宝くじ銀河
―― あるいは当たらない理由が多すぎる件について
A Lottery Space Opera
まえがき
―― あるいは、免責事項として
本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、将来的な弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。
ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。
序文 ―― あるいは、免責事項として
本書に登場する「宝くじタイムマシン」は、現時点では実在しない。
念のため申し添えるが、「現時点では」という修飾語は、著者の誠実さの証明であると同時に、弁護士費用を節約するための高度な法律的工夫でもある。
また、本書に登場する政府機関「国家宝くじ管理委員会」も現時点では実在しない。しかし読者の皆さんが「なんとなくありそう」と感じるなら、それはあなたの正直な社会観察眼が優れているからであり、著者の責任ではない。
本書はフィクションである。ただし、宝くじが当たらないという事実だけは、完全なるノンフィクションである。
プロローグ 夏の午後、五百円の奇跡と絶望
西暦二〇二四年、八月某日。
午後三時十七分。
銀座の地下通路。
田中一平(四十三歳、独身、課長補佐、趣味:宝くじ購入、特技:当選しないこと)は、売り場の前で三分間立ち尽くしていた。
看板には「サマージャンボ宝くじ 一等前後賞合わせて十億円!」と書いてある。
十億円。
一平はその数字を、まるで古代の象形文字を解読するように、じっくりと読んだ。
一 〇 億 円。
十億円あれば何ができるか。住宅ローンの残金四千二百万円を返済しても、まだ九億五千八百万円残る。会社を辞めても、年利三パーセントで運用すれば毎年二千八百万円の収入だ。つまり一生、課長補佐の松田部長に「田中くん、例の件だが」と声をかけられることなく生きていける。
素晴らしい。
あまりにも素晴らしすぎて、現実感がない。
「お客様、お決まりでしょうか」
売り場のおばさん――「宝くじ売り場の福の神」と書いたエプロンを着用している――が、穏やかに問いかけた。二十年来の付き合いで、一平は毎年彼女から宝くじを買っている。毎年。ただの一度も当たったことがない。
「連番で三枚、ください」
「はいはい、毎度ありがとうございます」
おばさんは慣れた手つきで三枚を取り出した。
「田中さん、今年こそですよ」
「毎年そう言いますよね」
「毎年そう思うんですよ」
一平は千五百円を払った。財布には残り八千円しかない。明後日が給料日だから、まあいい。
受け取った三枚の宝くじを、一平は光にかざして見た。
番号は「ユ組 123456番」「ユ組 123457番」「ユ組 123458番」。
連番だ。もし一等が「ユ組 123457番」なら、前後賞も合わせて十億円が手に入る。
「あの」と一平は言った。「今、当選番号、わかりますか」
おばさんは優しく首を振った。「抽選は来月ですよ、田中さん」
「そうですよね」
一平は宝くじを大事にポケットに入れた。
そして歩き出した。
これから一ヶ月、彼は億万長者である。
少なくとも、当選発表があるまでは。
第一章 量子力学と宝くじの意外な共通点
田中一平の隣の席には、柴田博士がいる。
正確に言えば、柴田博士は一平の会社の社員ではない。一平の勤務する商社「大東物産」の向かいのビルに入っている「柴田量子研究所」の所長であり、昼食時に同じ定食屋を利用するという縁で、十年来の顔見知りである。
本名・柴田量一。六十二歳。白髪で細身。常に実験用の白衣を着て街を歩くため、近所では「あの変な先生」として知られている。ノーベル賞を三度受賞しているが、本人は「あんなもの、権威の押しつけだ」と言って賞状をトイレに飾っている(「謙遜の極致か、傲慢の極致か」と論争になったが、本人は「トイレが一番落ち着いて読める場所だから」と言っており、議論は有耶無耶になった)。
その柴田博士が、八月の定食屋で、カツ定食をつつきながら言った。
「田中くん、宝くじの当選確率を知っているかね」
「一千万分の一くらいですか」
「一等は二千万分の一だ。しかし面白いことがある」
博士はみそ汁をすすった。
「量子力学的に見ると、宝くじの当選番号は、抽選が行われるまで『確定していない』んだよ」
「シュレーディンガーの猫、みたいな話ですか」
「そうだ。理論的には、抽選前の宝くじは、当選と落選が重ね合わせの状態にある。観測(=抽選)によって初めて、どちらかに確定する」
「つまり」一平は箸を止めた。「当選発表前の今この瞬間、私の宝くじは当選しているかもしれない、ということですか」
「理論上はそうだ」
一平は立ち上がろうとした。
「落ち着きなさい。あくまで量子スケールの話だ。マクロな日常世界では古典物理学が支配的で――」
「でも可能性はゼロじゃない」
「……まあ、ゼロではない」
一平は力強く頷いた。「それで十分です」
博士はため息をついた。「物理学をそういう方向に使わないでほしいんだが」
二週間後。
柴田博士の研究所から電話があった。
「田中くん、ちょっといいかね。見せたいものがある」
一平が研究所を訪れると、ラボの中央に、冷蔵庫ほどの大きさの銀色の装置が置かれていた。
「なんですか、これ」
「タイムマシンだ」
一平は三秒間、沈黙した。
「……は?」
「タイムマシンだよ。時間を移動する装置だ。先週完成した」
「先週!?」
「意外と早くできたね。実は三十年前から理論は完成していたんだが、材料費の調達に時間がかかってね。ようやく予算がついた」
「予算はどこから」
「宝くじだよ」
一平は目をみはった。「博士、当たったんですか」
「いや。研究助成金の審査が宝くじ方式だった。つまり私の名前が抽選で選ばれた。まったく不合理なシステムだが、おかげで完成したんだから文句は言えない」
博士は装置の扉を開けた。中は意外と狭く、一人入ればいっぱいの広さだった。
「どこへでも行けるんですか」
「時間軸に沿った移動しかできない。空間座標は固定だ。つまりここで乗れば、ここの未来か過去に行ける」
「……」
一平の脳裏に、ひとつのアイデアが閃いた。
否、正確に言えば、アイデアというより衝動だった。
「博士」
「なんだね」
「来月の宝くじの抽選日に、飛ぶことはできますか」
博士は眼鏡を押し上げた。
「……用途が想像と全然違うが、技術的には可能だ」
「お願いします!」
「待ちなさい。倫理的な問題がある。時間移動は慎重に行わないと、歴史の改変につながる。そのリスクを理解しているかね」
「でも博士、私が宝くじで当たるかどうかなんて、歴史的にはどうでもいい話では?」
博士は少し考えた。
「……まあ、確かに。田中くんが億万長者になったところで、歴史の大局に影響はなさそうだな」
「では!」
「……仕方ない。ただし、条件がある」
「なんでも言ってください」
「私も連れていきなさい。この装置、まだ一度も実験していないから、誰かと一緒のほうが安心だ」
こうして、人類史上初のタイムトラベル実験は、「宝くじの当選番号を確認する」という前代未聞の動機によって実施されることになった。
第二章 未来へ飛ぶ。しかし問題が発生する
出発は翌朝六時だった。
博士は前日から計算を繰り返し、「問題ない」と言いながらも、なぜか遺書を書いていた。一平はそれを見なかったことにした。
「行き先は?」と博士が聞いた。
「来月二十日の午後二時。宝くじの当選発表が確定した直後です」
「座標は?」
「ここで大丈夫です。スマホで確認すればいい」
「では行くよ」
博士がスイッチを入れた。
装置が振動した。
ウィーン、という音がした。
一平は目を閉じた。
目を開けると――部屋は同じだった。
「……動いていませんか?」と一平は言った。
「動いたよ」と博士は言った。「時刻を見てごらん」
一平はスマホを取り出した。
日付:九月二十日。時刻:午後二時三分。
「動いた!」
「当然だ」
一平は震える手でインターネットにアクセスし、「サマージャンボ当選番号」と検索した。
結果が表示された。
一等:ユ組 123457番
一平は固まった。
自分の番号は「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。
つまり―― 当選している。
一等 七億円。
前後賞 各一億五千万円。
合計 十億円。
「博士……」一平の声は震えた。「当たっています」
「ほう」博士は興味なさそうに言った。「それは良かった。では帰ろうか」
「帰る? なぜですか?」
「番号を確認した。目的は達成だ」
「違います! 当然、このまま過去に戻って、買い足す必要があります!」
「……買い足す?」
「連番で追加購入です。同じ番号帯で、もっと多く買えば――」
「待ちなさい」博士は眼鏡を外した。これは博士が真剣になるときのサインだと、一平は経験上知っていた。「それは問題がある」
「なぜですか」
「宝くじには購入枚数の制限がある。一人あたり一単位(一〇枚)まで、という販売規定が存在する」
「じゃあ、複数の売り場で買えば――」
「規約違反だ」
「でも、わかりませんよね? 顔認証とかしてませんし――」
「田中くん」博士は静かに言った。「私は物理学者だ。倫理についても一家言ある」
一平は神妙な顔をした。
「規約の解釈については、私には判断できない。しかし」博士はわずかに間を置いた。「過去の自分に、『当選番号はこれだ』と教えることはできる」
「それって……」
「過去の自分が、その番号を一枚買うことは、既に起きた事実だ。つまり、タイムパラドックスは発生しない」
一平は頷いた。
「では戻りましょう」
「ただし」博士は指を立てた。「ひとつ確認しておきたい。このタイムマシン、帰り道も問題ない……はずだ」
「……はずだ、って?」
「行きは初めての実験だったから、帰りも初めての実験だ。理論上は問題ないが」
「博士!」
「大丈夫だよ、たぶん」
一平は自分が量子力学的なシュレーディンガーの立場に置かれていることを悟ったが、もはや後戻りはできなかった。
第三章 過去に戻る。しかし別の問題が発生する
帰還は成功した。
日付は元通り、出発した朝に戻っていた。
ただし時刻が三時間ほどずれており、一平が会社に到着したのは昼過ぎになったが、そんなことは今はどうでもよかった。
「田中、遅刻だぞ」と松田部長が言った。
「緊急の用事がありまして」
「どんな用事だ」
「時間旅行です」
「……有給扱いにしておく」
一平は昼休みに抜け出し、銀座の売り場に向かった。
おばさんが笑顔で出迎えた。
「あら、田中さん。もう追加購入ですか? 気が早いですね」
「おばさん、ひとつお願いがあるんですが」
「なんでしょう」
「バラで、『ユ組の一二三四五七番』、ありますか」
おばさんは首をかしげた。
「バラ売りは、番号の指定はできないんですよ。番号はランダムで」
「そうですよね……」
「連番であれば、在庫次第ですが、同じユ組の帯であれば――」
「実は、特定の番号を買いたいんです」
「特定の番号?」
「……そうなんです」
おばさんは優しく首を振った。「宝くじは番号を選んで買うものではないんですよ。それだと、もはや宝くじではなくて――」
「わかりました」一平は肩を落とした。「では連番で、ユ組の、できるだけ一二三四五七番に近い番号で」
「それも、在庫の関係で保証できません。番号は束の単位で流通していますので」
一平は深呼吸した。
つまり、未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して購入することは、システム上できないのだ。
タイムマシンで未来に行って当選番号を調べたのに、戻ってきたら買えない。
一平はしばらく考えた後、こう言った。
「……では、連番で三枚追加で」
「はい、毎度ありがとうございます」
受け取った番号を見ると:「ユ組 223456番」「223457番」「223458番」。
全然違う番号だった。
その日の夜、一平は柴田研究所を訪れた。
「博士。根本的な問題に気づきました」
「何かね」
「未来の当選番号を知っていても、その番号を指定して買う方法がない。番号はランダムに割り当てられる」
「なるほど」博士は少しも驚いた様子がなかった。
「知っていましたか!?」
「出発前から気づいていた」
「なぜ言わなかったんですか!」
「言ったら行かないと言うかと思って。タイムマシンの実証実験がしたかったから」
一平は二秒間、博士を見つめた。
「つまり、私はタイムマシンの実験台にされた、ということですか」
「共同研究者だよ。論文に名前を入れよう。『田中一平・柴田量一』。いい響きだろう」
「全然嬉しくない」
「ところで」博士は続けた。「第二の手段を考えてみたんだが」
「……聞きます」
「当選番号が書かれた宝くじを、発表前の過去から入手することだ」
「どういう意味ですか」
「抽選は機械で行われる。その機械に、抽選前に細工することはできるか?」
「犯罪です」
「だな。却下だ」
「……次の案は」
「当選番号の範囲を絞って、その帯の宝くじを大量購入するという戦略だ。ユ組が一等なら、ユ組の宝くじを集中的に買う」
「でも、何組が一等かを知るには、また未来に行く必要がある」
「行けばいい」
「行って戻って買えるんですか」
「理論上は何度でも行けるよ。ただし――」
「ただし?」
「行くたびに、微妙に時間軸がずれる可能性がある。つまり」博士は眼鏡をかけ直した。「今回確認した未来と、次に行く未来が、同じ未来とは限らない」
一平は頭を抱えた。
「量子多世界解釈だ。時間移動をするたびに、並行世界が分岐する可能性がある。別の世界では、当選番号が違うかもしれない」
「つまり」一平はゆっくりと言った。「どれだけ未来を調べても、自分が戻った過去に対応する未来が、同じとは限らない」
「その通り」
一平はソファに深く沈んだ。
「……買わずして当たらず。買っても当たらず。未来を知っても、当たらず」
「田中くん、人生とは――」
「博士、一個だけ質問していいですか」
「なんだね」
「今から研究所に帰って、昨日に戻って、今日のこの会話を聞かなかったことにする、ということはできますか」
博士は少し考えた。
「技術的には可能だ。しかし、それも量子的には別の世界に分岐するから、今のあなたの悩みは消えない」
「……」
「もっと根本的な解決策を提案しよう」
「なんですか」
「諦めなさい」
「それが解決策ですか」
「最も合理的だよ」
第四章 国家宝くじ管理委員会、登場する
事態が複雑になったのは、翌週だった。
一平の会社に、スーツ姿の男が二人訪ねてきた。
名刺には「国家宝くじ管理委員会 時間的不正行為対策局」と書いてあった。
「田中一平さんですね」
「そうですが」
「九月二十日、午後二時三分に、本来まだ公開されていないサマージャンボの当選番号を、インターネット検索によって取得した事実を確認しています」
一平は固まった。
「……どうして知っているんですか」
「我々の局は、時間的異常を監視しています。未来からの情報漏洩は、宝くじ市場の公正性を著しく損ないます」
「でも、私は結局何も当たっていませんよ?」
「問題は意図です。田中さん、タイムマシンを使って宝くじの当選番号を確認しようとした。これは法律第二三条第七項――」
「そんな法律、あるんですか?」
「去年制定されました」
「去年!?」
「タイムマシンの普及を見越して、先行的に整備しました」
一平は頭が混乱してきた。
「タイムマシンは先週完成したんですが」
「その件も把握しています。柴田博士の研究所ですね。博士には本日、別の担当者が出向いています」
「博士が……」
「田中さんにお尋ねします。第一回目のタイムトラベル、九月二十日への移動。これは事実ですか」
「……はい」
男たちは顔を見合わせた。
「正直に言っていただいてありがとうございます。ただちに逮捕、ということではありません。初犯ですし、実質的な不正利益を得ていない。ただし、今後タイムマシンを宝くじ目的に使用した場合は、時間的詐欺罪が適用されます」
「時間的詐欺罪……」
「懲役三年以下、または三十万円以下の罰金です。加えて、時間的詐欺によって得た利益は全額没収」
「つまり、当選しても没収されるということですか」
「正確には、不正な時間移動によって取得した情報に基づいて購入した宝くじの当選金は、没収対象です」
「じゃあ意味がない……」
「その通りです」男は穏やかに言った。「田中さん、一つアドバイスをしてもいいですか」
「……どうぞ」
「普通に買いなさい。その方が楽です」
男たちが帰った後、一平はデスクに突っ伏した。
松田部長が近づいてきた。
「田中、なんか変な人たちが来てたけど、大丈夫か」
「大丈夫です」
「顔色悪いぞ」
「時間旅行の後遺症です」
「……有給とるか?」
「いえ」一平は立ち上がった。「今日は定時で帰ります」
「それでいい」部長は珍しく優しく言った。「たまには早く帰って、ゆっくりしろ」
「部長」
「なんだ」
「部長は宝くじ、買いますか」
「毎年買ってるよ」部長は笑った。「一等当たったら、会社辞めてやるって思いながら」
「当たったことは?」
「ない。三千円が最高だ」
「でも、また買いますか」
「もちろん。夢を買うんだから」
松田部長が自席に戻るのを見ながら、一平は思った。
部長も同じだ。みんな同じだ。
タイムマシンがあっても、なくても、結局みんな同じことをしている。
第五章 柴田博士の告白と、二つめの発見
その夜、柴田研究所に向かうと、博士は珍しく難しい顔をしていた。
「国家宝くじ管理委員会の人たちが来たんですね」と一平は言った。
「ああ。いや、まあ、来た。それより田中くん、少し話がある」
「なんですか」
博士は白衣のポケットに手を入れ、一枚の紙を取り出した。
「タイムマシンの計算をやり直した。ひとつ重大なミスを発見した」
「ミス?」
「私たちが九月二十日に訪れた際、すでにそこは私たちが訪問した後の世界だった可能性がある」
「どういう意味ですか」
「つまり、私たちが見た当選番号は、私たちが訪問したことによって影響を受けた当選番号かもしれない」
一平は目をしばたたいた。
「……宝くじの当選番号が、私たちの訪問によって変わった、ということですか?」
「可能性として、だ。量子的観測効果が、マクロスケールに影響を与えたとすれば」
「つまり、もし私が宝くじを買い足して、その番号が当選番号の帯に入っていたとしたら」
「逆に当選番号が変化して、当たらなかった、という可能性もあったということだ」
一平はしばらく考えた。
「博士、それって、結局何をしても当たらないということでは?」
「……そう解釈することもできる」
「なんのためにタイムマシンを作ったんですか」
「科学の進歩のためだよ」博士は真剣な顔で言った。「宝くじのためじゃない」
「でも私を誘ったのは」
「実験台が必要だったから。いや、共同研究者が」
「同じことです」
博士はため息をついた。そして、少し間を置いて言った。
「田中くん、一つ聞いていいか」
「なんですか」
「なぜ、そんなに宝くじにこだわるんだ」
一平は少し驚いた。こんな質問をされたことがなかった。
「……こだわっているというわけじゃないですが」
「毎年買っているだろう。二十年以上、一度も当たったことがないのに」
「みんなそうですよ」
「でも、なぜだ。当たらないとわかっているのに」
一平は少し考えた。
「……楽しいからじゃないですかね」
「楽しい?」
「当選発表までの間。その期間が、楽しい。夢を見られる。仕事辞めて、ローン返して、旅行に行って……ってリストを作るんです、頭の中で」
「なるほど」
「でも博士、それって非合理ですよね。経済学的には」
「非合理だな」博士は頷いた。「しかし人間は非合理な生き物だ。それが人間の面白いところだとも思う」
「博士は、非合理な人間の研究はしないんですか」
「私は物理学者だ。しかし」博士は珍しく笑った。「田中くんと話していると、物理よりずっと不思議な現象が見られる気がする」
帰り道、一平は駅前の宝くじ売り場に寄った。
シャッターが半分閉まりかけていたが、まだ開いていた。
スクラッチ宝くじ。一枚三百円。
一平はそれを一枚買った。
売り場の隅に備え付けられたコイン(十円玉)でスクラッチした。
「ハズレ」と書いてあった。
一平はゴミ箱に捨て、家に帰った。
翌朝、財布から宝くじ三枚を取り出した。
抽選発表まで、あと二週間。
一平はそれをテーブルの上に置き、お茶を飲んだ。
窓の外は夏の終わりの青空だった。
第六章 当選発表の日
九月二十日。午後二時。
田中一平は定食屋のテレビの前にいた。柴田博士も隣にいた。
サマージャンボ当選番号発表の中継が始まった。
アナウンサーが読み上げる。
「一等当選番号、発表します――」
一平はポケットから三枚の宝くじを取り出した。
「ユ組 123456番」「123457番」「123458番」。
「――マ組 098765番」
違う。
一平は三枚を見た。博士を見た。テレビを見た。
「あれ」と博士が言った。「私たちが見た当選番号と違う」
「……やっぱり、量子多世界解釈ですか」
「おそらく」博士は平静に言った。「私たちが観測した世界と、今いる世界が分岐したんだろう」
「つまり」
「あの時見た当選番号は、別の平行世界での話だった、ということだ」
一平はしばらくテレビを見ていた。
前後賞の番号も読み上げられた。
全部違う。
「……はずれました」
「そうだな」
「タイムマシンで未来に行って、当選番号を確認して、国家宝くじ管理委員会に目をつけられて、量子的世界分岐で番号が変わって、結果ははずれ」
「まとめると、そういうことだ」
「三枚で千五百円のロスです」
「科学的知見は得られた」
「私の千五百円は?」
「……共同研究の投資と考えてほしい」
おばさんが定食を運んできた。
「田中さん、どうでした?」
「はずれました」
「あらあ、残念。来年こそですよ」
「そうですね」
一平はカツ定食を食べた。おいしかった。
食後、博士が言った。
「田中くん、一つ提案がある」
「なんですか」
「来年のサマージャンボが発売されたら、また連れて行ってほしい。今度は研究目的で。当選番号の量子的確率分布を観測したい」
「……博士、それ私の千五百円を餌に誘うやつですよね」
「いや、本当に科学的興味だよ。田中くんが買うかどうかは、田中くんの自由だ」
一平は少し笑った。
「買いますよ。来年も」
「なぜだ。今回の結果を踏まえれば――」
「わかってますよ。それでも買う。それが宝くじというものだから」
博士は頷いた。「人間とは不思議な生き物だな」
「そうです。それだけは確かです」
第七章 量子宝くじ購入機の発明と、その後
十月になった。
柴田博士から電話があった。
「田中くん、大発明をした」
「今度は何ですか」博士の「大発明」は毎回人生に影響を及ぼすので、一平は慎重になっていた。
「量子宝くじ購入機だ」
「……なんですか、それ」
「宝くじを購入する際、量子的に全並行世界の当選番号を同時に観測して、その時点での最適番号を逆算する装置だ」
「それって、当たる番号を選べる機械ですか」
「理論上は」
「また理論上ですか」
「しかし実用化には問題がある」
「どんな問題ですか」
「装置の大きさが現在、東京ドーム三個分だ」
一平は三秒沈黙した。
「……では今は実用的じゃないですね」
「そうだ。でも理論は完璧だよ」
「博士」
「なんだね」
「もし将来、その機械が東京ドーム一個分まで小さくなっても、それをどこに置くんですか」
「国有地を借りよう。ちょうど宝くじ収益で整備された公園がある」
「……国のお金で運営される量子宝くじ機で、国が運営する宝くじを攻略する、ということですか」
「言われてみると、矛盾があるな」
「大変な矛盾です」
「しかし科学とは矛盾の中に真実があるものだ」
「それは詭弁では?」
「哲学だよ」
その夜、一平は帰り道に立ち寄った駅前の宝くじ売り場で、次のジャンボ宝くじの広告を見た。
年末ジャンボ。一等七億円。
一平はしばらく眺めた後、一枚買って帰った。
連番でもなく、バラでもなく、ただの一枚。
千五百円じゃなくて、三百円でいい。
発売は来月。抽選は十二月。
一平はそれを封筒に入れて、引き出しの奥にしまった。
翌朝、出勤途中に松田部長からメッセージが届いた。
「田中、今日の会議十時からに変更。あと、例の案件について相談したい」
一平は「了解です」と返信しながら思った。
例の案件。
また始まる。
しかし今日は、引き出しに年末ジャンボが眠っている。
十二月まで、二ヶ月ある。
二ヶ月間、夢を見られる。
それは案外、悪くない投資かもしれない。
エピローグ 宝くじとは何か、について
年が明けた。
年末ジャンボは、はずれた。
末等(三百円)が当たった。元手が回収されただけだった。
柴田博士のタイムマシン論文が、国際学術誌に掲載された。タイトルは「量子時間移動における並行世界分岐と宝くじ当選確率の相関に関する考察」。共著者として「田中一平」の名前が入った。博士に半ば強制されたが、論文の内容はさっぱりわからなかった。
国家宝くじ管理委員会・時間的不正行為対策局は、翌年の予算削減でほぼ全員リストラされた。タイムマシンを持っている人間が、思ったより少なかったからだ。担当者の一人が挨拶に来て、「田中さん、我々の局の最初の、そして最後の案件でした」と言った。なんだか申し訳ない気がした。
銀座の売り場のおばさんは、今年も元気だった。「田中さん、今年こそですよ」と言った。一平は「そうですね」と答えた。
サマージャンボの季節になった。
一平は連番三枚を買った。千五百円。
発表まで、一ヶ月。
その一ヶ月間、一平はいつものリストを作った。
仕事を辞めて。
ローンを返して。
旅に出て。
しかし今年は、リストの最後に一行追加した。
「柴田博士のタイムマシン研究に、少し寄付する」
理由は特にない。
強いて言えば、去年のタイムトラベルが、悪くない体験だったからかもしれない。
当選番号は確認できなかったし、結局はずれたし、国の機関に目をつけられたし、量子論的には何をしても無意味だとわかった。
それでも、あの一ヶ月は、なかなか面白かった。
一平は宝くじをテーブルに置き、お茶を一口飲んだ。
当たるかもしれない。
当たらないかもしれない。
どちらかわからないまま、一ヶ月が過ぎる。
それが宝くじというものだ。
少なくとも田中一平は、来年もまた買うだろう。
タイムマシンに乗るかどうかは、博士次第だが。
―――――――――
ところで。
翌年のサマージャンボの当選番号は、「ユ組 123457番」だった。
田中一平の番号は「ユ組 333333番」だった。
全然違った。
これもまた、量子多世界解釈で説明できるかもしれない。
あるいはただ、はずれただけかもしれない。
どちらでも、来年も買う。
(了)
後記 ―― 宝くじと人類について
本書を書き終えて、著者は改めて思う。
人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。
古代ローマでは占いで国家の意思決定をし、中世ヨーロッパでは教会がくじ引きで資金調達をし、現代日本では毎年数百万人がジャンボ宝くじを買う。
そしてほぼ全員がはずれる。
それでも買い続ける。
著者は経済学者でも物理学者でも哲学者でもないが、この現象について、一つの結論を持っている。
人間は「可能性」を買っているのだ。
当選番号との一致(確率二千万分の一)を買っているのではなく、「当たるかもしれない自分」が存在する時間を買っている。
タイムマシンがあっても、この本質は変わらない。
量子コンピュータで確率を計算しても、変わらない。
国家機関に監視されても、変わらない。
買う理由は、いつも同じだ。
「もしや。まさか。万が一」
その三語に、五百円の価値がある。
少なくとも、著者はそう思う。
なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。
連番三枚、千五百円。
結果は――まだわからない。
この後記を書いている時点で、抽選日は来週だ。
当たったら、続編を書く。
はずれたら、来年も同じことをする。
アマゾン キンドル
あとがき
―― 宝くじと人類について
本書を書き終えて、著者は改めて思う。
人類は古来より、「運」というものに魅了されてきた。古代ローマの占いから、中世ヨーロッパの教会が始めたくじ引き、そして現代のジャンボ宝くじ。私たちは毎年、何百万分の一という絶望的な確率に挑み、そして当然のように外れ続けている。
それでも買い続けるのはなぜか。
人間は「当選確率」を買っているのではない。「当たるかもしれない自分」が存在する瑞々しい時間を買っているのだ。
タイムマシンがあっても、量子コンピュータで確率を計算しても、国家機関に監視されても、この本質は変わらない。
買う理由は、いつも同じ。
「もしや。まさか。万が一」
その三語にこそ、300円、あるいは500円を支払う価値がある。
なお、著者は本書の執筆を機に、今年のサマージャンボを購入した。結果は――まだわからない。このあとがきを書いている時点で、抽選日は来週だ。
当たったら、続編(豪華絢爛な海外旅行編)を書く。
外れたら、来年も同じように、引き出しの1枚に夢を見ることにする。

