あの世は なくてはならない
〜冥界第三窓口、本日も混雑中〜
まえがき
この物語は、ひとつの詩から生まれた。
夏の終わり、最愛の祖母と、長年の仕事仲間を続けて亡くした誰かが書いた詩。人生が確実に折り返しを過ぎたと感じながら、「あの世はあるのか?」ではなく「あの世はなくてはならない」と思い至る、静かな詩。
もしあの世があるとしたら——それはどんな場所だろう。
受付があって、番号札があって、待合室があって、窓口のお姉さんがいる。前世照会ができて、渡河の順番待ちがあって、亭主を探しに来た奥さんが怒鳴り込んでくる。
そんな場所ではないか、と思った。
なぜなら、人が集まるところには必ず、そういうものが生まれるから。
この物語の主人公、田中一平は、建設業を三十年続けたオヤジである。妙な縁から冥界管理局で働くことになり、最終的には川に橋を架けようとする。
現世とあの世をつなぐ橋を、土木屋の意地で。
笑えて、少しじんとして、また笑える話を目指した。
それから——あの世はなくてはならない、と思っている方に届けば幸いである。
第一話 辞令
田中一平が冥界管理局に配属されたのは、四十三年間の地上勤務を終えた翌朝のことだった。
前夜、彼は大阪の居酒屋で建設仲間たちと痛飲し、気がつけば布団の上で仰向けになっていた。天井のシミを眺めながら「また飲み過ぎたな」と思った次の瞬間、彼は別の天井を見上げていた。
蛍光灯が三本、等間隔に並んでいた。ただし光が妙に白く、影というものが一切存在しなかった。
「次の方、どうぞ」
声の主は、薄青い制服を着た中年女性だった。カウンター越しに顔を上げ、眼鏡のフレームの上からこちらを見ている。名札には「主任 浜田フジ子」と書いてあった。
「あの……ここは?」
「冥界管理局、第三窓口です」浜田フジ子はすでに書類を手に取っていた。「お名前は?」
「田中一平です。建設業を……」
「はい田中さん、ちょっと待ってくださいね」
彼女はキーボードを叩き始めた。ディスプレイに映っているのが漢字なのかアラビア語なのかそれとも全く別の文字体系なのか、一平にはわからなかった。
「田中一平さん、昭和三十二年生まれ、大阪府出身」
「そうです」
「死因は急性心筋梗塞、享年六十六歳」
「……そうなんですか」
「ご自分でもわかってらっしゃいませんでしたか?」
「いや、なんとなくは……でも確認するとなかなか」
浜田フジ子は「ふんふん」と言いながらスタンプを押した。認印くらいの大きさのそれが、なぜか轟音を立てた。
「では田中さん、現在こちらは定員がやや超過気味でして」
「はあ」
「渡河については少々お待ちいただくことになります。番号札をお持ちになって、向こうのベンチでお待ちください」
渡された番号札には「4,892,017番」と書いてあった。
「……どのくらい待ちますか?」
「ケースバイケースですね」浜田フジ子は淡々と答えた。「早い方で三日、長い方で五十年ほど」
「五十年!?」
「でも退屈しませんよ」彼女はにっこりと笑った。「ここには本もありますし、碁も将棋もできます。それに、同じようにお待ちの方がたくさんいらっしゃいますから」
一平は番号札を握りしめ、茫然と振り返った。
待合室は、想像を絶する広さだった。
どこまでも続くベンチ。ベンチに腰掛けた無数の人々。老人、若者、子ども、おじさん、おばさん。ある者は碁盤を囲み、ある者は文庫本を読み、ある者はただぼんやりと宙を見つめていた。
遠くから、どこかで聞いたような笑い声が聞こえた気がした。
一平はゆっくりとベンチに座り、番号札を眺め、深くため息をついた。
五十年か。
まあ、急いでどこへ行くわけでもないか。
そう思い直した瞬間、隣に人が座った。
「兄ちゃん、何番?」
振り返ると、七十代とおぼしき小柄な老人がにこにこしていた。赤ら顔で、いかにも酒飲みそうな顔つきだった。
「四百八十九万……」
「ほお、ワシは四百八十八万九千番やから、ちょっと先輩やな」老人はうれしそうに言った。「よろしゅう頼んまっせ。山本徳造いいます。元左官屋です」
一平は思わず笑った。
「田中一平です。元建設業です」
「おお、同業者や!」山本徳造は手を叩いた。「それやったら話が合いそうやな。ほな、待ってる間に一杯やりますか。ここ、酒もあんねん」
「あの世に酒があるんですか?」
「当たり前やろ」徳造は呆れたように言った。「酒もない天国なんか、誰が行くねん」
一平は、ここが存外悪くない場所かもしれないと思い始めた。
第二話 クレーム
冥界管理局第三窓口に、クレームが持ち込まれたのは、一平が来て三日目のことだった。
持ち込んだのは、小柄で血色のいい七十代の女性だった。名前を菊池ハルといった。
「ちょっと聞いてください!」
ハルはカウンターに両手をどんと置いた。浜田フジ子は眼鏡のフレームの上から彼女を見た。
「はい、どのようなご用件でしょうか」
「うちの亭主がこっちへ来てないんです!」
「はあ」
「三年前に死んだんですよ、うちの人は。それがここに来てないっていう話で」
「少々お待ちください」フジ子はキーボードを叩いた。「菊池……ご主人のお名前は?」
「菊池勝男です。昭和十五年生まれ、大阪の人間で、三年前に脳梗塞で……」
「菊池勝男さん」フジ子はディスプレイを見た。「あ、おりますよ」
「え? どこに?」
「第七待合室、ベンチ四列目、左から二番目」
「なんで三年も待ってるんですか!」
「定員超過です」フジ子は申し訳なさそうに言った。「特に昭和の男性が……非常に多くて」
「呼んでくれません? 夫に会いたいんです」
フジ子は少し考えてから「規則では少々難しいのですが」と言いながら内線電話の受話器を持ち上げた。
「第七待合室、係の方、菊池勝男さんをお呼びいただけますか。第三窓口にご家族が」
しばらくして、足音が聞こえてきた。
奥の扉から現れた菊池勝男は、白いランニングシャツにステテコ姿だった。ハルを見た瞬間、明らかに「しまった」という顔になった。
「あんた!」
「お、おう」
「三年も黙ってたんですか!」
「いや、連絡しようにも……なんせここには電話がなくて」
「あなたが来てから三年、私がどんな思いで……!」
「すまん、すまん」
勝男はしゅんとした。ハルは泣いていた。
フジ子は静かに目を逸らし、書類の整理を始めた。
隣のベンチで見ていた一平が、そっと山本徳造に耳打ちした。
「夫婦って、こっちへ来ても変わらんな」
「当たり前や」徳造はしみじみと言った。「人間、変われるもんならとっくに生きてる間に変わっとる」
フジ子はふと顔を上げ、ハルに言った。
「菊池さん、奥様も番号札をお持ちですよね。よろしければ、ご主人のお隣でお待ちいただくことはできますが」
「……それはできるんですか?」
「例外的な措置ではありますが」フジ子は小さく微笑んだ。「夫婦ですから」
ハルは鼻をすすりながら頷いた。
勝男は、ほっとしたような、しかし若干困ったような顔をしていた。
三年ぶりの夫婦は、肩を並べて第七待合室へ向かった。
一平はそれを見送りながら、ふいに自分の番号札を見た。
四百八十九万二千十七番。
まだずいぶん先だ。
でも、まあ、急ぐことはない。
第三話 臨死体験者の証言
冥界管理局に、生きた人間が来ることがある。
正確には「来かけた人間」である。
一平が来て十日目、待合室にちょっとした騒ぎが起きた。
菜の花畑の向こうから、おろおろした様子の女性が歩いてきたのだ。七十代くらいで、割烹着を着ていた。
「あの……すみません、ここ、どこですか?」
フジ子は素早くカウンターから出てきた。
「お名前を教えていただけますか?」
「大野ヒサです。大野ヒサといいますが……わたし、ここへ来る予定やったんでしょうか?」
フジ子はキーボードで確認した。
「大野ヒサさん、七十二歳。現在……あ」
彼女は眉をひそめた。
「どうかしましたか?」と一平が口を挟んだ。なぜか彼は三日前から、非公式に窓口の手伝いをするようになっていた。暇だったのと、フジ子に「手先が器用そうですね」と言われたのがきっかけだった。
「この方、予定が入ってないんです」フジ子は首を傾げた。「システム上は……まだ地上にいることになっていて」
「え?」
「つまり」フジ子はヒサに向き直った。「大野さん、今いくつかのご病気で入院中ですよね?」
「そうです。心臓が……それで気を失って……」
「途中まで来かけてしまったようですね。でも正式な手続きはまだのようで」
ヒサは菜の花畑の方を振り返った。
「あそこに川があって……向こう岸に、もう亡くなった父母がいて……」
「見えましたか」
「はい。母が必死に『来るな』って叫んでいて……でも父が『おいで』と言っていて……どっちを向けばいいか分からなくて、ここへ来てしまいました」
フジ子はため息をついた。
「このパターン、よくあるんですよ。ご両親が意見対立されて、結果的にお客様がこちらへ迷い込まれる」
「よくあるんですか?」
「月に二十件ほど。昭和のご夫婦に多いですね。向こう岸でも仲よくされてない」
一平は思わず笑った。
ヒサはおろおろしていた。
「わたし、どうすればいいんでしょう?」
「ご安心ください」フジ子はテキパキと書類を取り出した。「正式受付前の方は、お帰りいただけます。ただ、手続きが必要です」
彼女はスタンプを取り出した。またあの轟音がした。
「これでキャンセル処理が完了します。ただ、一度こちらへいらっしゃった方は……」フジ子は少し改まった声で言った。「しばらくはこちらも満員で受け付けられませんので、地上でもう少し長くお過ごしいただけます」
「長く……どのくらい?」
「ケースバイケースですが、早くて十年、長ければ三十年ほど」
ヒサは目を丸くした。
「三十年! そんなに!?」
「一度こちらへいらした方は、不思議と長生きになられる方が多いんです。こちらの空気に触れると、なにか体に良いものでも吸収されるんでしょうか。私たちにもよくわかりませんが」
一平は、自分の祖母のことを思い出した。彼女も同じような経験をして、その後六十年生きたと言っていた。
「フジ子さん」一平は言った。「それ、前から不思議やったんですが、なんでそうなるんですか?」
「さあ」フジ子は涼しい顔で言った。「あの世の不思議というのは、こちらにいる私たちにもよくわからないことが多くて。こっちもわからないことだらけですよ、実は」
そう言って彼女はにっこり笑った。
ヒサは菜の花畑の方を見た。川の向こうに、まだ両親の姿が見えていた。
「戻ります」彼女は静かに言った。「母の言う通り、戻ります」
「よいご判断です」フジ子は頭を下げた。「ではお気をつけて。次にいらした時は、ちゃんとご用意してお待ちしています」
ヒサはゆっくりと菜の花畑の方へ歩いていき、やがてその姿は消えた。
待合室がしんと静まり返った。
「……」
一平は何も言わなかった。徳造も黙っていた。
しばらくして、徳造がぽつりと言った。
「ええな。戻れる人は、戻った方がええ」
一平は頷いた。
「そうやな」
フジ子は書類をきちんと閉じ、ファイルに戻した。そして次の番号を呼んだ。
「四百八十八万八千七百三十二番のお客様、お待たせしました」
第四話 前世相談
冥界管理局には、様々な窓口があった。
第一窓口は「受付・初回登録」。
第二窓口は「渡河手続き」。
第三窓口は、一平が最初に通された「一般相談・その他」。
第四窓口は「前世照会」だった。
一平が第四窓口の存在を知ったのは、待合室で二週間を過ごした頃だった。
「前世が照会できるんですか?」
「できますよ」フジ子は言った。「でもあまりお勧めしていません」
「なんでですか?」
「ガッカリされる方が多いので」
一平は興味を持ち、第四窓口を覗きに行った。
担当者は、四十代くらいの細身の男性で、名札には「係長 石原ノブオ」と書いてあった。几帳面そうな顔をしていた。
「前世を知りたいというお客様ですか?」
「ええ、まあ……どんなものかと思って」
「どうぞ」石原は椅子を指した。「お名前は?」
「田中一平です」
石原はキーボードを叩いた。ディスプレイを見て、眉をぴくりと動かした。
「ありましたよ、田中さんの前世」
「どんな人間だったんですか?」一平は少し身を乗り出した。
「百三十二年前、岡山県の農家の次男坊。田んぼを耕して、縁側でスイカを食べて、五十八歳で亡くなっています」
「……それだけですか?」
「それだけです」
「武士とか、お姫様とかじゃなくて?」
「ないですね」石原は淡々と言った。「地上の占い師たちは、やたら武士とかお姫様とか言いたがりますが、統計的にはほとんどの方が農民か職人です。地上の歴史でも、武士やお姫様より農民の方が圧倒的に多いわけですから、当然と言えば当然で」
「それは……まあ、そうですね」
「その前の前世は?」と一平は聞いた。
「三百年前、江戸の大工。腕はまあまあ。四十二歳で落下事故で亡くなっています」
「…………」
「さらにその前は、農民。その前も農民。その前は漁師。その前も農民」
「ちょっと待ってください」一平は手を挙げた。「一回くらいドラマチックなのはないんですか?」
「うーん」石原は画面をスクロールした。「あ、これは少し違う」
「なんですか?」
「千二百年前、遣唐使の船に乗っています。中国まで行っています」
「おお!」
「ただし船酔いで寝込んでいたようで、中国に着いたかどうかの記録がありません」
「……」
一平は深くため息をついた。
「あなたは良い方です」石原は書類を閉じながら言った。「中には、前世が全部同じ村の農民という方もいますし、十七回連続で同じ職業という方もいます」
「それはそれでスゴいですね」
「あとは、ご自分が過去に何者であったかより、今この待合室でどんな方と出会っているかの方が、ずっと重要な気がしますけどね」石原はそう言って、眼鏡を拭いた。「前世を知っても、ここでの番号は変わりませんし」
一平は第三窓口に戻り、ベンチに座った。
「どうやった?」と徳造が聞いた。
「農民やった」
「ワシもや」徳造は笑った。「左官屋の前は農民で、その前も農民で、その前は染め物屋やって。五回に一回くらい職人になってる」
「わりと一貫してるな」
「そやろ。前世でも土をこねてたわけや」徳造は膝を叩いた。「人間、本質は変わらんってことやな」
一平は笑いながら、ビールを一口飲んだ。
こちらのビールは、どういうわけか飲んでも酔わなかった。でも美味かった。それだけで十分だと、一平は思っていた。
第五話 橋の設計
一平が冥界管理局で「臨時補助スタッフ」として働き始めて、三週間が過ぎた。
きっかけは些細なことだった。フジ子がある日、書類の棚が重くて上に届かないと言い、一平が手伝ったのが始まりだった。次の日は、待合室の蛍光灯が切れていて、一平が脚立に乗って取り替えた。さらに次の日は、第三窓口のカウンターが傾いていて、一平が工具箱を探して直した。
「田中さんって、なんでもできますね」フジ子は感心したように言った。
「仕事柄ですよ。三十年、現場やってましたから」
「こちらはですね、実は慢性的な人手不足でして」フジ子はカウンターに肘をつきながら言った。「亡くなった方をスタッフにするという発想があまりなくて」
「呼ぶ気になれば、いくらでも人はいるじゃないですか」と一平は待合室を指した。
「それが……ちょっと言いにくいんですが、こちらのスタッフは全員、生前に公務員だった者でして」
「……そういうシステムなんですか」
「慣例、といいますか。私も生前は市役所の窓口係でした」
「道理でテキパキしてるわけだ」
フジ子は少し照れたように笑った。
そういうわけで一平は、臨時補助スタッフとして第三窓口の雑用を引き受けることになった。番号が呼ばれたらすぐ行けるよう、待合室から呼び出せる体制で。
それから数日後、一平は大きな問題に気がついた。
川に橋がないのである。
冥界と地上をつなぐ川は、あの菜の花畑の向こうを流れていた。渡るには船しかなく、しかもその船が一隻しかなかった。これが待ち時間が長い根本原因だと、一平は職業的直感で理解した。
「フジ子さん、あの川に橋を架けたら、もっと流れが良くなるんじゃないですか?」
「橋、ですか」フジ子は少し驚いた顔をした。「そんなこと、考えたことがありませんでした」
「土木屋から見ると、あの川幅やったら、ちゃんとした橋が一本あれば、処理能力が十倍くらいになりますよ」
「十倍!」
「それに」一平は続けた。「橋があれば、さっきのハルさんみたいに、こっちに来てから向こうに戻りたい人も、もっとスムーズに行き来できますよね?」
フジ子は腕を組んで考えた。
「確かに……でも、橋を架けるとなると、上の許可が」
「上?」
「局長です」フジ子は天井を指さした。「このビルの最上階にいらっしゃいます。ただ、あの方は少々……お会いするのが難しくて」
「難しい?」
「いつ行っても寝ていらっしゃるので」
「……局長が?」
「もう何千年も眠り続けていらっしゃいまして。起きたところを見た者がおりません」フジ子は困り顔で言った。「仏陀ともお釈迦様とも噂されているんですが、定かではなくて」
一平は額に手を当てた。
「それ、会議の決裁は誰が?」
「副局長の山田さんが、すべて代行されています」
「山田副局長に話しましょう」
副局長の山田は、見るからに疲れた顔をした五十代の男性だった。机の上に書類が山積みになっていた。
「橋の設計、ですか」山田は一平の話を聞きながら、書類の山を崩さないよう注意深くお茶を取った。「いや、良い話だと思いますよ。実は私も前々から思っていたんですが、なにせ予算が……」
「予算? こちらに予算の概念があるんですか?」
「もちろんです。魂の処理コスト、というものがありまして」山田はため息をついた。「局長が起きていらっしゃった時代に作られた制度がそのまま続いていて、なかなか改革が」
「局長……いつ起きますか?」
「わかりません」山田は天井を見た。「たまにうっすら目を開けるんですが、またすぐ閉じて」
一平は考えた。
「つまり、現行のリソースで何とかするしかない、ということですね」
「そういうことです」
「わかりました。設計書を作ります。無償で」
「無償で?」
「どうせ暇なんで」
山田副局長は感激したように立ち上がり、一平の両手を握った。
「田中さん、あなたは冥界が生んだ最大の人材です」
「大げさな」一平は照れながら言った。「土木屋が橋を架けたいと思うのは、本能みたいなもんですから」
その夜、一平は待合室のベンチで設計書を描き始めた。
隣に座った徳造が覗き込んだ。
「橋か。ええな」
「こっちに来た建設・土木の連中が揃ったら、みんなで作ろうと思って」
「そら楽しそうや」徳造は目を細めた。「ワシも左官でよかったら手伝うで」
「もちろんや」一平はにやりとした。「橋ができたら、こっちとあっちを自由に行き来できるようになるかもしれん」
「行き来?」
「設計次第やけど。完全には無理でも、せめてたまに顔を見せに行けるくらいの」
徳造はしばらく黙っていた。
「……ワシな、孫がおるねん」
「うん」
「もう一遍だけ、顔が見たいわ」
「架けようや、絶対に」
一平は鉛筆を走らせた。
蛍光灯の白い光の下で、橋の設計図は少しずつ形になっていった。
第六話 宴と約束
橋の設計書が完成したのは、一平が冥界管理局に来て一ヶ月目の夜だった。
山田副局長が設計書を見て感激し、「記念に一席設けましょう」と言い出した。
冥界管理局、第三待合室が、その夜だけ宴会場になった。
集まったのは、一平、徳造、ハルと勝男夫婦(結局仲直りしていた)、石原係長、フジ子主任、山田副局長、それに待合室の常連客として馴染みになっていた元大工の村田、元板前の北川、元消防士の田島、元教師の坂本という面々だった。
酒は、どういうわけか際限なく出てきた。あの世のビール、あの世の日本酒、あの世のウイスキー。飲んでも酔わないが、美味かった。
「乾杯!」
一平が音頭を取ると、みんなが杯を上げた。
「田中さんよ」北川が言った。「ここに来て一ヶ月で、もう設計書を作るとは大したもんや」
「暇やったから」
「でも、こんなに笑ったのは久しぶりや」ハルが言った。「こっちへ来て不安やったけど、みなさんのおかげで」
「お互いさまです」フジ子がお茶を飲みながら言った。彼女は飲酒しなかった。「皆さんがいらっしゃると、窓口も活気が出て」
「フジ子さんは、何年ここにいるんですか?」一平は聞いた。
「さあ……数えたことがないんですが」彼女は少し考えた。「地上では昭和四十三年に亡くなりましたから、もう五十年以上は」
「五十年! ずっとここで働いてるんですか?」
「嫌いじゃないんです、この仕事」フジ子は静かに言った。「毎日、新しい方がいらっしゃるでしょう? いろんな人生を持った方が。話を聞いていると、地上というのは本当に面白いところだなと思って」
「フジ子さん、戻りたいとは思わないんですか?」
フジ子は少し驚いた顔をした。
「……たまには思いますよ」彼女はゆっくり言った。「でも、ここでできることもありますから。橋が架かれば、渡ってきた方々がスムーズに落ち着けるよう、もっとよい環境を整えたいと思っています」
宴はにぎやかに続いた。
元大工の村田が「橋を架けるなら大工も必要や」と言い、元土木屋の一平と意気投合した。元左官の徳造が「橋脚の仕上げはワシに任せろ」と胸を叩いた。元板前の北川が「完成したら打ち上げの料理を作る」と宣言した。
宴会の終盤、山田副局長が立ち上がり、少し改まった声で言った。
「皆さん、実は今日、特別なお知らせがあります」
一同が静まり返った。
「局長が……」山田は天井を見た。「今日の夕方、少し目をお開けになりました。そして私に、一言だけおっしゃいました」
「何を?」一平は聞いた。
「『橋、いいね』と」
沈黙。
そして爆笑が待合室に響いた。
「局長、橋の話を知ってはったんや!」
「ずっと寝てるふりしてただけちゃうか!」
「『いいね』って……SNSやあるまいし!」
笑いがひとしきり続いてから、一平は杯を持ち上げた。
「では改めて」彼は言った。「橋の完成に向けて。あっちとこっちをつなぐ橋のために」
「乾杯!」
全員が声をそろえた。
その夜、宴が終わって一平が待合室のベンチに一人で座っていると、フジ子が片付けをしながら言った。
「田中さん、一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「地上に、迎えに来てほしい誰かがいますか?」
一平は少し考えた。
「バアちゃんが、そのうち来ると思います。それと、同期のやつが一人、最近こっちに来るはずで」
「お迎えしますよ」フジ子は言った。「しっかり。第三窓口で」
「頼みます」一平は言った。「あいつ、方向音痴やから、迷子になりかねん」
フジ子は笑った。
「大丈夫です。迷子になっても、こちらには必ず案内板がありますから」
一平は夜空を見上げた。冥界にも夜があり、星があった。地上の夜空よりずっと多くの星が、静かに輝いていた。
橋の設計図を持ちながら、一平は思った。
まだいくつか課題はある。設計書の細部、許可の手続き、工事の順番。
でも、仲間がいる。道具がある。時間もある。
なにより——急ぐことはない。
星空の下、番号札をそっとポケットにしまいながら、一平は静かに目を閉じた。
エピローグ 第三窓口より
それから数ヶ月後——正確な時間の感覚は冥界では難しいが——菜の花の川に、小さな木の橋が架かった。
大きな橋ではない。ひとりずつしか渡れない、素朴なものだ。でも欄干は徳造の手で丁寧に漆喰が塗られ、橋の両端には北川が作ったという小さな看板が立っていた。
地上側の看板には「こちらへどうぞ」。
冥界側の看板には「またいつかお待ちしています」。
橋の完成式典に、待合室の常連が全員集まった。山田副局長も来た。
局長は来なかったが、後でフジ子に聞いたら「遠くから見ていらっしゃいましたよ、少し目を細めて」とのことだった。
一平は欄干に手をついて、川の向こうを眺めた。
菜の花が揺れていた。川の音がしていた。向こう岸は霞んでよく見えなかったが、なんとなく、誰かがいる気がした。
「バアちゃん」と一平は小さく言った。「もう少ししたら、こっちへ来いよ。待ってるから。でも急がんでいい。地上で、もうちょっとゆっくりしてていい」
川風が吹いた。
一平は背を向け、第三窓口に戻った。
フジ子がいつものようにカウンターにいた。眼鏡のフレームの上からこちらを見ていた。
「田中さん、今日も手伝っていただけますか?」
「もちろん」一平はエプロンを取った。「今日は何件ですか?」
「百三十二件ほど」
「多いな」
「月末は込むんです。なぜかわかりませんが」
「こっちも月末があるんですか」
「ありますよ。あの世も、なかなか忙しいです」
一平は笑いながら、カウンターの隣に立った。
今日も第三窓口は開いている。
戸惑いながら、おろおろしながら、あるいは堂々と、あるいは涙をこらえながら。
いろんな人がやってくる。
一平は番号を呼んだ。
「次の方、どうぞ」
扉が開いた。
——終——
アマゾン キンドル
あとがき
書き終えて、妙に静かな気持ちになった。
あの世の受付嬢・浜田フジ子は、とても真面目で、少し不器用で、でも仕事が好きで、窓口越しに何万人もの人生を見てきた人間だ。書いているうちに、自然とそういうキャラクターになっていた。
田中一平は、建設現場で三十年、土と鉄とコンクリートと格闘してきた人間だ。死んでも橋を架けようとする。そういう人間は確かにいる。いや、そういう人間ばかりが、この国を作ってきたのではないか。
親鸞が「あの世はなくてはならない」と言ったのは、証明の話ではなかった。愛した人たちが、どこかにいてくれると思えること。それが残された者に、生きる力を与えるのだということ。
祖母が臨死体験から戻り、その後六十年生きた話。川の向こうで叫ぶ親の姿。
それは嘘ではないと思う。少なくとも、その人にとっては本物だったはずだ。
人間には、そういうものが必要なのだ。
証明できなくても。科学的でなくても。
あの世は、なくてはならない。
だから、この物語を書いた。
あなたの大切な人も、きっとどこかの待合室で、番号札を持って、誰かと笑いながら待っていると思う。
そして橋が架かったなら——いつかまた会える。

