前四作で完結させたはずが
続きが出来ました
しつこくなければ
良いのですが… 笑
〜まえがき〜
はじめに。
あなたには、今でも忘れられない「縁」がありますか?
結ばれたはずなのに、いつの間にか解けてしまった赤い糸。
別れの瞬間に、切なく輝いた金色の糸。
誰にも気づかれず、ずっと透明なまま震えていた糸。
この物語の主人公・修(おさむ)は、街の片隅で小さな時計屋を営む、不器用で、だけど少しお節介な男です。
ある日、不思議な老人から「銀の針」を託されたことで、彼は時計だけでなく、人々の縺(もつ)れてしまった「縁の糸」をも修復することになります。
糸の縺れを解くということは、過去をやり直すことではありません。
傷ついた記憶を受け入れ、もう一度、前を向いて歩き出すということです。
もし今、あなたの心に小さな縺れがあるのなら、どうぞこの時計屋の扉を叩いてみてください。
店内に漂う珈琲の香りと、静かに時を刻む柱時計の音が、あなたを待っています。
それでは、『縺れ糸の修復師』の世界へ。
あなたの心の糸が、ほんの少しでも温かくなりますように。
縺れ糸の修復師 五 透明な糸
――誰にも見えない糸を、結ぶために――
秋だった。
店の前の金木犀が、今年も小さく匂っている。
修は63歳になった。
白い糸の件から、もうすぐ1年。
「縁も直してくれるって聞いたんですが」
あれから時々、そういう客が来るようになった。
時計より、人の話を聞いている時間の方が長い。
悪くない。むしろ、性に合ってる気がする。
カラン。
珍しく、午後の3時にベルが鳴った。
「いらっしゃい」
誰もいない。
扉は確かに開いたのに、店内には誰もいなかった。
「……風か?」
その時、カウンターの上に、一枚の紙が落ちているのに気づいた。
便箋じゃない。メモ用紙の切れ端。
鉛筆で、たった一行。
『ここにいます』
修は顔を上げた。
「いるのか?」
返事はない。
でも、確かに気配がする。椅子が少し軋んだ。
見えない。でも、誰か座ってる。
修はポケットを探った。銀の針はもうない。
あの日、桜になって飛んでいった。
代わりにあったのは、あの老人が置いていった白い貝殻。
それを握ると、ふっと温かくなった。
「……見えない客か。初めてだな」
修は苦笑して、いつものように珈琲を二人分淹れた。
一つを、誰も座っていないはずの椅子の前に置く。
「話してくれるか。あんたの糸の話」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、空気が小さく震える。
少女の声だった。歳は10歳か、もっと幼いか。
『……私、透明なんです』
「名前は?」
『ありません。誰も呼んでくれなかったから』
修の手が止まる。
『私の糸、誰にも見えないんです。だから、ずっと一人です』
窓の外で、金木犀の花が一房、ぽとりと落ちた。
少女は、話し始めた。
生まれてから一度も、誰にも気づかれなかった。
親にも、先生にも、友達にも。
ぶつかっても「ごめん」と言われない。
名前を呼ばれない。
写真にも写らない。
『私、いるのかなって。ずっと思ってました』
修は黙って聞いていた。
時計の修理じゃない。証拠がない。
縺れてもいない。切れてもいない。
最初から、誰にも結ばれたことがない糸。
「……それで、どうしてうちに?」
『灯台が見えたんです』
「灯台?」
『海の上に、透明な灯台。誰も気づかないけど、光ってました』
『そこに、「直せない糸はない」って書いてあったんです』
修は白い貝殻を握りしめる。
あの老人。また勝手に看板を出す。
「で、直してほしいんだな。あんたの糸」
『はい。私を、誰かと結んでください』
『一度でいいから、「おはよう」って言われたいんです』
修は目を閉じた。
赤い糸はほどけた。青い糸は迎えに行った。金は別れを届けた。白は自分を許した。
じゃあ透明な糸は、どうする。
存在しないものを、どうやって結ぶ。
その時だった。
コトリ。
カウンターに、何かが置かれる音がした。
見ると、小さな折り紙。鶴だった。
誰もいないのに、そこにあった。
修はそれを手に取る。
まだ温かい。
『……私が折りました。見えますか?』
「あ。見えるよ。綺麗な鶴だ」
空気が、ふっと緩んだ気がした。
『本当ですか? 本当に、見えてますか?』
「嘘はつかねぇよ。時計屋が一番嫌いなのは、時間を誤魔化すことだからな」
少女が笑った気がした。声は出ないけど、空気が笑った。
修は鶴を棚の一番目立つところに置いた。
「ここに置いておく。明日から来る客みんなに『綺麗な鶴だね』って言わせてやる」
『……!』
「それが最初の一歩だ。誰かがあんたの作ったものを『綺麗だ』って言えば、それはもう透明じゃない」
店の柱時計が、コーンと4時を告げた。
『ありがとう……ありがとうございます……』
声が震えていた。
そして、椅子がまた小さく軋む。
気配が、少しだけ濃くなった気がした。
翌日から、修は来る客みんなに鶴を見せた。
「綺麗な鶴だろ。孫が折ったんだ」
嘘だった。でも、嘘じゃない。
航が来た時は「お前、孫いたっけ?」と笑われたが、修は黙って肩をすくめた。
「綺麗だな」「上手だね」「今どきの子は器用だ」
客が言うたびに、店の空気が1℃ずつ温かくなる。
1週間経った午後。
カラン。
『こんにちは』
少女の声が、前よりはっきり聞こえた。
「おう。来たな」
『あの……今日、学校の帰りの子が、鶴を見てました』
「そうか」
『「誰が折ったの?」って、店の人に聞いてました』
修は珈琲を淹れながら言う。
「で、店の人はなんて答えた?」
『「うちの娘だよ」って……』
『びっくりしました』
修は笑った。
「娘がいたっていいだろ。63にもなりゃ」
沈黙。
やがて、絞り出すような声。
『……私、名前、もらってもいいですか』
修の手が止まる。
「名前、欲しいのか」
『はい。呼ばれたいんです。誰かに』
修は棚の鶴を見た。夕日に照らされて、金色に光ってる。
「そうだな……」
少し考えて、口を開いた。
「『晶』はどうだ。水晶の晶」
『しょう……?』
「ああ。透明でも、光が当たれば虹色に輝く。お前みたいに」
長い沈黙。
風が吹いた。
『……晶。晶です』
初めて、名前が生まれた瞬間だった。
『修さん。私、見えますか?』
修は顔を上げる。
椅子の上。午後の光の中。
そこに、小さな女の子がいた。
おかっぱ頭で、白いワンピース。10歳くらい。
輪郭はまだ淡い。でも、確かに笑ってる。
「ああ。見えるよ、晶」
修も笑った。
「おかえり」
晶の目から、大粒の涙がこぼれた。
『ただいま……ただいまです……!』
柱時計が、コーンと5時を告げる。
透明な糸は、もう透明じゃなかった。
光を受けて、七色に輝いていた。
次の日の朝。
修が店を開けると、机の上に手紙があった。
丸っこい字。まだ習いたての字。
『修さんへ
昨日、「おかえり」って言ってくれてありがとう。
生まれて初めて言われました。
私、今日から学校に行ってみます。
名前があるから、先生に呼ばれたら返事できます。
鶴、また折って持ってきます。
今度は、修さんの分です。
P.S.
透明な灯台、消えちゃいました。
もう必要ないみたいです。
晶』
修は手紙を胸に当てて、空を見上げた。
秋の空は、どこまでも高かった。
カラン。
「おはよう、修さん!」
振り返ると、航がいつものように入ってきた。
「おう、おはよう」
「なんだ、機嫌いいな」
「まあな。娘ができた」
「は?」
修は棚の上の鶴を指さした。もう一羽、増えている。
隣に、小さな折り紙の手裏剣もあった。不器用だけど、一生懸命折ったやつ。
「……また客が増えたのか」
航が呆れながら笑う。
「忙しい店だな」
「あ。今日も開店だ」
修は白い貝殻をポケットに入れた。もう温かくない。役目は終わったんだろう。
でも、困らない。
糸が縺れたら、また解けばいい。
切れたら、さよならを届ければいい。
見えなくても、名前を呼んでやればいい。
外では、金木犀が風に揺れていた。
新しい客が、扉に手をかけている。
了
縺れ糸の修復師 六 虹色の糸
――全部の糸で、ひとつの空を結ぶ――
冬が終わりかけていた。
修は64歳の春を迎える。
店の前では、晶が折り紙を折っていた。もう小学5年生だ。
「修さん、これ見て。手裏剣、六枚で作るやつ覚えた」
「お前、手先だけは器用だな」
「航おじさんに似た」
「人のせいにするな」
カランカランと、最近はベルがよく鳴る。
時計の修理より、縁の相談の方が多い。
赤い糸の人。青い糸の人。金で別れを届けに来た人。透明だった自分に名前をつけてほしい人。
修の店は、いつの間にか「縁の修理屋」になっていた。
でも、困ったことが一つある。
最近、糸が見えない。
白い貝殻も、もう冷たいままだ。
「……引退かね」
呟いた夜だった。
コンコン。
珍しく、扉をノックする音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、老爺だった。
白い服。白い髪。海の色の目。
「……お前か」
修理屋の老人。3年ぶりだ。
「久しぶりだな、修」
「また勝手に依頼人寄越しただろ」
「人聞きの悪い。私はただ、灯台の管理人だ」
老人は店内を見回して、満足そうに頷いた。
「賑やかになった」
「お前のおかげで忙しいよ」
「それでだ」
老人が真顔になる。
「最後の修理を頼みたい」
修は眉を上げた。
「最後?」
「ああ。私の糸だ」
テーブルに、老人が一本の糸を置いた。
透明だった。いや、違う。
よく見ると、赤も青も金も白も、全部の色が混ざっている。
光の角度で、色が変わる。
「……虹色?」
「そう呼んでくれ」
老人は椅子に座った。
「私はな、ずっと昔から人の縁を繋いできた」
「知ってる。灯台で」
「だが、自分の糸だけは結べなかった」
修は何も言わなかった。晶が折り紙の手を止めて、話を聞いている。
「私は、灯台の光そのものだ」
「……は?」
「人の世には出られない。ずっと海の上で、迷った船を導くだけ」
「だから、友達も、家族も、いない」
老人は笑った。寂しそうに。
「何百年も、一人だった」
「……お前、化け物か」
「まあな」
「で、その糸がどうした」
「ほどきたいんだ」
老人は虹色の糸を持ち上げた。
「この仕事、辞めたい。私も、誰かと『おはよう』が言いたい」
「……。」
「晶くんのように、名前が欲しい」
晶がびくりとした。
「できるか、修」
修は糸を見つめた。綺麗だった。でも、どうやってほどく。
切れてない。縺れてもいない。透明でもない。
全部の色が、固く撚り合わさって一本になってる。
「……無理だろ、これ」
「そう言うと思った」
老人は立ち上がる。
「だから、頼みじゃない。見届けてほしいだけだ」
「見届ける?」
「ああ」
その夜、老人は言った。
「明日の朝、岬の灯台へ来い」
「そこで最後の仕事をする」
翌朝。まだ暗い。
修と航と晶、三人で岬へ向かった。
冬の海は黒い。風が冷たい。
白い灯台が、黙って立っている。
「来たか」
老人がいた。白い服が風に揺れている。
「何する気だ」
「見てろ」
老人は灯台の天辺へ続く階段を上がっていく。
修たちも後を追った。
一番上。灯りの部屋。
巨大なレンズが、ゆっくり回っている。
老人はその前に立った。
「私はな、ずっとここで光ってた」
「何百年も、誰かが迷わないように」
「でも、もういい」
修が叫ぶ。
「待て! 何するつもりだ!」
老人は笑った。
「灯台を、消す」
「は?」
「私が消えれば、灯台の役目も終わる」
「そしたらお前、どうなる」
「消える」
空気が凍った。
「馬鹿なこと言うな!」
航が掴みかかる。でも、触れなかった。老人の体は光でできている。
「大丈夫だ」
老人は晶を見た。
「嬉しかったよ。君に名前をあげられた」
「……。」
「修、君にもだ。君がいるから、私は辞められる」
「ふざけるな! 死ぬ気か!」
「死ぬんじゃない。生まれるんだ」
老人はレンズに手をかざした。
その瞬間。
ゴオ……!
海が光った。
水平線の向こうから、朝日が昇る。
同時に、灯台の光が、今まで見たことないくらい強く輝いた。
眩しい。目が開けられない。
「修!」
老人の声が響く。
「糸はな、ほどくだけが修理じゃない!」
「結ぶんだ!」
「新しい誰かと!」
「それが虹色の直し方だ!」
光が弾けた。
世界が白くなった。
気づくと、朝だった。
灯台の明かりは消えている。
レンズも止まってる。
老人の姿は、どこにもなかった。
「……おい」
修が呟く。
「消えた……のか?」
その時。
「うぇーん……」
足元から、変な声。
見ると、灯台の床に、赤ん坊が座っていた。
生まれたてじゃない。1歳くらい。白い産着。
「……は?」
赤ん坊は、きょとんと修たちを見た。
そして、にぱっと笑った。
海の色の目だった。
「ま、まさか……」
航が絶句してる。
晶が恐る恐る近づく。
「……あなた、誰?」
赤ん坊は、また笑った。
『しゅう』
喋った。
「……今、俺の名前……」
『あさひ』
赤ん坊は、自分の胸を叩いた。
「朝日……?」
『うん。あさひ』
修は天を仰いだ。
「おいおい……マジかよ……」
64歳。子育て二人目。しかも赤ん坊。
航が腹を抱えて笑い出した。
「見ろよ修! お前、また親になったぞ!」
「笑い事か!」
「最高だろ! 虹色の糸って、そういうことか!」
晶が朝日を抱き上げた。
「修さん。妹です」
「……そう、なるな……」
朝日は、修の鼻を掴んで笑ってる。
温かい。重い。生きてる。
その時、東の空に、大きな虹がかかった。
冬の朝なのに。雨も降ってないのに。
七色の橋が、海から街へ伸びている。
「見ろ」
航が言った。
「あれ、お前の糸だ」
赤も、青も、金も、白も、透明も。
全部混ざって、空にかかってる。
修は朝日を抱きしめた。
「……参ったな」
でも、顔は笑ってた。
「また、忙しくなる」
それから10年。
修の店は、もっと賑やかになった。
74歳の修。
15歳の晶。高校生になった。
10歳の朝日。小学4年生。走り回ってる。
「じいちゃん! 時計止まった!」
「お前が落としたんだろ!」
「晶姉ちゃんが!」
「人のせいにするな!」
航は相変わらず店に入り浸ってる。
「お前ら、うるさい」
って言いながら、一番うるさい。
店の看板は変わった。
『時計と縁の修理屋』
カラン。
今日もベルが鳴る。
「すみません」
若いカップルが入ってきた。手を繋いでる。
「喧嘩しちゃって……糸、絡まっちゃったんです」
修は笑った。
「大丈夫ですよ」
奥から晶が顔を出す。
「いらっしゃい。珈琲、飲みますか?」
朝日がランドセルを背負ったまま言う。
「じいちゃんの珈琲、苦いよ!」
「うるさい」
店の中が笑いに包まれる。
修はカウンターの奥を見る。
そこには、6本の糸が飾ってある。
赤。青。金。白。透明。そして虹色。
全部、ちゃんと結ばれてる。
窓の外。海が見える。
灯台はもう光らない。
でも、もう必要ない。
街の明かりが、海を照らしてる。
たくさんの家の光。
たくさんの人の光。
それが、新しい灯台だ。
修は、そっと呟いた。
「なあ、老人」
「見てるか」
返事はない。
でも、風が吹いた。
潮の匂いと、金木犀の匂いが混ざった風。
「……そうか」
修は笑った。
「おかえり」
空には、今日も虹がかかっていた。
雨が降らなくても、かかる虹。
誰かと誰かが結ばれるたびに、勝手に空に出る虹。
それが、この街の日常になった。
― 縺れ糸の修復師 完 ―
〜あとがき〜
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作『縺れ糸の修復師』は、主人公・修が様々な「色の糸」と向き合い、最後にひとつの大きな虹を架けるまでの物語です。
私たちは生きている中で、たくさんの人と出会い、たくさんの縁を結びます。
それは決して綺麗な一本の線ばかりではなく、時には複雑に絡まり、時には手元からぷつりと切れてしまうこともあるかもしれません。
私自身、これまでの人生の中で、いくつもの出会いと別れを経験してきました。
「あの時、別の選択をしていれば」
「あの人は今、どこでどうしているだろうか」
そんな風に、ふと過去を振り返り、胸がチクリと痛む夜もあります。
ですが、たとえ一度解けてしまった糸であっても、私たちがその記憶を大切に抱きしめている限り、それは決して無駄にはならないのだと信じています。切れた糸の先には、また新しい誰かとの結び目が待っているはずだからです。
不器用な修、陽気な航、そして新しく家族になった晶とあさひ。
彼らはこれからもあの街で、珈琲を淹れながら、誰かの縁を優しく繋ぎ続けていくことでしょう。
最後に、この本を手に取り、彼らの物語を最後まで見届けてくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。あなたの日常の片隅にも、どうか綺麗な虹がかかりますように。


