聴き手の一流

ーー怪談落語ーー


まえがき

私たちは日々、無数の言葉に囲まれて生きています。
スマートフォンを眺め、本をめくり、誰かと会話を交わす。しかし、その言葉のどれほどが、私たちの「真ん中」に届いているでしょうか。

本作の主人公・蓮見薫は、言葉を扱うプロでありながら、どこか傷つかない安全な場所から世界を眺めていた男です。
そんな彼が、雨の浅草で「怪談落語」という奇妙な鏡に出会います。

落語は、理不尽なこの世を人間が笑って生き抜くために作った、血の通った芸です。
それを本当の意味で受け止めるには、聴き手の側にもそれなりの「器」が必要なのかもしれません。

これは、ある男が人生の喪失を経て、真の「聴き手」へと生まれ変わっていく、少し不思議で、ほんのり温かい物語です。
どうぞ、肩の力を抜いて、身体全部でお聴きください。




ーー経験せよーー

人生経験を積めば
その時にやっと
辿り着く場所がある
目の前の噺家は
目線から消え
その物語の中へと入り込む


一 寄席の隅

雨が降り始めた夜だった。

 蓮見薫は、傘も持たず浅草の路地を歩いていた。四十三歳。出版社の編集者という肩書きは、もうずいぶん前から自分を守る鎧ではなくなっていた。担当していた著者が逝き、長年手がけた文芸誌が廃刊になり、いまは単行本の担当を細々と続けているだけだった。

 軒先を借りながら歩くうち、ふと気づけば見知らぬ小路に入り込んでいた。街灯が一本だけ点り、その光の輪の中に、古びた暖簾がかかっていた。

 〈末廣亭 分座〉

 そんな名の寄席は知らない。だが雨脚は強まる一方で、薫は引き戸を開けた。

 中は薄暗く、七、八十人ほど入れそうな椅子席に、客はまばらだった。老人が多い。誰も薫のことを気にしなかった。

 高座には五十がらみの男が座っていた。地味な着物に、これといった特徴のない顔。だが声だけは妙に通る。

 「それでは、始めさせていただきます」

 と言って、男は少し間を置いた。

 その間が、おかしかった。

 おかしいとは笑えるという意味ではない。ずれていた。時間のたるみのような、一瞬だけ世界が呼吸を止めたような、そういう間だった。薫は背筋が少し冷えるのを感じながら、椅子に深く座り直した。


二 怪談噺の中の男

噺は「牡丹燈籠」の変形だった。

 だが薫は途中から、これが自分の知っている話ではないと気づき始めた。

 登場人物の名が違う。舞台が江戸の下町ではなく、もっと時代が曖昧な、どこかの長屋だった。そして死んだはずの女が男のもとを訪ねてくる場面で、噺家は不意に目線をあげ、薫の方を見た。

 ——見た、と薫は確信した。

 客席の暗がりの中で、自分だけを見た。

 女の幽霊が男に言う言葉が、妙に耳に引っかかった。

 「あなたはまだ、何も聴いておられない」

 笑いの噺ではないので客席は静かだった。老人たちは目を閉じている者も多い。薫だけが、何故か目を開けていられなかった。

 気づいたら、高座の男が消えていた。

 いや、消えたのではない。いつの間にか、男は下りていて、次の演者が準備をしていた。薫には、その切れ目がわからなかった。時間が折り畳まれたように感じた。

 休憩を告げるアナウンスが流れ、薫は立ち上がろうとして、隣の老人に声をかけた。

 「さっきの方、お名前はご存知ですか」

 老人は目を開け、薫を見た。

 「さっき?」

 「高座に出ておられた」

 「あなた、ずっと寝てはりましたで」

 老人は穏やかにそう言って、立ち上がった。


三 楽屋口

薫は出口ではなく、楽屋口の方へ歩いた。

 引き戸を引くと、狭い廊下があった。誰も止めなかった。廊下の突き当たりに小部屋があり、先ほどの噺家が鏡の前に座っていた。着物のまま、化粧を落としてもいない。ただ、鏡を見ていた。

 「失礼します」

 薫は言った。男は振り向かなかった。

 「あなたの噺を聴きました。——あの、女の台詞は何ですか。まだ何も聴いておられない、というのは」

 鏡の中の男が、薫を見た。

 直接ではなく、鏡越しに。

 「そのまんまの意味です」と男は言った。「あなたはこれまで、耳で聴いていただけだ」

 「それは——」

 「落語を、本を、人の言葉を。耳だけで受け取ってきた。でも人間ってのは、身体全部で聴くもんでしょう。傷を持って、恥をかいて、恋をして、誰かを失って——そういうものが全部、耳の奥にたまってはじめて、本当の音になる」

 男は鏡から目を離し、薫の方を向いた。

 「あなたには、まだそれが薄い」

 薫は黙っていた。

 否定できなかった。

 編集者として何千もの言葉を扱いながら、自分はずっと少し、斜に構えていた。作品を評価するが、傷つかない場所に立っていた。距離を置きすぎていた。


四 江戸の風

「あなた、何か失いましたね、最近」

 男が言った。質問ではなく、確認だった。

 「文芸誌が……廃刊になりました」

 「それだけではないでしょう」

 薫は少しの間、黙った。

 「師匠を亡くしました。担当していた小説家で、長年……」

 「死んだんですか」

 「はい」

 「それは」と男は言った。「立派な経験です」

 立派、という言葉が予想外で、薫は少し笑った。

 「笑えましたね」と男は言った。「それが大事なんです」

 男は煙草入れを手に取り、ぽんと膝においた。

 「落語というのはね、喜怒哀楽を全部持った人間が作ったものです。江戸の町人が、理不尽な世の中でなんとか笑って生きるために作った。だから聴く側にも、それだけの器が要る。でも器は最初からあるもんじゃない。欠けたり、割れたり、継いだりするうちに、深くなっていく」

 薫は、あの詩を思い出した。

 読書は五十を越してからが良い——そう書いた原稿を、数年前に編集したことがあった。あの著者も、もういない。

 「私は」と薫は言った。「まだ間に合いますか」

 男は答えなかった。

 ただ、笑った。

 それが答えだった。


五 消えた寄席

薫が楽屋口を出たとき、雨は上がっていた。

 振り返ると、暖簾がなかった。引き戸もなかった。古びた木の壁があるだけで、そこに入り口があった痕跡すら見当たらなかった。

 薫はしばらく壁を見ていた。

 怖くはなかった。それが不思議だった。

 代わりに、妙にすっきりした気分があった。長い間、肩に乗っていた何かが、すとんと落ちたような。

 スマートフォンを取り出すと、画面に雨の滴が残っていた。時刻は午後九時すぎ。

 薫は歩き出した。

 翌日、薫は久しぶりに自分から寄席に行った。上野の鈴本。午後の部の最後の演目まで、きちんと聴いた。笑ったし、少し泣きそうにもなった。隣の老人が「いい噺でしょう」と言って、薫は「はい」と答えた。

 それからしばらく経って、薫は書いた。

 自分のために書いた文章だったが、気づけば原稿用紙が十枚を越していた。あの夜のこと、師匠のこと、廃刊になった雑誌に載っていた数えきれない言葉のこと。耳だけで聴いていた自分のこと。

 その原稿をどこかに出すつもりはなかった。

 ただ、書かずにいられなかった。

 そういうものが、人の器を深くしていくのだろうと、薫は思った。


六 若手を探して

半年が過ぎた。

 薫は月に一度は寄席に行くようになった。上野、新宿、浅草。若手の独演会にも足を運んだ。うまい人もいた。まだ荒削りな人もいた。

 ある夜、二ツ目の若い女性噺家の会に行った。演目は「文七元結」。大ネタだった。客席はまばらで、薫のほかには年配の客が数人いるだけだった。

 噺家は緊張していた。それがわかった。声がわずかに震えていた。

 だが中盤、主人公の左官屋が身を切る決断をする場面で、噺家の声が変わった。

 技術ではなかった。何か、腹の底から出てくるものがあった。

 薫は息をのんだ。

 老人が一人、ハンカチを取り出した。

 噺が終わったとき、客席は静かだった。拍手は小さかったが、続いた。薫も手を叩きながら、あの夜の男の言葉を思い出した。

 ——目の前の噺家は目線から消え、その物語の中へと入り込む。

 薫はそのとき初めて、その意味を身体で理解した。

 寄席を出ると、冷たい空気が気持ちよかった。

 スマートフォンを開いて、若手噺家の名前を検索した。月に一度の独演会があるらしかった。

 次回の日程を、手帳に書き留めた。

 今日もまた、新たな若手を探してみる。

 それが、薫の習慣になった。



七 最後の高座

数年後。

薫が贔屓にしていた若手噺家が真打になる。

その披露興行の帰り道、再び雨が降る。

そして路地の奥に、あの暖簾が見える。

今度は薫が迷わず戸を開ける。

高座には、あの名も知らぬ噺家。

男は笑って言う。

「どうです。少しは聴けるようになりましたか。」

薫は答える。

「まだ途中です。」

「でも、前よりは少し。」

すると噺家は頷く。

「それで十分です。人は死ぬまで修業ですから。」

高座の灯りがふっと消える。

再び灯りがついた時、そこには誰もいない。

薫だけが、客席で静かに笑っている。





後記

あの寄席が本当にあったのかどうか、薫にはわからない。

 地図を調べても、末廣亭の分座などという施設は存在しなかった。あの夜の噺家の名も知らない。

 だがそれでも薫は、あの男が言ったことを信じている。

 経験は人を変える。ゆっくりと、気づかないほどゆっくりと。

 読書も、落語も、誰かの死も、自分が笑ったことも——それらが全部、耳の奥にたまっていく。

 そうして人はいつか、本当の意味で、聴き手になる。

 江戸の風は、まだどこかに吹いている。

 それを感じるかどうかは、受け取る側の器による。

 器は、欠けてこそ、深くなる。


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あとがき

「器は、欠けてこそ、深くなる」
本作の最後に残されたこの言葉が、私の中に静かに灯り続けています。

人生を歩む中で、私たちは多かれ少なかれ傷を負います。

大切な人との別れ、愛着のあった仕事の終わり、挫折。それらは一見、自分という器が壊れてしまったかのような絶望をもたらしますが、
実はその「欠け」こそが、他者の痛みを、そして物語の神髄をせき止めるための「深さ」になるのではないでしょうか。

スマートに、傷つかないように生きることが器用とされる現代だからこそ、泥臭く傷つきながらも「一流の聴き手」へと成熟していった薫の姿に、どこか救いを感じていただけたなら幸いです。

今日もどこかの路地裏で、江戸の風が吹いているかもしれません。あなたの器に、心地よい物語が満ちることを願って。