縺れ糸の修復師 四部作


〜まえがき〜

人生には、どうしても解けない「縺れ」ができる。 

 
若さに任せてぷつりと引き千切った人間関係。
言えなかった「ごめん」と、聞けなかった「ありがとう」。 

 
胸の奥で固く結ばれたそれは、時間とともに石のように固まっていく。
この物語は、60歳の時計修理屋・修が、嵐の日に現れた少女から「赤い糸」の修復を頼まれるところから始まります。 

 
時計の歯車は直せても、人の心の縺れは直せるのか。
雨に濡れることを格好良いと思っていた男が、「傘を差す知恵」にたどり着くまでの話です。
もしあなたにも、引き千切ってしまった過去があるなら。
この短い物語が、固くなった結び目に触れる小さなピンセットになれば嬉しいです。 

 
さあ、雨音をBGMに、一本の糸を解く時間を始めましょう。



【登場人物】

修(おさむ) / 60歳:海岸沿いの古い街で「時計と小物の修理屋」を営む男。若い頃はサーファーとして無鉄砲に生き、多くの人間関係を引き千切ってきた。

雨の少女:ある嵐の日に、傘も差さずに店へ迷い込んできた不思議な客。





縺れ糸の修復師 一 赤い糸


【第一章:雨の日の傘、あるいは傲慢の終わり】

初夏というにはあまりに冷たい、暴力的な土砂降りの日だった。


古いトタン屋根を叩く雨音を聞きながら、六十歳になった修(おさむ)は、店のカウンターで静かに温かい珈琲をすすっていた。


若い頃の自分なら、こんな雨の日はわざと傘を放り出し、濡れた髪をかき上げながら嵐の中を歩いたものだ。「逃げも隠れもせん人生が格好良い」と、本気で信じていたからだ。雨に打たれることも、風に煽られることも、どこか「世界と戦っている自分」の証明のようで心地よかった。


「……と~に、過ぎ去ったな、そんな頃は」
修は苦笑し、手元にある古びた番傘を見つめた。
人間がこの大自然に、あるいはこの世間という名の巨大な世界に、真っ向から立ち向かったところで勝てるわけがないのだ。


還暦を過ぎてようやく、修は「雨の日には傘を差す」という、当たり前で、しかし至高の知恵に気づいた。世界に勝とうとするのではなく、地球と同化し、緩やかにその場その場を凌ぐこと。それこそが、老いて手に入れた真の洗練だった。


その時、店のドアがカランと鳴った。
入ってきたのは、十代後半に見える少女だった。驚いたことに、彼女は傘を持っていなかった。服も髪も、まるで海に飛び込んできたかのようにびしょ濡れだった。


「いらっしゃい。……ひどい雨だ。すぐにストーブをつけるよ」


修がバスタオルを差し出すと、少女はそれを黙って受け取り、代わりに濡れたカバンから「それ」を取り出した。


それは、透明なガラス瓶だった。中には、まるで生き物のように複雑怪奇に絡み合った、一本の「赤い太糸」が入っていた。


「これを、解(ほど)いてほしいの」と少女は言った。


「時計の修理なら専門だがね」と修は返す。


「あなたならできるわ。決して、引き千切らずに、元の一本に戻して」


少女の瞳の奥に、かつて自分がどこかの街に置き去りにしてきたような、強い「後悔」の光を見た気がして、修は気づけばその瓶を受け取っていた。



【第二章:引き千切ってきた過去たち】

少女は毎日、夕方になると店にやってきた。修はカウンターに拡大鏡を据え、竹製の細いピンセットを使って、ガラス瓶から取り出した赤い糸の縺(もつ)れに挑んだ。


不思議なことが起きたのは、最初の結び目をわずかに緩めた瞬間だった。


じりじりと、頭の芯が熱くなる。店内の珈琲の香りが、一瞬にして「潮風と、古いシボレーのシートの匂い」に変わった。


(……ここは、どこだ?)


修の脳裏に、鮮烈な景色が飛び込んできた。
1970年代の終わり、カリフォルニアのハンティントン・ビーチ。

照りつける太陽、ラフに削られたロングボード、そして、隣で笑っていた、あの頃の恋人の眩しい笑顔。


若い頃の修は、あまりに不器用だった。


彼女と言い争いになり、お互いの気持ちが少しでも縺れると、そのもどかしさとプライドの高さに耐えかねて、自らぷつりと関係を断ち切ってしまった。


「もういい、終わりだ」と、強引に糸を引き千切ることが、男の潔さだと勘違いしていたのだ。


ハッと我に返ると、修は冷や汗をかいていた。手元の赤い糸は、ほんの数ミリだけ解けていた。
カウンターの向こうで、少女が静かに修を見つめている。


「覚えがあるだろ?」
少女の声が、なぜか自分の内なる声のように響いた。


「後悔、っていう名の覚えが」
修は、乾いた喉を鳴らした。「ああ……ご同輩」と、誰にともなく心の中で呟いた。俺たちは若い頃、なぜあんなに簡単に、大切なものを引き千切ってしまえたのだろうか。



【第三章:男女の仲、そのままじゃいかん】

糸の中心部に近づくにつれ、縺れは一層ひどくなり、まるで硬い岩のようになっていった。拡大鏡で見ても、どこが始点で行き止まりなのかさえ分からない。


それは、人間関係――特に、男女の仲の縺れそのものだった。


一度拗れてしまった感情は、放置すればするほど、時間の経過とともに固着していく。


「そのままじゃ、いかん。投げちゃ、いかん。諦めちゃ、いかん」
修は、自分自身に言い聞かせるように何度も呟いた。


若い頃の自分は、すぐに投げ出し、すぐに諦めた。しかし、今ここでこの糸を投げ出したら、あの過去の苦い後悔を、もう一度繰り返すことになる。


「必ず前向きで、最善を尽くす。何らかの手を打つんだ。決して、縺れた糸を引き千切っちゃいかん……!」


修は老眼鏡を何度もずらし、指先の感覚だけに集中した。
外は再び、激しい風が吹き始めていた。世間という荒波の中で、かつては逃げ惑うか、あるいは無謀に突撃した修だったが、今は違う。

ただ静かに、机に向かい、今できる最善の手を、ミリ単位で打ち続ける。


少女はそんな修の横顔を、愛おしそうに見守っていた。彼女の姿は、陽が落ちるにつれて、どことなく透き通って見えるようになっていた。



【第四章:地球という名の自然の中で】

その夜、街はこれまでにないほどの大嵐に見舞われた。


地響きのような雷鳴が轟き、風が窓ガラスを激しく叩く。地球という名の自然が、その圧倒的な力を見せつけているようだった。


店内の電気がバツンと消え、あたりは完全な闇に包まれた。
昔の修なら、ここでパニックになるか、あるいは嵐に向かって悪態をついていただろう。しかし、今の修の心は奇妙なほど凪いでいた。


「風が吹けば、風の中に……か」


修は小さな蝋燭に火を灯した。揺れる炎のなかで、世界と同化する感覚があった。


自然には勝てない。世間にも勝てない。ならば、この激しい流れを緩やかに凌ぐまでだ。
修は静かに息を吐き、嵐の音をBGMにしながら、最後の、最も頑固な結び目にピンセットを差し込んだ。


不思議なことが起きた。
世界の嵐と同調するように、修の心からすべての力みが消えた瞬間、あれほど硬く固まっていた最後の結び目が、するりと、まるで最初から解けていたかのように滑らかに解けたのだ。


一本の、美しい、長い赤い糸が、机の上にまっすぐ伸びていた。
どこも千切れていない。ただ、かつての記憶をすべて内包した、綺麗な一本の線だった。


修が顔を上げると、いつの間にか嵐は去り、雲の切れ間から美しい月光が店内に差し込んでいた。
そして、目の前にいたはずの少女の姿は、どこにもなかった。



【第五章:なあ、ご同輩】

翌朝、世界は洗われたように晴れ渡り、眩しい光に満ちていた。


修の店のカウンターには、綺麗に巻き直された赤い糸の束と、一枚の古い絵葉書が残されていた。絵葉書には、カリフォルニアの青い海が描かれており、見覚えのある、しかしどこか懐かしい文字でこう書かれていた。


『傘を差してくれて、ありがとう』
修はそれを愛おしそうにポケットに仕舞うと、店の入り口に「本日休業」の札を掛けた。
数年ぶりに、お気に入りのスニーカーを履いて、海岸へと続く坂道を下っていく。


きらきらと輝く水平線を見つめながら、修は、この世界のどこかで同じように年を重ね、同じように胸に苦いトゲを刺したまま生きているであろう仲間たちのことを想った。


「僕らはさ、若い頃、それが出来なかったってわけよ」
潮風が、修の白髪を優しく揺らす。


「覚えがあるだろ? 後悔、っていう……。なあ~、ご同輩。でもさ、雨の日には傘を差して、こうしてまた、光の中に立てばいいんだ。縺れた糸は、今からでも、いくらでも解けるんだからな」
修は深く息を吸い込み、輝く海に向かって、静かに、しかし最高の笑顔を浮かべた。




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縺れ糸の修復師 二 青い糸

第一章 海へ帰る手紙

朝の海は、まだ眠っている。

波の音だけが静かに岸を撫で、カモメが一羽、低く空を横切っていった。

修はいつものように店の前を掃いていた。

昨夜のことが、頭から離れない。

二十年前に海へ消えた男。

青柳航。

そして、その娘を名乗る少女。

店の中では、少女が椅子に座ったまま、両手でマグカップを包んでいた。

「砂糖、もっと入れるか。」

「いえ……十分です。」

声が小さい。

遠慮しているというより、何かを抱えている声だった。

修は向かいの椅子へ腰を下ろした。

「名前は。」

「青柳澪です。」

「いくつだ。」

「十九です。」

十九。

航が海へ消えた年に生まれたことになる。

修は少しだけ目を細めた。

「父親の顔、覚えてるか。」

澪は首を横に振った。

「写真でしか知りません。」

それから、ゆっくりと鞄を開いた。

一枚の封筒を取り出す。

白い封筒。

消印はない。

切手も貼られていない。

ただ、表に小さな字で、

――澪へ

と書かれていた。

「昨日の朝、家の郵便受けに入っていました。」

修は黙って受け取った。

中には、一枚の便箋。

そこには、たった三行だけ。

『青い糸を見つけたら、海へ来なさい。

約束を果たす時が来た。

父より。』

修の背筋に、冷たいものが走った。

この字。

間違いない。

航の字だった。

昔、一緒に波を追いかけていた頃、何度も見た字。

癖まで同じだった。

「……馬鹿な。」

思わず口に出た。

「やっぱり、父なんですよね。」

澪が身を乗り出す。

その目には、期待と不安が同時に浮かんでいた。

修は答えられなかった。

二十年前。

あの嵐の夜。

確かに航は海へ出た。

そして帰らなかった。

遺体も見つからなかった。

だから皆、

『海に呑まれた』

そう結論づけた。

だが。

もし違ったとしたら。

「この手紙のこと、母親は。」

「見せていません。」

「なぜ。」

澪は少しだけ俯いた。

「笑われるからです。」

沈黙。

店の柱時計が、カチ、カチ、と音を立てる。

「私……ずっと思っていたんです。」

澪が窓の外の海を見た。

「父は、どこかで帰ってくる方法を探しているんじゃないかって。」

その言葉に、修の胸が少し痛んだ。

帰ってくる。

その言葉を、昔の自分も信じていた。

一年。

二年。

十年。

ずっと。

だが、人はいつか諦める。

そうしなければ生きていけないからだ。

「変ですよね。」

澪が笑った。

「会ったこともない父を待ってるなんて。」

修は首を横に振った。

「いや。」

窓の外を見た。

凪いだ海。

「待てるってのは、悪いことじゃない。」

その時だった。

カラン。

店の奥で、小さな音がした。

二人が振り向く。

棚の上に置かれていた古い羅針盤。

誰も触っていないのに、その針がゆっくりと回り始めていた。

止まらない。

北を指さない。

くるり、くるりと回り続ける。

やがて。

ぴたり。

海の方角を指した。

その瞬間。

店の電話が鳴った。

ジリリリリ。

古い黒電話。

修が受話器を取る。

「……もしもし。」

返事はない。

ザー……という潮騒だけが聞こえる。

そして。

男の声。

かすれた、遠い声。

『修……聞こえるか。』

修の手が震えた。

『約束の場所へ来い。』

「……航?」

ザー……。

『青い糸が、ほどける前に。』

そこで電話は切れた。

店の中に、静寂が落ちる。

澪が立ち上がった。

「今の……。」

修は受話器を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

二十年。

ずっと止まっていた時間が。

今、

再び動き始めようとしていた。



第二章 青い灯台

夜の海には、昼には見えないものがある。

修は昔、航からそう聞かされたことがあった。

「海はな、人が隠したものを、たまに返してくれる。」

二十歳そこそこの頃の話だ。

二人でサーフボードを抱え、砂浜に座っていた。

「何を返してくれるんだ。」

そう聞くと、航は笑った。

「さあな。思い出かもしれないし、後悔かもしれない。」

その時は、ただの冗談だと思っていた。

だが今、その言葉が胸の奥に引っかかっていた。

――約束の場所へ来い。

電話の声。

あれが本当に航だったのか。

二十年も前に消えた男の声なのか。

修には分からなかった。

分からないからこそ、確かめなければならない気がした。

「青い灯台……。」

澪がぽつりと言った。

「何だ、それ。」

「手紙の裏です。」

修は便箋を受け取った。

裏返す。

そこには、小さな字で、もう一行だけ書かれていた。

『青い灯台で待つ。』

「そんなもの、この町にあったか……。」

修は考え込んだ。

灯台なら一つある。

岬の先の白い灯台だ。

しかし、青い灯台など聞いたことがない。

その時だった。

「ありますよ。」

澪が静かに言った。

「え?」

「母が、昔話みたいに話してくれたことがあります。」

窓の外を見ながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。

「昔、この町には青い灯台があったって。」

「どこに。」

「誰も知らないそうです。」

「何だ、それ。」

「嵐の夜だけ現れるんだって。」

修は思わず苦笑した。

「幽霊話じゃないか。」

「私もそう思っていました。」

しかし、澪の顔は真剣だった。

「でも父は、何度もその話をしていたそうです。」

修の胸がざわつく。

航なら、そういう不思議な話を妙に信じるところがあった。

星を見て、風を読み、海の機嫌を当てる。

不思議と外さない男だった。

「……行くか。」

「え?」

「岬だ。」

澪の目が大きくなる。

「今からですか?」

「こういうのは、待つと逃げる。」

修は壁の時計を見た。

午後八時。

もう日が落ちている。

だが、海は妙に静かだった。

二人は店を閉め、軽トラックへ乗り込んだ。

エンジンをかける。

古い車が低い音を立てた。

道の先には、月に照らされた海が広がっている。

「怖くないか。」

運転しながら修が聞いた。

「少しだけ。」

「帰ってもいいぞ。」

澪は首を振った。

「ここまで来て帰ったら、きっと一生後悔します。」

その言葉に、修は少し笑った。

「航に似てるな。」

「父に?」

「ああ。後先を考えないところが。」

澪も小さく笑った。

初めて見せる笑顔だった。

岬へ続く道は暗い。

街灯も少ない。

やがて、白い灯台が見えてきた。

その時だった。

「……止めて。」

澪が言った。

「どうした。」

「海……。」

修が車を止める。

二人は外へ出た。

潮の匂い。

静かな波音。

そして――。

海のずっと向こう。

水平線の上。

小さな青い光が見えた。

ぽつり。

まるで星が海に落ちたように。

「……何だ、あれ。」

澪は息を呑んだ。

青い光は、ゆっくりと明滅している。

一度。

二度。

三度。

その形は、次第にはっきりしてきた。

塔。

細長い塔。

灯台だった。

海の上に、青い灯台が立っている。

ありえない。

そこには何もないはずだ。

修は昔から、この海を知っている。

あの場所に島などない。

まして灯台など。

「父……。」

澪が震える声でつぶやいた。

その瞬間。

青い灯台の光が、一度だけ強く輝いた。

そして。

風が吹いた。

潮の匂いとともに、遠くから声が聞こえた。

『遅いぞ、修。』

修の心臓が止まりそうになった。

聞き間違えるはずがない。

二十年ぶりに聞く。

親友の声だった。

青い灯台の光が、ゆっくりと二人を海へ招いていた。



第三章 消えたサーファー

青い灯台の光は、まるで生き物のように明滅していた。

海の上。

何もないはずの場所に。

それでも、確かにそこにある。

修は目を細めた。

「……こんな馬鹿なことがあるか。」

隣で、澪は息をするのも忘れたように灯台を見つめている。

「父が……いるんでしょうか。」

その声は震えていた。

期待と、恐れと。

十九年間抱え続けた願いが、今にも手の届く場所にある。

そんな顔だった。

修はすぐには答えなかった。

海を知る者ほど、海の不思議を簡単には信じない。

だが、今夜ばかりは、信じない方が難しかった。

「行ってみるか。」

「どうやって?」

「漁港だ。」

修は軽トラックへ戻った。

岬の下に小さな漁港がある。

昔、航とよく使っていた小舟が、まだ残っているかもしれない。

二人は急いで車を走らせた。

十分ほどで港へ着く。

夜の漁港は静まり返っていた。

係留された船が、波に合わせて小さく揺れている。

「……あった。」

修が指差した。

港の隅。

古い木の船。

白い塗装は剥げ、ところどころ錆びている。

船の名前は、かろうじて読めた。

《かもめ丸》

「これ……。」

「俺と航で直した船だ。」

修は懐かしそうに船体を撫でた。

二十年以上、誰も使っていないはずだ。

なのに、不思議なことにロープは新しく、船もすぐに動きそうな姿をしていた。

まるで、誰かが手入れを続けていたみたいに。

「変ですね。」

澪も気づいたようだった。

「ああ。」

修は小さく頷く。

そして、船へ乗り込んだ。

エンジンキーを回す。

まさか動くまい。

そう思った瞬間――

ドドドド……

エンジンが一発でかかった。

二人は顔を見合わせた。

「……待ってたのかもしれないな。」

修が呟く。

何を。

誰を。

答える者はいない。

船は静かに港を離れた。

海の上へ出る。

青い灯台は、先ほどより少し大きく見えていた。

近づいている。

いや――

向こうから近づいてきているようにも見える。

「修さん。」

「何だ。」

「父って、どんな人だったんですか。」

波の音の中で、澪が聞いた。

修は少し笑った。

「馬鹿だった。」

「え?」

「どうしようもないくらい。」

「……。」

「波が良いと仕事を休む。困ってる人を見ると放っておけない。好きになったものは、とことん好きになる。」

澪が黙って聞いている。

「それでいて、人の気持ちには妙に鈍い。」

「ふふ。」

初めて澪が声を出して笑った。

「でもな。」

修は前を向いたまま言った。

「良い男だったよ。」

しばらく、誰も何も言わなかった。

月が海に道を作っている。

船は、その上を滑るように進んだ。

その時だった。

ザン――。

突然、海の色が変わった。

船の周りだけが、淡い青に光り始めた。

「何……?」

澪が身を乗り出す。

海の中に、無数の光。

小さな青い粒。

魚でも、プランクトンでもない。

まるで、星が海へ沈んでいるようだった。

そして、その光の中に――

人影が見えた。

「……え。」

海の底。

誰かが立っている。

男だった。

サーフボードを抱え、こちらを見上げている。

修の手が止まった。

その姿を、忘れるはずがない。

白いTシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

二十年前のまま。

青柳航。

「航……。」

男は笑った。

昔と変わらない笑顔で。

そして、口を動かした。

『まだ来るな。』

声は聞こえない。

だが、確かにそう言った。

次の瞬間。

海が大きく揺れた。

ゴォッ――。

風が吹く。

さっきまで穏やかだった海が、一変した。

波が高くなる。

空を雲が覆う。

青い灯台の光だけが、さらに強く輝く。

そして。

どこからともなく、低い声が聞こえた。

『青い糸は、まだ結ばれていない。』

修も澪も、息を呑んだ。

『その男を連れて来い。』

その男。

誰のことだ。

『約束を知る者を。』

声が消える。

同時に、海の中の航の姿も消えた。

静寂。

残ったのは、波の音だけだった。

澪が震える声で言った。

「……今の、本当に父ですよね。」

修は答えなかった。

答えられなかった。

ただ一つ、分かったことがある。

二十年前の出来事は、終わっていない。

そして。

自分たちの他に、もう一人。

この謎に関わる人間がいる。

修は、ゆっくりと青い灯台を見上げた。

「あいつか……。」

思い出した。

二十年前の嵐の夜。

自分と航と、もう一人。

あの日、一緒に海へいた男のことを。



第四章 潮騒の約束

港へ戻る頃には、空にかかっていた雲が嘘のように消えていた。

海は再び静かになり、青い灯台の光も消えている。

何事もなかったような夜だった。

だが、二人の胸だけが激しく波立っていた。

船を岸へつける。

修はしばらく動かなかった。

「……修さん。」

澪が心配そうに声をかける。

「大丈夫ですか。」

「ああ。」

そう答えたものの、顔色は良くなかった。

二十年前の記憶が、まるで昨日のことのように蘇っていた。

忘れたつもりだった。

海に置いてきたつもりだった。

だが、海は返してきた。

思い出を。

後悔を。

「帰るぞ。」

「どこへ?」

「会いに行く人がいる。」

修は軽トラックへ乗り込んだ。

夜道を走る。

海岸線を離れ、町の古い住宅街へ。

やがて一軒の小さな家の前で車を止めた。

灯りはまだついている。

「ここ……?」

「佐伯の家だ。」

「佐伯?」

「俺たちと一緒に海へ出ていた男だ。」

修はエンジンを切った。

窓の外を見つめる。

二十年間、一度も口にしなかった名前だった。

佐伯慎二。

高校時代からの友人。

そして――

あの日以来、海へ近づかなくなった男。

「行くぞ。」

玄関のチャイムを押す。

しばらくして、足音がした。

ガラリ、と戸が開く。

白髪混じりの男が顔を出した。

「……誰だ。」

その目が修を捉える。

次の瞬間。

男の顔から血の気が引いた。

「……修?」

「久しぶりだな。」

「何の用だ。」

声が硬い。

警戒している。

いや、怯えているようにも見えた。

修は真っ直ぐに男を見た。

「航のことで来た。」

沈黙。

夜風だけが通り過ぎる。

「帰れ。」

佐伯は扉を閉めようとした。

だが修が手を添えた。

「待て。」

「今さら何だっていうんだ!」

初めて、佐伯が声を荒げた。

「二十年だぞ! 二十年も前のことだ!」

「終わってない。」

その一言で、佐伯の動きが止まる。

「……何を言ってる。」

「航を見た。」

「……。」

「声も聞いた。」

長い沈黙。

やがて佐伯が、力なく笑った。

「お前までおかしくなったか。」

「俺もそう思いたい。」

修は一歩近づいた。

「だが、あいつはいた。」

その時。

後ろにいた澪が頭を下げた。

「初めまして。」

佐伯が目を向ける。

「私は……青柳澪です。」

男の目が見開かれた。

「青柳……。」

「航の娘です。」

風が止まった。

佐伯の顔から、すべての色が消えていく。

「……娘?」

「はい。」

男は何かを言おうとしたが、声にならなかった。

そして。

小さく呟く。

「生まれて……いたのか。」

その言葉には、深い後悔が滲んでいた。

修は見逃さなかった。

「お前、知ってたのか。」

佐伯は答えない。

「何を知ってる。」

やがて男は観念したように目を閉じた。

「……入れ。」

居間は古かった。

壁には、色褪せた写真が飾られている。

その中に、一枚だけ。

若い頃の三人の写真があった。

修。

航。

そして、佐伯。

三人とも、サーフボードを抱えて笑っている。

澪が写真を見つめた。

「……この人が。」

初めて見る父の若い姿。

思わず、写真に触れようとする。

「似てるな。」

佐伯がぽつりと言った。

「目が。」

澪は何も言わない。

「航によく似てる。」

しばらく沈黙が続いた。

やがて修が切り出した。

「話せ。」

佐伯はゆっくりと湯飲みを置いた。

「二十年前の夜……。」

窓の外を見る。

「俺たちは、岬の沖へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

「何をしに。」

男は答えない。

その代わり、小さくため息をついた。

「……約束を果たしに。」

修の胸がざわつく。

「約束?」

「お前は知らない。」

「何だ、それ。」

佐伯は、どこか遠いものを見る目をした。

「青い灯台だ。」

部屋の空気が止まる。

「やっぱり……。」

澪が息を呑む。

「昔から、この町には言い伝えがある。」

男は静かに語り始めた。

「海で大切なものを失った人間だけが、一度だけ青い灯台を見ることができる。」

「……。」

「そして、その灯台へ辿り着いた者は、失ったものにもう一度会える。」

修は黙って聞いていた。

「馬鹿な話だと思った。」

佐伯が苦く笑う。

「だが、航だけは信じていた。」

「それで?」

「俺たちは……灯台を探しに海へ出た。」

「嵐の日にか。」

「ああ。」

そして。

男の顔が曇る。

「……灯台は、本当に現れた。」

澪が息を呑んだ。

「そして、航は言ったんだ。」

佐伯の声が震えた。

『もし俺が戻らなかったら、約束を頼む。』

「そう言って……。」

男は拳を握りしめた。

「一人で灯台へ向かった。」

静かな部屋に、時計の音だけが響く。

カチ。

カチ。

「俺は……逃げた。」

佐伯がうつむく。

「怖くなって、船を返した。」

「……。」

「それ以来、一度も海へ行っていない。」

長い沈黙。

そして、佐伯はゆっくり顔を上げた。

「だが……もし本当に航がいるなら。」

その目に、二十年ぶりの光が宿っていた。

「今度こそ、迎えに行かなきゃならない。」

その瞬間。

窓の外から、波の音が聞こえた。

ここは海から遠い。

聞こえるはずのない潮騒。

三人が同時に外を見る。

月明かりの中。

庭先に、小さな青いガラス玉が落ちていた。




第五章 海の向こうの修理屋

庭先に落ちていた青いガラス玉は、月の光を受けて静かに輝いていた。

誰が置いたのか。

いつからそこにあったのか。

誰にも分からない。

「……これ。」

澪がそっと拾い上げる。

冷たいはずのガラス玉は、なぜか少しだけ温かかった。

佐伯の顔が青ざめる。

「その形……。」

「知ってるのか。」

修が尋ねる。

佐伯は小さく頷いた。

「航が持っていたものと同じだ。」

「父が?」

「いつも首から下げていた。」

澪は手のひらの上のガラス玉を見つめた。

小さな傷がある。

長い年月を、どこかで過ごしてきたような傷だった。

その時。

ふわり――。

海風が吹いた。

庭の木が揺れる。

そして。

カラン。

どこかで、小さな鐘の音がした。

三人は顔を見合わせる。

「今……。」

「聞こえたな。」

修が呟く。

その音は、一度だけ。

だが、不思議と懐かしい響きだった。

すると、澪が小さく声を上げた。

「見て……!」

ガラス玉の中に、淡い青い光が灯っていた。

そして。

その光が一本の線になって伸びる。

まるで糸のように。

細く、淡く、夜の中へ。

「……青い糸。」

澪が息を呑む。

糸は庭を抜け、道の向こうへと続いている。

海の方角だった。

修は小さく笑った。

「どうやら、呼ばれてるらしい。」

佐伯が不安そうに言う。

「本当に行くのか。」

「今さら怖じ気づいたか。」

「そうじゃない。」

男は唇を噛んだ。

「もし……本当に航がいたとして。」

「……。」

「もし、もう帰れない場所にいるのだとしたら。」

修はしばらく黙っていた。

やがて、静かに答える。

「それでも行く。」

その声に迷いはなかった。

「二十年待たせたんだ。」

夜空を見上げる。

「今度は、俺たちが迎えに行く番だ。」

三人は再び軽トラックへ乗り込んだ。

青い糸は、まるで生きているように、夜道を導いていく。

町を抜け。

坂を下り。

やがて海岸へ。

そして――。

修の店の前で、糸は止まった。

「ここ……?」

澪が首を傾げる。

「俺の店だ。」

だが。

何かがおかしい。

店の窓から、灯りが漏れている。

出てくる時、確かに消したはずだった。

「誰かいる。」

修は鍵を開けた。

扉を押す。

カラン――。

いつものベルの音。

しかし、店の中はどこか違って見えた。

古時計。

工具箱。

棚の上の時計たち。

全部同じ。

なのに、空気だけが違う。

潮の匂いがする。

そして。

カウンターの上に、一冊のノートが置かれていた。

見覚えのない古いノート。

表紙には、青い字で書かれている。

『修理記録』

修がそっと開く。

一ページ目。

そこには、こう書かれていた。



修理番号 一。

依頼品――青い糸。

依頼人――青柳航。

修理内容――帰れなくなった時間。



「……何だ、これは。」

ページをめくる。

次のページ。

そこには見慣れた字が並んでいた。

航の字だった。



もしこれを読んでいるなら、
俺はまだ帰れていない。

だが、生きている。

死んでもいない。

ただ、少しだけ遠い場所へ流れ着いただけだ。

修。

お前なら、この糸をほどいてくれると思っている。

だから頼む。

俺を直しに来てくれ。



店の中が静まり返る。

佐伯が椅子へ座り込んだ。

「……本当に……。」

澪は震える手でノートに触れた。

「父……。」

その時だった。

カチ――。

店の奥で、古い柱時計が鳴った。

一度。

二度。

三度。

時計の針が、逆に回り始める。

カチ、カチ、カチ……

止まらない。

そして。

修理屋の壁。

長年、何もなかった場所に。

ゆっくりと、一枚の扉が浮かび上がった。

古い木の扉。

青い色をしている。

三人は息を呑んだ。

扉の向こうから、潮騒が聞こえる。

そして。

男の声。

懐かしい声。

少しだけ笑ったような声。

『遅かったな、修。』

修の目が大きく開く。

『店を開けて待ってたぞ。』

沈黙。

そして。

ゆっくりと、青い扉の取っ手が回り始めた――。




第六章 父が残した地図

ギィ――。

青い扉が、ゆっくりと開いた。

潮の香りが流れ込んでくる。

懐かしいような、遠い記憶の匂いだった。

扉の向こうには、細い石畳の道が続いている。

夜なのに、空は薄い青色をしていた。

夕暮れでも朝でもない、不思議な時間の色。

そして、その先には――

小さな家が建っていた。

古びた木造の平屋。

軒先には風鈴。

窓辺には小さな鉢植え。

まるで、どこかの海辺にある普通の家だ。

ただ一つ違うのは、玄関の上に掛けられた看板。

そこには、こう書かれていた。

「時計と小物の修理屋」

「……俺の店?」

修が思わず呟く。

店によく似ている。

いや、似ているのではない。

ほとんど同じだった。

「ここ……どこなんですか。」

澪の声が震える。

誰も答えられない。

すると、家の扉が開いた。

カラン。

風鈴が鳴る。

そこから、一人の男が姿を現した。

白いシャツ。

日焼けした顔。

少し長い髪。

そして、昔と変わらない笑顔。

「よう。」

男が手を上げた。

「久しぶりだな。」

修の喉が震えた。

二十年。

ずっと会えなかった友人。

「……航。」

「そんな顔するなよ。」

男は笑う。

「幽霊じゃない。」

「……馬鹿野郎。」

その一言しか出てこなかった。

気づけば、修は駆け出していた。

そして。

思い切り航の胸ぐらを掴む。

「どこへ消えてた!」

声が震える。

怒りなのか。

安堵なのか。

自分でも分からなかった。

「みんな、どれだけ……。」

その先は言葉にならない。

航は困ったように笑った。

「悪かった。」

その顔を見た瞬間。

修の目に、涙が浮かんだ。

「……本当に、生きてたのか。」

「ああ。」

短い返事。

それだけで十分だった。

後ろで、澪が立ち尽くしている。

航の視線が、ゆっくりと彼女へ向く。

その瞬間。

男の顔から笑みが消えた。

「……。」

何も言えない。

十九年。

一度も会えなかった娘。

そして、娘もまた、一度も会ったことのない父。

二人の間を、静かな風だけが通り過ぎる。

やがて。

澪が、小さく頭を下げた。

「初めまして。」

声が震えていた。

「青柳……澪です。」

航の目が見開かれる。

「……澪。」

その名前を、何度も胸の中で呼んできたように。

ゆっくりと、確かめるように。

「大きく……なったな。」

澪は何も答えない。

唇を噛んでいる。

「ごめんなさい。」

その言葉に、航が戸惑う。

「え?」

「怒ろうと思ってたんです。」

涙がこぼれた。

「ずっと……会ったら怒ろうと思ってた。」

一粒。

また一粒。

「どうして帰ってこなかったのって。」

航は静かに聞いている。

「でも……。」

澪は泣きながら笑った。

「本当にいた……。」

その瞬間。

航が、ゆっくりと娘を抱きしめた。

「……すまなかった。」

それだけだった。

言い訳もない。

理由もない。

ただ、その一言だけ。

父と娘は、しばらくそのまま立っていた。

やがて。

航が顔を上げる。

「さて。」

いつもの調子で笑う。

「積もる話は後だ。」

「後って……。」

修が眉をひそめる。

「お前、何で帰れない。」

航は少しだけ空を見上げた。

「帰り道をなくした。」

「何だ、それ。」

「そのまんまだ。」

そして、店の中へ入っていく。

三人も後を追った。

店の中は、修の店とよく似ていた。

ただ、一つ違うものがある。

壁いっぱいに、糸が張り巡らされていた。

赤。

白。

金。

銀。

そして、青。

無数の糸が、天井から吊るされている。

「……これは。」

澪が息を呑む。

「人の縁だ。」

航が答えた。

「縁?」

「ああ。」

一本の青い糸を指でつまむ。

「人と人を結ぶ糸。」

「そんなものが……。」

「あるんだよ。」

航は笑った。

「ただし、見える人間は少ない。」

そして。

部屋の奥から、一枚の紙を持ってきた。

古い海図のような紙。

だが、そこに描かれているのは海ではなかった。

無数の糸。

そして、一本だけ。

真ん中で、大きく縺れている青い糸。

「これが何だか分かるか。」

修が首を振る。

「お前の糸か。」

「半分正解。」

航が指を置く。

「これは、俺たち三人の糸だ。」

修。

航。

佐伯。

そして。

少し離れたところから伸びている、もう一本の糸。

澪。

「二十年前、俺たちはこれを縺れさせた。」

部屋が静かになる。

「だから、俺は帰れなくなった。」

修が低い声で聞く。

「……どうすればいい。」

航は、ゆっくりと顔を上げた。

昔と変わらない笑顔で。

そして、こう言った。

「修理屋の仕事だ。」

窓の外。

どこか遠くで、青い灯台の光が瞬いた。

「縺れた糸を、もう一度ほどこう。」

それが、二十年越しの本当の依頼だった。




第七章 縺れた青い糸

窓の外では、青い海が静かに揺れていた。

ここがどこなのか。

現実なのか、夢なのか。

誰にも分からない。

だが、一つだけ確かなことがある。

二十年前から止まっていた時間が、今、動き始めている。

航は机の上へ古い缶箱を置いた。

蓋を開ける。

中には、小さな貝殻が四つ入っていた。

白い貝殻。

波に磨かれた、なめらかな石のような形。

「覚えてるか。」

修が一つ手に取る。

そして、小さく笑った。

「……まだ持ってたのか。」

高校時代。

三人で拾った貝殻だった。

一人一つずつ持ち、最後の一つは『また会う日まで』の印として缶箱へ入れた。

子どもの約束だった。

「二十年前の夜。」

航が静かに言う。

「俺たちは、ここへ来た。」

「青い灯台へ。」

佐伯が小さく頷く。

「そうだ。」

男の顔には、深い後悔が刻まれていた。

「お前は言ったな。」

修が振り返る。

『失ったものに会える場所がある』

そう言って、嵐の海へ出た。

「何を失ったんだ。」

長い沈黙。

そして、航が静かに答えた。

「……母さんだ。」

修は息を呑んだ。

航の母は、二人が高校生の頃に亡くなっている。

病気だった。

航は最期に立ち会えなかった。

海に出ていたからだ。

それを、ずっと悔やんでいた。

「もしもう一度会えるなら。」

航が窓の外を見る。

「謝りたかった。」

部屋が静まり返る。

「馬鹿だよな。」

小さく笑う。

「死んだ人間に会えるなんて、本気で信じてた。」

「……。」

「でも、灯台は本当にあった。」

あの夜。

青い光が海の上に現れた。

三人は、夢中で船を走らせた。

だが。

近づくほどに、海が荒れた。

風が吹き。

波が高くなり。

そして。

一人の老人が、灯台の前に立っていた。

「老人?」

澪が尋ねる。

航は頷いた。

「白い服を着た、不思議な人だった。」

その老人は言った。



『失ったものを取り戻したいか。』

『ならば、一つだけ条件がある。』

『縺れた糸を直せる者を、いつかここへ連れて来い。』



「それがお前か。」

修が苦笑する。

「たぶんな。」

航も笑った。

「俺は、その意味が分からなかった。」

「それで?」

「約束した。」

すると老人は、こう言った。



『では、お前は待つ者になれ。』



次の瞬間。

大きな波が来た。

船が揺れた。

佐伯は怖くなり、船を返した。

修は海へ投げ出された。

そして――

気づけば、航だけがここへいた。

この、海の向こうの修理屋に。

「帰れなかったのか。」

「帰れなかった。」

航が静かに答える。

「糸が縺れたままだから。」

机の上の海図を広げる。

中央で絡まった青い糸。

「これを直さない限り、俺は帰れない。」

澪が小さな声で聞いた。

「どうやって……。」

航は娘を見る。

優しい目だった。

「許すんだ。」

「え?」

「自分を。」

静かな声だった。

「俺は、母さんに会えなかった自分を許せなかった。」

佐伯を見る。

「こいつは、逃げた自分を。」

修を見る。

「お前は、俺を助けられなかった自分を。」

三人とも、二十年間、同じ夜を抱えて生きてきた。

海へ置いてきたつもりで。

本当は、一歩も前へ進めないまま。

「人の糸ってな。」

航が笑う。

「だいたい、自分で縺れさせるんだ。」

そして。

「でも、ほどくのも自分なんだよ。」

部屋の中へ、風が吹いた。

壁に掛かっていた無数の糸が、ふわりと揺れる。

その時。

修がゆっくりと口を開いた。

「……悪かった。」

航が目を上げる。

「俺、お前を助けられなかった。」

「うん。」

「ずっと後悔してた。」

「知ってる。」

「だから……。」

修の声が震えた。

「帰ってこい。」

長い沈黙。

やがて。

航が笑った。

昔と変わらない、優しい笑顔で。

「もう、とっくに許してる。」

その瞬間。

絡まっていた青い糸が、少しだけほどけた。

次に。

佐伯が顔を上げた。

涙を流しながら。

「俺……怖かったんだ。」

声が震える。

「死にたくなかった。」

「うん。」

「だから逃げた。」

「うん。」

「ごめん……。」

航が立ち上がる。

そして、友人の肩へ手を置いた。

「生きててくれて、よかった。」

佐伯が泣き崩れた。

その瞬間。

青い糸が、さらにほどける。

最後に。

澪が父を見る。

「私……。」

涙を拭う。

「ずっと会いたかった。」

航が微笑む。

「うん。」

「でも、少しだけ恨んでました。」

「それも当然だ。」

「だから……。」

澪が、泣きながら笑った。

「帰ってきてください。」

その言葉が終わると同時に――

パチン。

小さな音がした。

海図の上。

絡まっていた青い糸が、すべてほどけていた。

窓の外。

青い灯台が、強く輝く。

そして。

どこからともなく、あの老人の声が聞こえた。



『修理完了。』



潮風が吹く。

壁の糸が、一斉に光り始めた。

そして。

海の向こうの修理屋が、ゆっくりと朝の光に包まれていく。

航が笑った。

「どうやら……帰れるらしい。」





最終章 帰る場所

朝の光だった。

けれど、それはどこか懐かしい色をしていた。

海の向こうの修理屋を包む、やわらかな青い朝。

窓の外では、青い灯台の光が少しずつ薄れていく。

役目を終えたように。

「……終わったのか。」

修が静かに呟く。

航は窓辺に立ち、遠くの海を見ていた。

その横顔は、二十年前のままでもあり、二十年分だけ大人になっているようにも見えた。

「たぶんな。」

振り返って笑う。

「長かったな。」

「馬鹿野郎。」

修も笑った。

「本当に長かった。」

佐伯が目をこすりながら立ち上がる。

「夢じゃ……ないんだよな。」

「さあな。」

航が肩をすくめる。

「人生なんて、案外、夢みたいなものかもしれない。」

「お前、二十年ぶりなのに相変わらずだな。」

「そうか?」

「そこだけは安心した。」

四人が小さく笑った。

その時だった。

カラン――。

店の入口のベルが鳴った。

誰も触っていない。

だが、確かに音がした。

振り返る。

すると、入口のところに、あの老人が立っていた。

白い服。

白い髪。

海の色をした目。

不思議と、年齢が分からない顔。

「……あなたが。」

澪が小さく呟く。

老人は穏やかに微笑んだ。

「久しぶりだな、青柳。」

航が苦笑する。

「二十年ぶりです。」

「いや。」

老人は首を振った。

「ここでは、ほんの少し前のことだ。」

誰も意味が分からない。

老人は、ゆっくりと店の中を見回した。

そして。

机の上の海図へ目を落とす。

「糸はほどけた。」

静かな声だった。

「よく直した。」

修が一歩前へ出る。

「あなたは……何者なんです。」

老人は少し考えるような顔をした。

それから笑った。

「修理屋だよ。」

「……は?」

「人の縁を、少しだけ預かる仕事をしている。」

修は呆れた顔になる。

「そんな仕事があるのか。」

「あるとも。」

老人は当然のように答えた。

「時計にも寿命があるように、縁にも手入れが必要だ。」

そして。

ゆっくりと修を見る。

「お前も、そういう仕事をしているだろう。」

修は何も言えなかった。

壊れた時計を直す。

壊れた小物を直す。

そして時々、人の心まで直してしまう。

いつからか、そんな人生になっていた。

老人は懐から小さな包みを取り出した。

それを、修へ差し出す。

「これは……。」

開く。

中には、一つの銀色の針が入っていた。

時計の針のようで、少し違う。

不思議な輝きを放っている。

「それを預けよう。」

「俺に?」

「次の修理屋へな。」

「……意味が分からん。」

老人は笑った。

「今は、それでいい。」

そして。

静かに言った。

「人は生きていれば、また糸を縺れさせる。」

窓の外を見る。

「その時、お前の出番だ。」

風が吹いた。

青い灯台の光が、完全に消える。

すると。

海の向こうの修理屋が、少しずつ透け始めた。

「どうやら時間だ。」

老人が呟く。

「帰りなさい。」

その言葉とともに、店が揺れた。

光が満ちる。

まぶしくて、目を開けていられない。

そして――。

次に目を開けた時。

四人は、修の店に立っていた。

いつもの店。

いつもの時計。

いつもの柱。

窓の外には、朝の海が見える。

「……帰ってきた。」

澪が小さく呟く。

すると。

隣で、航が深く息を吸った。

潮の匂い。

故郷の匂い。

「本当に……帰ってきた。」

その声は、少し震えていた。

店の外へ出る。

朝日が昇っている。

海が金色に輝いている。

その光を見ながら、航が静かに言った。

「帰る場所って……なくならないんだな。」

修が隣へ立つ。

「ああ。」

「俺、もうないと思ってた。」

「馬鹿。」

修が笑う。

「待ってる奴が一人でもいるなら、それが帰る場所だ。」

航はしばらく海を見ていた。

そして。

小さく頷いた。

その時。

店の中から、澪の声がした。

「お父さん!」

航が振り返る。

娘が笑っている。

十九年間、想像することしかできなかった笑顔。

「……呼ばれてるぞ。」

修が肩を叩く。

「ああ。」

航が笑う。

「今、行く。」

父は、娘のもとへ歩き出した。

その背中を見ながら、修はポケットへ手を入れる。

そこには、銀色の針が入っていた。

いつの間にか、少しだけ温かい。

その時。

カラン――。

店のベルが鳴った。

振り返る。

入口には、見知らぬ女性が立っていた。

三十代くらいだろうか。

困ったような顔をして、小さな時計を握りしめている。

「すみません……。」

女性が言った。

「ここ、時計だけじゃなくて……。」

そして、少し恥ずかしそうに笑った。

「縁も、直してくれるって聞いたんですが。」

修は、しばらく黙っていた。

それから。

ふっと笑った。

「……まあ、場合による。」

柱時計が、コーンと一つ鳴る。

海から、やさしい風が吹いてくる。

修は女性へ椅子を勧めた。

「とりあえず、話を聞こうか。」

窓の外では、一筋の青い糸が、朝日に溶けるように輝いていた。





つづく…



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