プロテイン・ビヘイビア

Protein Behavior


まえがき

すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。


これは「オルバースのパラドックス」と呼ばれる、天文学の古い謎です。


宇宙が無限であるなら、どの方向を見上げても必ず星があるはずなのに、なぜ夜は暗いのか。その答えは、宇宙の年齢と光の速さにあります。


私たちの頭上には、まだ光すら届いていない「見えない星」が、見えている星よりもはるかに多く存在しているのです。


人類の歴史は、常にその「見えないもの」を目指す旅でした。
かつて、木枯らしの吹く水平線の向こうへ命懸けで舟を出した者たちがいました。彼らはなぜ、引き返すことのできない海へ向かったのでしょうか。


本作は、未知を恐れる代わりに、それに焦がれるよう運命づけられた「0.3パーセントの人間たち」の物語です。


遺伝子に刻まれた見えない地図に導かれ、東京から火星、そして太陽系の外へと命を繋いでいく三世代の旅路。彼らが暗闇の向こうに見出した「星の色」を、どうぞ一緒に見届けてください。



ー序詞ー

すべての星が見えたならば
夜空は
星で埋まり
暗闇はなくなるそうだ

それだけ惑星は多く
それだけ宇宙は広く
それだけ遠くもある

人類は
やっとこの星を
抜け出すことが出来始めて

いつか
他の星へと
移住するのだろう

——作者




序章 星の地図

すべての星が見えたならば、夜空は光で埋め尽くされ、暗闇はなくなるという。


 これはオルバースのパラドックスと呼ばれる古い謎だ。宇宙が無限で、星が均一に分布しているなら、どの方向を見ても視線の先には必ず星があるはずだ。

だが夜空は暗い。その矛盾の答えは、宇宙の年齢と光の速度にある。まだ光が届いていない星たちがある。見えていない星の方が、見えている星よりもはるかに多い。


 人類はいつも、見えないものを目指してきた。



第一部 航海者の血 (西暦2031年・東京)

第一章 0.3パーセント

神代蒼は十九歳の春に、自分が人類の0.3パーセントに属することを知った。
 知らせてきたのは医師でも遺伝カウンセラーでもなく、スマートフォンに届いた一通のメールだった。送信者は「プロテイン・ビヘイビア財団」と名乗っていた。

件名は、シンプルだった。
 「あなたは選ばれています」

蒼はゴミ箱に捨てようとして、手を止めた。本文には彼の遺伝子解析データが添付されており、三ヶ月前に自ら送付したものと完全に一致していた。

就職活動の一環で受けた民間の遺伝子検査だった。CHRM2遺伝子の変異、DRD4の特定のハプロタイプ、そしてNOVA1——神経細胞の可塑性を制御するタンパク質をコードする遺伝子の、きわめてまれな組み合わせ。


 財団の説明によれば、この三つが同時に発現している人間は、全人口のおよそ千人に三人。

蒼の父は漁師だった。北海道の小さな港町で、嵐の夜も船を出した。「海が怖くないのか」と聞いたことがある。父は笑って言った。「怖いから面白いんだ」。
 父は蒼が十四歳の冬に、時化の海で還らなかった。

メールには面談の招待が添えられていた。場所は東京・港区の、ガラス張りのビル。蒼は承諾の返信を打った。

財団の受付で待っていたのは、白衣の女性だった。三十代半ばか、眼鏡の奥の目が静かだった。
「神代蒼さん。私は桐嶋梓、財団の主任研究員です」
 彼女は握手を求めず、かわりに小さな端末を差し出した。画面には螺旋状のグラフィックが回転していた。
「あなたの遺伝子の、この部位を見てください」
 蒼は画面を覗き込んだ。三本の鎖が絡み合う、奇妙な形だった。
「NOVA1の変異体です。タンパク質の立体構造が通常と異なり、ニューロンの接続パターンが特殊になる。具体的には」梓は一呼吸置いた。「未知の環境に対するストレス反応が、一般的な人間と逆転しているんです」


「逆転?」
「ほとんどの人は、未知に対して恐怖を感じる。あなたたちは、興奮を感じる」

蒼は父の言葉を思い出した。怖いから面白いんだ。

「財団は何をしているんですか」
 梓は端末をしまい、蒼を見た。
「人類を、この星の外へ送り出す準備をしています」


第二章 財団の地下

プロテイン・ビヘイビア財団の本部は、地上十八階建てのビルの地下三フロアに広がっていた。
 蒼が案内されたのは、地下二階の研究室だった。ここには世界中から集められた「0.3パーセント」の若者たちがいた。十八歳から二十五歳、三十二名。国籍は十七カ国に及ぶ。

「あなたたちのことを、私たちはプロテイン・ビヘイビアと呼んでいます」梓は言った。「タンパク質の振る舞いが特殊な人々、という意味です。しかし同時に、人類という生命体の根源的な行動様式を体現している、という意味でもある」
「移住?」三人ほど前の席に座ったブラジル人の青年が英語で尋ねた。「どこへ?」
「まずは火星です」梓は答えた。「しかしそれは通過点に過ぎない」

スクリーンに星図が映し出された。太陽系、そしてその外へ伸びる矢印。ケンタウルス座アルファ星、エリダヌス座イプシロン星、τケチ。

「あなたたちの中の誰かが、あるいはその子孫が、いつかあの星に立つかもしれない」
 誰かが小さく息を呑んだ。

隣に座ったのは、黒髪の日本人の女子だった。名を守屋凛といった。東京大学の宇宙工学科の三年生で、目が鋭く、手元のノートパッドに何かを素早く書き続けていた。
「信用できると思う?」蒼が小声で聞くと、凛は顔を上げた。
「財団の資金提供元はすでに調べた。航空宇宙企業三社、スウェーデンの機関投資家、そして匿名の個人。信用できるかどうかは、目的による」
「君はここへ来た目的は?」
 凛はまた前を向いた。「宇宙船を設計したい」

その夜、蒼は宿舎の屋上に上がった。東京の夜空はひどく白んでいて、星はほとんど見えなかった。
 父と一緒に見た北海道の夜空を思った。あの時の天の川の密度。満天とはこういうことかと初めて知った、十歳の夏。
 宇宙は広い。それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 そして今、自分はその入り口に立とうとしている。


第三章 訓練

財団のプログラムは過酷だった。
 午前五時起床、体力訓練。午前中は宇宙医学と生命維持システムの座学。午後は各自の専門分野の実習。夜は語学と宇宙法規。週に一度、心理評価。

蒼に割り当てられた専門は、船外活動と地質調査だった。なぜこの組み合わせなのかを尋ねると、梓は言った。「あなたのデータは、孤立環境での判断力と、物理的な作業への適応速度が高い。そして好奇心が、恐怖を上回る閾値が特に低い」
「褒めているんですか」
「事実を言っています」

三ヶ月が過ぎた頃、蒼は凛と話すようになっていた。凛は居眠りをしたことがなかった。食事も最低限で、常に何かを計算していた。


「眠れているのか」ある夜、蒼が尋ねた。
「眠れているが、眠りたくない」凛は答えた。「夢の中では何も設計できないから」
「君にとって宇宙船は、何なのか」
 凛は少し考えた。「私の両親はエンジニアだった。東北の大震災で亡くなった。私が八歳の時」
 蒼は黙った。


「この星は、時々ひどく意地悪だと思う」凛は続けた。「でも宇宙はもっと意地悪だ。だからこそ、立ち向かう価値がある」

財団のプログラムに参加して半年後、蒼たちは初めて実機訓練のために種子島に向かった。JAXA との共同施設、そこにあったのは次世代の有人ロケット「暁」だった。全長七十二メートル、三段式。第一段に液体水素エンジン六基。月周回軌道まで到達可能。
 蒼はその巨体を見上げ、心臓が速く打つのを感じた。
 恐怖ではなかった。



第二部 大海原への帰還 (西暦2041年・火星軌道上)

第四章 赤い惑星

火星の空は、サーモンピンクだった。
 蒼が初めてその色を見たのは、船外活動用ハッチの小窓からだった。大気圧は地球の約一パーセント。酸素はほぼない。地表気温は昼間でもマイナス二十度を下回る。
 だが、美しかった。

神代蒼は二十九歳になっていた。
 財団のプログラムから選抜された十二名が、火星有人探査ミッションの第一次クルーとして「暁II」に乗り込んだのは、七ヶ月前のことだった。地球を離れる瞬間、蒼は窓から青い惑星を見ていた。あんなに小さいのに、あんなに重かった。
 守屋凛は同じクルーにいた。彼女は船の構造設計を担当し、出発直前まで溶接の検査をしていた。

火星基地「あけぼの」は、オリンポス山の麓から南東三百キロメートルの場所に設置された。三棟のモジュール、太陽光パネル、掘削機。地下に水の氷があることは探査機が確認済みだった。


 蒼の任務は地質調査だった。毎朝、宇宙服を着て外に出る。サンプルを採取し、分析する。地球との通信遅延は最大二十二分。何かあっても、すぐに助けを呼べない。

「怖くないのか」と凛に聞かれたことがある。
「怖いから面白い」蒼は答えた。
 凛は苦笑した。「遺伝子そのままだね」

ある朝、蒼は地表から十七センチメートル下の岩盤に、奇妙なパターンを発見した。規則的な層状構造。生物が作る縞模様に、似ていた。


第五章 発見

分析に三週間かかった。
 基地のキャプテン、田辺修一郎が全員を会議室に集めたのは、火星到着から百三十日目だった。

「報告します」梓はここでも主任研究員として同行していた。彼女の声は静かだが、微かに震えていた。「神代が採取した岩盤サンプルから、炭素同位体比の異常な偏りを確認しました。具体的には、C13対C12の比率が、生物的プロセスの痕跡と一致する範囲に収まっています」
 誰も声を上げなかった。


「火星にかつて生命が存在したことを、直接示す証拠ではありません。しかし、否定する根拠もない」
「どれくらい古いんだ」凛が聞いた。
「三十五億年前から四十億年前の地層です」
 三十五億年前。地球では、最初の単細胞生物が誕生した頃だ。

その夜、蒼は外に出た。
 火星の夜空には、フォボスとダイモスが浮かんでいた。二つの月、不規則な形。そして星。地球からよりも、ずっとよく見える星。
 あの光の一つ一つに、惑星が回っているかもしれない。その惑星に、かつて何かが生きていたかもしれない。
 あるいは今も。

蒼は父のことを考えた。海の向こうへ漕ぎ出した男のことを。
 種族の中の0.3パーセントが、常に次の地平へと向かう。それは盲目的な衝動ではなく、生命そのものの記憶なのかもしれない。

かつて単細胞生物が陸に上がったように。魚が脚を生やしたように。人類が大洋を渡ったように。
 今は、空を超える番だ。


第六章 嵐と選択

火星の砂嵐は、地球のそれとは次元が違う。
 到着から百八十日目、太陽から見て反対側に回り込んだ火星の南半球で嵐が発生した。数日のうちに全球規模へと拡大した。ダスト・ストームと呼ばれるこの現象は、時に数ヶ月続く。太陽光パネルの発電量が九十パーセント低下した。

「電力が持たない」田辺は言った。「地熱発電機の出力上限で計算すると、十六週間分。地球から補給船が来るまで、二十一週間」
 五週間の不足。
「何かを削らなければならない」

選択肢は三つだった。暖房を下げてほぼ全員が低体温症のリスクを負う、食料と水の生産ラインを最低限に絞る、あるいは半数が基地に残り、残り半数が緊急帰還する。

蒼は残ることを申し出た。
 凛も手を挙げた。
「君は帰れ」蒼は言った。「設計者が帰らなければ、次のミッションが遅れる」
「そのロジックは私の方が言うべきだ」凛は答えた。「私がいなければ、このモジュールの緊急修理ができない。帰るべきはあなただ」

二人はしばらく向き合っていた。
「じゃんけんにしよう」凛が言った。
 蒼は笑った。「宇宙でじゃんけんか」
「人類三十万年の知恵だ」

凛が勝った。蒼は残ることになった。
 帰還艇が火星を離れる日、蒼は格納庫の窓から小さくなっていく船体を見た。凛の顔は、通信越しに最後まで何かを計算していた。

嵐の中で、蒼は記録を取り続けた。岩盤の変化、大気の組成、地下水脈の動き。恐怖はあった。しかし恐怖より、ここにしかないデータへの渇望の方が強かった。
 父も同じだったのだろうか、と思った。嵐の海の中で、波のパターンを読んでいたのだろうか。



第三部 見えない海 (西暦2089年・土星軌道外)

第七章 孫娘の時代

神代架は十七歳で、祖父の日記を読んだ。
 祖父、神代蒼は火星から生還した後、プロテイン・ビヘイビア財団の理事になった。守屋凛と結婚し、娘が一人いた。架はその娘の子、つまり孫娘だ。蒼は架が七歳のとき、老衰で死んだ。

日記には火星での日々が書かれていた。嵐の記録、岩盤のスケッチ、発見した炭素同位体パターンの図。そして最後の一節。

「いつか、この先の星に誰かが立つだろう。それは私ではないかもしれない。しかし、誰かの血の中に、私が見た星の色が残っているとしたら、それで十分だと思う」

架の遺伝子解析結果は、二週間前に届いた。CHRM2、DRD4、NOVA1。三つ全部。
 架は、プロテイン・ビヘイビアだった。

2089年、人類は太陽系の外縁に「前線基地」を設けていた。土星の衛星エンケラドゥスに恒久的な居住施設があり、天王星軌道上には太陽系外探査のための発射台が建設中だった。火星はすでに人口三万人を超える入植地となり、自律した政府を持っていた。
 プロテイン・ビヘイビア財団の活動も変わっていた。もはや小さな財団ではなく、国連の準機関として「種間探査機構」に再編されていた。

架に届いたのは、財団の後継組織からではなかった。「エクソ・アーク計画」——恒星間航行を目指す、人類史上最大のプロジェクトからだった。


第八章 エクソ・アーク

エクソ・アーク計画の本部は、エンケラドゥス基地の地下にあった。
 土星の巨大な輪を窓の向こうに見ながら、架は初めてブリーフィングを受けた。

「ケンタウルス座アルファ星Bは、地球から約四・三七光年の距離にあります」説明官は三次元マップを展開した。「現在の技術では、光速の十二パーセントで航行可能です。到達まで約三十七年」
「三十七年」誰かがつぶやいた。
「クルーは出発時に全員、冬眠します。意識のある状態での航行は最初と最後の数年のみ」
 架は手を挙げた。「帰れるんですか」
 説明官は一瞬、間を置いた。「片道です」

会議室が静まり返った。
 帰れない。地球にも火星にも。永遠に。

架は窓の外を見た。土星の輪が光を受けて輝いていた。ここまで来るのに、人類は何百年もかかった。あの輪に最初に望遠鏡を向けた人間は、まさか人間がその傍に住む日が来るとは思っていなかっただろう。

帰れないことを恐ろしいとは思わなかった。
 ただ、さびしいとは思った。

「祖父は」架は口を開いた。「火星から帰れないかもしれない状況で、記録を取り続けたと書いていました。怖かったと思います。でもそれより、そこにしかないものへの渇望が勝ったと」
 架は前を向いた。「私も同じです」

選抜試験は一年に及んだ。エクソ・アーク第一次クルーの定員は二百四十名。応募者は世界中から六万人を超えた。遺伝子的条件だけでなく、技術、心理、医学的な適性が厳しく審査された。
 架はクルーに選ばれた。


第九章 出発

出発の日は、2094年の春だった。
 エクソ・アーク一号は、天王星軌道上の発射台から離れた。全長三百二十メートル、質量八万六千トン。核融合パルスエンジン十六基。二百四十名の乗組員。そして冷凍睡眠ポッドの中に、何千もの種子と受精卵と、人類の知識のアーカイブ。

架は出発前夜、地球に向けてメッセージを録音した。信号が届くまで十三分かかる。返事が来るまで二十六分。この先、その遅延は伸び続け、いつかは届かなくなる。

「おばあちゃんへ。守屋凛。あなたの設計した宇宙船のエンジンは、今も私たちの基礎になっています。おじいちゃんの日記を何度も読みました。


彼が見た火星の空の色を、私は想像することしかできないけれど、あなたたちが歩いた道の先を歩いています。太古の昔、海に漕ぎ出した誰かの子孫が今日もまた、新しい海へと出ます。見えない海の向こう側へ。

帰れないけれど、後悔はありません。きっと向こうにも、そこにしかない星の色がある。愛しています」

船が加速を始めた。
 土星の輪が、遠くなった。
 太陽が、小さくなった。
 暗闇の中に、星だけが残った。

架は冬眠ポッドに入る前、最後に窓を覗いた。
 無数の星。まだ光が届いていない星の方が、はるかに多い。
 父の父の父が漁師だったことを、架は知っていた。嵐の夜も船を出した男のことを。怖いから面白いと言った男のことを。
 その血が、今、自分の中にある。
 それは遺伝子でできた、見えない地図だった。

ポッドが閉まった。
 意識が遠のく前に、架はひとつのことを思った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう。そこから見える太陽は、ただの星のひとつだ。でも、あの光の中に、地球も火星もエンケラドゥスも含まれている。
 見えない星の方が多い。それでも、星はある。

宇宙は広い。
 それだけ惑星は多く、それだけ遠くもある。
 だから、行く。


終章 光の速さで

三十八年後、ケンタウルス座アルファ星Bの第三惑星の軌道上で、エクソ・アーク一号は減速を始めた。
 神代架は、五十五歳になっていた。

窓の外に、青みがかった惑星が見えた。大気がある。液体の水の証拠も、事前調査で確認されていた。生命の痕跡は、まだわからない。
 だが、美しかった。

地球へのメッセージを録音した。届くまで四年以上かかる。返事が来るとしたら、八年後。架が生きているかどうかわからない。
 でも、誰かが来る。架の子供たちが、この星で生まれるかもしれない。その子たちの子供たちが、またこの星から次の星へと向かうかもしれない。

「地球の皆さん、そして火星の皆さん。私たちは着きました。星は、ここにもあります。見えなかった星が、今、窓の外にある。祖父が火星で書いた通りです。見えない星の方が多い。でも、行けば見える。それだけのことです。そしてそれは、十分なことです」

録音を止めた後、架は静かに笑った。
 向こうに着いたら、まず夜空を見よう、と思っていた。
 そして今、ここから見える太陽は、ただの星のひとつだった。
 あの小さな光の中に、すべてが含まれていた。

夜が来た。
 新しい星の、新しい夜が。
 空を埋め尽くす、無数の星とともに。


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あとがきに代えて

オルバースのパラドックスは、十九世紀のドイツの天文学者ハインリッヒ・オルバースが提起した逆説だ。


宇宙が無限で静的であれば、夜空はどの方向を向いても星で満たされ、昼のように明るいはずだ。


しかし実際には夜空は暗い。

その答えは宇宙の年齢と膨張にある——まだ光が届いていない星が、無数にあるのだ。


本書の根底にあるのは、この問いだ。

世界はまだ、知らないことで満ちている。見えていない星の方が多い。行ったことのない場所の方が多い。だからこそ、私たちは前へ進む理由を持ち続けることができる。


「プロテイン・ビヘイビア」という概念は、行動遺伝学における新奇探索行動(Novelty Seeking Behavior)の研究や、特定の遺伝子変異と人類の移動歴史を結びつけた仮説にヒントを得ている。


もっとも、本書はあくまでフィクションであり、科学的厳密さよりも、人間が抱く「ここではないどこかへ」という詩的な衝動を優先して描いた。


太古の昔、見えない海の向こうへと漕ぎ出した私たちの祖先は、決して恐怖を知らない超人ではなかったはずだ。

彼らもまた、震える手で舵を握り、それでも進むことを選んだ市井の人々だった。彼らが臆病でなかったとは思わない。

臆病であっても、進んだのだ。その血のグラデーションが、今ここにいる私たちへと繋がっている。


星はある。見えなくても、そこにある。


そのシンプルな衝動が、冷たい宇宙を生きる人類の小さな灯火となることを願って。
だから、行く。