出会いを閉じないで
―― 案内状は、いつも遅れて届く ――
まえがき
―― 案内状は、いつも遅れて届く。
人はある年齢を重ねると、新しい扉を開けることを諦めてしまう瞬間があります。「もう今さら」「自分には関係のないことだから」と、心にそっと鍵をかけてしまう。
本作の主人公、六十二歳の宮原正吾もまた、最愛の妻を亡くしてから七年間、その鍵を固く閉ざして生きてきた男でした。
そんな彼の元に届いた、差出人不明の奇妙な手紙。「出会い管理局」と名乗るそこからの案内は、彼を再び「世界」へと連れ出すための、小さな、しかし確かな旅の始まりでした。
この物語は、劇的な大恋愛や大逆転のドラマではありません。
ただ、下を向いていた男がほんの少しだけ顔を上げ、自分の足で一歩を踏み出すまでの、ささやかで優しい奇跡の記録です。
もし今、あなたの心が少しだけ閉ざされているのなら。
どうぞ、走らずに、あなたのペースでこのページをめくってみてください。
序章 六十二歳の郵便受け
宮原 正吾(みやはら しょうご)の朝は、いつも同じ音で始まる。
カタン、と郵便受けが鳴る音。
築四十年の木造アパート「コーポ夕凪」二〇三号室。妻に先立たれて七年、息子は名古屋で家庭を持ち、年に一度しか帰ってこない。六十二歳の正吾にとって、郵便受けの音は世界と自分をつなぐ、ほとんど唯一の合図だった。
その朝、郵便受けには見慣れない封筒が一通入っていた。
宛名は、確かに「宮原正吾様」。
差出人の欄には、こう書かれていた。
「次への案内状 第一便」
発行:出会い管理局 第七出張所
正吾は老眼鏡を二度かけ直した。何かの宗教の勧誘か、新手の詐欺か。だが、消印もなく、切手も貼られていない。誰かが直接、この郵便受けに入れていったのだ。
封を切ると、中には一枚の白い紙。万年筆で、こう書かれていた。
拝啓
宮原正吾様におかれましては、長らく出会いを閉ざしておられること、当局の記録より確認いたしました。
つきましては、本日午後三時、駅前の喫茶「マグノリア」にて、ご案内人がお待ちしております。
目印は、左手にレモンを一個。
なお、走らずに、ご自分のペースでお越しください。
我々には、あまり時間がありませんので。
敬具
正吾は紙を裏返した。何もない。
「……レモン?」
声に出してつぶやくと、台所のやかんが、なぜか同意するようにピーッと鳴いた。火はつけていないはずだった。
第一章 レモンを持った女
午後三時、五分前。
正吾は喫茶マグノリアの扉を押した。からんころん、と古いベルが鳴る。店内には誰もいない。いや、奥の窓際の席に、一人だけ。
七十歳くらいの女性だった。藤色のショールを羽織り、白髪を一つに束ねている。そして、左手には確かに、黄色いレモンが一個。
「宮原さんね」
女性は顔も上げずに言った。
「……はい」
「お座りなさい。コーヒー、頼んでおいたから」
正吾が向かいに腰を下ろすと、女性はようやく顔を上げた。皺の多い、しかし不思議と若々しい目をしていた。
「私、桐山 静江(きりやま しずえ)。出会い管理局の、まあ、外回りの係。あなたの担当になりました」
「あの、これは何かのドッキリですか」
「ドッキリ? あら、そんな悠長な話じゃないのよ」
静江はレモンをテーブルに置き、ハンドバッグから一冊の手帳を取り出した。表紙には金文字で「宮原正吾 出会い記録簿」と書かれている。
「あなた、過去三年間、新しい人と一度も深い話をしていないでしょう」
「……は?」
「コンビニの店員さんに『ありがとう』を言った回数、四百七十二回。これは出会いに含まれません。スーパーのレジ、八百三回。これも除外。病院の受付、十一回。惜しいけれど、これもノーカウント」
「な、なんでそんなことを」
「管理局ですから」
静江はあっさり言った。
「いいですか、宮原さん。人間にはね、『出会いの貯金』というものがあるの。若い頃はみんな、湯水のように使う。でも、ある年齢を超えると、貯金を引き出すどころか、金庫の鍵そのものを失くしてしまう人が出てくる。あなたは、その典型」
「鍵を、失くした……」
「正確には、自分で閉じてしまった。奥様が亡くなられてから、ね」
正吾は黙った。窓の外で、銀杏の葉が一枚、ひらりと落ちた。
「今日からあなたには、七つの『案内状』が届きます。それぞれが、新しい出会いへの扉。受けるも断るも自由。でも一つだけ、ルールがあるの」
静江はレモンを正吾のほうに転がした。
「走らないこと。歩いて行きなさい。自分のペースで」
「……なぜ、レモン?」
「ああ、これ?」静江は笑った。「ただの目印よ。バナナだと、誰か食べちゃうかもしれないでしょう」
第二章 第二の案内状 ―― 陶芸家と、しゃべる湯呑み ――
二通目の案内状は、三日後に届いた。
本日午後二時、市民会館裏「窯元・土ぼとけ」へ。
目印は、左耳に絆創膏を貼った男。
正吾はバスに乗った。タクシーを使えば早かったが、「歩くペースで」という静江の言葉が、なぜか頭に残っていた。
窯元の戸を引くと、土の匂いがした。奥で、頭の禿げた六十代の男が、ろくろを回している。左耳には確かに、大きな絆創膏。
「あんたが宮原さんかい」
男は手を止めずに言った。
「来栖(くるす)といいます。陶芸、五十年。妻に三回逃げられて、三回戻ってこられた男です」
「……はあ」
「まあ、座って。湯呑み、選びな」
棚には、不揃いな湯呑みが百個ほど並んでいた。正吾は無作為に一つ手に取った。すると――
『おい、俺かよ』
声がした。
正吾はぎょっとして湯呑みを落としそうになった。
『落とすな落とすな! 俺、まだ三年しか焼かれてないんだ!』
「し、しゃべってる……」
「ああ、こいつは『口の悪い湯呑み』だ」来栖は涼しい顔で言った。「俺が作る湯呑みはな、たまにしゃべる。理由はわからん。たぶん、土に混じった何かだろう」
『あんた、宮原さんかい』湯呑みが言った。『ずいぶん、寂しい顔してるなあ』
「……失礼な」
『俺はな、本当はあんたの奥さんに使ってほしかった器なんだ。三年前、注文を受けたんだけどな、間に合わなかった』
正吾は息を呑んだ。
「妻が……ここに?」
「ああ」来栖はろくろを止めた。「奥さん、よくここに来てたよ。あんたへのプレゼントだって言ってね。湯呑みを二つ、夫婦茶碗で頼まれた。でも、片方を焼いてる途中で、訃報を聞いてね。もう片方は、焼くに焼けなかった」
『俺は、片割れだ』湯呑みが静かに言った。『でもな、片割れでも、湯は飲める。冷めない湯を、注いでくれる人がいればな』
正吾の目から、涙が一粒落ちた。湯呑みの中に、ぽちゃん、と音を立てて。
『おい、しょっぱいぞ』
「……すみません」
『でもまあ、悪くない味だ』
来栖は笑った。
「持って帰りな。代金はいらん。奥さんが、もう払ってくれてる」
第三章 第三の案内状 ―― 図書館の幽霊司書 ――
三通目は、市立図書館だった。
三階・郷土資料室。
目印は、本を逆さに読んでいる女性。
階段を上がると、確かに窓際の席で、若い女性が本を逆さに持っていた。二十代半ばだろうか。栗色の髪に、白いブラウス。
「……あの」
女性は顔を上げ、にっこり笑った。
「宮原さん、ですよね。お待ちしてました」
「あなたは」
「司書の、緑川 詩織(みどりかわ しおり)です。あ、正確には、元・司書です」
「元?」
詩織はくすり、と笑った。
「私、十五年前にここで亡くなったんです」
正吾は本棚に手をついた。
「冗談、ですよね」
「半分本当で、半分冗談です。半分は信じてください。私、宮原さんに見えるはずですから」
「……はい、見えてます」
「それで十分です」
詩織は本を正しい向きに直した。タイトルは『中年男性のための、人生後半の歩き方』。
「これね、私が生きてた頃、誰かに読ませたかった本なんです。でも、誰も借りてくれなかった」
「……」
「宮原さん、奥様を亡くされたんですよね」
「ええ」
「私もね、婚約者を亡くしたんです。結婚式の三日前に、事故で。それから私、人生を閉じちゃった。仕事だけして、誰とも深く話さず、ご飯もろくに食べず。三十二歳で、心臓が止まりました」
「……」
「だから言いたかったの。宮原さん、ご飯、ちゃんと食べてますか?」
正吾は答えられなかった。ここ数年、まともに料理をしていなかった。コンビニ弁当と、インスタント味噌汁。それで生きていた。
「今日、これから一緒に、何か食べに行きませんか」
「……あなたは、食べられるんですか」
「匂いは嗅げます。それで十分美味しいんです」
二人は図書館を出て、近所の定食屋に入った。正吾はサバの味噌煮定食を頼んだ。久しぶりに、ちゃんとした魚の匂いがした。
詩織は向かいに座って、ただ匂いを嗅いでいた。そして言った。
「私、もうすぐ消えるんです。十五年経つから。でも、最後に一人だけ、誰かに『ちゃんと食べてね』って言いたかった」
「……ありがとう」
「いえ、こちらこそ。ごちそうさまでした」
詩織は深く頭を下げて、ふっと、空気に溶けるように消えた。
サバの味噌煮は、塩辛い味がした。
第四章 第四の案内状 ―― 駅前ストリートピアノと、家出少年 ――
駅前広場、ストリートピアノの前。
目印は、ピアノを弾けない少年。
正吾が駅前に着くと、確かにピアノの前に少年が座っていた。十四、五歳だろうか。鍵盤の前で、固まっている。
「弾かないの?」
正吾が声をかけると、少年はびくっと振り返った。
「……弾けない」
「じゃあ、なぜ座ってる?」
「家に帰りたくないから」
少年の名は、海斗(かいと)といった。母親と二人暮らしで、母親が新しい恋人を連れてきた。その恋人が、嫌いだという。
「殴られるとか?」
「いや、優しい。優しすぎて、嫌だ」
正吾は隣に座った。
「俺はな、ピアノは弾けないけど、一音だけ知ってる」
そう言って、ポーン、と「ド」の鍵盤を叩いた。
「これだけ」
「……それだけ?」
「これだけ。でも、これだけでも、音楽だ」
海斗はしばらく黙っていたが、やがて隣の「レ」を叩いた。
ポーン。
「これで二音」
「ああ。曲になりそうだな」
二人は交互に、適当な鍵盤を叩いた。めちゃくちゃな音楽だった。通り過ぎる人が笑った。子供が指を差した。それでも二人は叩き続けた。
三十分ほど経った頃、海斗が言った。
「おじさん、なんで俺に話しかけたの」
「案内状が来たんだ」
「案内状?」
「うん。お前を、案内してくれって」
海斗はぽかんとした。
「意味わかんねえ」
「俺もわからん。でも、たぶん、お前が俺を案内してくれてたんだ。逆だったんだよ」
「は?」
「俺もな、家に帰りたくなかったんだ。誰もいない家にな」
二人はまた、ピアノを叩いた。今度は、少しだけ曲らしくなった。
別れ際、海斗が言った。
「おじさん、また会える?」
「歩いて来れる距離なら」
「歩いてくる」
少年は走らずに、歩いて帰っていった。
第五章 第五の案内状 ―― 面倒な男 ――
居酒屋「とりあえず」。
目印は、一人で五人分の席を取っている男。
正吾は居酒屋の戸を引いた。
奥のテーブルに、五十代後半の男が、確かに五人分の席に荷物を広げて座っていた。スーツはよれよれ、髪は脂ぎっていて、テーブルにはビールジョッキが三つ並んでいる。
「あ、宮原さん? 遅い遅い、もう三十分待ったよ!」
「……はじめまして、ですよね」
「うん、はじめまして! 俺、田所(たどころ)! よろしく!」
握手を求められたが、その手はベタついていた。
田所は、最初の五分で自分の離婚歴を三回語り、次の十分で会社の上司の悪口を言い、その次の十分で「俺、本当は小説家になりたかったんだ」と泣き出した。
正吾は内心、げんなりした。
(これが、案内状の相手か。完全に外れだ)
しかし、トイレに立ったとき、正吾はふと、静江の言葉を思い出した。
面倒な奴と出会うのもまた、次への案内状なのだろう。
席に戻ると、田所はけろりと泣き止んで、枝豆を食べていた。
「宮原さんさあ」
「はい」
「人生って、何だと思う?」
正吾はしばらく考えた。そして、答えた。
「……歩くこと、ですかね」
「歩く?」
「ええ。走らずに、歩くこと。自分のペースで」
田所はジョッキを置いた。
「……それ、いいな」
「は?」
「俺さあ、ずっと走ってきたんだよ。出世しなきゃ、稼がなきゃ、再婚しなきゃ、見返さなきゃって。気づいたら、誰もいなくなってた」
田所の目から、本物の涙が一粒落ちた。さっきの嘘泣きとは違う、静かな涙だった。
「歩いて、いいのかな」
「いいんじゃないですか。誰も急かしてませんよ」
「……そうか」
田所はしばらく黙って、それから笑った。
「宮原さん、あんた、いい人だな。面倒な俺に、付き合ってくれて」
「いえ、こちらこそ」
正吾は思った。
(この男は、面倒な男だった。でも、面倒な男こそ、自分が忘れていた何かを、思い出させてくれた)
帰り際、田所が言った。
「また飲もうな」
「歩いて来れる店なら」
「歩いてくよ」
二人はそれぞれ、別の方向に、ゆっくりと歩いて帰った。
第六章 第六の案内状 ―― 猫と、しゃべる ――
神社の境内。
目印は、賽銭箱の上に座っている三毛猫。
神社に着くと、確かに賽銭箱の上に、三毛猫が一匹、優雅に座っていた。
正吾が近づくと、猫はゆっくりと顔を上げた。
『遅かったね』
「……えっ」
『遅かったね、と言ったんだよ』
猫がしゃべっている。正吾は周りを見回した。誰もいない。
「あの、私、おかしくなりましたか」
『おかしくなったのは、世界のほうだよ。あんたは正常だ』
「はあ」
『私はね、この神社の管理をしている。三百年ほど』
「三百年」
『驚かないんだね』
「もう、何が起きても驚かない気がします」
『それは良いことだ』
猫は前足で顔を洗った。
『宮原さん。あんた、もう五人と会ったね』
「ええ」
『どうだった』
「……不思議でした。でも、悪くなかった」
『そうか。じゃあ、最後の質問だ』
猫の目が、金色に光った。
『あんたは、もう一度、誰かを愛せるかい』
正吾は黙った。
風が吹いて、銀杏の葉が散った。
長い、長い沈黙のあと、正吾は答えた。
「……わかりません。でも、閉じないでおこうと、思います」
『それで十分だよ』
猫はにゃあ、と鳴いて、賽銭箱から飛び降りた。
『最後の案内状は、自分で見つけなさい』
「自分で?」
『そう。もう、地図はいらないだろう』
猫はゆっくりと、社の裏へと歩いていった。走らずに、自分のペースで。
第七章 第七の案内状 ―― 自分で見つけた相手 ――
それから一週間、正吾は何もしなかった。
いや、何もしなかったわけではない。来栖の窯元に湯呑みのお礼に行き、海斗とまたピアノを叩き、田所と居酒屋に行った。神社の猫には会えなかったが、賽銭は毎週入れた。
そしてある日、彼はスーパーのレジで、いつもの店員に「ありがとう」と言った。今までの四百七十二回とは、少し違う「ありがとう」だった。
店員は、五十代の女性だった。名札に「橋本」と書かれていた。
「いつも、ありがとうございます」
橋本さんは、ふと顔を上げた。
「あ……宮原さん、ですよね」
「え、なぜ私の名前を」
「ポイントカードに書いてあって。ずっとお名前、覚えてました」
「……そうですか」
「あの」橋本さんは少し赤くなった。「最近、お顔の感じが、明るくなられましたね」
正吾は笑った。久しぶりに、心から笑った。
「……そうですか」
「はい。前は、なんだか、ずっと俯いてらっしゃって」
「色々、ありまして」
「私も、色々ありました」
二人は少し、見つめ合った。
レジには列ができ始めていた。正吾は荷物を持ち上げた。
「あの、もしよかったら」
「はい」
「今度、お茶でも」
橋本さんは、ぱっと笑った。
「歩いて行ける距離の喫茶店なら」
「マグノリア、ご存知ですか」
「ええ。私、あそこのコーヒー、好きです」
終章 郵便受けに、最後の手紙
その夜、郵便受けがカタンと鳴った。
正吾が開けると、最後の封筒が入っていた。
宮原正吾様
七つの案内、お疲れさまでした。
当局の役目は、ここで終わります。
あなたはもう、自分で出会いを見つけられます。
鍵は、ずっとあなたの手の中にありました。
なお、最後にお伝えしておきたいこと。
走らないでください。
でも、閉じないでください。
出会うべき人は、必ず目の前に現れます。
出会うべきタイミングで、笑顔となれます。
我々には、あまり時間がありません。
でも、ないからこそ、急がずに歩くのです。
敬具
出会い管理局 第七出張所
桐山 静江
正吾は手紙を畳んで、湯呑みの隣に置いた。
『おい、また泣くのかよ』
湯呑みが言った。
「泣かないよ」
『嘘つけ』
「……ちょっとだけ」
『しょっぱい湯は、もう勘弁な』
正吾は笑った。
台所のやかんが、ピーッと鳴った。
今度は、ちゃんと火をつけていた。
窓の外では、銀杏の葉が、ゆっくりと、自分のペースで、落ちていた。
走らずに。
閉じずに。
―― 完 ――
この物語は、一篇の詩から生まれました。
出会いを閉じないで
走る必要などなく
自分のペースで歩けたならば
出会うべき人は、目の前に現れて
出会うべきタイミングの中で、笑顔となれる
なんせ、僕らには、あまり時間がないのだ……
人生の後半に差しかかった人へ、そして、誰かを失った経験のあるすべての人へ。
「閉じないでいる」というのは、勇気のいることです。
でも、その勇気は、走ることではなく、歩くことから始まる。
レモンを持った案内人は、もしかしたら、あなたの郵便受けにも、もう手紙を入れているかもしれません。
走らずに、開けてみてください。
【了】
Amazon Kindle
あとがき
出会いを閉じないで
走る必要などなく
自分のペースで歩けたならば
出会うべき人は、目の前に現れて
出会うべきタイミングの中で、笑顔となれる
なんせ、僕らには、あまり時間がないのだ……
「心を閉じないでいる」ということは、実はとても勇気がいることです。傷つくかもしれない、裏切られるかもしれない、また大切な人を失って泣くことになるかもしれない。年齢を重ねれば重ねるほど、その恐怖は大きくなります。
けれど、本作の案内人・静江が言ったように、何も全力疾走で新しい世界に飛び込む必要はないのです。ただ、鍵をかけずに、いつもの散歩道を歩くくらいのスピードで世界を眺めてみる。それだけで、日常は少しずつ色を取り戻していきます。
正吾が最後に手に入れたのは、特別なドラマではなく、いつでも行ける喫茶店で、誰かと温かいコーヒーを飲む約束でした。それこそが、人生の後半において最も愛おしい「奇跡」なのだと信じています。
レモンを持った案内人は、もしかしたら、あなたの郵便受けにも、もう手紙を入れているかもしれません。
あなたのこれからの歩みが、どうか優しく、あなたらしいペースでありますように。

