忘れる力
ーーある男の、すこし情けない物語ーー
〜まえがき〜
人は、なぜ忘れるのでしょう。
悲しかったこと。
悔しかったこと。
誰かを傷つけてしまったこと。
もし、そのすべてを鮮明に覚えていたなら、きっと私たちは前へ進めなくなってしまうのかもしれません。
だから人間の脳は、少しずつ記憶を薄めていく。
それは、とても優しい仕組みです。
けれど、忘れてはいけないものもあります。
誰かに言われた言葉。
誰かと過ごした時間。
そして、自分が誰かを傷つけてしまったという事実。
この物語は、五十三歳の少し情けない男が、二十四年ぶりの再会をきっかけに、「忘れること」と「覚えておくこと」の意味を見つけていく、小さな物語です。
人生には、大きな奇跡など、そうそう起こりません。
けれど、スーパーの惣菜コーナーで昔の恋人と再会するような、小さな奇跡なら、案外どこにでも転がっているのかもしれません。
この物語が、皆さまの心の中にある「忘れたくない誰か」を、少しだけ思い出すきっかけになれば幸いです。
この
僕らの脳は
まことにうまいこと出来ていて
悪いこと
悲しいこと
辛いこと
それらを消していく
自分を守る為に
自動的に消し去る
そんな機能が付いているんだそ~ですよ
――序詩より
第一章 脳みそは、やさしい嘘つきだ
男の名前は、田中宗介という。五十三歳。バツイチ。
身長百七十センチ、体重七十八キロ。二十代のころは七十キロを切っていたが、まあそれは関係ない話だ。髪の毛はまだ黒いと本人は思っているが、美容院の鏡に映る頭頂部は、すでに白と黒のまだら模様になっている。それについても、本人はほとんど気にしていない。なぜなら、彼の脳みそは、ありがたいことに、不都合な現実を自動的に消去する優れた機能を持っているからだ。
これを、田中宗介は「忘れる力」と呼んでいた。
正確には、とある夜中にテレビで見た科学番組で、似たようなことを言っていたのを覚えていて、それ以来、自分の都合のいいように解釈して使っているだけだ。番組の正確な内容は、もちろん忘れている。
「人間の脳は、辛い記憶を自動的に薄めていく機能がある。これは自己防衛本能の一種であり——」
とかなんとか、眼鏡をかけた白衣の学者が言っていた。田中宗介はそれを聞きながら缶ビールを飲み、「そうか、俺が忘れっぽいのは病気じゃなくて才能だったのか」と深く納得し、その後すぐ眠りに落ちた。
それが今の田中宗介の哲学の根幹である。
田中宗介は、大阪の下町にある小さな鉄工所で働いている。従業員は社長を含めて七人。主な仕事は、近隣の工場や建設会社から頼まれる金属部品の加工だ。難しい仕事ではないが、かといって簡単でもない。体は使う。頭はあまり使わない。給料は可もなく不可もなく。
「可もなく不可もなく」というのが、田中宗介の人生の基本テーマである。
離婚したのは六年前だ。理由はいくつかあるが、主な原因は「なんとなく」だったと田中宗介は理解している。元妻の福子は、もっと明確な言語で説明できるはずだが、田中宗介はその詳細をほとんど覚えていない。忘れる力が、きっちり仕事をしたのだ。
「ちゃんと話し合おうとしない」
「同じことを何度も繰り返す」
「私の話を聞いてない」
こういうことを言われた気がするが、それぞれが具体的にどんな場面で起きたのかは、もう出てこない。靄の中に消えている。田中宗介にとって、離婚というのは、長い夢から覚めたような感覚で、夢の内容は起きた瞬間から薄れていき、今はもうタイトルだけが残っている状態だ。
タイトルは『離婚』。あらすじは不明。
今の田中宗介の日常は、だいたいこんな感じだ。
朝六時半に起きる。顔を洗う。冷蔵庫を開けて、昨日の残りのご飯と、適当なおかずで朝飯を食べる。七時半に家を出る。電車で二十分、鉄工所に着く。働く。昼飯を食べる。働く。夕方五時に終わる。スーパーで適当なものを買う。家に帰る。飯を食べる。ビールを飲む。テレビを見る。寝る。
この生活に、田中宗介は特に不満を持っていない。
持っていないというより、不満を感じる前に忘れてしまう、という方が正確かもしれない。
一人暮らしの二DKのアパートは、整頓されているわけではないが、とんでもなく汚いわけでもない。男の一人暮らしの「許容範囲」という、誰も明文化したことのない基準をだいたいクリアしている程度の部屋だ。
息子が一人いる。大学二年生で、名前は拓也という。元妻の福子と暮らしている。たまに連絡が来る。たまに飯を食いに来る。その程度の関係だが、田中宗介はそれで十分だと思っている。息子の方は何を思っているか、聞いたことがない。
そういう男が、ある木曜日の夕方、スーパーの惣菜コーナーで、昔の女に会った。
それがこの話の始まりである。
第二章 惣菜コーナーという、運命の舞台
スーパー「フレッシュマート西中島」の惣菜コーナーは、夕方五時半から七時の間が最も混む。
割引シールが貼られ始めるのがだいたい六時頃で、その情報を知っている近隣の主婦と独身者と老人たちが、まるで打ち合わせをしたかのように集結する。田中宗介もその一人だ。
この日のターゲットは、豚のしょうが焼きと、だし巻き卵だった。二つ合わせて定価で七百八十円だが、二割引シールが貼られれば六百二十四円になる。百五十六円の節約。田中宗介はこういう計算だけは素早い。
「あ」
と、彼は声を出してしまった。
隣で、同じ豚のしょうが焼きに手を伸ばしていた女性が、顔を上げた。
田中宗介は固まった。
女の名前は、吉田——いや、今は何という名字かわからないが、旧姓は吉田、下の名前は恵子。かつて田中宗介が、二十七歳の春から二十九歳の秋にかけて、真剣に交際していた女性だった。
「……田中くん?」
恵子の方も固まった。
二人は、惣菜コーナーの豚のしょうが焼きを挟んで、しばらく無言で向き合った。
二十四年ぶりだ。
「久しぶりやね」
「うん、久しぶり」
「元気やった?」
「まあ、なんとかね。そっちは?」
「うん、まあ」
こういう会話が世の中に存在することの意義について、田中宗介はこの瞬間、深く考えた。が、考えている場合ではなかった。
恵子は四十八歳くらいのはずだ。当時より少し丸くなった気がするが、目元の感じは変わっていない。髪は当時肩まであったが、今は耳の下くらいで切っている。化粧は薄め。スーパーの蛍光灯の下で見ると、少し疲れた顔をしているように見えたが、それは田中宗介も同じことだろう。
「こっち住んでんの?」田中宗介は聞いた。
「うん、三年前から。田中くんは?」
「俺は十年くらい前から近くに住んでる」
「そっかあ」
「うん」
また沈黙が来た。
田中宗介の脳みその中で、何かが急速に動き始めていた。
記憶、というより感触、というより匂い、というより——なんというか——
「あのさ」と田中宗介は言った。
「うん?」
「よかったら、ちょっとお茶でも」
恵子は少し間を置いて、「うん、いいよ」と言った。
二人は豚のしょうが焼きをそれぞれ一つずつカゴに入れ(割引シールはまだ貼られていなかったが、もはやそんなことはどうでもよかった)、精算を済ませ、スーパーの隣にあるファミリーレストランへ入った。
案内された席は、窓際のボックス席だった。外は暗くなり始めていた。
田中宗介はコーヒーを頼んだ。恵子はホットレモンティーを頼んだ。
「結婚してんの?」田中宗介はまた聞いた。
「した。離婚した」
「あ、俺も」
「そっかあ」
「うん」
なんか笑えるな、と田中宗介は思った。恵子も少し笑っていた。
第三章 男の記憶は、なぜか都合がいい
コーヒーとレモンティーが来てから、二人はしばらく当たり障りのない話をした。
お互いの仕事のこと。子供のこと(恵子にも息子が一人いた)。最近の大阪の話。共通の知人はいたかという確認(いなかった)。
田中宗介は、話しながら、頭の中で懸命に二十四年前を掘り起こそうとしていた。
吉田恵子。当時彼女はどこかの商社に勤めていた。確か、繊維系の会社だった気がする。いや、もしかしたら食品だったかもしれない。とにかく、スーツがよく似合っていた。
付き合ったのは、共通の友人の飲み会で知り合ったのがきっかけだ。最初に話しかけたのは向こうからだったか、こちらからだったか。向こうからだったような気がするが、自信はない。
「あの頃さ」と恵子が言った。「田中くん、よくギター弾いてたよね」
「ああ」田中宗介は驚いた。「そんなことしてたっけ」
「してたしてた。弾き語りみたいなの。下手やったけど」
「そうか……」
田中宗介には、ギターを弾いていたという記憶が薄かった。確かに二十代のころ、安いアコースティックギターを買ったような気がする。が、練習した覚えも、人前で弾いた記憶も、ほとんどない。
「えっと、何か弾いてたっけ」
「サザン」
「……ああ」
「あと、長渕剛」
「……そうか」
田中宗介は少し恥ずかしくなった。二十代の自分がギターを抱えてサザンや長渕を弾き語っている姿は、想像するだけで少し胃が痛くなる。良い意味での忘れ力が発動していたのだ。
「別れた理由、覚えてる?」恵子が突然聞いた。
田中宗介は少し考えた。
「なんか……仕事が忙しくなったとか」
「それは私の方やん」
「あ、そっか」
「田中くんが急に連絡してこなくなったんやけど」
「え?そうやったっけ」
「そうやった。しかも、最後に会った時、何も言わんと帰ってそれっきり。三回電話しても出んかったし」
田中宗介は固まった。
そんなことをしたのか、俺は。
恵子は怒っているわけではなく、むしろ少し面白がっているような顔をしていた。二十四年という時間は、怒りを笑い話に変える十分な発酵期間だったらしい。
「ごめん」田中宗介はとりあえず言った。
「もうええよ、二十四年前の話やもん」恵子は笑った。「ただ、当時はわりと傷ついたけどね」
「そうか……」
田中宗介は、自分が最低な別れ方をしていたことを、この瞬間初めて知った。いや、正確には「知った」というより「思い出した」わけだが、当時の記憶が全くないので、どちらとも言えない。
脳みそが守ってくれていたのか、それとも初めからそんなことを覚えていなかったのか。
「田中くんってさ」恵子が言った。「昔から記憶力、あんまりなかったよね」
「そうやろか」
「付き合って最初のクリスマス、私の誕生日やったのに忘れてたやん」
「……え」
「十二月二十四日。覚えてなかったやろ」
「……ごめん」
「もうええってば」
恵子はまたくすくす笑った。田中宗介は、この笑い声に聞き覚えがある気がした。二十四年分の堆積の奥から、何か音のようなものが浮かんでくる感じ。
懐かしい、という感情は、記憶ではなく感触に紐づいているのかもしれない。
田中宗介はそんなことをぼんやり考えながら、コーヒーを飲んだ。
第四章 男はなぜ、十年後も「抱ける」と思うのか
ファミリーレストランを出たのは、夜の八時過ぎだった。
「また会おか」という話になり、連絡先を交換した。田中宗介はラインのIDを伝えた。恵子はそれをスマートフォンに入力した。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
二人は別々の方向に歩き出した。
田中宗介は夜の住宅街を歩きながら、自分の中に妙な高揚感があることに気づいた。スーパーの豚のしょうが焼きが入った袋を提げながら、なんというか、足取りが軽い。
これはなんだろう。
青春の甘い記憶が呼び起こされた、という感じではない。そもそも具体的な記憶がほとんど残っていない。ではなぜ、こんなに気分がいいのか。
田中宗介は考えた。
考えながら歩いた。
アパートの階段を上がりながら考えた。
部屋に入り、豚のしょうが焼きを皿に移し替えながら考えた。
冷蔵庫からビールを取り出したところで、答えが出た。
「いける」
田中宗介は一人で声に出して言った。
誰もいない部屋に、その言葉が浮いた。
「いける」というのは、つまり——恵子のことが、今でも魅力的に見えた、ということだ。二十四年の時間を経ても、田中宗介の目には、彼女は「十分に魅力的な女性」として映っていた。
五十三歳の独身男性が、四十八歳の離婚した女性を「いける」と評価する、その「いける」の意味するところについて、田中宗介はあまり深く考えなかった。考えなかったというより、深く考える必要を感じなかった。
ビールを開けた。
豚のしょうが焼きを食べた。
なんとなく、気分がよかった。
問題は翌朝、職場で起きた。
田中宗介は、同僚の村上(四十七歳、既婚)に昨夜の出来事を話した。村上は工場の休憩室で、コーヒーを飲みながら聞いていた。
「二十四年ぶりに昔の彼女に会ってんて。スーパーで」
「へえ」村上は興味なさそうに言った。
「まだ全然いけるやん思って」
「……なにが?」
「いや、そういうこと」
村上は少し考えて、「田中さん、五十三歳ですよ」と言った。
「知ってる」
「相手は?」
「四十八やと思う」
「お互いもうそういう年齢ちゃいます?」
「そういう年齢って、どういう年齢や」
「ほら、こう、現実的に考えて……」
田中宗介は村上の言葉を、軽くスルーした。忘れる力というのは、今聞いた話を即座に無効化することもできる。
昼休みには、今度は後輩の松田(三十二歳、彼女なし)に話した。
「二十四年ぶりに昔の彼女に再会してん」
「マジっすか」松田は弁当を食べながら顔を上げた。「で、どうすんですか」
「また会おかって、連絡先交換した」
「おお。再燃ですか」
「どうやろな。まあ、いけると思って」
「いける、てどういう意味ですか」
「お前もそれ聞くか」
「あ、そういう意味のいけるですか」松田は少し考えた。「なんというか……田中さん、相手はどう思ってるんですかね」
「さあ」
「さあ、て」
「向こうも悪い感じじゃなかったと思う」
「思う、て曖昧ですね」
「人間の記憶というのはな」田中宗介は少し偉そうに言った。「都合よく書き換えられるもんなんや。脳みそが自分を守るために、な」
「それ、今回の件と関係あります?」
「大いに関係ある」
「どこが」
田中宗介は答えられなかった。
第五章 ラインというものの残酷さについて
恵子からラインが来たのは、再会から三日後の土曜日の朝だった。
「おはようございます。先日はありがとうございました。またご飯でも行きましょう」
田中宗介は、このメッセージを三回読んだ。
「おはようございます」——丁寧語。よそよそしい、ということか。しかし、二十四年ぶりに再会して翌々日なのだから当然かもしれない。
「先日はありがとうございました」——これも丁寧。でも感謝している。感謝しているということは、悪くは思っていない。
「またご飯でも行きましょう」——これは明確な誘いだ。行きましょう、という積極的な表現を使っている。
田中宗介は自分のライン返信スキルが著しく低いことを自覚していたので、息子の拓也に電話した。
「なんや、急に」拓也は電話口で眠そうな声を出した。土曜の朝九時である。
「ちょっと聞きたいことあって」
「なに」
「ラインの返し方やねんけど」
沈黙。
「……親父、誰に送るん」
「昔の彼女」
また沈黙。今度は少し長い。
「……何歳の話やねん」
「お前が生まれる前の話や」
「マジか」
「スーパーで会ってな、飯食って、連絡先交換して」
「は?なんで」
「なんでって、そういう流れで」
拓也はしばらく何も言わなかった。田中宗介には、電話の向こうで息子が状況を整理しようとしている気配が伝わってきた。
「で、どんなライン来たん」
田中宗介はメッセージを読み上げた。
「……普通やな」拓也は言った。
「そうやろか」
「普通やと思う。で、どう返したいん」
「またご飯行きたい」
「じゃあそう返せばええやん」
「でもなんか、こう、ちゃんとした感じにしたくて」
「ちゃんとした感じ、て」
「わからんけど。お前、彼女おるやろ。どんな感じで送るんや」
「親父と彼女のラインは違う……」拓也は少し疲れたような声で言った。「でもまあ、シンプルでええと思うよ。余計なこと書かん方がいい」
「余計なこと、たとえば?」
「たとえば……先日はとても素敵な時間でした、とか書いたら引くわ」
「書こうとしてた」
「やめとき」
田中宗介は息子に礼を言って電話を切り、しばらく考えてから、こう返信した。
「こちらこそ、ありがとう。また行こか」
送信ボタンを押してから、「行こか」というのが大阪弁すぎたかもしれないと少し後悔したが、既読がついたのでもう遅い。
五分後、恵子から返信が来た。
「いいですね。来週はどうですか?」
田中宗介は、「いいですね」という言葉の「ね」が持つ柔らかさについて、少し長い時間をかけて考えた。
第六章 二度目の食事と、忘れていたこと
二人が再び会ったのは、翌週の水曜日の夜だった。
今度は、田中宗介が知っている小さな居酒屋にした。カウンターが中心の店で、料理はまあまあうまく、値段も手頃で、何より静かだから話しやすい。田中宗介が一人でよく来る店だ。一人で来ることについて何も思われないような店、というのが、この年齢になるとありがたい。
恵子は少し遅れてやってきた。仕事帰りらしく、紺色のジャケットを着ていた。
「ごめん、遅くなって」
「いや、俺も今来たとこ」田中宗介は言った。実際には二十分前から来てビールを一杯飲んでいたが、こういう時は「今来たとこ」と言うのが礼儀だと思っている。
乾杯をした。
刺身と、焼き鳥と、だし巻き卵を頼んだ。
「仕事、なにしてんの?」田中宗介は聞いた。
「会計事務所。事務してる。田中くんは?」
「鉄工所」
「昔から?」
「いや、三十代に転職して、ずっとそこ」
「体、きつくない?」
「まあ、慣れた」
こういう会話が続いた。お互いの近況を、大きな声でなく、静かに話す感じ。
田中宗介は、この会話の心地よさが、どこから来るのかを考えた。初対面の人間との食事では、こういう感じにはならない。かといって、旧知の友人とも少し違う。
かつて、互いの体温を知っている人間同士の会話、とでも言うのか。
それは少し詩的すぎる表現だな、と田中宗介は思ったが、他に言い方が思いつかなかった。
「離婚した時、辛くなかった?」
恵子が聞いた。
「まあ……辛かったと思うけど、あんまり覚えてないな」
「また覚えてないやつ」恵子は笑った。「田中くんって昔から、都合の悪いことは忘れるよね」
「脳みその防衛機能や」
「都合がよすぎる防衛機能やな」
「お前は?」
田中宗介は「お前」と言ってしまってから、しまったと思った。二十四年前の言葉遣いが出た。
が、恵子は気にしていなかった。
「私は……しばらく引きずったかな。でもまあ、子供が中学の時やったから、そんなこと言ってられへんかったし。なんとかなった」
「強いな」
「強くなるしかないやん」
田中宗介はそれを聞いて、何かを言おうとして、止めた。
言えることが何もなかった、というのが正確だ。「強いな」の先に続く言葉は、この場合存在しない気がした。
二時間ほどして、店を出た。
夜風が少し涼しかった。
「送っていこか?」田中宗介は言った。
「ええよ、逆方向やろ」
「いや、少し歩きたいし」
「……じゃあ、少しだけ」
二人は並んで夜の道を歩いた。特に何を話すでもなく、ただ歩いた。住宅街の細い道を、二人の足音が続いた。
電灯の下で、田中宗介は横を歩く恵子の横顔を、ちらりと見た。
「あのさ」と彼は言った。
「うん?」
「また会えたらいいな、と思って」
恵子は少しだけ間を置いて、「うん」と言った。
それだけだった。それだけで、十分だった。
第七章 息子に見透かされる父
翌週の日曜日に、息子の拓也が珍しく一人でアパートにやってきた。
「飯でも食いに来たか」田中宗介は聞いた。
「まあ、そんなとこ」
冷蔵庫の中身は貧弱だったので、近所の定食屋に二人で行くことになった。親子丼と焼き魚定食を頼んだ。
「昔の彼女と、また会ったん?」拓也は唐突に聞いた。
「ああ」
「どやった」
「まあ、よかった」
「よかった、て何が」
「飯が美味かったし、話せたし」
拓也は親子丼を食べながら、少し考えるような顔をした。
「親父さ」と拓也は言った。「その人のこと、好きやったん?昔」
田中宗介は少し驚いた。こういう質問をする子供だとは思っていなかった。
「……好きやったと思う」
「思う、てまた曖昧やな」
「覚えてないとこもあって」
「なんで別れたん」
「向こうに聞いたら、俺が連絡してこなくなったって言ってた」
「え」拓也は箸を止めた。「最低やん」
「だよなあ」田中宗介は認めた。「でも覚えてなくて」
「覚えてないから許されるわけじゃないやろ」
「わかってる」
「……親父、その人のことまだ好きなん?」
田中宗介はしばらく焼き魚をほぐしながら考えた。
好き、という言葉の意味が、五十三歳になると複雑になる。二十代のころの「好き」と、今感じているものが同じかどうかわからない。
「どうやろな」田中宗介は言った。「また会いたいとは思う」
「それは好きってことやろ」拓也はあっさり言った。
「そんなシンプルか」
「シンプルやと思うけど」
田中宗介は息子の顔を見た。二十歳の、まだ何も知らない顔。しかし、ある種の真実を当たり前のように言える顔。
「お前のお母さんのこと、恨んでるか?」田中宗介は聞いた。唐突な質問だった。
拓也は少し間を置いた。
「恨んでない。でも、親父のこと、よくわからへんとこはある」
「わからへん、て?」
「なんか、何考えてんかわからんというか……いつも飄々としてるやん。それが、ほんまに何も考えてないのか、考えてるけど言わへんのかが」
田中宗介は、息子に見透かされているような気がした。いや、実際に見透かされているのかもしれない。
「俺も、よくわからんことがある」田中宗介は正直に言った。「自分のことが」
「……そういうもんなん?大人になっても」
「なんか、そういうもんみたいやな」
拓也は少し黙って、また親子丼を食べ始めた。
田中宗介は焼き魚を食べながら、息子がいつの間にかこんなことを言えるようになっていたことに、少し驚いていた。
第八章 三度目の正直、あるいは脳みその敗北
三度目に二人が会ったのは、それから二週間後だった。
恵子の提案で、大阪の梅田をぶらぶらして、夜は中華を食べようということになった。
田中宗介は当日の朝から、なんとなくそわそわしていた。
この感じには覚えがある。というより、こういう感じがあったということを、久しぶりに思い出した。デートの前のそわそわ。
「デート」という言葉を自分の頭の中で使ってみてから、田中宗介は少し照れた。五十三歳でデートという言葉を使っていいのかどうかが、なんとなく判然としない。しかしそれ以外の言葉も浮かばなかったので、デートということにした。
梅田の街は相変わらずうるさくて、人が多かった。
二人は特に目的もなく歩いた。本屋に入った。恵子が気になった文庫本を手に取るのを、田中宗介は横で見ていた。
「本、読むんや」
「うん、最近はまってる。田中くんは?」
「ほとんど読まん。マンガは読む」
「何の?」
「歴史系とか」
「へえ」
こういう会話が続いた。互いの生活の細かい部分が、少しずつ見えてくる感じ。
恵子は文庫本を買った。田中宗介は、本屋の隣にあったコンビニで缶コーヒーを買った。
中華料理屋に入ったのは七時頃だった。
餃子と麻婆豆腐と炒飯を頼んだ。ビールで乾杯した。
「あのさ」田中宗介は言った。「聞いてもいいか」
「うん」
「今、誰かと付き合ってたりするん?」
恵子は少し笑った。「聞くんや」
「まあ、一応」
「してない。田中くんは?」
「俺もしてない。ずっと」
「離婚してから?」
「うん」
恵子はビールを飲んだ。「なんで?」
「なんでって……なんでやろ。きっかけがないというか」
「モテないん?」
「そういうことをダイレクトに聞くな」
恵子はまた笑った。この笑い方は、初めて会った時より少し柔らかくなっている気がした。
「私も、なんかきっかけがなくて。子供のこと考えたら、変な人連れてくるわけにもいかへんし、気づいたらこの年齢になってた」
「子供、もう大学生やろ?」
「うん。だからもう関係ないんやけど。なんか、習慣みたいになってしまって」
帰り道、二人は梅田の繁華街を抜けて、少し静かな道を歩いた。
田中宗介は、言おうか言うまいか、ずっと迷っていたことがあった。
迷いながら歩いて、信号待ちをして、また歩いて、もう一つ信号待ちをして。
「なあ」田中宗介は言った。
「うん」
「また付き合えたりせんかな、と思って」
恵子は何も言わなかった。
田中宗介も何も言わなかった。信号が青に変わって、二人は渡った。
「急やな」恵子がやっと言った。
「急か」
「急やと思う。三回しか会ってないで」
「まあそうやな」
「でも」恵子は少し間を置いた。「悪い気はしない」
田中宗介は、その「悪い気はしない」という言葉を、頭の中で転がした。
悪い気はしない。マイナスの否定。プラスの断言ではない。しかし、マイナスではない。
「もう少し、会ってみよか」恵子は言った。
「うん」田中宗介は言った。
それで十分だと思った。
第九章 元妻からの電話と、記憶の整理
その翌週の火曜日の夜、元妻の福子から電話が来た。
「拓也から聞いたんやけど」福子はいきなり言った。「昔の彼女と付き合い直すって本当?」
田中宗介は、息子のことを一瞬恨んだ。
「付き合い直す、とはまだ言ってない」
「でも会ってんでしょ」
「まあ」
「何回も」
「三回」
「三回も」
「三回くらいで『も』はつかんやろ」
電話の向こうで、福子は短く息をついた。怒っているのか、呆れているのかが電話越しではわからない。
「あのさ」福子は言った。「私と離婚した時のこと、覚えてる?」
「……覚えてないとこもある」
「でしょうね」福子は皮肉でなく、ただ確認するように言った。「田中くんって、都合の悪いことは全部忘れるから」
「よく言われる」
「私との結婚で辛かったこと、覚えてる?」
田中宗介は考えた。正直に言えば、あまり覚えていない。離婚の直前にひどい言い合いをした気はするが、何を言い合ったかが出てこない。
「ぼんやりとは」
「そう」福子は言った。「あなたはいつもそう。辛いことも悲しいことも、ぼんやりしか覚えてない。だから同じことを繰り返す」
「……そうかもしれん」
「その人のこと、大事にしてあげてね」福子は意外なことを言った。「ちゃんと向き合って」
「……お前は、なんで俺の心配するんや」
「心配してるんじゃなくて」福子は言った。「その人が心配」
田中宗介は少し黙った。
「……わかった」
電話は切れた。
田中宗介はその夜、珍しく長い時間、起きていた。
ビールを飲みながら、天井を見ていた。
忘れる力、というのを、ここ数週間ずっと便利に使ってきた。しかし、忘れることによって守られているのは自分だけで、相手は覚えている。自分が忘れた傷を、相手はずっと持っていた。
二十四年前の恵子との別れ方。
福子との離婚のあれこれ。
息子の拓也が「よくわからへん」と言ったこと。
忘れる力、というのは本当に「力」なのか。ただの怠慢ではないのか。
田中宗介は、五十三年生きてきて初めてくらいの真剣さで、この問いに向き合った。
向き合いながら、ビールを飲んだ。
三缶目を開けたところで、少し眠くなってきた。
まあ、答えは明日でも考えられる、と思って、電気を消した。
第十章 忘れる力と、覚えておく意志
四度目に恵子と会ったのは、十一月の初めだった。
今度は、田中宗介が珍しく提案した。「京都まで紅葉を見に行かへんか」
「田中くんって、そういうとこ行くん?」恵子は少し驚いた様子で言った。
「行かん。でも行ってみてもええかなと思って」
恵子は少し笑って、「行こか」と言った。
電車で京都に出て、嵐山を歩いた。平日だったが、それなりに人はいた。川沿いの道を、二人は並んで歩いた。紅葉は見ごろで、赤と黄色と緑が混在していた。
「きれいやな」恵子は言った。
「うん」田中宗介も言った。
こういう時に気の利いたことを言える男だったら、もっと違う人生だっただろうと田中宗介は思った。しかし「うん」以外の言葉が出なかった。
それでも恵子は怒らなかった。
お茶屋でひと休みした。温かい抹茶と、小さな和菓子が出てきた。
「ねえ」恵子が言った。「田中くん、あの頃と変わったな、と思うことある?」
「あの頃、て二十代の頃?」
「うん」
田中宗介は考えた。
「……あんまりわからん。覚えてないとこが多いし」
「それはそうやな」恵子は笑った。「でも、なんか違う気がする。昔の田中くんは、もっとずっと自分の話しかせんかった」
「今も似たようなもんやろ」
「違う。ちゃんと聞いてる、今は」
田中宗介はそれを聞いて、少し驚いた。自分ではあまり意識していなかった。
「そうかな」
「うん。それが、なんか嬉しくて」
恵子は窓の外の紅葉を見ながら言った。
田中宗介は抹茶を飲みながら、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
帰りの電車の中で、田中宗介は少し眠くなりながら、今日のことを覚えていようと思った。
珍しい感覚だった。いつもなら、楽しかったことも、心地よかったことも、気づけばぼんやりしてしまう。でも今日は、覚えておきたいと思った。
嵐山の紅葉の色。恵子の横顔。「ちゃんと聞いてる」という言葉。
忘れる力は、自分を守るためにある。でも覚えておく意志は、相手を大切にするためにある。
田中宗介は、この二つが自分の中にちゃんとあることを、初めてはっきりと意識した。
電車が揺れた。隣に座った恵子が、少しだけ田中宗介の方に傾いた。
田中宗介はそのままにしておいた。
大阪に戻って、駅で別れる時。
「また来週」田中宗介は言った。
「うん、また来週」恵子は言った。
それだけだった。
田中宗介は帰り道を歩きながら、ポケットに手を入れて、今日のことをもう一度頭の中で再生した。
うまくできた、とは言えない。気の利いたことは何も言えなかった。でも、それなりによかった気がした。
夜風が冷たくなってきた。
アパートの明かりが見えてきた。
田中宗介は、その日の夜、いつものビールを一缶だけ飲んで、早めに寝た。
終章 脳みそは賢く、人間はすこし愚かで、それでもなんとかなる
それから三ヶ月が経った。
田中宗介と恵子は、週に一度か二度会うようになっていた。「付き合っている」と言えるのかどうかは、二人の間でまだ明確に決まっていない。しかし、それで困ることも特にないので、そのままにしていた。
息子の拓也は、「その人と付き合ってるん?」と聞いてきた。
「まあ、似たようなもんや」田中宗介は答えた。
「相手の人は何て言ってるん」
「聞いてない」
「聞けよ」
「まあ、そのうち」
拓也は「相変わらずやな」と言った。しかし、怒っているわけではないようだった。
職場の村上には「うまくいってるんですか」と聞かれた。
「まあまあ」田中宗介は答えた。
「再燃ですね」村上は言った。
「再燃って言葉が好きやな、お前」
「いや、なんか青春感あって」
「もう五十三やで」
「でも青春ですよ、それ」村上はにやにやしながら言った。「遅れてきた青春」
田中宗介は「うるさい」と言ったが、少し嬉しかった。
後輩の松田は、「そういうの、いいですね」と言った。
「どういうのが?」
「大人の——なんていうか、もう一回、みたいな」
「お前もそういう歳になったらわかるで」
「俺はまだ三十二なんで」
「そうやな」
元妻の福子には、もう報告していない。
福子はおそらく拓也から何か聞いているだろうが、電話はかかってこない。
それでいいと思っている。
田中宗介は、この頃少し変わったことがある。
一つは、スマートフォンのメモアプリに、ちょくちょく何かを書くようになったことだ。
「今日、恵子と天王寺の公園を歩いた。銀杏が黄色かった。彼女はいつも少し早足で歩く」
「恵子の好物は、たこ焼きと抹茶アイス。甘いものと辛いものを交互に食べる」
「今日、恵子に『最近なんか楽しそうやね』と言われた。俺にはよくわからないが、そうなのかもしれない」
こういう他愛ないことを、忘れないように書いておく。
それは、脳みその忘れる力への、ささやかな抵抗だった。
もう一つは、恵子に謝ったことだ。
先月、二人で食事をしていた時、田中宗介は突然言った。
「二十四年前の別れ方、ちゃんと謝ってなかった。ごめん」
恵子は少し驚いた顔をして、「もうええって言うたやん」と言った。
「ええのはええけど、ちゃんと謝っとかんと、と思って」
恵子はしばらく黙って、「……うん、ありがとう」と言った。
それだけだった。
でも、何かが少し変わった気がした。田中宗介の中の、どこかが。
人間の脳みそは、本当にうまくできている。
辛いこと、悲しいこと、後悔すること。それを自動的に薄めて、人間が前を向いて生きていけるようにしてくれる。
田中宗介は、その機能に、これからも何度もお世話になるだろうと思っている。
でも同時に、意識的に覚えておかなければならないこともある、ということを、五十三歳にしてようやく学んだ気がする。
それが相手への敬意というものかもしれない。少し大げさかもしれないが。
今日も田中宗介は、スーパー「フレッシュマート西中島」の惣菜コーナーに来ている。
豚のしょうが焼きに、割引シールが貼られるのを待っている。
隣に恵子はいない。今日は一人だ。
でも来週の土曜日、二人でどこかへ行く約束をしている。
どこへ行くかはまだ決めていない。
それでいい気がしている。
六時ちょうどに、惣菜コーナーの店員が割引シールを持ってやってきた。
田中宗介は素早くシールを確認し、豚のしょうが焼きとだし巻き卵をカゴに入れた。
百五十六円の節約。
小さな勝利だ。
彼は少し胸を張って、レジへ向かった。
了
あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
年齢を重ねると、人生は新しいことよりも、失ったものや終わったものの方が増えていくように感じることがあります。
若い頃の恋。
昔の友人。
もう会えなくなった人。
そして、自分自身の一部。
けれど人生は不思議なもので、終わったと思っていた場所から、もう一度何かが始まることがあります。
それは情熱的な恋ではないかもしれません。
劇的な奇跡でもありません。
ただ、「また来週ね」と言い合える誰かがいる。
そのことが、人生を少しだけ温かくしてくれる。
田中宗介は、忘れることで生きてきました。
そして最後に、覚えておく努力を始めます。
それはきっと、誰かを大切にするということなのだと思います。
この小さな物語が、皆さまの心にほんの少しでも温かさを残せたなら、作者としてとても嬉しく思います。
またどこかの物語でお会いできますように。

