『無目的のインク』
――そちら側を見ないための十四篇
まえがき
私たちはいつから、これほど「意味」を求めるようになってしまったのだろう。
一歩歩けば成果を問われ、立ち止まれば他者に追い抜かれる。スマートフォンの画面の向こうからは、常に誰かの「進歩」が私たちを急き立てる。まるで、何かを生み出さない時間には、生きる価値などないと言わんばかりに。
本書『無目的のインク』は、そんな息苦しい「そちら側」の視線から、そっと目を逸らすために編まれた十四の断章である。
ここにある物語は、あなたの生活の役には立たない。明日の仕事のヒントもなければ、人生を好転させるアドバイスも書かれていない。ただ、目的をなくしたインクが紙に染み込んでいくような、静かな時間があるだけだ。
もしあなたが今、誰かを追い越すことに、あるいは誰かに追い越されることに、いささかくたびれてしまっているのなら。
どうぞ、この本を開いている間だけは、どこへも辿り着かない列車の旅を楽しんでいただきたい。
第一章:遅延するプラットホーム
その日、ハルが乗った快速列車は、定刻通りに走っているはずだった。
窓の外には見慣れたビル群や、灰色に沈んだ住宅街が流れていた。しかし、ふと気づくと、吊り革を掴む乗客たちの顔から一切の表情が消え失せていた。スマートフォンを覗き込む指先も、雑誌をめくる手も、完全に静止している。動いているのは、ハル自身と、車窓の景色だけだった。
「次はいずこ、いずこでございます」
車内アナウンスの声は低く、どこか歪んでいた。列車が速度を落とし、滑り込んだのは、見たこともない木造の古いホームだった。駅名標には何も書かれていない。ただ白く塗られた板が、寒々とした街灯に照らされている。
ハルは弾かれたように列車を降りた。彼が足を一歩ホームに踏み出した瞬間、背後でドアが閉まり、列車は音もなく闇の向こうへ走り去っていった。
改札口らしき場所には、古びた外套をまとった老人が一人、小さな木製の机を前にして座っていた。老人は大きな分厚いノートを広げ、万年筆で熱心に何かを書き殴っている。カリカリ、カリカリと、夜の静寂にペン先の手応えだけが響く。
「あの、すみません」ハルは声をかけた。「ここは、どこ行きの路線の、何という駅ですか」
老人はペンを止めず、顔も上げないまま、掠れた声で答えた。
「ここは、どこでもない場所だよ。意味などなく、どこにも辿り着きもしない。ましてや、君たちが大好きな『進歩』などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ」
「戻る列車は、いつ来ますか」
「さあね。戻りたいと思っている間は、次の列車は停まらない。ここは、目的を忘れた者、あるいは目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる終着駅なのだから」
老人の万年筆がインクを切らし、かすれた音を立てた。老人はようやく顔を上げ、深い皺の刻まれた目でハルをじっと見つめた。
「もしや君も、誰かを追い越したり、誰かに追い越されたりすることに、いささかくたびれた口かね?」
ハルは都会での生活を思い返した。彼の毎日は、目に見えない無数の「物差し」に縛られていた。社内での営業成績、資格試験の進捗、SNSに投稿した写真につく『いいね』の数。常に右肩上がりのグラフを求められ、歩みを止めることは悪だと教え込まれてきた。
一歩でも立ち止まれば、たちまち背後から迫る他者に追い抜かれ、脱落者の烙印を押される――そんな強迫観念が、ハルの胃をいつもきりきりと痛ませていた。
しかし、この静まり返った駅には、そのどれもが存在しないように見えた。空気はひんやりとして心地よく、急き立てるような時計の針の音も聞こえない。勝ちもなく、負けもなく、そもそも比べる対象となる他者がどこにも見当たらなかった。
第二章:境界線のそちら側
駅の外には、薄い霧に包まれた静かな街が広がっていた。街と言っても、まばらに平屋の家々が並んでいるだけで、商店もなければ信号機もない。住人たちはみな、思い思いの場所で、奇妙なほど脈絡のない行動に没頭していた。
ある者は、庭先に積み上げた小石の数を、ただ最初から数え直していた。またある者は、水たまりに映る雲の形を、半日もの間じっと見つめ続けていた。彼らは互いに会話を交わすことも少なく、すれ違う時も、会釈すらしない。かと言って拒絶しているわけではなく、ただ、完璧に独立した気配を纏っていた。
ハルは、広場のベンチに座り、白い砂をバケツから取り出しては地面に丸く敷き詰め、それをまたすぐに手で崩している女性に出会った。その動作には一点の迷いもなく、まるで神聖な儀式のようだった。
ハルはたまらず声をかけた。「あの、何のためにそれをされているのですか。何か、特別な模様を作っているとか?」
女性は手を止め、ハルを見た。その瞳は澄んでいたが、不思議なほどハルの「背景」を透過しているようだった。
「何のため、ですか。そんなものはありません。ただ、やりたいからやっている、それだけです」
「でも、せっかく丸く作ったのに、すぐに崩してしまったら無駄になってしまうのでは……」
「ええ、無駄ですよ」彼女は悪びれる様子もなく微笑んだ。
「無駄だとわかっちゃいても、ひたすらやることがあるのです。私たちはいつも、あちら側の世界にいるとき、意味や成果という名の病気に侵されている。誰かの役に立つか、誰かに褒められるか、そればかりを気にして生きている。でも、ここではそんな必要はありません」
彼女は遠い空を指差した。霧の向こう、はるか遠くに、ぼんやりと赤く明滅する巨大な光の網が見えた。それが、ハルのいた『あちら側の世界』の残像らしかった。
「あちら側を見ず、あちら側を気にせず、あちら側に影響すら与えず。どなたの心にも染みず、どなたの動きをも変えない。そういう、単なる自己満足な中だけで生きることが、どれほど贅沢なことか、あなたなら分かるでしょう?」
第三章:言葉の自給自足
ハルは街の片隅にある空き家に住み着くようになった。そこには最低限のベッドと、簡素な机、そしてインクの入った万年筆と真っ白な束のノートが置かれていた。食事は、毎朝玄関の前にいつの間にか置かれている、味の薄いスープとパンだけで十分だった。
最初の数日間、ハルは何をしていいか分からず、ただ部屋の中をそわそわと歩き回っていた。何かを生産しなければならない、誰かに連絡を取らなければならないという焦燥感が、細胞の隅々に染み付いたままだったからだ。しかし、一週間が過ぎる頃、その意味のない焦りは静かに霧へと溶けていった。
ハルは机に向かい、万年筆を握った。そして、誰に見せるためでもない言葉を、ノートに書き連ね始めた。
かつて彼が書いていた文章は、すべて他人の目を意識したものだった。上司に評価されるための報告書、友人に羨ましがられるためのSNSのテキスト。そこには常に「そちら側」の視線が介在していた。
しかし今、彼がノートに紡ぐ言葉は、誰の心にも染みる必要がなく、誰の行動も変える必要がなかった。ただ、インクが紙に吸い込まれていくその瞬間だけが、ハルという存在のすべてだった。
ハルは、ノートの新しいページにこう書き置きを残した。
時には目的のないことを
意味などなく
どこにも辿り着きもせず
ましてや
進歩などあるはずもなく
どなたも 傷付けることなく
どなたも 追い越さず
どなたにも 追い越されず
勝ちもなく
負けもなく
比べることすら不要
ただ
やりたいからやるとゆ~だけの行為を
無駄だとわかっちゃいても
ひたすら
やることがある
たとえれば
ここに
こ~して
日々
書き込むよ~に
そして
出来ることならば
そちら側を見ず
そちら側を気にせず
そちら側に影響すら与えず
どなたの心にも染みず
どなたの動きをも変えずな ならば
尚も良し
単なる
自己満足な中で。。
ハルが書き終えた時、外では静かな雨が降り始めていた。
窓から差し込む淡い光の中で、黒いインクの文字がゆっくりと乾いていく。それは誰にも読まれない、世界で最も無駄で、だからこそ、最も美しい自己満足の記録だった。
彼はそっとノートを閉じた。
あちら側の世界へ戻る列車がいつ来るのか、あるいはもう二度と来ないのか、今のハルにはどちらでもよいことだった。彼はただ、手の中にある万年筆の心地よい重みだけに、静かに満たされていた。
第四章:音のない楽団
街の東の外れに、廃墟に近い古いホールがあった。
ハルがそこを見つけたのは、霧の中を当てもなく歩いていたある午後のことだった。扉は開け放たれており、中から何かが聴こえてくるような気がして、足を踏み入れた。
ホールの中には、十数人の男女が楽器を持って座っていた。ヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペット。しかし、誰一人として音を出していなかった。それぞれが楽器を構え、弓を動かし、指を動かし、息を吹き込んでいるのに、会場にはただ深い沈黙だけが満ちていた。
ハルは入口に立ち尽くした。
やがて、指揮者らしき白髪の女性がゆっくりと振り向いた。
「驚かれましたか」と彼女は静かに言った。「ここの音楽は、あちら側には届きません。奏でているのは、本人の内側だけに響く音です」
「聴衆はいないのですか」
「いませんよ。聴衆を求めた瞬間に、この音は消えてしまうのです。誰かに感動してもらいたいという念が混じると、弓がぴたりと動かなくなる。だから私たちはただ、自分のためだけに演奏しています」
ハルは静かに椅子を引き、後ろの列に座った。
しばらくすると、不思議なことに、彼の耳の奥に、音が聴こえてくるような気がした。それは外から来るのではなく、胸の中心から湧き上がってくるような、柔らかく、形のない旋律だった。それを「音楽」と呼ぶべきかどうかも、ハルには分からなかった。ただ、それがそこにあることは、確かだった。
第五章:消えていく絵
広場の隅に、老いた画家が毎日やってきた。
彼はキャンバスを立て、筆を取り、油絵を描いていた。色彩は豊かで、構図は大胆だった。だが、絵が仕上がりに近づくたびに、彼は筆を逆さにし、パレットナイフで丁寧に画面を白く塗り潰してしまう。そして翌日、また最初から描き始める。
ハルは何日もその様子を眺めていた。そしてある朝、ついに声をかけた。
「どうして仕上がる前に消してしまうのですか。残しておけば、素晴らしい絵になるのに」
老画家はゆっくりと振り向いた。その手は絵具で染まり、しわが深く刻まれていたが、目だけが若々しく輝いていた。
「残したいと思っていないのですよ」
「でも、誰かに見せれば……」
「見せることが目的なら、私はもうとっくにあちら側の世界を離れていなかった。私が描くのは、描いている間だけ存在するものを描くためです。完成した途端に、それは過去になる。私が欲しいのは完成品ではなく、今この瞬間に動いている筆の、あの感触だけです」
老画家は再び筆を取り、新しい線を引いた。
ハルはその横に腰を下ろし、しばらくの間、ただそれを眺めていた。何も言わずに。
第六章:図書館のない本棚
街の中ほどに、不思議な建物があった。
外観は古い図書館に似ていたが、中に入ると、本棚はあるのに本が一冊もなかった。棚だけが広大な空間に整然と並び、その空白の棚を、人々がゆっくりと歩き回りながら眺めていた。
ハルは棚の前に立っている若い男に声をかけた。
「ここの本は、どこにあるのですか」
男は棚に指を滑らせながら答えた。「ここにありますよ」
「でも何も……」
「あなたの目には見えないだけです。ここにあるのは、誰にも読まれなかった本です。書いた人間が、誰にも見せないと決めて書き、そのまま燃やしたり、海に沈めたりした本。あちら側の世界では消えてしまったものが、ここには全部残っている」
ハルは棚に手を伸ばした。
確かに何もなかった。しかし、指先が棚の木材に触れた瞬間、どこからともなく、誰かの声のような気配が、ほんの一瞬、掌を通り抜けていった。
それが誰の声なのか、ハルには分からなかった。しかし、その感触はしばらく、彼の手の中に残り続けた。
第七章:霧の中の庭師
ハルの住む空き家の裏に、小さな庭があった。
誰が手入れしているのかは分からなかったが、毎朝、庭の土は柔らかく耕されており、名前も知らない小さな花が、霧の中でひっそりと咲いていた。
ある日の夜明け前、ハルは窓から外を眺めていると、庭に人影があることに気がついた。薄い作業着を着た老女が、しゃがんで黙々と雑草を抜いていた。彼女のそばには、抜いた草を入れるための籠がなかった。抜いた草は、そのまま地面に戻されていた。
ハルは外に出て、声をかけた。
「抜いた草を、また同じ場所に置いているのですか」
老女は顔を上げずに言った。「そうです」
「では、また草が生えてきてしまいますね」
「ええ、明日また抜きます」
「それでは終わらないのでは」
老女はようやく顔を上げ、静かに笑った。「終わらせたくないのですよ。終わってしまったら、明日の朝ここに来る理由がなくなる。庭は完成しなくていい。ただ、毎朝ここで土に触れることができれば、それで十分です」
ハルは庭の隅にしゃがみ、しばらく土を眺めていた。冷たく、湿った土の匂いが、鼻の奥に広がった。それは、彼が長い間忘れていた、どこか懐かしい感覚だった。
第八章:届かない手紙
ある日、ハルは街の中に一軒の小さな郵便局を見つけた。
窓口には年若い局員がいて、黙々と何かを書いていた。ハルが近づくと、彼女は封筒の束を差し出した。
「こちら、お使いになりますか」
「手紙を出すことができるのですか。あちら側に届きますか」
「届きません」局員はあっさりと言った。「ここから出した手紙は、どこにも届かない。書いた人間の手を離れた瞬間に、霧の中へ消えていきます」
「では、何のために書くのですか」
「書く、ということ自体のためです。あちら側にいると、手紙というのは必ず誰かに届かなければならないものでしょう。返事が来るかどうかを気にしながら、相手の反応を計算しながら書く。でも、ここでは違います。書きたいことを、ただ書く。それだけです」
ハルは封筒を一枚受け取った。
部屋に戻り、机に向かった。万年筆を取り、長い間考えた。そして、ゆっくりと書き始めた。宛名のない手紙を。届かないことを知っている手紙を。それでも、書かずにいられないことを、丁寧に、一字一字、紙に刻んでいった。
書き終えた後、ハルは封筒を閉じ、窓から外へ放った。
封筒はひらひらと宙を舞い、すぐに霧の中へ消えた。それを見送りながら、ハルは不思議なほど軽くなった胸の中を確認するように、深く息を吸い込んだ。
第九章:時計のない時間
この街には時計が一つもなかった。
最初はそれが不安で仕方なかった。今が何時なのか、何日なのか、何曜日なのかが分からないと、ハルはどうしても落ち着かなかった。あちら側の世界では、時間はいつも誰かに管理され、スケジュールという名の檻の中で生きていた。
しかし二週間が過ぎる頃、ハルは気がついた。
腹が空けば食べ、眠くなれば眠り、書きたくなれば書く。それだけで、一日は過ぎていく。今が夜なのか朝なのかは、光と暗さが教えてくれる。季節の移ろいは、空気の温度が知らせてくれる。時計がなくても、時間は消えたわけではなく、ただ、より自然な形で流れているだけだった。
「あちら側にいたとき、時間は常に足りなかった」とハルはノートに書いた。「しかしここでは、時間は余ることも足りることもなく、ただある。水のように。空気のように。名もなく、あたりまえにある」
その夜、ハルはノートを閉じ、窓の外の星を、何時間かかっているのかも分からぬまま、ただ眺め続けた。
第十章:影の収集家
街外れに、奇妙な趣味を持つ男が住んでいた。
彼は毎日、様々な場所に落ちている影を「収集」していた。木の影、塀の影、鳥が飛び去った後に残った影の痕跡。彼は薄い和紙をその上に置き、それを持ち帰って部屋の壁に貼っていた。もちろん影は紙に写ることはなく、部屋の壁には無地の白い紙が貼られているだけだった。
ハルが訪ねると、男は壁を眺めながら嬉しそうに言った。「今日はいい影を見つけた。午後の斜陽が柳の枝を通り抜けたやつです。あれは格別だった」
「でも、紙には何も残っていないのでは」
「ええ、何も残っていない。でも私の中には残っている。あの柳の影を見た瞬間、あの光の角度を感じた瞬間、それは永遠に私の中にある。物として残らなくても、消えた影は私の一部になっている」
ハルは白い紙の貼られた壁を眺めた。
するとふしぎなことに、そこには本当に何も見えないはずなのに、男の言葉を聞いた後では、うっすらと、光の揺れのようなものが感じ取れる気がした。それが錯覚なのか、それとも別の何かなのか、ハルには判断できなかった。ただ、それはそれでよかった。
第十一章:名前のない料理
この街で唯一、食事を出してくれる場所があった。
場所と言っても、それは誰かの家の台所であり、毎週一度だけ、住人たちが自由に集まって食事を共にするというものだった。料理を作るのは毎回違う人で、ルールはただ一つ、料理に名前をつけてはならない、というものだった。
ハルが初めて参加した時、テーブルには茶色いスープと、平たいパンと、葉物野菜の炒め物が並んでいた。どれも素朴だったが、不思議な旨さがあった。
「これは何という料理ですか」とハルは訊いた。
「名前はありません」と作り手の中年女性は答えた。「名前をつけると、それがどんな料理であるべきかという先入観が生まれる。名前のない料理は、ただそこにある。食べる人が、その人だけの何かとして受け取ってくれればいい」
ハルはスープを一口飲んだ。
それは、幼い頃の冬の朝に飲んだ何かに似ていた。しかし、それが何であったかは思い出せなかった。思い出せなくてもいいと、ハルは思った。ただ、温かかった。それで十分だった。
第十二章:忘れるための記憶
あちら側にいた頃、ハルは記憶力の良さを自慢にしていた。
過去の成功体験、手痛い失敗、同僚への怒り、上司から受けた理不尽な言葉。それらをすべて精緻に記憶し、いつでも取り出せるように整理していた。記憶とは武器であり、資産であると信じていた。
しかし、この街に来てから、ハルは少しずつ物事を忘れ始めていた。
同僚の名前、会社の電話番号、去年の冬に怒鳴られた上司の顔。それらがゆっくりと、霧の中に溶けていくように、意識の外へと退いていった。最初はそれが恐ろしかった。しかし、消えていくにつれて、ハルの中に生まれたのは恐怖ではなく、軽さだった。
老人が言っていた言葉を、ハルは思い出した。「目的に疲れ果てた者が、一時的に預かり置かれる場所」
疲れていたのは、体ではなかった。記憶していた、あちら側のすべてに疲れていたのだ。
ハルはノートに書いた。「忘れることは、逃げることではない。重すぎる荷物を、一度だけ地面に置くことだ。また必要になれば、拾えばいい。しかし今は、ただ手を空にしておく」
第十三章:帰る列車の気配
ある朝、目が覚めると、空気の質が変わっていることにハルは気がついた。
霧は相変わらず街を包んでいたが、どこか薄く、遠く透き通っているように感じられた。風も少し強くなっていた。駅の方角から、かすかに金属の匂いが漂ってくるような気がした。
ハルは万年筆を持ち、最後のページに言葉を記した。それは詩でも散文でもなく、ただの走り書きのようなものだった。
ここに来て
失ったものは何もない
ただ、持ちすぎていたものを
少しだけ
置いてきただけだ
あちら側へ戻っても
この感触を
全部は思い出せないかもしれない
それでいい
指に残った
インクの跡だけあれば
それで十分だ
ノートを閉じ、ハルは空き家を出た。
街の住人たちは今日もそれぞれの無目的な行為に没頭していた。砂を敷く女、影を集める男、音を出さずに演奏する人々。誰もハルに別れを告げなかった。それは冷たさではなく、ここの流儀だった。来ることも去ることも、等しく、ただそうある、ということだった。
駅に着くと、老人が今日も机に向かっていた。ノートは新しいものに替わっていたが、万年筆を動かすカリカリという音は、あの夜と全く同じだった。
「戻るのかね」老人は顔を上げないまま訊いた。
「そうします」
「戻りたくなったということは、ここでやることが、一通り終わったということだな」
「終わった、というより……」ハルは少し考えた。「少し、軽くなった、という感じです」
老人は小さく頷き、また筆を走らせた。やがて遠くから、低いエンジン音が聞こえてきた。
第十四章:無目的のインク
列車は、来た時と同じように、音もなく滑り込んできた。
古いホームの街灯が、一瞬だけ強く輝き、また元の弱い光に戻った。ドアが開き、ハルは乗り込んだ。車内には誰もいなかった。
窓の外に広がる霧の街が、ゆっくりと遠ざかっていく。砂の円を崩し続ける女性の姿が、一瞬だけ見えた気がした。あるいは見えなかったのかもしれない。それはもう、どちらでもよかった。
列車が速度を上げるにつれ、霧が晴れていった。ビル群が現れ、信号機が現れ、スマートフォンを覗き込む人々の姿が窓の外を流れ始めた。
ハルはコートのポケットに手を入れた。そこに、一本の万年筆があった。
街に帰っても、ハルがあちら側の生活に完全に馴染み直すことができるかどうかは、分からなかった。また数字に追われ、比べられ、急き立てられる日々が始まるかもしれない。
しかし、今の彼には、あのノートに書いた言葉の感触が、まだ指に残っていた。
誰の心にも染みる必要のない言葉。誰の行動も変える必要のない言葉。意味も成果も目的も持たない、ただ書かれたというだけの言葉。
それは誰にも読まれないかもしれない。いや、おそらく、読まれない。
だが、書かれたことは確かにあった。インクが紙に吸い込まれた瞬間は、確かに存在した。そしてその瞬間の重さが、今もまだ、万年筆を握る指の腹に、かすかに残っていた。
列車はどこかの駅に到着し、ドアが開いた。
ハルは立ち上がり、万年筆を握りしめ、プラットホームへと降りた。
(了)
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あとがき
街の灯りが遠くに見える。
信号機が規則正しく変わり、人々が忙しなく行き交う、いつもの「あちら側の世界」だ。
本書を書き終えた今、私の手元には、一本の万年筆が残されている。
この物語を紡いでいる間、私は確かにあの霧の街にいた。砂の円を崩す女性の隣に座り、音のない旋律に耳を澄ませ、届かない手紙を風に放っていた。
ページを閉じれば、私たちは再び、数字と効率が支配する現実へと戻っていかなければならない。あの静かな街の記憶も、日々の忙しさの中で、少しずつ薄れていってしまうかもしれない。
けれど、それでいいのだと思う。
すべてを覚えていられなくても、あなたの指の腹に、ほんの少しだけ「インクの心地よい重み」が残っていれば。
誰のためでもない、自分だけの贅沢な無駄を持っていたという感覚さえあれば、私たちはこの騒がしい世界を、もう少しだけ軽やかに歩いていけるはずだ。
最後に、この無目的な旅に最後まで付き合ってくださったあなたに、深い感謝を。
あなたの夜が、静かな雨のように穏やかでありますように。
第十五章
蛇足
列車を降りたプラットホームは、驚くほどいつも通りだった。
発車メロディが鳴り、改札機がカードを飲み込み、吐き出す。
スーツの背中が急ぎ足で階段を下り、スマートフォンの通知がポケットで震えた。
何もかもが、ハルが乗車する前の世界の続きだった。
会社に着くと、デスクの上に書類が積まれていた。
「ハルさん、これ今日中にお願い」
「進捗どう?」
「来週のKPI、もう一回詰めようか」
言葉が、音として戻ってきた。
数字が、意味として戻ってきた。
あの霧の街は、もうどこにも見当たらない。
昼休み、ハルは屋上の隅で弁当を開いた。
ふと、コートのポケットを探る。万年筆は、まだあった。
キャップを外し、弁当の包み紙の裏に、何の気なしに線を一本引く。
黒いインクが、繊維に染み込んでいく。
その、ただそれだけの手触り。
誰の役にも立たない。提出する書類でもない。評価もされない。
「……無駄だな」ハルは小さく笑った。
午後、会議。
部長がホワイトボードに右肩上がりのグラフを描く。
「ここ、もっと伸ばせるよね。意味のある施策を」
その時、ハルの耳には遠くで、あの駅の老人の声が聞こえた気がした。
『進歩などというものは、ここにはひとかけらも転がってはいないさ』
ハルは手元のメモ帳の端に、小さな丸を描いた。
そして、それをぐちゃぐちゃと塗りつぶす。
意味はない。議事録にも残らない。
ただ、やりたいからやる。無駄だとわかっちゃいても。
隣の席の後輩が、怪訝な顔でこちらを見た。
「ハルさん、どうかしました?」
「いや、なんでもない」
夜、帰宅。
部屋の電気をつけ、机に向かう。
あの街で使っていたノートは、もうない。
代わりに、100円の大学ノートを買ってきた。
一日が終わる。
今日の成果は?と問われれば、ゼロだ。
誰の心も動かしていない。売上も1円すら上げていない。
それでもハルは万年筆を手に取る。
誰にも見せない。届かない。名前もつけない。
ただ、インクを紙に落とす。
_カリカリ_という、ちいさな音がした。
それはあの駅の夜と、まったく同じ音だった。
書き終えたページを、ハルは破りもせず、丸めもせず、そのまま机の上に置いた。
明日になれば、また新しい紙に、新しい無駄を書く。
終わらない。終わらせたくないから。
窓の外では、信号機が規則正しく赤から青に変わった。
人々はまだ、どこかへ急いでいる。
ハルはコーヒーを一口飲み、呟いた。
「そちら側を見ず、そちら側を気にせず……」
言いかけたまま、やめる。
続きは、書けばいい。紙の上にだけ。
誰のためでもない。
何のためでもない。
ただ、万年筆が、心地よい重みで手の中にある。
それだけで、今夜のハルは、静かに満たされていた。
――あの街へ戻る列車は、もう来ないかもしれない。
――でも、切符はいつも、ポケットの中にある。
(了)
蛇足でした。 笑
でも、ハルが「あちら側」でどう生きるかを書かないと、この物語は綺麗すぎるまま終わってしまう気がして。
戻ってきたハルは、何も変えられない。世界も、自分も、劇的には変わらない。
ただ、ポケットに一本の万年筆がある。それだけが違う。
その“だけ”が、たぶん一番大事な無駄なんだと思います。

