『ストレスフリー』

――あるいは、消えていく男の奇妙な冒険――

田中孝雄(六十二歳、元・営業部長、現在・ほぼ透明)著


まえがき


私たちはいつから、これほど多くの「つながり」を背負い込むようになったのだろうか。

三十八年間、会社という組織の中で営業一筋に生きてきた。名刺を配り、名前を覚え、夜の街で頭を下げ、人間関係という名の「財産」を必死に築き上げてきた。だが、定年退職を迎えた翌朝、手元に残ったのは静寂だけだった。あの賑やかな日々は、財産などではなく、会社から借りていた「レンタル品」に過ぎなかったのだ。

スマートフォンに残された無数の連絡先を、一つ、また一つと削除していく。

ボタンを押すたびに胸の奥の風船が弾け、心が軽くなっていく。

だが、それと引き換えに、私の「身体」にある奇妙な変化が起き始めた――。

これは、不要なものをすべて手放した男が、少しずつ透明になりながら「本当の豊かさ」を見つけるまでの、お気楽で、少し不思議な冒険の記録である。






第一章 排除の朝

田中孝雄(六十二歳、無職、元・株式会社ミナミ産業営業部長)がスマートフォンの「連絡先削除」ボタンを初めて押したのは、退職から三日目の火曜日の朝、午前九時十七分のことだった。


「鈴木課長」

削除。


「佐々木部長」

削除。


「山田常務」

削除。


「大口取引先・荒木商事・荒木社長」

削除。


ボタンを押すたびに、孝雄の胸の奥で何かが「ぽん」と弾けるような感覚があった。風船が割れるような、あるいは長年詰まっていた排水管がようやく通じたような、そういう感覚だ。


妻の久子(五十九歳、主婦、趣味はガーデニングと韓国ドラマ)は、テーブルの向かいでトーストをかじりながら、夫の様子をちらちらと観察していた。


「あなた、大丈夫?」

「ん?」

「なんか、顔が……」

「顔が?」

「ちょっと薄くなってきてる気がするんだけど」


孝雄は自分の頬をさわった。確かに、何かが薄れている気がしないでもなかった。しかし退職したばかりの解放感からくる錯覚だろうと思い、気にしなかった。


「気のせいだろ。ほら、これで鈴木も消えた」

「鈴木って誰?」

「……俺にも、もうわからん」


それが、すべての始まりだった。




田中孝雄は、三十八年間にわたって株式会社ミナミ産業に勤めた。営業一筋。新卒で入社し、気づけば部長になり、気づけば六十二歳になっていた。


在職中の名刺の枚数は、本人の試算によれば生涯累計で八千七百枚を超える。受け取った名刺を合わせれば、おそらく一万二千枚に達するだろう。会食の数は数えていない。数えたら発狂すると思ったからだ。


「人間関係は財産だ」と、かつて上司に言われた。


財産。


孝雄はその言葉を三十八年間信じてきた。しかし退職パーティーの翌朝、誰からも電話がかかってこず、誰からもメールが来ず、ただ朝の光の中でぽつんとコーヒーを飲んでいると、その「財産」とやらが一体何だったのかが、急にわからなくなった。


財産というものは、普通、持ち続けることができる。


しかし「営業部長・田中孝雄」という肩書きがなくなった途端、あれほど頻繁に連絡をくれていた人たちが、まるで潮が引くように消えていった。


「これはつまり」と孝雄はコーヒーをすすりながら考えた。「財産ではなく、レンタルだったということか」


三十八年間のレンタル料は、給料という形で払ってもらっていた。


そういうことか。


孝雄はスマートフォンを手に取り、連絡先を開いた。そして、一つひとつ、丁寧に、しかし容赦なく、削除を始めた。




削除は、三日間続いた。


連絡先だけではない。SNSのフォロワー。メーリングリスト。ゴルフ仲間のグループチャット。業界の勉強会のメーリングリスト。地域の商工会のLINEグループ。同期入社の飲み会グループ(ここ五年で三人しか書き込んでいなかった)。


ゴルフそのものも、考えてみれば接待のためにやっていた。好きでも嫌いでもなかった。ただ、やらないと失礼にあたる人間関係があったから、やっていた。


では、その人間関係は好きだったか。


……否。


であれば、ゴルフも不要だ。


ゴルフクラブを四本、メルカリに出品した。二日で売れた。


趣味と称してやっていた釣りも、実は釣り仲間の中に重要な取引先が二人いたからだった。その二人も今は連絡先から消えている。釣りをする理由がなくなった。釣り具一式もメルカリに出した。


「あなた、ずいぶん身軽になるのね」と久子が言った。

「身軽が一番だ」と孝雄は言った。




四日目の朝。


孝雄は洗面台の前に立ち、鏡を見た。


「…………」


鏡の中の自分が、明らかに薄かった。


薄い、というのは、体が細くなったとかそういうことではない。存在が、薄い。輪郭が、心なしかぼんやりとしている。半透明とまでは言わないが、一段階か二段階、透明度が増している感じがある。


孝雄は鏡に顔を近づけ、自分の目を見た。


目はある。鼻もある。口もある。しかしそれらが集まって「田中孝雄」を形成しているはずなのに、なんというか、「田中孝雄っぽい何か」にしか見えない。


久子を呼んだ。


「ちょっと来てくれ。俺の顔、変じゃないか」


久子が洗面台を覗き込んで、しばらく黙った。


「……変と言えば変ね」

「だろ?」

「なんか、うっすらしてる」

「だよな」


「でも、気にしなくていいんじゃない?」と久子は言って、台所に戻った。「あなた、ずっと無理してたんだから。体が休んでるのよ。本来の薄さに戻ってるだけよ」


「本来の薄さって何だ」

「さあ」


孝雄は鏡の前でしばらく立ち尽くした。


第二章 近所の変人と不思議な理論

孝雄の家から徒歩三分のところに、松岡仙太郎(七十四歳、元・大学教授、専門は量子物理学)という人物が住んでいた。


孝雄と松岡が知り合ったのは五年前で、ゴミ出しの曜日を間違えた孝雄に松岡が声をかけたことがきっかけだった。以来、ときどき顔を合わせると立ち話をする程度の関係が続いていた。


孝雄が連絡先の大掃除をしていたとき、松岡の名前が画面に現れた。孝雄は親指をしばらくその名前の上に置いたまま、考えた。


松岡という男は、正直言って変わっている。趣味は「宇宙について考えること」で、話しかけると大抵どこかへ行ってしまったような目をしている。実用的な話はほぼできない。会食にも呼べない。商売の役にも立たない。


では、なぜ削除しないのか。


孝雄はその問いの答えを三秒で見つけた。


——面白いから、だ。


松岡の話は、よくわからないけれど、面白い。それだけだ。損得の外側にある理由。孝雄は初めて、純粋な理由で誰かの連絡先を残した。


その翌日、孝雄は松岡の家を訪ねた。


「少し相談があって」

「どうぞどうぞ」と松岡は言って、散らかり放題の居間に孝雄を通した。テーブルの上には物理学の本と将棋の駒と、なぜかバナナの皮が三枚あった。「お茶でいいですか。紅茶は切れてまして」

「何でも」

「では水で」

「……お構いなく」


二人は向かい合って座った。


「顔色が悪いですな」と松岡は言った。

「悪いというか、薄い気がしてるんです」と孝雄は言った。

「薄い?」

「うっすら、こう、透き通ってきてる感じがして」


松岡は眼鏡を外し、孝雄の顔をまじまじと見た。外した眼鏡をテーブルに置いて、今度は眼鏡なしでまじまじと見た。そして眼鏡をかけ直して、首をかしげた。


「確かに」

「でしょう?」

「うっすらしてますな」

「なぜだと思いますか」


松岡はしばらく考えた。本当に考えているのか、どこかへ行ってしまっているのか判断しがたい沈黙が三分ほど続いた後、松岡は言った。


「社会的存在としての密度が下がっているんじゃないですかな」


「社会的存在としての密度」


「人間というのはですね、物理的な体だけで存在しているわけじゃない。他者との関係性の中に、一種の……なんというか、社会的質量とでも呼ぶべきものがある。あなたは三十八年間、膨大な人間関係の中で生きてきた。その関係が急激になくなると、社会的質量が一気に軽くなる」


「それが、薄さとして現れる?」

「可能性はある」と松岡はバナナの皮を一枚どかした。「ただしこれは私の仮説であって、論文にはなっていない。というか、する気もない」

「それは……信憑性が?」

「信憑性の問題ではなく、面倒だからです」


孝雄は少し考えた。


「でも、俺はそれで良い気がしてるんです。薄くなるなら薄くなるで」

「はあ」

「ストレスがなくなって、楽になってる。それと引き換えに少し薄くなるなら、まあ、いいかなって」


松岡はしばらく孝雄を見た。


「……健全ですな」と松岡は言った。「しかし、あまり急激に薄くなると、消えるかもしれませんよ」


「消える?」

「完全に」


孝雄は思わず自分の手を見た。確かに、少しだけ向こうが透けて見える気がした。




帰り道、孝雄はコンビニに寄った。


レジに並んでいると、後ろの客がずかずかと前に出てきて、孝雄を押しのけようとした。


「あ、すみません、私が先に——」


しかし相手は孝雄の方を見ようともせず、まるで孝雄がそこにいないかのようにレジに進んだ。レジの店員も、孝雄に気づかなかった。


孝雄は呆然として、自動ドアの前に立った。試しに手を振ってみた。誰も振り向かなかった。


「……本格的に薄くなってきてるな」


孝雄はコンビニを出た。商品は買えなかったが、なぜかあまり気にならなかった。


第三章 ストレスフリー協会

ある日の午後、孝雄は近所の公民館の掲示板を見ていて、一枚のチラシを見つけた。


【第七回 ストレスフリー友の会 定例会のご案内】
日時:毎週月曜日 午後二時〜四時
場所:公民館 第三集会室
どなたでも参加可能(無料)
ストレスを手放した仲間と語らいましょう


孝雄は少し考えてから、参加することにした。


第三集会室を開けると、パイプ椅子が円形に並んでいて、五人の人間が座っていた。


正確に言うと、五人分の椅子に何かが座っていた。


というのも、全員がぼんやりと薄かったからだ。全員の輪郭が半透明で、向こう側の壁がうっすら透けて見えた。孝雄より薄い人もいれば、孝雄とほぼ同じくらいの薄さの人もいた。


一番薄い人に至っては、ほぼ見えなかった。


「あら、新しい方?」と、比較的濃い(といっても六十パーセントくらいの密度しかないが)女性が言った。「どうぞ、座ってください」


孝雄は空いている椅子に座った。


「田中と申します」

「私は西村です」と女性は言った。「元・小学校教師。六年前に退職して、以来ずっと薄くなり続けています」

「私は伊藤」と隣の男性が言った。六十代後半に見えた。「元・銀行員。定年後に人間関係をすべて整理したら、半年でここまで薄くなった」

「倉田です」とさらに隣の男性が言った。「元・広告代理店。薄さで言えば、ここで二番目です」


「一番は?」と孝雄は聞いた。


全員が一番薄い椅子の方向を見た。


椅子には何かが座っているようだったが、もはや形がほとんど確認できなかった。


「高橋さん」と西村が言った。「元・商社マン。連絡先を四百件削除してから急激に薄くなって、今では声しか聞こえません」


「存在しているんですか?」

「存在しています」とほとんど見えない椅子の方向から声がした。「ただ、もう鏡には映らなくなりました」

「それは……困りませんか」

「困りません」と高橋(推定)は言った。「むしろ快適です。信号待ちで他人に押されることもないし、電車で席を譲るよう圧力をかけられることもない。満員電車でも空間ができます」

「それは……たしかに快適ですね」

「ただ、スーパーのレジが使えなくなりました。セルフレジでも、カメラに映らないので認識されない」

「それは困りそうですね」

「ネットスーパーにしました。配達の人は玄関に置いていってくれるので、顔を見られることもない。完璧です」


孝雄はしばらく高橋(推定)の話を聞いて、なるほどと思った。なるほどと思ったが、そこまでいくのも少し行き過ぎな気がした。


「あの、皆さん、薄くなること自体は……気にしていないんですか」

「気にしていません」と全員が口を揃えて言った。


「でも、消えてしまったら?」

「それもまあ」と伊藤が言った。「いいんじゃないですか」

「そういうものですか」


「そういうものですよ」と西村が言った。「ストレスというのは、他者との摩擦から生まれる。摩擦を減らせば減らすほど、存在の輪郭がなくなっていく。でも、輪郭というのは、突き詰めれば他者のための情報なんです。他者が私を認識するための境界線。その境界線がなくなっても、私の内側は何も変わらない」


「哲学的ですね」

「物理的でもあります」と西村は言って、少し笑った。笑うと輪郭が少し濃くなったように見えた。


孝雄はその日から、毎週月曜日の「ストレスフリー友の会」に通うようになった。


第四章 名刺のない男

問題が起きたのは、孝雄が友の会に通い始めてから一ヶ月が経った頃のことだった。


久子が孝雄を呼んだ。


「あなた、ちょっと来て」


台所に行くと、久子がシンクの前で神妙な顔をしていた。


「どうした」

「さっき、ジュースを作ろうとして、ミキサーをかけたら……」

「ミキサー?」

「あなたがそこに立ってたのに、ミキサーのスイッチが入っちゃったのよ」

「それは危なかったな」

「違うの。あなたが半透明になってるから、私、あなたに気づかなかったの。人がいると思ってなかったの」


孝雄は考えた。


「それはつまり、俺がだいぶ薄くなってるということか」

「だいぶどころか、ほぼ見えないわよ」


孝雄は自分の手を見た。確かに、ほぼ透けていた。台所のタイルの模様が、手の向こうに見えた。


「まあ、気をつける」

「気をつけるって何を?」と久子が言った。「私はね、正直言って怖い。あなたが消えてしまうんじゃないかって」


孝雄は少し考えた。


「消えたら、どうなると思う?」

「知らないわよ」

「俺も知らない。でも、高橋さんは消える手前でも、ちゃんと喋ってたし、快適そうだった」

「あなたはそれでいいの?」


孝雄は窓の外を見た。公園の木が、風に揺れていた。葉の一枚一枚が、光を受けてきらきらしていた。


「わからない」と孝雄は正直に言った。「でも、今、すごく楽なんだ。三十八年間で、こんなに楽になったのは初めてかもしれない」


久子はしばらく黙っていた。


「そうね」と久子はやがて言った。「あなた、ずっと辛そうだったものね」

「そうだったか?」

「そうよ。私には見えてたわ」


孝雄は少し驚いた。久子が孝雄のことを見ていたとは、あまり意識したことがなかった。


「ありがとう」

「でもね」と久子は言った。「完全に消えないでほしいの。見えなくなっても、そこにいてほしいの。声だけでもいいから」

「それは……なんか、怖い話だな」

「あなたが言うな」


二人は台所で少し笑った。




その夜、孝雄は書いた。


退職してから詩を書くようになっていた。理由はわからない。ただ、書きたかったから書いた。


それだけの理由で何かをするのは、子供の頃以来だったかもしれない。


書いた詩は、誰にも見せなかった。出版する気もなかった。ただ、書いた。書いて、満足した。それだけだった。


第五章 増えてくるものたち

ある日の午後、公民館からの帰り道、孝雄はベンチに座っている老人に声をかけられた。


「あんた、かなり薄いな」


孝雄が振り向くと、そこには九十歳近いと思われる老人がいた。しかしその老人は、孝雄よりもさらに薄かった。ほぼ見えなかった。声だけが聞こえた。


「ずいぶん薄いですね、あなたも」と孝雄は言った。

「わしは十二年前から薄くなり始めてな」と老人は言った。「今じゃ、影も映らん」

「影も……」

「代わりに、よく見えるようになった」

「何が?」

「いろんなものが」と老人は言った。「薄くなると、見えなかったものが見えてくる。濃い人間には見えないものがな」


「たとえば?」


「ほら、あそこ」


老人が指差す方向を見たが、孝雄には何も見えなかった。


「何もないですよ」

「まだ薄さが足りんな」と老人は言った。「もう少し薄くなれば、見える。焦らんでいい。薄くなるのは、急いでするもんじゃない」

「アドバイスありがとうございます」

「礼はいい。どうせわしの声も、もうすぐ聞こえなくなるじゃろうし」


孝雄は老人のいたベンチをもう一度見た。すでに何もなかった。


消えたのか、それとも最初からいなかったのか、孝雄には判断できなかった。


第六章 消える前夜

「ストレスフリー友の会」の仲間、高橋(推定)が完全に消えたのは、十月の半ばのことだった。


正確に言うと、消えたのかどうかが確認できなかった、ということだ。会に来なくなった。電話しても出なかった。しかし声も聞こえなくなった。


「消えちゃったのかしら」と西村が言った。

「消えたと言うより、別の次元に行ったのかもしれない」と伊藤が言った。

「あの老人が言ってた話に近いかもな」と孝雄は言った。


高橋の空白の椅子を見ながら、しかし誰もそれほど悲しんでいるようではなかった。不思議と思ったが、孝雄自身も、それほど悲しくはなかった。


人が消えることへの恐怖が、薄さに比例して薄まるのかもしれなかった。




その夜、孝雄は夢を見た。


夢の中で、孝雄は完全に透明だった。体が見えなかった。しかし確かにそこに存在していた。


夢の中の世界は、孝雄が今まで見たことのない色をしていた。木の緑が、現実よりも鮮やかだった。空の青が、現実よりも深かった。土の匂いが、現実よりも濃かった。


そして、夢の中に人々がいた。みんな薄かった。みんな半透明で、みんな、どこかほっとした顔をしていた。


「田中さん」と誰かが言った。


孝雄が振り向くと、高橋がいた。高橋は完全に透明だったが、しかし確かにそこにいた。輪郭は見えないが、存在はわかる。不思議な話だが、夢の中ではそれが当たり前のことのように思えた。


「消えたんですか?」と孝雄は聞いた。

「消えたというか」と高橋は言った。「密度が変わりました」

「密度が?」

「濃い世界から、薄い世界に移っただけです。なくなったわけじゃない」

「ここは、どこですか」

「さあ」と高橋は言った。「名前はまだわかりません。でも、快適ですよ。信号待ちで押されることも、ここにはありません」

「それは前から聞きました」と孝雄は笑った。

「田中さんも、もうすぐ来ますか?」


孝雄は考えた。


「まだ来ない気がする」と孝雄は言った。「久子に、声だけでもそこにいてほしいと言われたから」

「奥さんが?」

「ああ」

「それは」と高橋は言った。「いい理由ですね」


孝雄は目が覚めた。朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


第七章 増える必要のないもの

翌朝、孝雄は台所でコーヒーを淹れた。


久子が起きてきた。


「あなた、ずいぶん……」と久子は言いかけて止まった。

「薄いか?」

「うん。でも」久子はじっと孝雄を見た。「なんか、目が、前よりはっきりしてる」

「目が?」

「目だけ、くっきりしてる。体は薄いのに、目だけ妙に存在感がある」


孝雄は洗面台の鏡を見に行った。久子の言う通りだった。体はほとんど透けていたが、目だけが、異様にはっきりしていた。


「松岡さんに聞いてみよう」と孝雄は言った。




松岡の家を訪ねると、松岡は縁側に座って空を見ていた。


「おお、田中さん」と松岡は言った。「かなり薄くなりましたな。目だけ濃い」

「それを聞きに来ました」

「座りなさい」


縁側に並んで座った。秋の空が、高かった。


「目だけ濃い理由は」と松岡は言った。「見ているからじゃないですかな」

「見ている?」

「社会的な密度が下がると、外側の輪郭は薄くなる。しかし内側——つまり意識や感覚——は、むしろ鋭くなる。あなたは今、今まで以上によく見えているはずだ。よく聞こえているはずだ。よく感じているはずだ」


孝雄は、確かにそうだと思った。コーヒーの味。木の葉の色。久子の声のトーン。今まで気づいていなかったものが、次々と目に入るようになっていた。


「ストレスが雑音だったんですかね」と孝雄は言った。「それが消えたら、本来の感度に戻った?」

「その表現は正確かもしれない」と松岡は言った。「あるいは、もともとそういう人だったのが、三十八年間、雑音で覆われていただけかもしれない」


孝雄は空を見た。


「新たなものを増やす必要はないと気づいた」と孝雄は言った。「今持っているもので、十分だと」

「ほう」

「でも、それは貧しいことじゃなくて……」孝雄は言葉を探した。「むしろ豊かなことな気がして。本当に必要なものだけが残ると、それぞれがものすごくくっきり見える」

「目だけ濃い、ということですな」と松岡は言った。

「そうかもしれない」


二人は縁側で黙って空を見た。雲が流れた。鳥が鳴いた。


松岡は急に立ち上がり、台所に行って、湯のみを二つ持ってきた。

「お茶にしますか。さっき買いました、緑茶」

「ありがとうございます」

「水より美味しい」


お茶が、美味しかった。


第八章 友というもの

十一月になった。


「ストレスフリー友の会」の定例会で、孝雄は一つのことを提案した。


「今日は、各自が今持っている、本当に大切なものを話しませんか。排除したものではなくて、残ったものを」


全員がしばらく考えた。


「妻」と伊藤が言った。

「孫」と倉田が言った。

「朝のコーヒー」と西村が言った。

「公園の桜」と誰か(ほぼ見えない人)が言った。

「松岡さんとのお茶」と孝雄は言った。


しばらく沈黙があった。その沈黙は、不快ではなかった。むしろ心地よかった。薄い人間たちが集まる部屋の、静かで透明な沈黙。


「田中さん」と西村が言った。「最初に来た時より、目が輝いてます」

「体は透けてますが」と孝雄は言った。

「それでいいんです」と西村は笑った。「体が透けて、目が輝く。それが私たちの完成形なのかもしれない」

「完成形って言うと、ちょっと大げさですが」

「大げさがちょうどいいんです。薄くなってる私たちには」


全員が笑った。笑い声だけが、部屋に満ちた。


第九章 ご同輩

ある日曜日の午後。


孝雄は、かつての同期入社の友人、木村(同い年、元・製造部長、退職は孝雄より半年早い)から電話をもらった。


木村は孝雄が「連絡先の大掃除」をしたとき、悩みに悩んで残した数少ない一人だった。損得の外側に残せた相手。


「よう、田中。元気か」

「まあ、そこそこ」と孝雄は言った。「最近、少し薄くなってるけど」

「俺もだよ」と木村は言った。「なんか、うっすらしてきてな」

「そうか」

「悩んだんだが、まあいいかと思って」

「それが正解だと思う」


「退職したら、すごく楽になったわ。もう怒鳴る上司もいないし、無理な数字も追わなくていいし」

「わかる」


「でもな」と木村は少し声を落とした。「ちょっと寂しくもあってな。お前みたいに詩を書くとか、そういう趣味も俺にはないし」


「詩は、なんとなく書き始めただけだよ」

「羨ましいよ。でも俺には書けない気がして。なんか、表現する自分がよくわからなくて」


孝雄は少し考えた。


「それで、いいんじゃないか」と孝雄は言った。「表現するだけが全部じゃないと思うし。木村は今、毎日何してる?」

「散歩」と木村は言った。「毎朝、一時間くらい歩いてる。それだけ」

「それだけで、いいじゃないか」

「それだけじゃ、何も残らないぞ」

「残すために生きてるわけじゃないだろ」


沈黙があった。


「……そうか」と木村は言った。「そうだな」

「散歩、気持ちいいか」

「気持ちいい」

「それで十分だよ、ご同輩」


木村が笑った。


「お前、なんか変わったな」

「薄くなったからかな」

「そうかもな。じゃあまた飲もうや。どうせ二人とも薄いから、互いに見えないかもしれないけど」

「声は聞こえるから、大丈夫だ」


電話を切った後、孝雄は窓の外を見た。夕暮れが近かった。空がオレンジと紫に染まっていた。


こんなに夕焼けが美しかっただろうか。毎日見ていたはずなのに、一度も気づいていなかった。


第十章 ストレスフリー

十二月になった。


孝雄の体は、ほぼ完全に透けていた。しかし目だけは、鮮やかだった。


久子は孝雄の居場所を音で確認するようになっていた。コーヒーを淹れる音。新聞をめくる音。窓を開ける音。詩を書くときのペンの音。


「あなた、そこにいる?」と久子は時々確認した。

「いる」と孝雄は答えた。

「良かった」と久子は言った。


それだけだった。それだけで、十分だった。




「ストレスフリー友の会」の仲間は、今や全員がほぼ透けていた。集会室に行くと、声だけが飛び交った。


「今日は天気が良いですな」

「鍋の季節ですね」

「夫が紅葉を見に行こうと言って」

「孫が就職するらしくて」


話すことは、小さいことばかりだった。大きいことは何もなかった。しかし会が終わると、全員が少し軽くなったような声で帰っていった。


孝雄は最後に部屋を出ながら、ふと思った。


百人いた知り合いが、十人に減った。


いや、「知り合い」が減って、「友」だけが残った。


友の数は少ない。しかしその少なさが、逆にそれぞれの存在を際立たせた。


少ない光の方が、それぞれの光が見える。




大晦日の夜、孝雄と久子は二人で紅白歌合戦を見た。


正確に言うと、久子が見て、孝雄はその隣に座っていた。孝雄がいることは、久子にはわかった。体温がある(透けていても、体温は残っていた)。息の音がある。ときどき「あれは懐かしいな」と言う。


「来年も、こんな感じかしらね」と久子は言った。

「たぶん」と孝雄は言った。「少し薄くなってるかもしれないけど」

「そうね」と久子は言った。「でも、来年の紅白も一緒に見ましょうね」

「ああ」

「声だけになっても?」

「声だけになっても」

「約束よ」

「約束だ」


二人は紅白を見た。年が明けた。


孝雄の体は、ほぼ見えなかった。しかし久子の隣に、確かに存在していた。


それで、十分だった。


エピローグ 春

翌年の春、「ストレスフリー友の会」に新しい人が来た。


六十代前半に見えた。まだ輪郭がしっかりしていて、体も透けていなかった。


しかし顔に、あの感じがあった。退職したばかりの、解放感と戸惑いが混在した、あの感じ。


「田中と申します」と孝雄の声が集会室に響いた。

「え?」と新しい人が言った。「どちらに?」

「ここに」と孝雄は言った。「見えませんか」

「……見えません」

「それはご不便を」と孝雄は言った。「まあ、慣れます。座ってください。歓迎します」


新しい人は、少し迷ってから、空いている椅子に座った。


そして、全員の声だけが飛び交う集会室を、不思議そうに見回した。


「皆さん、みんな……透けてるんですか」

「透けています」と西村の声がした。

「なぜ?」

「ストレスを排除したからです」と伊藤の声がした。

「そんな理由で?」

「そんな理由でです」と孝雄は言った。「でも、薄くなるのは、そんなに悪くないですよ。見えなくなる代わりに、よく見えるようになる」

「……どういうことですか」

「まあ、追々わかります」


新しい人はしばらく黙っていた。そして、「この会費はいくらですか」と聞いた。


「無料です」と全員の声が揃った。


「そうですか」と新しい人は言った。「それは良かった」


窓の外で、桜が咲いていた。


透けた人たちには、桜の花びら一枚一枚の色が、くっきりと見えた。


濃い体を持つ人々には、なかなか見えない色だった。


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あとがき

この物語は、一本の小さな「引き算」のアイデアから生まれました。
現代社会は常に「足すこと」を求めてきます。友達の数、フォロワーの数、所有するモノの量、肩書きの重さ。しかし、それらをすべて削ぎ落とした後に残る「剥き出しの自分」とは、一体どんな姿をしているのだろうか。そんな疑問が、田中孝雄という「消えていく男」を生み出しました。
彼が透明になるにつれて、世界の色彩が鮮やかになっていく描写は、私たちが日々のストレス(雑音)によって、いかに多くの美しいものを見落としているかという裏返しでもあります。
身体が透けても、声だけでつながり、そこにいると信じてくれる妻や友がいる。それだけで、人生は十分に「ストレスフリー」なのだと、この物語を通して感じていただけたなら幸いです。
ご同輩、私たちの人生、薄くなってからが本番かもしれませんよ。


著者・田中孝雄(を演じた書き手)より






〜おまけ〜  


ー65歳の誕生日に書いた原詩ー


ストレスフリー


リタイアと同時に

目の前にいた

多くの

すべての

ストレスを排除した


面倒なやつ

嫌なやつ

うるさいやつ

苦手なやつ…


仕事を離れ

仕事でだけの付き合いを

排除した


いくつかの遊びを辞めて

その遊びでだけの付き合いも

排除した


スマホに残る

不要なあれこれも

すべて排除した


すると

本当に必要なものだけが残り


それからの時間

それだけあれば

足りることを知った


そしてまた

新たなものを

増やす必要すらないことにも

気付いた


100人いた友達は

10人にも減り


いや

友達ではなく

きっと

知り合いだったのだろう


でも

それで良いと決めたら

楽になった


もう名刺はない

もう肩書きもない


あるのは

リアルな自分だけで

嘘偽りなく

目の前のあなたと接することが

出来る


それを

認めてくれるならば

そして

あなたを認めたならば


わずかな持ち時間の中

友となれるのだろう


ご同輩

そんなことだよ