星 III
渡すもの
What We Pass On
『星』三部作・完結篇
まえがき
人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だと言われています。
それ以前、私たちは炎を囲み、口伝によって知識を、危険を、そして生きるための智慧を次の世代へ手渡してきました。語り手が死に絶えても、語られた言葉は若者たちの中で生き続け、私たちをここまで歩ませてくれました。
舞台が星間航行の時代になっても、その本質は何も変わりません。
ただ、囲むべき炎が「通信信号」に変わり、距離の代わりに「時間」という果てしない壁が立ちはだかるだけです。
第一作『星』で孤独に火星の砂を掴んだ神代蒼。
第二作『星 II』で送り出す者の覚悟を生き、船を設計した守屋凛。
そして本作『星 III』では、彼らが遺した「光」を受け取り、さらにその先へとバトンを渡していく者たちの姿を描きます。
1000人に3人の遺伝子を持つ者たちと、それを見守り続けた99.7%の人々。
見えない星に向かって手を伸ばし続けた彼らの旅路を、どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。
1000人に3人
その中で
その遺伝子が
そのタイミングを捉えた者に
その先へと
誘うのだろう
——星より
序章 継承
人類が初めて文字を持ったのは、五千年前だ。
その前は、口で伝えた。
炎の前に集まり、老いた者が若い者に語った。どこに獣がいるか、どの草が毒か、海がどちらの方向にあるか。
語られたことは、やがて語った者が死んでも残った。
星間航行の時代になっても、それは変わらなかった。
ただ、炎のかわりに信号があった。
距離のかわりに、時間があった。
老いた者が若い者に渡すものは、言葉ではなく、光だった。
第一部 渡す手 (西暦2140〜2152年・火星)
第一章 海、五十四歳
神代海は五十四歳になっていた。
火星の通信センターは、二十年前より大きくなっていた。スタッフも増えた。しかし海の席は変わらなかった。南西の窓に一番近い、古い机。守屋凛が毎朝南西を見ていたと聞いてから、海もそうするようになった。
窓の外には、火星の砂漠が広がっている。開発が進んで、地平線に居住ドームのシルエットが見えるようになった。それでも、空の色は変わらない。サーモンピンク。海が生まれた日から、ずっと。
颯太の船、エクソ・アーク二号が出発してから十一年が経つ。
目的地のタウ・ケチまで、あと十二年。
颯太は今頃、冬眠の中だ。
海の部下になった若者が一人いた。名を田中灯という。二十二歳、地球生まれ。火星に来て三年。目が大きく、よく質問した。
「神代さん、颯太さんからの信号って、どのくらいの頻度で来るんですか」
「冬眠中は月に一度、自動送信だ。数値データだけ。起きたら声が来る」
「起きるのは、到着の二年前ですよね」
「そう。あと十年後だ」
灯は計算した。「神代さんが六十四歳の時ですね」
「そうなる」
「受け取れますか」
海は灯を見た。「なぜそんなことを聞く」
「いや……すみません」灯は視線を落とした。「失礼でした」
「いや」海は少し間を置いた。「正直な質問だ。受け取れるかどうかはわからない。でも、誰かが受け取る。それで十分だ」
その夜、海は日記を書いた。
蒼が日記を書き、凛が日記を書き、海も書いた。誰に見せるわけでもない。でも、書く。
「灯に聞かれた。受け取れるかと。六十四歳なら、たぶん元気だろう。しかし颯太の返事が来るのは、その四年後。七十四歳か六十八歳か、どちらにしてもまだいる気がする。問題はその先だ。タウ・ケチに着いた颯太が、そこで何を見つけ、何を送ってくるか。その信号が届く頃、私はまだここにいるだろうか。いなければ、誰かに渡さなければならない」
第二章 灯の遺伝子
田中灯の遺伝子解析結果が届いたのは、火星に来て四年目の春だった。
CHRM2——陽性。DRD4——陽性。NOVA1——陽性。
三つ全部。
灯は結果を見て、しばらく動けなかった。
財団から面談の招待が来た。灯は承諾した。
面談官は穏やかな初老の女性だった。
「どう感じていますか」
「怖いです」灯は正直に言った。「行くことになるんだろうなと思って」
「行きたくないですか」
「行きたいです。でも、怖い。同時に両方あります」
面談官は少し微笑んだ。「それは正常です。むしろ、それがプロテイン・ビヘイビアの特徴です。恐怖がないのではなく、恐怖と興奮が同時に来る」
「神代蒼さんも、そうだったんですか」
「記録によれば、そう言っていたそうです。怖いから面白い、と」
灯は海に報告した。
海は結果を聞いて、しばらく窓の外を見た。
「おめでとう」海は言った。
「神代さんは」灯は慎重に言った。「……羨ましいですか」
海はしばらく黙った。
「二十年前は、少し思った。でも今は違う。私はここにいることで、ちゃんと役に立っている。颯太さんを送り出した。あなたも、きっと送り出す」
「神代さんが送り出してくれるんですか」
「私か、私の後の誰かが」海は灯を見た。「でも、できれば私がいい」
その夜、灯は外に出た。
火星の夜空を初めてちゃんと見た気がした。
星が、無数にあった。瞬かない。静かだった。
どれがタウ・ケチか、灯にはわからなかった。
でも、ある。
そこへ、自分は行くのかもしれない。
その感覚は、怖くて、面白かった。
第三章 アケアからの手紙
二〇一四二年の秋、アケアから信号が届いた。
神代架、八十四歳。
「海へ。元気ですか。こちらは元気です。守屋凛研究所は今年、創設十四年になりました。若い研究者が十二名います。全員、ここアケアで生まれた子供たちです。
彼らは地球も火星も知りません。この青い空と、ケンタウルスの二つの太陽だけが、当たり前の世界です。
おもしろいのは、彼らが地球の夜空の話に、とても興味を持つことです。青い惑星が写った古い写真を見て、『きれい』と言う。私も同じでした。火星の赤い空の写真を見て、きれいと思った。遠い場所は、いつもきれいに見えるのかもしれません。
一つ、報告があります。
先日、地層から有機化合物を発見しました。炭素鎖が、生物的な構造に近い。確定ではありません。でも、ひいひいおじいさんが火星で発見した炭素同位体の異常と、性質が似ています。もしかすると、宇宙には生命の材料が、思ったより広く散らばっているのかもしれない。
または、生命は一度だけ生まれ、宇宙の各所に種を撒いたのかもしれない。
どちらにしても、まだわかりません。でも、わかる日が来ると思います。
元気でいてください。
颯太さんのことを祈っています。届く頃には、もう着いているかな」
海は録音を聞き終えて、灯を呼んだ。
「もう一度、聞け」
灯は黙って聞いた。
「有機化合物」灯は言った。「これは」
「そうだ」海は言った。「蒼さんが火星で見つけたものの、先にあるかもしれないものだ」
灯は宙を見た。
「宇宙は、生命に満ちているんでしょうか」
「わからない。でも」海は窓の外を見た。「わからないことが、行く理由になる」
第二部 届く声 (西暦2152年・タウ・ケチ星系へ向かう船中)
第四章 颯太、目覚める
宮内颯太が冬眠から覚めたのは、タウ・ケチまで残り一・八光年の地点だった。
目が開いた瞬間、最初に思ったのは、凛先生のことだった。
冬眠ポッドのモニターに、現在日時が表示されていた。二〇一五一年。出発から二十二年。
颯太は五十九歳になっていた。
体を起こすのに、三十分かかった。筋肉が固まっていた。医療チームが付き添い、少しずつ動かした。船内は静かだった。二百九十九名がまだ眠っている。今起きているのは管理当番の八名だけだ。
「先生の訃報は」颯太は医療チームのリーダーに聞いた。
「守屋凛先生ですか。二〇一〇一年に亡くなられています。出発から七年後です」
颯太は目を閉じた。知っていた。出発前に計算していた。でも、数字で知っているのと、声に出して聞くのは、違った。
「九十一歳だったそうです。最後まで設計をしていたと」
「そうか」颯太は言った。「そうだろうな」
ベッドに横になりながら、颯太は天井を見た。
船体の外は、光速の十九パーセントで流れる宇宙だ。星がほんのわずかに青方偏移して見える。前方の星がわずかに青く、後方の星がわずかに赤い。ドップラー効果。凛が設計した船が、光に向かって走っている。
火星への信号を録音した。
「海くん。颯太です。起きました。全員元気です。先生の設計は、二十二年たっても完璧でした。何一つ壊れていない。バルブA-17も問題なかった。先生に報告したい。でも届かないから、あなたに言います。先生の仕事は、本物でした。
タウ・ケチまで、あと二年。凛先生が教えてくれた設計の美しさを、私はここに来て初めて本当に理解した気がします。宇宙の中で動き続けるということの、意味を。
元気でいてください」
信号が届くまで、十一年かかる。
颯太が六十九歳の時に、海のもとへ届く。
海は、その時六十五歳だ。
第五章 タウ・ケチの光
二〇一五三年、エクソ・アーク二号はタウ・ケチ星系に入った。
颯太が最初に窓から見たのは、オレンジ色の光だった。
タウ・ケチは太陽より少し小さく、少し温度が低い。その光は、太陽の黄色よりも深みのある橙色をしていた。
颯太は声を出せなかった。
二十四年かけて来た光が、今、自分の顔を照らしている。
第一候補惑星はタウ・ケチeと呼ばれていた。地球から見た時の名前だ。ここに来たら、別の名前をつける予定だった。
颯太は全クルーに、名前の投票を呼びかけた。三百の提案が出た。
最も多くの票を集めたのは、「ナギ」という言葉だった。日本語で、海が凪いでいる状態を指す。嵐の後の、静かな海面。
颯太は賛成した。
「ナギ、に決まりました」颯太は全員の前で言った。「守屋凛先生が設計した船で、神代蒼さんの精神を継いで、私たちはここへ来ました。嵐を越えた先の、静かな場所。ナギ、でいいと思います」
拍手が起きた。
降下の日、颯太は窓を見た。
ナギが近づいてくる。青くはなかった。緑がかった灰色。大気は薄い。液体の水の反応は、地下に確認されている。表面は岩だらけで、風が強い。
美しいとは言い難かった。
でも、颯太は思った。蒼さんも、凛さんも、架さんも、美しいと言わなかった場所があったかもしれない。それでも、いた。
美しさは、後からくるものだ。
着陸した。
颯太は宇宙服を着て、ハッチを開け、タラップを降りた。
岩の地面に、足をついた。
風が、スーツ越しに感じられた。
颯太は、凛先生のことを思った。
この足が踏んでいる地面に、先生の設計が届いた。先生は来られなかった。でも、来た。
そういうことだ、と颯太は思った。
渡されたものは、ちゃんと届く。
第六章 ナギの発見
ナギに着いて三ヶ月が経った頃、颯太のチームは地下水脈の調査を始めた。
掘削機が地下四十メートルに達した時、水が出た。
液体の水だった。地熱で温められた、鉱物を多く含む水。飲めないが、ある。
それより深く掘った地点で、岩盤に奇妙なパターンが見つかった。
規則的な孔。
生物の巣穴に、似ていた。
颯太は報告書を書きながら、蒼さんのことを考えた。
火星で炭素同位体の異常を見つけた人。アケアで有機化合物が見つかった。そしてナギで、この孔。
バラバラかもしれない。でも、つながっているかもしれない。
火星への信号を録音した。
「海くん、颯太です。ナギに着いて三ヶ月。報告があります。地下水脈を発見しました。そして……岩盤に、規則的な孔の構造があります。生物起源かどうか、まだわかりません。でも、蒼さんが火星で見つけたものと、似ている気がしています。
この宇宙には、私たちの想像より多くの何かが、いるのかもしれない。あるいは、いたのかもしれない。あるいは、生命の材料が、どこにでもあるのかもしれない。
どれも、まだわからない。でも、わかりたい。その気持ちは、二十四年かけてもまったく変わらなかった。
灯くんを、よろしく頼みます。あの子はいい目をしていました」
この信号が海に届くのは、十一年後だ。
颯太が七十歳の時、海は六十五歳だ。
もし颯太がその返事を受け取るとしたら、八十一歳になっている。
届くかどうかはわからない。
でも、送る。
第三部 渡す手、受け取る手 (西暦2152〜2165年・火星)
第七章 海、六十六歳
颯太の「起きました」の信号が届いたのは、二〇一六二年の夏だった。
神代海は六十六歳になっていた。
センターで信号を受け取った時、灯が隣にいた。三十二歳になった灯は、今やチームのリーダーだ。海はこの二年で、ほとんどの実務を灯に渡していた。
「神代さん」灯が言った。「颯太さんの声です」
「聞こえている」
颯太の声は、変わっていなかった。
二十二年分、老いているはずなのに、声に滲む感情が、海の記憶の中の颯太と同じだった。
「バルブA-17も問題なかった」という言葉で、海は目を細めた。
凛先生。ちゃんと届きましたよ。
返信を録音した。
「颯太さん、海です。六十六歳になりました。元気です。先生の訃報は、もう届いていますよね。先生の最後の言葉を教えます。日記に書いてあったんです。『私は船を作った。船は行った。行った先で、また船が作られるだろう。それで十分だ』。颯太さんが起きたということは、その言葉通りになりました。
灯くんが頑張っています。プロテイン・ビヘイビアです。いつか船に乗るでしょう。私が送り出せるかどうかはわかりませんが、誰かが送り出します。
ナギの報告、楽しみに待っています」
録音を終えた後、海は灯を見た。
「聞いていたか」
「はい」
「先生の言葉を、あなたにも渡しておく」海は言った。「私は信号を受け取った。あなたは、次の信号を受け取る。それで十分だ」
灯は少し間を置いた。「神代さんは、行きたかったですか。本当に」
海は笑った。「行きたかった。でも、ここが好きだった。この赤い空が。颯太さんの信号を受け取った瞬間が。それで十分だった」
第八章 颯太の信号、届く
颯太のナギからの第一次報告が届いたのは、二〇一六四年の秋だった。
地下水脈の発見。そして、岩盤の規則的な孔。
海は六十八歳になっていた。
センターに来た時、灯がすでに待っていた。
「来ました。颯太さんから」
「聞こう」
颯太の声を聞いた。
岩盤の孔の話を聞いた時、海は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
蒼さんの火星での発見。架さんのアケアでの有機化合物。颯太のナギの孔。
点が、線になろうとしているかもしれない。
「灯」海は言った。
「はい」
「返信を、あなたが録音しなさい」
灯は驚いた顔をした。「私が、ですか」
「颯太さんが次の信号を送った時、私がここにいるかどうかわからない。あなたの声で返すべきだ」
「……わかりました」
灯は少し考えてから、録音を始めた。
「颯太さん、初めまして。田中灯といいます。神代さんの部下です。プロテイン・ビヘイビアで、いつかどこかへ行くことになると思います。岩盤の孔の話を聞きました。神代さんが隣で、目を細めていました。蒼さんの発見から百年以上かけて、点が線になろうとしているのかもしれません。神代さんは、あなたが灯くんを頼むと言っていたと教えてくれました。よろしくお願いします。いつか、あなたが見ているものを見に行けるかもしれません」
録音を終えた灯は、海を見た。
「よかったか」
「よかった」海は言った。「颯太さんに届くのは、十一年後だ。颯太さんが八十歳の時に届く。あなたは四十三歳だ」
「神代さんは」
「七十九歳だ。たぶん、いる」
「じゃあ、一緒に聞きましょう」灯は言った。
海は笑った。「そうだな」
第九章 渡す夜
二〇一六五年の冬、神代海は引退を決めた。
六十九歳だった。
最後の出勤日、灯が花を持ってきた。火星の温室で育てた、小さな白い花だった。
「火星で育った花は、なぜか地球のものより香りが強いんです」灯は言った。「大気が薄いから、揮発しやすいのかもしれない」
「凛先生が同じことを言っていた」海は言った。「記録に残っていた。火星の植物は逞しいと」
海は机の引き出しから、一冊のノートを出した。
「日記だ。私が書いてきた。蒼さんも、凛先生も書いていた。あなたも書きなさい」
「内容は」
「何でもいい。ただ、書く。誰かがいつか読む。読まなくてもいい。でも、書く」
灯はノートを受け取った。
「神代さん」灯は少し躊躇してから言った。「怖くないですか。引退して、信号を受け取らなくなって」
「怖い」海は率直に言った。「颯太さんの返事が来る前に、自分が死んだらどうしよう、とは思う。でも」
海は窓の外を見た。
「颯太さんが送った信号は、私が受け取らなくても、宇宙を飛んでいる。あなたが受け取る。それで十分だ。凛先生に教わった言葉だ」
最後の夜、海は外に出た。
火星の空は、今夜も澄んでいた。
星が、無数にあった。
南西の方向に太陽が沈んだ跡がある。ケンタウルスの方向を、三秒間、見た。
そしてタウ・ケチの方向を、また三秒間、見た。
架が、颯太が、それぞれの星にいる。
自分はここにいた。ずっとここにいた。
それで、よかった。
海は空を見上げた。
どの星が見えていて、どの星が見えていないか、六十九年経っても、まだわからなかった。
でも、全部ある。見えなくても、ある。
そして、渡した。
灯に、渡した。
灯りを、渡した。
終章 星の数だけ
二〇一七五年。
田中灯は四十五歳になっていた。
颯太からの第三次報告が届いたのは、その年の春だった。颯太、八十二歳。声は老いていたが、はっきりしていた。
「灯くん。受け取ってくれているか。ナギの岩盤の孔、解析が進んだ。炭素を含む有機分子の痕跡が、孔の内壁に付着していた。アケアの有機化合物とは別の経路で生成されたと思われる。つまり、別々の場所で、似たプロセスが起きた可能性がある。宇宙には、生命の材料が遍在しているかもしれない。あるいは、生命そのものが。結論はまだ出ない。でも、わかりかけている。
海くんは元気か。日記を書き続けているか。灯くんも書けよ。
あなたはいつか、どこかへ行くんだろう。行く前に、私に信号をくれ。それだけ頼む」
灯はセンターで一人、録音を聞いた。
神代海は四年前に亡くなっていた。七十一歳だった。引退してから二年後のことだ。颯太の返事が来る前に、逝った。
灯は海の日記を持っていた。
最後のページに、こう書いてあった。
「颯太さんの返事が来たら、灯が受け取るだろう。それでいい。私は渡した。渡されたものは、ちゃんと届く」
灯は、返信を録音した。
「颯太さん。灯です。受け取りました。神代さんは四年前に亡くなりました。でも、日記を読みました。颯太さんの返事を、いつか受け取ると書いてありました。私が受け取りました。
有機分子の痕跡——神代さんに聞かせたかったです。でも、きっと知っています。どこかで。
私は来年、エクソ・アーク三号でプロキシマ・ケンタウリへ向かいます。太陽から四・二四光年。架さんたちより近い星です。でも、別の方向。人類が初めて行く方向。
神代さんの日記と、颯太さんの言葉を持って行きます。火星の赤い空の記憶も。
信号を送ります。待っていてください。颯太さんが受け取れる間に、何か送れるといいな、と思っています。
渡してもらったものを、ちゃんと持っていきます」
録音を終えて、灯は外に出た。
火星の夜だった。
空気は薄く、宇宙服が必要だった。
星が、信じられないほどよく見えた。
南西に、ケンタウルスの方向。架がいる。
別の方向に、タウ・ケチ。颯太がいる。
そして、プロキシマ・ケンタウリ。自分が、行く方向。
海が毎朝、南西を三秒間見ていたことを、灯は知っていた。
凛先生も、そうしていたと、海の日記にあった。
灯は南西を、三秒間、見た。
それからタウ・ケチの方向を、三秒間、見た。
そしてプロキシマの方向を、三秒間、見た。
全部、ある。
見えなくても、ある。
そこに誰かがいて、誰かが向かっていて、誰かが待っている。
漁師の話を、灯は海の日記で読んだ。
神代蒼のひいひいおじいさんが、嵐の夜も船を出した男だったと。
怖いから面白い、と言った男だったと。
その血は、灯には流れていない。
でも、その言葉は渡された。
日記から、口から、信号から、光から。
渡された言葉は、血と同じように、次の者の中で生きる。
灯は空を見上げた。
どの星が見えていて、どの星がまだ見えていないか、わからなかった。
でも全部、ある。
星の数だけ、行く理由がある。
星の数だけ、待つ理由がある。
星の数だけ、渡すものがある。
来年、船に乗る。
怖い。
面白い。
それで十分だ。
完
三部作を終えて
一作目で蒼が火星へ旅立ち、二作目で凛と海が送り出す者の物語を生き、三作目で灯が次の旅立ちへ向かった。
「渡すこと」というテーマは、遺伝子の話でもあり、言葉の話でもある。NOVA1の変異体は0.3パーセントの者に受け継がれる。しかし「怖いから面白い」という言葉は、遺伝子を持たない者にも渡せる。灯がそうであったように。
この三部作を貫く問いは一つだ。
見えない星は、あるか。
答えは、ある、だ。見えなくても、ある。行けば見える。行けなくても、誰かが行く。誰かが行けば、光が来る。光が来れば、また誰かが行きたくなる。
そのループが、人類を星へと運ぶ。
0.3パーセントと、99.7パーセントが、それぞれの役割で。
星の数だけ、物語がある。
この三冊は、その入り口の一つに過ぎない。
あとがき
『星』三部作の最終篇となる本作を、無事に書き終えることができました。ここまでお付き合いいただいた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
この物語を貫く問いは、一貫して「見えない星は、あるか」というものでした。
宇宙はあまりにも広く、人間の寿命はあまりにも短い。光の速さで通信を送っても、返事が届く頃には、送り出した本人はこの世にいないかもしれない。それは一見、絶望的なディストピアのようにも思えます。
しかし、私はそこに「人間が人間であることの最も美しい営み」を描きたいと思いました。
神代海は、颯太からの決定的な解析結果を自分の耳で聞くことなく、火星の空の下で生涯を終えました。しかし彼には、寂しさはありませんでした。自分の言葉を、そして蒼や凛から受け取った日記を、次の世代である「灯」へと確かに手渡すことができたからです。
遺伝子の繋がりがなくても、血が流れていなくても、私たちは言葉で、光で、意志を繋ぐことができる。「怖いから面白い」というあの無謀で美しい開拓者の魂は、そうして時空を超えていきました。
私たちが生きるこの現実の世界もまた、先人たちが命がけで渡してくれたバトンの先にある未来です。
本を閉じたあと、夜空を見上げた皆様の胸に、彼らが繋いだ小さな「灯(ともしび)」が少しでも灯ることを願って。

