運の使い道 

〜とある老人の不思議な一日〜


── 運は使いどころが肝心、 とはいえ人生、なかなかそうもいかない。




第一話 朝のジャンケン

田中辰造、八十二歳。

毎朝の習慣は、起き抜けにひとり鏡の前でジャンケンをすることだった。

「よし、今日も負けた」

右手がチョキ。左手がグー。右手の負けである。

辰造はにんまりと笑った。

運を節約しているのだ。

辰造がこの哲学に目覚めたのは、六十歳の定年退職の日だった。長年の同僚・吉村が言ったのだ。

「田中さん、運ってのはな、有限なんだよ。使ったら減る。だから俺は宝くじも買わんし、パチンコもせんし、結婚式のスピーチでもつまらんことしか言わん」

その吉村は翌年、馬券で百万円当てた。

「あれ?」と辰造は思ったが、追及しなかった。

人生には、追及しないほうがいいことが山ほどある。



第二話 福引きの悲劇

スーパーで三千円買い物をすると、福引き券が三枚もらえた。

辰造は迷った。三枚全部外れにするべきか。

「でも、全部外れって、それはそれで運がいるんじゃないか?」

哲学的な疑問が湧いた。

列に並んで、ガラガラを回した。

一回目。白玉。ハズレ。

「よし!」

二回目。白玉。ハズレ。

「完璧だ!」

三回目。

カランカランカラン――。

金玉が出た。

「一等! 旅行券十万円でございます!!」

辰造は固まった。

店員さんは笑顔で旅行券を差し出している。

後ろの列のおばさんが「いいわねえ~」と言っている。

辰造は受け取りながら、心の中でそっと謝った。

「……すまんな、未来の自分よ」



第三話 おみくじ問題

正月、近所の神社でおみくじを引いた。

「凶が出ますように」

祈りながら引いた。

大吉だった。

辰造は神様に向かって深くお辞儀をした。

「……ありがとうございます」

言いながら、胃のあたりがずしんと重くなった。

隣で引いていた孫の美咲(十四歳)が言った。

「おじいちゃん、なんで大吉なのにそんな暗い顔してるの?」

「運が……減った」

「は?」

美咲はスマートフォンで何かを調べ始めた。

「ねえおじいちゃん、おみくじって神様がランダムに決めるから、運とは関係ないって書いてあるよ」

「……そうか」

辰造は少し安堵した。

しかし翌日、宝くじで三百円当たった。

「やっぱり減ってる」



第四話 隣の山田さんのこと

隣に住む山田貞子、七十八歳。

この人が困ったことに、非常に美しかった。

若い頃は「小町」と呼ばれ、映画のスクリーンに出てもおかしくないほどだったらしい。今も八十歳手前とは思えないほど品があって、背筋がすっと伸びている。

辰造の妻・よし江(享年七十五歳)が生前よく言っていた。

「山田さんはねえ、生まれたときに運をぜーんぶ外見に使っちゃったのよ」

事実、山田さんの人生は波乱万丈だった。

夫は三回変わり、息子は北海道に逃げ、飼い猫は毎回どこかへ失踪した。

庭で育てたトマトは一個も赤くならず、

買った株は百発百中で下がり、

旅行先では必ず雨に降られた。

「でも」と辰造は思う。

山田さんはいつも笑っている。

その笑顔だけは、どんな運にも代えられないものだと。

……もっとも、これは辰造の主観であり、

山田さん本人は「もう少し運があれば」と思っているかもしれない。



第五話 辰造の結論

秋のある午後、辰造は縁側でお茶を飲みながら考えた。

運を節約して、もう二十年以上経つ。

ジャンケンはほぼ全敗。

福引きで一等を引いてしまったのは誤算だった。

おみくじは大吉ばかり出る。

(凶を引こうとすると、なぜか大吉が出る。これはこれで特殊な才能かもしれない。)


しかし。

八十二年間、大きな病気もせず、

事故にも遭わず、

戦争が終わった後に生まれた幸運もあって、

おいしいものを食べ、

よし江と五十年暮らし、

孫が四人いる。

これは……運を節約したおかげか。

それとも、もともとそういう星の下に生まれたのか。

辰造にはわからない。

わからないが、まあいいか、と思った。

お茶が冷めていた。

電気ケトルでお湯を沸かそうとしたら、スイッチを押し忘れて五分待った。

これもきっと、運の節約である。



─── 了 ───


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あとがき

この物語はフィクションです。

ただし「運は有限説」を信じている人は、案外この世の中に多いらしいです。

ジャンケンで負け続けたからといって、宝くじが当たるわけではありません。

おみくじで凶を引こうとしても、引けないときは引けません。

美しく生まれた人が不幸とも限りませんし、

平凡に生まれた人が幸せでないとも限りません。

でも。

「日常の小さなことで運を使い果たさないように」という気持ちの中には、

どこかほほえましい、人間らしい知恵があるような気がします。

大事な場面のために、そっと取っておく。

そういう慎み深さは、運とは別のところで、

きっと人生を少しだけ豊かにするのではないでしょうか。

田中辰造の今日のジャンケンも、きっと負けです。