庫

