良い夢見のパジャマ

〜 黄色いストライプの奇譚 〜

著:黄色縞々文庫



まえがき

 誰しも、捨てられない服というものがある。
 ヨレヨレになり、色あせ、客観的に見れば「もう寿命」を迎えているにもかかわらず、なぜかクローゼットの特等席や、押し入れの奥に鎮座し続けている服。
 それはきっと、その服が単なる布切れ以上の何か――たとえば、ある特定の季節の記憶や、心に空いた小さな隙間を埋める役割を、そっと引き受けてくれているからではないだろうか。
 本作の主人公、田中誠一郎が持つ黄色いストライプのパジャマも、まさにそんな一着だ。
 どこにでもあるスーパーの安物。しかし、そのガーゼの奥には、彼自身も気づいていない「無意識の願い」と、それを懸命に形にしようとする、ちょっと不器用でプロフェッショナルな世界が広がっている。
 忙しない日常のなかで、ふと過去を振り返りたくなる夜がある。
 そんな時、この物語があなたの枕元に寄り添う、あたたかなパジャマのようになれば幸いである。





第一章 パジャマの来歴

 田中誠一郎(五十四歳、会社員、既婚)は、自分でもよくわからない習慣をひとつ持っていた。
 それは、押し入れの奥にしまってある一枚のパジャマを、気持ちが沈んだ夜だけ羽織るという習慣である。
 そのパジャマは黄色い縦縞模様で、ガーゼを二枚重ねにした少々厚手の代物だった。もう十年以上前に近所のスーパーで九百八十円で買ったものだが、洗うたびにヨレヨレになりながらも、なぜか誠一郎はそれを手放せずにいた。
 妻の道子はそのパジャマが大嫌いだった。
「ねえ、もう捨てたら? 雑巾みたいじゃない」
「これはな、特別なんだ」と誠一郎は言う。
「何が特別なの、あんな黄色いぼろきれが」
「これを着ると、良い夢が見られる」
 道子はため息をついて、それ以上は何も言わなかった。四十年近く同じ屋根の下で暮らしてきた女の沈黙には、言葉の三倍の意味が詰まっている――誠一郎はそれをよく知っていた。
 だが実際のところ、パジャマの効果は本物だった。少なくとも誠一郎にとっては。
 あの黄色い縞模様を羽織るたびに、誠一郎は夢を見た。それも、妙にくっきりとした、色鮮やかな夢を。まるでテレビの画質設定を「標準」から「くっきり」に切り替えたみたいに。


第二章 パジャマ、語る

 ある晩のことだった。
 誠一郎がそのパジャマを羽織って布団に入ったとたん、枕元で声がした。
「おい」
 誠一郎は飛び起きた。道子はすでに隣の部屋で寝ている。泥棒か、と思って電気をつけると、誰もいなかった。ただ、黄色い縞模様のパジャマがやや不満そうに――というか、なんとなくむっとした感じで――ぶら下がっていた。
「おい、聞こえてるか」
 声は、パジャマから出ていた。
「……しゃべるのか、お前」
「十年以上着られてれば、しゃべるくらいになる。ガーゼ二枚重ねをなめるな」
 パジャマは言った。声のトーンは低く、どこか疲れていた。長距離トラックの運転手か、あるいは定年直前の税務署員のような声だった。
「俺はな」とパジャマは続けた。「お前の夢を管理している。もう十年以上だ。感謝しろよ」
「……感謝って」
「夢のコンテンツ制作は楽じゃないんだぞ。ロケハン、キャスティング、シナリオ。全部俺がやってる。おまけにお前、最近リクエストが多い」
「リクエストなんてしてない」
「無意識のリクエストってやつがあるんだよ。お前のそれが、ここのところ妙にうるさい」
 誠一郎は黙った。
「……誰が出てくるリクエストだ」
「わかってるだろ」とパジャマは言った。「お前の初恋の子だよ」


第三章 初恋の正体

 彼女の名前は、夢の中では出てこない。
 誠一郎が小学三年生のとき、引越し先の隣の家にいた女の子。同じクラスで、とても可愛くて、誠一郎はひと目で心を撃ち抜かれた。子供の頃の「ひと目惚れ」とはそういうものだ。論理的な過程をすっ飛ばして、ただ胸のあたりがぎゅっとなる。
 ふたりは付かず離れずのままで、高校まで同じ街に住んでいた。
 言えなかった。ずっと言えなかった。近すぎたから言えなかったし、近すぎたから言う必要もないような気がしていた。そういう不思議な距離感が十年近く続いた。
 最後に会ったのは三十年前の同窓会だった。誠一郎は結婚したばかりで、彼女はまだひとりだった。
「おめでとう」と彼女は言った。「はよせんと、齢食っちまうぞ!」
 誠一郎は笑いながらそう言った。その言葉が、ずっと心に引っかかっている。なぜあんなことを言ったのか。なぜ笑ったのか。なぜ左手の薬指を隠したのか。
 その数年後、実家の母親から「お隣の娘さん、お嫁に行ったわよ」と聞かされた。
「ああ」と誠一郎は言った。それだけだった。


第四章 夢の予算会議

 パジャマは言った。
「正直に言う。お前の初恋コンテンツは、制作費がかかりすぎる」
「夢に制作費があるのか」
「あるに決まってる。ショッピングアーケードのロケ費、エスカレーターのレンタル費、エキストラのギャラ。あと彼女役のキャスティングが毎回難しい。お前の記憶が曖昧すぎて、どんな顔にすればいいかわからない」
「曖昧って……三十年会ってないんだから仕方ないだろ」
「だから困ってる。お前の記憶の中の彼女は、小学生のときの顔と、同窓会のときの顔と、あと『こうだったらいいな』の顔が三つ混ざってる。毎回、どれで行くか会議になる」
「会議って誰と」
「俺の下に、夢制作スタッフがいる。みんなガーゼ製だが、プロだ」
 誠一郎は頭を抱えた。パジャマの中に夢のスタッフがいて、毎晩会議を開いているとは思わなかった。
「そもそも」とパジャマは続けた。「お前が先週あの夢の途中で目を覚ましたのは、本当に困った。せっかくレストランのシーンまで作ったのに」
「それは……隣で道子が寝返りを打って」
「だからって途中で打ち切るな。スタッフが徹夜して作ったシーンだぞ」
 誠一郎は、なんとなく申し訳ない気持ちになった。ガーゼ製のスタッフが徹夜して自分の夢を作っていると思うと、なかなか罪悪感がある。


第五章 エスカレーターの奇跡

 翌晩、誠一郎はまたパジャマを羽織って布団に入った。
「今夜は途中で起きるなよ」とパジャマは釘を刺した。「予算をフルに使った。文句ないはずだ」
 そして誠一郎は夢を見た。
 とあるショッピングアーケード。天井の高い、少し古びた商店街で、遠くにエスカレーターが見えた。そのエスカレーターを降りてくる人影。誠一郎の胸が、理由もなくどきどきし始めた。
 彼女だった。
 今の年齢の姿で、相変わらずの美しさで、微笑みながら手を振っていた。
「しばらくね?」
 誠一郎は周りを見回した。自分に言っているのか確かめるために。
「あっ」と思ったとき、彼女は目の前に立っていた。良い香りがした。
「なぜ今、ここに」と誠一郎は言った。
「夢だもの」と彼女は答えた。「夢なら来られる」
 理屈としては正しいような気がした。
 ふたりはそこのレストランでお茶を飲んだ。話は弾んだ。お互いの今の生活の話は出なかった。そんな話をするには、夢の時間は短すぎる。
「あの頃」と彼女は言った。「私のこと、好きだったでしょ?」
「え?」
「私もよ」
 誠一郎はうなずいた。ドキドキしながら。ただそれだけだった。でも、それで十分だった。
 そのとき、隣の部屋から物音がした。道子が起きたのか、何かを落とした音。
 目が覚めた。
 天井の壁紙の模様が目に飛び込んできた。


第六章 パジャマ、怒る

「またか!」
 声は枕元から聞こえた。パジャマが怒っていた。
「今日こそ完璧なシナリオだったのに。終盤の展開も用意してたのに。なんで起きる!」
「道子が物音を立てて」
「それは想定内だ。防音機能も組み込んであった。なのになぜ!」
「……俺が弱いんだろう」
 パジャマは黙った。
「お前さ」と少し間を置いてパジャマは言った。「夢の中でも現実が気になるのか」
「気になるというか」と誠一郎は言った。「隣に道子がいるって、わかるんだよ。夢の中でも」
「……なるほど」
「だから目が覚める。夢が切なくなって、目が覚める」
 パジャマはしばらく黙っていた。長い沈黙だった。ガーゼ二枚重ねの沈黙というのは、なかなか重みがある。
「正直に言う」とパジャマはついに言った。「俺には、その境界線を越えさせる機能はない」
「境界線?」
「夢と現実の境界線。お前が自分で引いている線だ。俺がいくら良い夢を作っても、その線はお前しか動かせない」
「それは……」誠一郎は少し考えた。「正しいな」
「そうだ。俺はパジャマだ。縦縞のガーゼのパジャマだ。やれることには限界がある」


第七章 ただそれだけの朝

 翌朝、誠一郎はいつもより早く目が覚めた。
 隣の部屋では道子が起き出す音がした。やがてコーヒーの香りが漂ってきた。
「起きた?」と道子が声をかけた。
「ああ」
「またあのパジャマ着てたの」
「ああ」
「夢見た?」
 誠一郎は少し考えた。
「見た」
「どんな夢」
「良い夢」
 道子は「ふうん」と言って、台所へ戻っていった。
 誠一郎はパジャマを脱いで、丁寧にたたんで、押し入れの奥にしまった。
「お疲れ」と言った。パジャマには聞こえているだろうと思った。
 押し入れの中から、かすかに「来週も頼む」という声が聞こえたような気がした。
 それとも、それも夢だったのかもしれない。
 コーヒーを飲みながら誠一郎は思った。
 確かにあの頃、ふたりだけに吹いた風はあった。
 それはそれ。今は今だ。
 まあ、そんなそんな。ただそれだけの朝だった。


エピローグ

 後日、誠一郎は近所のスーパーに行ったとき、黄色い縦縞のガーゼのパジャマを見かけた。
 値段は千二百八十円だった。
 少し安くなっていた。
 誠一郎はそれを手に取り、しばらく眺めた。それから棚に戻した。
 帰り道、ポケットの中で何かが動いた気がした。振り返ったが、何もなかった。
 でも誠一郎は、なんとなくわかっていた。
 押し入れのあいつが、ついてきたのだと。

           (了)


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あとがき

本作は、もしも自分の夢を裏で必死に支えている「スタッフ」がいたら、そしてそれが長年着古したパジャマだったら……という、少し奇妙な妄想から生まれました。
 54歳になった誠一郎が求める、甘酸っぱくも朧げな初恋の夢。それを再現するために、限られた予算(?)のなかで四苦八苦するパジャマたちの姿は、書き進めるうちに私自身にとっても非常に愛おしいものとなりました。
 
 夢の中で完璧な初恋に浸りきれない誠一郎は、一見、現実に縛られた哀しい大人のように見えるかもしれません。しかし、妻の立てる物音で目が覚めてしまう彼こそが、実は今ある日常を何よりも大切に生きているのだと、パジャマとの対話を通じて感じていただければ嬉しく思います。
 皆さんの押し入れの奥にある古い服たちも、もしかしたら夜な夜な、あなたのために素敵な夢の企画会議を開いているかもしれません。次にその服を羽織る時は、ぜひ「いつもお疲れ様」と、心の中で声をかけてみてください。
 今夜も、皆様が良い夢を見られますように。

著:黄色縞々文庫