縺れ糸の修復師 三 金の糸
――切れた縁を、もう一度結ぶために――
あらすじ
海辺の小さな修理屋。
時計も、小物も、そして時折、人の縁まで修理してしまう男・修。
親友・青柳航が帰ってきてから一年。
修の店には、不思議な依頼が少しずつ増えていた。
「亡くなった父へ、謝りたい。」
「絶縁した娘に、もう一度会いたい。」
「ずっと会っていない友人へ、ありがとうを伝えたい。」
そして修のポケットには、あの日、海の向こうの修理屋で託された一本の銀色の針があった。
使い方は分からない。
だが、時折、熱を持つ。
まるで誰かを探しているように。
そんなある日、一人の少年が店を訪れる。
少年の手には、止まった懐中時計。
そして、こう言った。
「母を探してください。」
しかし、その母は三年前に亡くなっているはずだった。
その依頼をきっかけに、修は知ることになる。
人の縁には「縺れる糸」だけでなく、
「切れてしまった糸」
があることを。
そして銀の針は、
切れた縁をもう一度結び直すために存在することを――。
⸻
プロローグ ――銀の針
冬の海だった。
風が冷たい。
修は店の前で、いつものようにコーヒーを飲んでいた。
最近、朝が好きになった。
昔は波ばかり追いかけていたのに。
年を取ったのだろう。
店の中から、笑い声が聞こえる。
航だ。
帰ってきてからというもの、毎日のように店へ来ている。
「仕事しろ。」
そう言っても、
「俺は客だ。」
と、平気な顔をして椅子へ座っている。
まったく、昔から変わらない。
その時だった。
ポケットの中で、何かが熱くなった。
「……?」
取り出す。
銀色の針。
海の向こうの修理屋でもらった、不思議な針。
淡く光っている。
そして。
針の先が、店の前の道を指した。
カラン。
ちょうど、その時。
店の扉が開いた。
一人の少年が立っていた。
小学校六年生くらいだろうか。
紺色のダッフルコート。
少し大きなリュック。
そして、胸に抱えているもの。
古い懐中時計だった。
「ここ……。」
少年が小さな声で言う。
「修理屋さんですか。」
「そうだけど。」
修が答える。
「時計か?」
少年は首を横に振った。
そして。
懐中時計を差し出した。
「母を直してください。」
風が止まった。
修は、しばらく言葉を失った。
「……何て?」
少年の目は真っ直ぐだった。
「母が、いなくなったんです。」
「どこへ。」
「分かりません。」
「迷子か?」
少年は静かに首を横へ振る。
そして。
こう言った。
「三年前に、死んだことになっています。」
店の奥で、航の笑い声が止まった。
静寂。
海だけが、遠くで音を立てている。
少年は懐中時計を開いた。
中には、一枚の写真。
若い女性と、小さな男の子。
親子の写真だった。
「この時計だけ、動くんです。」
少年の声が震える。
「だから……。」
ぎゅっと時計を抱きしめる。
「母は、まだどこかにいると思うんです。」
修のポケットの中で、銀の針がさらに熱を持った。
まるで。
『この依頼を受けろ』
そう言っているかのように。
修は少年を見つめた。
そして、ゆっくりと扉を開ける。
「寒いだろ。」
少年が顔を上げる。
「中へ入りな。」
柱時計が、コーンと一つ鳴った。
その音は、新しい物語の始まりを告げているようだった。
⸻
第一章 止まらない懐中時計
店の中には、コーヒーの香りが漂っていた。
少年は椅子へ座り、両手でカップを包んでいる。
少し緊張しているようだった。
向かいには修。
その隣には、いつの間にか航が座っている。
「……何でいるんだ。」
「客だ。」
「帰れ。」
「ひどいな。」
少年が少しだけ笑った。
それを見て、修も苦笑する。
「名前は。」
「藤崎海斗です。」
「海斗か。」
少年が頷く。
「六年生です。」
「その時計は、お母さんの?」
「はい。」
海斗は懐中時計を大事そうに撫でた。
銀色の古い時計。
蓋には小さな花の模様が刻まれている。
長い間、誰かに大切にされてきたことが分かる。
「お母さんは三年前に亡くなったんだな。」
「……そういうことになっています。」
「そういうこと?」
海斗は少し考えた。
それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「海で……いなくなったんです。」
修と航が顔を見合わせた。
海。
その言葉だけで、胸のどこかがざわつく。
「事故だったのか。」
「はい。」
「遺体は。」
海斗は小さく首を横に振った。
「見つかっていません。」
静かな沈黙。
修は思わず航を見た。
二十年前。
どこか似た話だった。
「それで、お母さんを探したいのか。」
「はい。」
「どうして、生きてると思う。」
海斗は迷わなかった。
懐中時計を開く。
カチ。
秒針が動いている。
規則正しく。
静かに。
「母は、この時計が止まったら迎えに来るって言っていました。」
「……。」
「でも、止まらないんです。」
窓の外で、風が鳴った。
「三年経っても。」
海斗の声が震える。
「だから……まだ待っている気がして。」
その時だった。
修のポケットの中で、銀の針が熱くなる。
先ほどより強く。
まるで鼓動のように。
トクン。
トクン。
「……またか。」
「何だ?」
航が覗き込む。
修は銀の針を取り出した。
すると。
針の先が、真っ直ぐ懐中時計を指した。
「おお。」
航が目を丸くする。
「便利だな、それ。」
「俺も初めて見た。」
銀の針が、淡い光を放っている。
そして。
懐中時計もまた、小さく光り始めた。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針の音が、大きくなる。
すると――
ふわり。
店の中に、潮の匂いが流れ込んできた。
海斗が顔を上げる。
「……お母さんの匂い。」
修の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
次の瞬間。
懐中時計の蓋が、勝手に開いた。
そして、中の写真が一枚、机の上へ落ちた。
カサリ。
裏返しになった写真を、海斗が拾い上げる。
「あ……。」
そこには、文字が書かれていた。
今まで何もなかったはずの裏側に。
青いインクで。
⸻
もし時計が動いていたら、
私はまだ約束の途中です。
海斗。
灯台へ来てください。
母より。
⸻
店の中が静まり返る。
航が、ゆっくりと顔を上げる。
「……また灯台か。」
修も黙っている。
二人とも、同じことを考えていた。
海の向こうの修理屋。
青い灯台。
そして。
切れてしまった縁。
海斗が震える声で言った。
「これ……母の字です。」
「間違いないのか。」
「はい。」
少年の目に涙が浮かぶ。
「母だ……。」
修は静かに息を吐いた。
ポケットの中で、銀の針がまだ温かい。
そして。
その針の先が、ゆっくりと窓の外を向いた。
海の方角。
まるで。
『急げ』
と言っているように。
その時。
カラン――。
店の扉が開いた。
冷たい風が吹き込む。
だが、そこには誰もいない。
足元に、一枚の封筒だけが置かれていた。
白い封筒。
差出人の名前はない。
表には、たった一言。
⸻
修理依頼
⸻
修が、ゆっくりと封を開ける。
中には、一枚の便箋。
そこには、こう書かれていた。
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依頼品 切れた縁
依頼人 名乗れない母
修理人 縺れ糸の修復師
報酬 ひとつの再会
⸻
そして最後に、一行だけ。
⸻
急いでください。
時間が、ありません。
⸻
柱時計が、コーン……と一つ鳴った。
その音は、どこか切なかった。
修は便箋を畳む。
そして、海斗を見る。
少年は、泣きそうな顔で立っていた。
「……おじさん。」
「何だ。」
「母に……会えますか。」
長い沈黙。
修は窓の外の海を見た。
それから。
小さく笑った。
「分からん。」
海斗が俯く。
「でもな。」
修は立ち上がった。
「探しには行ける。」
そして。
店の奥に掛けてあった上着を取る。
航も、当たり前のように立ち上がる。
「また海か。」
「嫌か?」
「まさか。」
航が笑う。
「今度は帰って来られるしな。」
修も笑った。
そして、少年へ手を差し出す。
「行くか。」
海斗が顔を上げる。
「……はい。」
窓の外では、冬の海が静かに光っていた。
そして、そのずっと向こうで。
誰かが、小さく手を振っているような気がした。
⸻
第二章 名乗れない母
翌朝。
空は、冬とは思えないほど澄んでいた。
海は静かだった。
まるで、誰かを待っているように。
修の店では、朝から慌ただしい音がしている。
「何でこんなに荷物がある。」
「念のためだ。」
「釣り竿まで持って行く必要あるか?」
「魚が釣れるかもしれない。」
「遊びに行くんじゃない!」
海斗が思わず笑った。
昨日まで泣きそうな顔をしていた少年が、少しだけ年相応の表情を見せる。
それを見て、修はほっとした。
「おじさんたち、仲がいいんですね。」
「悪い。」
「腐れ縁だ。」
二人が同時に答えた。
海斗がまた笑う。
その時だった。
カチ。
机の上に置かれた懐中時計が、一度だけ大きな音を立てた。
三人が振り向く。
秒針が、止まっている。
「……え。」
海斗の顔から血の気が引いた。
「止まった……。」
昨日まで動いていた時計。
三年間、一度も止まらなかった時計。
それが今、完全に止まっている。
「お母さん……。」
少年の声が震える。
だが、その瞬間。
修の手の中にあった銀の針が、強く光った。
そして。
カチ。
懐中時計が再び動き出す。
海斗が息を呑む。
すると、時計の文字盤の上に、小さな文字が浮かび上がった。
⸻
急いで。
⸻
三人は顔を見合わせた。
「……時間がないらしいな。」
修が呟く。
「行こう。」
航が真顔になる。
いつもの軽口はなかった。
どこか、嫌な予感がしていた。
港へ向かう。
冬の空気は冷たい。
しかし、海だけは不思議なほど穏やかだった。
港に着くと、かもめ丸が静かに揺れている。
「あ。」
海斗が小さく声を上げた。
船の甲板に、一枚の紙が置かれていた。
修が拾い上げる。
古い海図だった。
だが、普通の海図ではない。
海の上に、一本の銀色の線が描かれている。
そして、その先には小さな印。
灯台の絵。
「……案内図か。」
航が覗き込む。
すると。
海図の端に、小さな文字。
⸻
母は、約束を守れませんでした。
だから、迎えに来てください。
⸻
海斗が唇を噛む。
「母さん……。」
修は少年の肩へ手を置いた。
「行こう。」
かもめ丸が港を離れる。
エンジンの音が、静かな海へ溶けていく。
しばらくすると。
海の色が変わった。
冬の青ではない。
淡い銀色。
まるで空の光が、海へ溶け込んでいるようだった。
「……まただ。」
航が呟く。
二十年前。
青い灯台へ向かった時と同じだ。
その時。
海斗が前を指差した。
「あれ!」
海の向こう。
小さな光。
だが今回は青ではない。
銀色だった。
一本の塔。
海の上に立つ灯台。
「銀の灯台……。」
修が息を呑む。
すると、懐中時計が大きく鳴り始めた。
カチ。
カチ。
カチ。
そして――
『海斗。』
声。
優しい女の人の声。
「……母さん!」
少年が立ち上がる。
『ごめんね。』
「どこにいるの!」
『ここよ。』
銀の灯台が、強く輝く。
『もう少しだけ。』
その時だった。
空が曇った。
風が吹く。
海が大きく揺れる。
ゴォォ……。
そして。
銀の海の底から、黒い影が現れた。
人の形をしている。
だが、顔がない。
ぼんやりとした影。
一つ。
二つ。
三つ。
次々と海の中から浮かび上がってくる。
海斗が修の腕を掴む。
「何……あれ。」
航の顔が険しくなる。
「……切れた縁だ。」
「え?」
「帰る場所をなくした想い。」
影たちは、ゆっくりと船へ近づいてくる。
冷たい風が吹いた。
そして。
どこからともなく、女の声が聞こえた。
『あの子を……守って。』
銀の灯台が、再び光る。
その瞬間。
修の手の中の銀の針が、まるで生き物のように震え始めた。
そして。
針の先が、一つの影を指した。
一番奥にいる、小さな影。
その姿だけが、かすかに人の形をしている。
女だった。
長い髪。
優しい立ち姿。
海斗が、震える声で呟く。
「……母さん。」
影が、ゆっくりとこちらへ手を伸ばした。
しかし、その身体には、何かが巻きついている。
黒い糸。
何本も。
何本も。
まるで、彼女を海へ縛りつけているかのように。
修が小さく息を呑む。
そして、ようやく気づく。
今回の依頼は――
「切れた縁を結ぶことじゃない。」
銀の針を握りしめる。
「この人を、ほどいてやることなんだ。」
冬の海に、銀の灯台が静かに輝いていた。
⸻
第三章 黒い糸の海
海は、時々すべてを飲み込む。
船も。
言葉も。
そして、人の後悔も。
銀色の海の中。
女の影が、黒い糸に縛られていた。
何本も。
何本も。
まるで、自分自身を縛りつけるように。
「母さん……!」
海斗が叫ぶ。
だが、その声は届かない。
女の影は微笑んでいる。
優しく。
どこか寂しそうに。
「近づくな。」
航が静かな声で言った。
「え……?」
「この海は、人の想いでできている。」
修が隣で頷く。
「強い後悔ほど、深く沈む。」
海斗が海を見る。
黒い糸は、海の底へ続いていた。
果てが見えない。
「どうして……。」
少年の声が震える。
「どうして母さんが……。」
その時だった。
風に乗って、女の声が聞こえた。
『ごめんね。』
海斗の目が大きくなる。
『約束を守れなかった。』
「約束……?」
『お誕生日、一緒に過ごそうって言ったのに。』
海斗の唇が震えた。
「……覚えてる。」
『ごめんね。』
「覚えてるよ……。」
三年前。
十二歳の誕生日。
母と二人で、水族館へ行く約束をしていた。
けれど。
その朝。
母の乗った車は海沿いの道で事故に遭った。
車は海へ転落した。
母は、そのまま行方不明になった。
「僕……。」
海斗が俯く。
「ずっと怒ってた。」
静かな声だった。
「約束したのにって。」
海が揺れる。
黒い糸も揺れる。
「どうして来てくれなかったのって。」
すると。
女の影が、小さく微笑んだ。
『うん。』
「ずっと……。」
涙が落ちる。
「ずっと、一人だった。」
その瞬間。
黒い糸が一本、強く締まった。
女の影が苦しそうに顔を歪める。
「……!」
修が息を呑む。
「後悔だ。」
航が呟く。
「お互いの。」
海斗は顔を上げた。
「お互い……?」
「お母さんは約束を守れなかったことを。」
修が静かに言う。
「お前は、怒ってしまったことを。」
冬の風が吹いた。
「だから糸が縛ってる。」
「……。」
「二人とも、自分を許せないんだ。」
海斗が海を見つめる。
母の影は、今も優しく微笑んでいた。
「でも……。」
少年が小さく言う。
「僕……。」
何かを思い出す。
事故の前の日。
母が作ってくれたケーキ。
一緒に選んだプレゼント。
笑っていた顔。
そして。
最後に交わした言葉。
『明日、楽しみだね。』
母は約束を破ろうとしたわけじゃない。
来たくなかったわけじゃない。
「……そうか。」
海斗が涙を拭う。
「母さんも……来たかったんだ。」
女の影が、ゆっくりと顔を上げる。
『うん。』
「僕……。」
声が震える。
「ずっと、一人で怒ってた。」
黒い糸が、一本ほどけた。
静かな音。
パチ。
海の色が少しだけ明るくなる。
「ごめん……。」
もう一本。
パチ。
「僕……。」
海斗が泣きながら笑う。
「もう怒ってないよ。」
その瞬間だった。
黒い糸が、一斉にほどけ始めた。
パチ。
パチ。
パチ。
まるで、長い冬が終わるように。
女の影が、ゆっくりと海面へ浮かび上がる。
そして。
初めて、その顔がはっきり見えた。
優しい目。
少し困ったような笑顔。
写真の中の女性だった。
「母さん……。」
海斗が立ち上がる。
女は何も言わない。
ただ、そっと手を伸ばした。
海斗も手を伸ばす。
指先が触れそうになった、その時。
銀の針が強く光った。
眩しい光。
そして。
修の耳に、あの老人の声が聞こえた。
『銀の針は、結ぶためだけのものではない。』
「……。」
『さよならを、届けるための針でもある。』
修が静かに目を閉じる。
そういうことか。
切れた縁は、無理につなぐものではない。
ちゃんと別れることで、結び直せる縁もある。
「海斗。」
少年が振り返る。
修は優しく言った。
「お母さん、待ってるぞ。」
海斗が頷く。
そして。
一歩、前へ出た。
「……母さん。」
女の目から、一粒の涙がこぼれた。
「僕ね。」
声が震える。
「ちゃんと大きくなるよ。」
冬の海に、静かな波音が響く。
「だから……。」
少年は、泣きながら笑った。
「心配しないで。」
長い沈黙。
そして。
女が初めて声を出した。
『ありがとう。』
その言葉は、風のように優しかった。
『生まれてきてくれて。』
海斗が泣き崩れる。
女は微笑んだ。
二度と会えない人へ向ける、最後の笑顔だった。
そして。
銀の光に包まれながら、ゆっくりと空へ溶けていった。
海は静かだった。
銀の灯台だけが、遠くで優しく輝いている。
海斗はしばらく泣いていた。
修も。
航も。
何も言わなかった。
やがて。
少年が小さく顔を上げる。
「……おじさん。」
「何だ。」
「僕……。」
涙を拭う。
そして。
少しだけ笑った。
「ちゃんと、さよならできた。」
修も笑った。
「ああ。」
冬の海を、柔らかな風が吹き抜けていった。
⸻
第四章 最後の修理依頼
港へ戻る頃には、夕暮れになっていた。
冬の空は早い。
西の空だけが、橙色に染まっている。
海斗は、かもめ丸の船首に立って海を見ていた。
泣き腫らした目だったが、その顔はどこか晴れやかだった。
「……帰ったな。」
航が小さく呟く。
「そうだな。」
修も頷いた。
「寂しいか?」
「少しな。」
海斗が振り返る。
「でも。」
小さく笑う。
「ちゃんと、また会える気がするんです。」
修と航が顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
「いい顔になったな。」
「はい。」
船が港へ着く。
三人が降りようとした、その時だった。
カチ。
修のポケットの中で、銀の針が鳴った。
今まで聞いたことのない音。
そして。
針が、真っ直ぐ修の胸を指した。
「……俺?」
航が覗き込む。
「壊れたか?」
「いや……。」
銀の針は、かすかに震えている。
その時。
風が吹いた。
どこからか、懐かしい匂いがした。
潮の匂い。
そして。
微かに、線香の香り。
修の顔から笑みが消える。
「……まさか。」
港の先。
夕日の中に、一人の人影が立っていた。
小柄な女性。
白いカーディガン。
長い髪。
後ろ姿しか見えない。
だが。
見間違えるはずがなかった。
「……美咲。」
航が息を呑む。
その名前を、二十年ぶりに聞いた。
美咲。
修の妻。
十年前、病気で亡くなった人。
「おい……。」
航が声をかける。
だが、修は動けなかった。
女性が、ゆっくり振り返る。
優しい笑顔。
昔と変わらない。
「……久しぶり。」
風に乗って、声が届いた。
修の手が震える。
「何で……。」
やっと、それだけ言えた。
「どうして……。」
美咲は困ったように笑った。
「呼ばれちゃった。」
「誰に。」
「あなたに。」
静かな夕暮れ。
波の音だけが聞こえる。
「俺が……?」
「そう。」
美咲が頷く。
「ずっと呼んでたでしょう。」
修は何も言えない。
その顔を見て、彼女は優しく笑う。
「私はね。」
ゆっくりと歩いてくる。
「もう、とっくに向こうへ行ってるの。」
「……。」
「でも。」
少しだけ寂しそうな顔になる。
「あなたが、一人で立ち止まってるから。」
修の胸が痛んだ。
「俺は……。」
言葉が出てこない。
「ずっと、一緒に年を取るはずだった。」
声が震える。
「もっと旅行にも行きたかった。」
「うん。」
「もっと……話もしたかった。」
「うん。」
「何で、先に行くんだよ。」
その一言で、堰を切ったように涙が溢れた。
航が静かに顔を伏せる。
海斗も何も言わない。
美咲が、そっと笑った。
「やっと言った。」
「……。」
「十年間、一度も言わなかったのに。」
修は泣いていた。
子どものように。
「寂しかった。」
小さな声だった。
「……うん。」
「会いたかった。」
「うん。」
「ずっと……。」
美咲が、そっと手を伸ばす。
触れられない。
それでも、修の頬へ手を添えるように。
「私も。」
夕日が海へ沈み始める。
「会いたかった。」
長い沈黙。
やがて。
美咲が、少し困った顔をした。
「でもね。」
「……。」
「私、怒ってることがあるの。」
「え?」
「あなた。」
少しだけ頬を膨らませる。
「一人で何でも抱え込みすぎ。」
航が思わず吹き出した。
「はは……言われてるぞ。」
「うるさい。」
「私がいなくなってから。」
美咲が優しく笑う。
「ちゃんと泣かなかったでしょう。」
修は何も言えない。
図星だった。
「だから。」
彼女が一歩下がる。
「もう、大丈夫。」
夕日が、彼女の身体を透かし始める。
「え……。」
「あなたには、まだ仕事がある。」
銀の針が、温かく光る。
「人の縁を直す仕事。」
「……。」
「だから。」
美咲が笑う。
あの日と同じ。
修が一番好きだった笑顔で。
「ちゃんと、生きて。」
風が吹いた。
海の匂い。
春の匂い。
「そして、いつか。」
その姿が、光へ溶けていく。
「今度は、おじいちゃんになってから会いましょう。」
「待て……!」
修が手を伸ばす。
だが。
その手は届かない。
美咲は最後に、静かに手を振った。
「またね。」
そして――
夕日の中へ消えた。
静かな海だった。
誰も何も言わない。
長い時間が過ぎた。
やがて。
修が、小さく笑った。
涙を拭きながら。
「……参ったな。」
航が隣へ立つ。
「大丈夫か。」
「うん。」
空を見上げる。
冬の夕焼け。
「やっと、見送れた。」
その時。
銀の針が、ふわりと光った。
そして。
一本の新しい糸が見えた。
金色の糸。
遠くへ。
未来へ。
どこまでも続いている。
修が、小さく息を吐く。
「……さて。」
海斗と航を見る。
そして、少し照れくさそうに笑った。
「まだ、働かないとな。」
港の上を、優しい風が吹き抜けていった。
⸻
最終章 銀の針
春だった。
いつの間にか、海辺の町に冬は去っていた。
修の店の前の桜が、小さく花をつけている。
風がやわらかい。
波も穏やかだ。
店の中では、柱時計が静かな音を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
修はいつもの椅子へ座り、古い腕時計を修理していた。
その顔は、少しだけ変わった。
肩の力が抜けている。
どこか、穏やかだった。
カラン――。
店の扉が開く。
「おはよう。」
航だった。
相変わらず、毎日のようにやって来る。
「仕事しろ。」
「俺の仕事は、お前の邪魔をすることだ。」
「迷惑だ。」
二人が笑う。
すると、その後ろからもう一人。
「こんにちは!」
海斗だった。
背が少し伸びた。
笑う顔も明るい。
「学校は。」
「今日は土曜日!」
「なるほど。」
今では、すっかり常連である。
海斗は店の掃除を手伝ったり、時計を磨いたりしている。
「将来、修理屋になりたいです。」
そう言い始めた時には、修も航も驚いた。
「物好きだな。」
「そうですか?」
「かなり。」
海斗が笑う。
その時だった。
ポケットの中で、銀の針が温かくなった。
修が取り出す。
不思議な針。
三部作の始まりから、ずっと持っているもの。
しかし今日は、どこか様子が違う。
銀色の光が、少しずつ金色へ変わっていく。
「……何だ?」
航が覗き込む。
すると。
店の奥で、柱時計が鳴った。
コーン。
一度。
二度。
三度。
その音に合わせるように、窓から風が吹き込む。
そして。
聞こえた。
懐かしい声。
『ご苦労さん。』
修が顔を上げる。
店の入口。
そこに、あの老人が立っていた。
白い服。
白い髪。
海の色をした目。
「……また来たか。」
老人が笑う。
「たまには顔を見に来る。」
「勝手だな。」
「お互いさまだ。」
老人は店の中を見回した。
航。
海斗。
そして修。
みんなの顔を見て、満足そうに頷く。
「いい顔になった。」
「そうか?」
「ああ。」
老人は修の手の中の針を見た。
「その針も、役目を終えたようだ。」
「役目?」
「銀の針はな。」
静かな声だった。
「人が、本当に前へ進めた時、持ち主の手を離れる。」
「……。」
「お前は、もう大丈夫だ。」
修は、しばらく針を見つめていた。
縺れた糸。
切れた縁。
たくさんの人。
たくさんの涙。
そして。
美咲。
航。
海斗。
全部、この針が繋いでくれた。
「……そうか。」
小さく笑う。
すると。
銀の針が、ふわりと宙へ浮かんだ。
驚く三人。
針は春の光の中で、ゆっくりと回り始める。
そして――
パチ。
小さな音を立てて、一枚の桜の花びらへ変わった。
「……え?」
海斗が目を丸くする。
花びらは、風に乗って店の外へ舞っていく。
空へ。
海へ。
どこまでも。
老人が微笑む。
「役目を終えた道具は、春になる。」
「意味が分からん。」
「私もよく分かっていない。」
「適当だな。」
老人が笑った。
そして。
ゆっくりと背を向ける。
「行くのか。」
「ああ。」
「どこへ。」
老人は少しだけ考えた。
それから、子どものような顔で笑う。
「次の修理屋を探しにな。」
「……。」
「人の縁は、これからも縺れる。」
店の扉を開ける。
「忙しい仕事だからな。」
春の風が吹いた。
老人の姿が、少しだけ透ける。
「また会えるか。」
修が聞いた。
老人は振り返らない。
ただ、こう言った。
「縁があれば。」
そして。
風の中へ消えていった。
静かな午後だった。
しばらく、誰も何も言わない。
やがて。
海斗が、小さく聞いた。
「終わったんですか。」
修は窓の外を見る。
青い海。
白い雲。
風に舞う桜。
そして。
店の入口。
そこには、一人の女性が立っていた。
困った顔で、古い時計を持っている。
「すみません。」
女性が頭を下げる。
「時計を直していただきたいんですが……。」
修が笑う。
「どうぞ。」
女性が安心したように笑った。
その顔を見ながら、修は思う。
終わりじゃない。
きっと、こうして続いていくのだ。
人が出会い。
別れ。
また誰かと出会うように。
縁は、ずっと続いていく。
「それで……。」
女性が少し困った顔をする。
「変なお願いなんですが。」
「何でしょう。」
「この時計。」
大事そうに抱える。
「主人の形見なんです。」
春の風が吹く。
どこかで、カランとベルが鳴る。
女性が続ける。
「もしできるなら……。」
少しだけ、涙ぐみながら。
「ありがとうって、伝えたいんです。」
修は、しばらく時計を見つめていた。
そして。
ゆっくりと笑う。
「……なるほど。」
椅子を引く。
「少し、時間がかかるかもしれません。」
女性が頷く。
修は時計を受け取った。
窓の外では、一枚の桜の花びらが、海へ向かって飛んでいく。
その先で。
誰かが、笑っている気がした。
⸻
人は、何度でも縺れる。
何度でも迷う。
それでも。
誰かと結んだ糸は、きっと消えない。
だから今日も。
海辺の小さな修理屋には、
静かな波の音とともに、
新しい依頼がやって来る。
⸻
了
ーーーーーーーーーー
縺れ糸の修復師 四 白い糸
第一章 置いてきた海
朝の海は、不思議と昔のことを思い出させる。
まだ誰も歩いていない防波堤。
波が石を撫でる音。
潮の匂い。
修は店の前を掃きながら、何度目かのため息をついた。
白い糸。
今朝、机の上に置かれていた一本の糸。
あれから何時間も経っているのに、胸のざわつきが消えない。
箒を止め、空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
「……まいったな。」
思わず独り言がこぼれる。
これまで数え切れないほどの糸を見てきた。
恋人の糸。
親子の糸。
友人の糸。
どれも絡まり、切れそうになり、それでもどこかで繋がっていた。
だが、自分の糸だけは見ようとしなかった。
いや。
見ないようにしてきたのだ。
そのとき。
カラン。
店の扉の鈴が鳴った。
「開いてますか。」
聞き覚えのない若い男の声だった。
振り返ると、三十代半ばくらいの男性が立っている。
黒いシャツに、少し日に焼けた顔。
どこか懐かしい目をしていた。
「どうぞ。」
修が言うと、男は店の中へ入った。
そして店内をゆっくり見回し、古い柱時計に目を止めた。
「父から聞いていました。」
「……お父さん?」
「はい。」
男は静かに頷く。
「ここに来れば、会えるかもしれないって。」
修の胸が小さく鳴った。
男は続けた。
「父の名前は、真鍋俊介といいます。」
その瞬間。
時間が止まった。
遠い夏の海。
白い波。
笑い声。
サーフボードを抱えて走る若い自分。
そして――
親友の顔。
修の手から箒が落ちた。
乾いた音が、静かな朝に響いた。
「……俊介……。」
四十年、一度も口にしなかった名前だった。
男は小さく微笑んだ。
「父は三年前に亡くなりました。」
修は何も言えなかった。
言葉が見つからない。
見つかるはずがなかった。
男は鞄から、一通の古い封筒を取り出した。
茶色く変色した封筒。
表には、たった一言だけ書かれていた。
――修へ。
その字を見た瞬間。
修の視界が滲んだ。
「あいつ……。」
男は静かに言う。
「父から預かってきました。」
店の外で、波の音がした。
まるで、遠い昔の夏が帰ってくるように。
修は震える手で、その封筒を受け取った。
『縺れ糸の修復師 四 白い糸』
第二章 親友からの手紙
封筒は、長い年月を生きてきた人の手のように、少しだけ黄ばんでいた。
修は、しばらくそれを見つめていた。
開けてしまえば、もう後戻りはできない。
四十年という時間が、一気に動き出してしまう。
「無理をなさらなくても……。」
男が静かに言った。
修は首を横に振る。
「いや……。」
そして、ゆっくりと封を切った。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
見慣れた字だった。
若い頃、何度も見た字。
釣りの約束を書いた紙も、波のいい日を知らせるメモも、全部この字だった。
修へ。
久しぶりだな。
この手紙をお前が読んでいるなら、俺はもういないんだろう。
なんだか変な気分だ。
生きているうちに会いに行けばよかったんだけどな。
俺も、お前に負けないくらい頑固だった。
だから、ずっと行けなかった。
修は思わず目を閉じた。
若い頃の俊介が笑っている。
「お前、ほんと意地っ張りだな。」
そう言って笑う声が聞こえた気がした。
手紙の続きを読む。
あの夏の日のことを、俺は一度もお前のせいだと思ったことはない。
だから、自分を責めるのはもうやめろ。
人生ってやつは、案外短い。
怒っている時間も、
意地を張っている時間も、
もったいない。
もし、また会えたら、一緒に海へ行こう。
昔みたいに。
もし会えなかったら……
そのときは、お前だけでも海へ行ってくれ。
俺は、あの海が大好きだったから。
追伸。
お前には、まだ解いていない糸がある。
それだけは、ちゃんと結び直せ。
俊介
読み終えたとき、修の手は震えていた。
店の中は静かだった。
時計の音だけが、小さく響いている。
カチ。
カチ。
カチ。
男が言った。
「父は、亡くなる前まで、あなたの話をしていました。」
修は顔を上げた。
「……俺の?」
「はい。『あいつは人の世話ばかり焼いて、自分のことは後回しにする男だ』って。」
思わず、苦笑いが漏れた。
「当たってるな……。」
男も少し笑った。
「だから、どうしてもこの手紙を渡したかったんです。」
窓の外から、潮の香りが流れ込んできた。
修は便箋を胸に当てる。
四十年。
長かった。
けれど今、その長い時間が、少しだけほどけていくのを感じていた。
そして、ふと思う。
――まだ解いていない糸。
それは、誰との糸なのだろう。
そのときだった。
机の上に置いていた白い糸が、窓から入った風に揺れた。
まるで、どこかへ導くように。
『縺れ糸の修復師 四 白い糸』
第三章 白い灯台
翌朝。
修は、店を休みにした。
扉に、
――本日休業。
申し訳ありません。
とだけ書いた紙を貼る。
その字を見ながら、自分でも少し不思議だった。
何十年ぶりだろう。
理由もなく、いや、理由はあるのだが、店を閉めるのは。
机の上には、昨夜の手紙と白い糸が置かれていた。
白い糸は、朝の光を受けて静かに輝いている。
「……行くか。」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
海へ向かう道は、昔より狭くなった気がした。
いや、自分が歳を取ったのかもしれない。
商店街を抜け、坂道を下る。
潮の匂いが濃くなる。
そして、見えてきた。
白い灯台。
若い頃、俊介と何度も来た場所。
波の高い日も、凪の日も。
悩みがあると、二人でここへ来て、黙って海を見ていた。
灯台は、何も変わっていなかった。
少しだけ塗装が剥げているが、それでも昔のままそこに立っていた。
修は防波堤に腰を下ろした。
海は青かった。
どこまでも。
しばらく、何も考えずに海を見た。
すると、後ろから声がした。
「……修さん?」
振り返る。
一人の女性が立っていた。
六十歳くらいだろうか。
髪には白いものが混じっている。
だが、その目を見た瞬間。
修の胸が止まった。
「……美咲……。」
女性が、小さく笑った。
「やっぱり、修さんだった。」
四十年ぶりだった。
言葉が出ない。
ただ、そこに立っている。
若い頃、毎日のように会っていた人が、今、目の前にいる。
「久しぶり。」
美咲が言った。
「……ああ。」
それしか言えなかった。
風が吹く。
海が光る。
二人の間を、長い年月だけが静かに流れていた。
「俊介さんの息子さんから聞いたの。」
美咲が言う。
「今日、あなたがここへ来るかもしれないって。」
修は驚いた。
「知っていたのか。」
「うん。」
少しの沈黙。
やがて、美咲が海を見つめたまま言った。
「私ね、ずっと待っていたの。」
修は息をのんだ。
「いつか、あなたがここへ来るんじゃないかって。」
「……。」
「四十年も。」
その言葉が、胸の奥へ落ちていく。
重く、そして優しく。
「どうして……。」
ようやく、それだけを口にした。
美咲は、少し笑った。
「あの頃の私たち、みんな若かったでしょう。」
そして、続けた。
「だから、上手に謝れなかった。」
修は何も言えない。
「あの日、あなたが突然この街を出て行って……私は、怒っていた。」
風が強くなる。
「でもね。」
美咲はゆっくり振り返った。
「怒っていたんじゃなくて、寂しかったの。」
その一言で。
修の中の何かが、静かにほどけた。
長い間、固く結ばれていた結び目が。
少しだけ。
本当に少しだけ。
緩んだ気がした。
白い灯台の上を、かもめが一羽、ゆっくりと飛んでいった。
『縺れ糸の修復師 四 白い糸』
最終章 朝の海
翌朝。
修は、まだ薄暗いうちに目を覚ました。
窓の外では、海鳥の鳴き声がしている。
不思議と、心は静かだった。
昨夜は、久しぶりに深く眠れた気がする。
机の上を見る。
白い糸が、そこにあった。
細く、頼りなく、それでいてどこか温かな糸。
修は、そっと手に取った。
「ずいぶん、待たせたな……。」
誰に言うでもなく、つぶやく。
すると、若い頃の声が聞こえた気がした。
笑いながらサーフボードを抱える俊介。
防波堤で夕日を見ていた美咲。
そして、自分。
まだ何者でもなく、ただ明日だけを見ていた頃の自分。
修は静かに微笑んだ。
「悪くなかったな……俺の人生も。」
そう口にしたときだった。
胸の奥で、何かがほどけた。
何十年も固く結ばれていたものが、ふっと軽くなる。
涙が、一筋だけ頬を伝った。
悲しい涙ではなかった。
ようやく帰ってこられた人の涙だった。
修は立ち上がり、店の扉を開けた。
朝の海が見える。
水平線の向こうから、ゆっくりと太陽が昇ってくる。
世界が、少しずつ明るくなっていく。
その光の中で、白い糸が淡く輝いた。
そして――。
ふわり、と風が吹いた。
白い糸が修の手を離れ、空へ舞い上がる。
慌てて掴もうとはしなかった。
ただ、その行方を見つめた。
糸は朝日に溶けるように光り、やがて見えなくなった。
そのとき。
「おかえり。」
確かに、そんな声が聞こえた。
修は微笑んだ。
「ただいま。」
遠くで、波が返事をした。
カラン。
店の鈴が鳴る。
振り返ると、誰もいない。
けれど、窓辺には小さな白い貝殻がひとつ置かれていた。
昔、美咲が好きだった貝殻。
そして、俊介が「幸せを呼ぶ貝だ」と言って笑っていた貝殻。
修はそれを手に取る。
温かかった。
まるで、今置かれたばかりのように。
やがて、朝日が店の中へ差し込んだ。
古い時計たちが、一斉に時を刻み始める。
カチ。
カチ。
カチ。
修は白い貝殻を棚の上に置き、いつもの椅子へ腰を下ろした。
今日もまた、誰かがこの店の扉を開けるのだろう。
縺れた糸を、胸に抱いて。
修は穏やかに目を細めた。
そして、小さくつぶやく。
「大丈夫ですよ。」
「糸は、ちゃんと結び直せますから。」
外では、新しい朝の海が静かに光っていた。
――完――
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〜あとがき〜
人生には、どうしても解けないと思っている糸があります。
謝れなかったこと。
会えなくなった人。
言えなかった言葉。
けれど、それらは切れてしまったのではなく、ただ長い間、絡まっていただけなのかもしれません。
『縺れ糸の修復師』を書きながら、私自身もたくさんの糸を思い出しました。
人は誰かと繋がり、誰かと別れ、そして最後には、自分自身とも向き合わなければなりません。
もし、この物語が皆さまの心の中にある一本の糸を、少しだけ優しく揺らすことができたなら、とても嬉しく思います。
またどこかで、お会いできますように。


