恋のリクエスト

- 一夜の夢、半世紀の恋 -


序章 深夜放送

 ガラス越しに見える街の灯りは、もうほとんど消えている。午前零時を過ぎたAMラジオ局のスタジオには、古いマイクスタンドと、壁いっぱいに並んだレコード棚の匂いだけが残っていた。
 杉田浩一は、卓上のオンエアランプが赤く灯るのを確かめてから、いつもの低い声で語りかけた。
「――今週のリクエストは……」
 四十年近く続けてきたこの深夜放送で、浩一は数えきれないほどの人生の欠片を聞いてきた。届いたハガキを読み、曲をかけ、誰かの夜にそっと寄り添う。それが、彼のすべてだった。
 けれど今夜は、いつもと違った。
 マイクの向こう側――いつもはスタッフしかいないガラス越しの椅子に、一人の女性が座っていたのだ。
 白髪混じりの髪を品よくまとめ、深い藍色のショールを肩にかけたその人は、微笑みながら浩一を見つめていた。皺の奥に残る面影に、浩一は息を呑んだ。
 中学の頃、隣のクラスにいた、谷村由美子。
 半世紀ぶりに会うその人を、浩一はすぐに分かった。いや、分かったというより、忘れたことなど一度もなかったのだ。
 番組では時折、リスナーから届いた身の上話を紹介してきた。数か月前、何の気なしに語った「中学時代、好きだった人に何も言えずに終わった」という話を、若いスタッフたちが覚えていて――今夜のために、彼女を探し出してくれたのだった。
「今週のリクエストは、谷村由美子さんから……」
 浩一がそう告げた瞬間だった。
 由美子の瞳に、みるみる涙が盛り上がった。何かを言おうとして、唇が震え、けれど言葉にならない。
 浩一はとっさにポケットからハンカチを取り出し、ガラスの仕切り越しに身を乗り出した。
「これで……どうぞ」
 微笑んでみせたが、由美子はそれを受け取ることもできないまま、ただ大粒の涙をこぼし続けた。
 スタッフが慌てて卓のフェーダーを上げる。あらかじめ用意されていたリクエスト曲――あの頃、深夜放送でよく流れていた、聴き覚えのあるイントロが、静かにスタジオを満たしていった。


 🎵ミスターDJ ミスターDJ 伝えてよ――🎵



 メロディが流れ始めると、浩一の意識は、ふいに足元から崩れていくような感覚に包まれた。
 スタジオの灯りが滲み、レコード棚の輪郭がぼやけ、四十年分の時間が、糸を引くように後ろへと流れていく。
 気がつけば、浩一は、もう一度あの場所に立っていた。
 昭和五十一年の春、桜の散る、中学校の廊下に。






第一章 廊下

 放課後でも、休み時間でもない。三時限目が終わったばかりの昼休み、北校舎の渡り廊下は、生徒たちの足音と笑い声でいつも騒がしかった。
 浩一は、隆たち悪友三人と連れ立って、購買部のパンを取り合うようにして廊下を駆けていた。十四歳の少年たちにとって、廊下を走るなという校則は、ほとんど意味を持たない言葉だった。
「浩一、お前そんなんじゃ追いつかねえぞ!」
 隆が振り返りながら笑う。浩一はムキになって加速し――そして、曲がり角から出てきた誰かに、まともにぶつかった。
 鈍い音がして、相手は廊下に尻もちをつき、抱えていた教科書とノートが派手に飛び散った。
「うわっ、ごめん!」
 声をかけながら顔を上げた浩一は、そこで初めて、ぶつかった相手をまともに見た。
 隣のクラスの女子だった。リボンの色が違うから、すぐに分かる。膝を擦りむいたのだろう、白いソックスに小さな血がにじんでいた。その子は、痛みよりも驚きの方が勝ったような顔で浩一を見上げ、それから――ゆっくりと、瞳に涙を溜めていった。
「だ、大丈夫? ごめんね、本当に」
 浩一は慌ててしゃがみ込み、散らばったノートを拾い集めた。一緒に走っていた隆たちは、まずいと思ったのか、いつの間にか姿を消していた。
 差し出した手を、彼女は取らなかった。代わりに、声を殺すようにして泣き始めた。膝の痛みのせいなのか、人前で転んだ恥ずかしさのせいなのか、浩一には分からなかった。ただ、目の前で泣いているこの子をどうにかしなければという焦りだけが、胸の中で大きくなっていった。
「ごめん……本当に、ごめん」
 何度謝っても、涙は止まらない。通りかかった担任の男性教師が、何事かと駆けつけてきて、「こら、廊下を走るからだろう」と浩一を一喝した。彼女は教師に支えられて立ち上がり、保健室の方へと連れられていった。
 浩一はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく後ろ姿を見送っていた。振り返ることのなかったその背中を、なぜだか目で追い続けてしまう自分がいた。
 教室に戻ってからも、午後の授業はまるで頭に入らなかった。さっき見た、涙に濡れた瞳。あれは一体、何だったのだろう。ただの後ろめたさだと、浩一は自分に言い聞かせようとした。けれど放課後になっても、その面影は消えなかった。
 帰りのホームルームで、担任が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。杉田、お前がぶつかった一組の谷村さん、膝の傷は大したことなかったそうだ。今度ちゃんと謝っておけよ」
 谷村――。
 名前を知っただけで、なぜか胸の奥がそわそわと音を立てた。
 その日の夜、浩一は布団の中で、何度も廊下でのことを思い返していた。怪我をさせてしまった申し訳なさのはずだった。それなのに思い出しているのは、申し訳なさよりも、彼女の涙に濡れた瞳の方だった。
 窓の外では、近所の家のラジオから、低い男の声が小さく聞こえていた。深夜放送だ。何を話しているのかは聞き取れなかったが、その声の調子だけが、やけに耳に残った。
 このとき浩一はまだ知らなかった。この廊下での出来事が、自分のその後の人生に、半世紀経っても消えない記憶として残り続けることになるとは。


第二章 隣のクラス

 それから浩一は、自分でも説明のつかない行動を取るようになった。
 休み時間のたびに、用もないのに一組の前の廊下を通る。給食の配膳台の順番を、わざと一組と重なる時間に変えてもらう。靴箱の場所すら、彼女のものがどこにあるか、いつの間にか覚えてしまっていた。
「お前、最近なんか変だぞ」
 隆に指摘されても、浩一は「別に」としか答えなかった。本当のことを言うのが、なぜだか恥ずかしかった。
 谷村由美子は、クラスでも目立つ存在だった。成績がいいわけでも、特別目を引く美人というわけでもない。けれど、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかさと、ふとした時に見せる笑顔に、男子も女子も自然と引き寄せられていた。気づけば彼女の周りにはいつも人が集まっていて、浩一はその輪の外側から、ただ眺めることしかできなかった。
──おれなんかが声をかけたところで。
 そう思うたび、胸の奥がちくりと痛んだ。あの廊下でぶつかった日から、彼女は浩一にとって、近くて遠い存在になっていた。同じ学年、隣のクラス。歩いて十数歩の距離にいるのに、まるで雲の上の人のように感じられた。
 そんなある日の放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「あの……杉田くん、だよね」
 振り返ると、由美子が立っていた。手には、見覚えのあるハンカチを持っている。先日の体育の授業中、校庭の隅に落としたまま忘れていたものだった。
「これ、杉田くんのだと思って。名前の刺繍が入ってたから」
「あ……ありがとう」
 声が上ずった。情けないほど上ずった。受け取ったハンカチの感触よりも、彼女がわざわざ自分の名前を覚えていてくれたという事実の方が、何倍も浩一の胸を騒がせた。
「この前は、ごめんね」
 浩一は思い切って言った。「廊下でぶつかった時、ちゃんと謝れなかったから」
 由美子は少し驚いたような顔をしてから、ふわりと笑った。
「ううん、もう平気。膝の傷も、もうほとんど治ったよ」
 それだけの会話だった。けれどその夜、浩一はハンカチを枕元に置いたまま、なかなか眠れなかった。
 このころから浩一は、深夜放送を聴く習慣がついた。布団に潜り込み、豆電球の薄明かりの中、小さなトランジスタラジオのダイヤルを回す。若者向けの深夜番組では、リスナーから届いたハガキが読まれ、その合間にリクエスト曲が流れた。誰かの恋の話、誰かの失恋の話。顔も知らない誰かの想いが、電波に乗って夜の中に溶けていく。それを聴いていると、不思議と心が落ち着いた。
 ノートの端に、何度も書いては消した文章があった。
「隣のクラスの、谷村由美子さんへ――」
 そこから先が、どうしても続かない。何を書けばいいのか分からないのではなく、書いた言葉が彼女に届くことを想像すると、急に怖くなるのだった。もし読まれたら。もし、知られてしまったら。
 結局、その葉書を出すことはなかった。机の引き出しの奥に、書きかけのまま、しまい込んだ。
 窓の外で、夜はいつも静かに更けていった。浩一はまだ、自分の中にある感情に、はっきりとした名前をつけられずにいた。けれどそれが恋と呼ばれるものだと、誰よりも自分自身が、もう気づき始めていた。


第三章 風に消えた言葉

 二年生になっても、浩一の想いは変わらなかった。むしろ、日を追うごとに大きくなっていくようだった。
 クラス替えで、由美子とは廊下で会う回数も減った。それでも体育祭で、文化祭で、彼女の姿を見かけるたびに、浩一の目は勝手に彼女を追ってしまう。隆をはじめとする友人たちは、もう気づいているようだった。けれど誰も、それをからかうことはしなかった。ただ、隆だけが時々、何か言いたげな顔で浩一を見ることがあった。
 転機が訪れたのは、秋の文化祭の夜だった。
 模擬店の片付けが終わったあと、校庭では恒例の打ち上げ花火が上がることになっていた。生徒たちは三々五々、校庭に出て夜空を見上げていた。浩一も隆たちと連れ立って校庭に出たが、人混みの中で、ふと一人になった瞬間があった。
 そこに、由美子がいた。
 クラスの出し物の片付けで遅くなったのか、一人で校舎の渡り廊下に腰掛け、夜空を見上げていた。浩一は声をかけるべきか迷ったが、足はもう、彼女の方へと向かっていた。
「谷村さん」
「あ……杉田くん」
 隣に座ることを許されたわけでもないのに、浩一は少し距離を置いて腰を下ろした。二人の間に、気まずいような、それでいて心地よいような沈黙が流れた。
 最初の花火が上がった。橙色の光が夜空に大きく広がり、由美子の横顔を照らし出した。
「きれいだね」
 由美子がぽつりと呟いた。
「うん」
 浩一はそれだけ答えるのが精一杯だった。心臓が、痛いくらいに早鐘を打っていた。今しかない、と思った。今、この瞬間を逃したら、もう二度とこんな機会は来ないかもしれない。
「あの、谷村さん」
「なに?」
 由美子が振り向いた。花火の光に照らされたその瞳を見た瞬間、浩一の喉は、急速に渇いていった。言おうとしていた言葉が、出かかったところで止まってしまう。
──好きなんだ。中学に入ってからずっと。
 たったそれだけの言葉が、どうしても出てこない。
「……いや、なんでもない」
 浩一は目を逸らして、そう言った。由美子は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。
 その時、遠くから「由美子ー!」と呼ぶ女子の声がした。クラスの友人たちが彼女を探していたのだ。由美子は立ち上がり、「じゃあね」と小さく手を振って、駆けていった。
 一人残された渡り廊下で、浩一は夜空に上がり続ける花火を、ただぼんやりと見上げていた。
 不思議なことに、その瞬間、誰かが自分の背中を強く押しているような感覚があった。今だ、追いかけろ、と。けれど浩一の足は、根が生えたように動かなかった。まるで自分の中に、もう一人の自分がいて、その声に必死で抗っているかのようだった。
 結局その夜、浩一は何も伝えられないまま、家路についた。風に乗って消えていった言葉を、何度も何度も、頭の中で繰り返しながら。


第四章 隆の告白

 三年生に上がってすぐの、ある放課後のことだった。
「浩一、ちょっと話あんだけど」
 校舎裏の自転車置き場で、隆が珍しく改まった顔をしていた。受験を控えたこの時期、何か深刻な相談かと身構える浩一に、隆は意を決したように言った。
「おれ、谷村さんに告白しようと思う」
 その瞬間、浩一の頭の中が真っ白になった。何か言わなければと思うのに、声が出てこない。
「お前も、谷村さんのこと気になってんだろ」
 隆は静かに続けた。「ずっと前から、なんとなく分かってた。でも……おれも、本気なんだ。だから先に言っとく」
 浩一は、何も言えなかった。ここで「実は自分も」と言えば、何かが変わったかもしれない。けれど長年の親友を前にして、その言葉はどうしても喉から出てこなかった。自分よりも勇気を出した隆を、突き放すようなことはできない。そう自分に言い聞かせながら、本当は、ただ怖かっただけなのかもしれなかった。
「……そっか」
 浩一はようやくそれだけを絞り出した。「頑張れよ」
 口にした瞬間、自分でも信じられないほど、空虚な響きがした。
 その夜、浩一は布団の中で、ラジオのダイヤルを回す手を止めたまま、ただ天井を見つめていた。机の引き出しの奥には、出さなかった葉書が、何枚も重なって眠っている。隆は今夜、由美子に何を伝えるつもりなのだろう。自分はなぜ、同じことができなかったのだろう。
 答えは分かっていた。浩一の中で、由美子はいつしか「高嶺の花」になっていた。クラスの誰からも好かれ、誰からも慕われる彼女。自分のような、ごく普通の、目立つところもない男子が想いを伝えたところで、笑われるか、困らせるだけだろう。そう自分に言い聞かせ続けることで、浩一は一歩を踏み出さない自分を、どうにか正当化していた。
 数日後、学校で隆と顔を合わせると、彼はどこか吹っ切れたような、それでいて寂しそうな表情をしていた。
「振られた」
 隆はあっさりとそう言った。「『ごめんね、好きな人がいるかもしれないから』だってさ。よく分かんねえよな、そういう言い方」
 浩一の心臓が、大きく跳ねた。好きな人が、いるかもしれない。それは一体、誰のことなのか。もしかして――そこまで考えて、浩一は慌ててその考えを打ち消した。自惚れるな、と自分を戒める。けれど一度芽生えた小さな期待は、簡単には消えてくれなかった。
「お前、今度こそ言えよ」
 隆は、浩一の肩を軽く叩きながら言った。「おれは振られたけど、お前は……まだチャンスあるかもしれねえぞ」
 その言葉に、浩一はただ曖昧に頷くことしかできなかった。チャンスがあるかもしれない。分かっている。分かっているのに、足が竦んで動かない。受験勉強を言い訳にして、浩一はまた、由美子への想いを胸の奥に押し込めていった。
 時間だけが、容赦なく過ぎていった。

第五章 卒業の日

 三月、卒業式の朝は、抜けるような青空だった。校庭の桜は、まだ固い蕾のままだったけれど、空気にはどこか春の匂いが混じっていた。
 式を終えた教室は、お祭りのあとのような騒がしさに包まれていた。卒業証書の筒を抱えた生徒たちが、寄せ書きの色紙を回し、写真を撮り合い、別れを惜しんでいる。浩一もまた、隆たちと写真に収まりながら、心のどこかでずっと、由美子の姿を目で追っていた。
 廊下に出ると、一組の生徒たちの輪の中に、由美子の姿が見えた。友人たちに囲まれ、笑いながら色紙にサインをしている。あの日、ぶつかって泣かせてしまった少女は、もうすっかり大人びた表情をしていた。
──今しかない。
 浩一は、自分にそう言い聞かせた。高校はそれぞれ別の場所に決まっている。この学校で彼女と会えるのは、もうこれが最後だった。半年前の文化祭の夜と同じ後悔を、二度と繰り返したくない。そう思った。
 人混みをかき分けるようにして、浩一は由美子のそばまで歩み寄った。
「谷村さん」
 声をかけると、由美子は振り返り、いつもの柔らかな笑顔を向けた。
「杉田くん。卒業おめでとう」
「あの……」
 浩一は、深く息を吸い込んだ。心臓が痛いくらいに脈打っていた。三年間、ずっと言えなかった言葉が、ようやく喉元までせり上がってきていた。
「谷村さんに、ずっと――」
 そこまで言いかけたとき、「由美子ちゃん、こっちでも写真撮ろうよ!」と、彼女の友人たちが駆け寄ってきた。由美子はくるりと振り向き、「あ、ごめんね、呼ばれちゃった」と浩一に微笑みかけると、友人たちの輪の中へと吸い込まれていった。
 浩一は、伸ばしかけた手を、虚しく下ろした。
 校門に向かう人波の中、振り返った由美子と、一瞬だけ目が合った。彼女は小さく手を振った。それが、最後だった。浩一もぎこちなく手を振り返したが、結局、伝えるべき言葉は、最後まで音にならないままだった。
 校庭の隅に一人残った浩一は、人波が去っていく校門を、長い間見つめていた。三年前、廊下でぶつかったあの日から始まった想いが、何の結末も迎えないまま、静かに幕を下ろそうとしていた。
「言えなかったのか」
 いつの間にか隣に来ていた隆が、静かに尋ねた。浩一は答える代わりに、小さく首を振った。
「そっか」
 隆はそれ以上何も言わず、ただ浩一の肩に手を置いた。友人にできる、せめてもの慰めだった。
 桜のまだ蕾のままの枝の下を、二人は無言で歩いた。後悔だけが、浩一の胸の中に、重く沈んでいった。あの日、廊下でぶつかった瞬間から始まったこの想いは、結局、誰にも届かないまま、中学生活とともに終わってしまったのだった。

第六章 深夜放送への手紙

 高校生になっても、浩一の中から由美子の面影が消えることはなかった。違う制服を着て、違う友人たちに囲まれながらも、ふとした瞬間――桜の季節になると、廊下を走る生徒たちを見ると、決まって彼女のことを思い出した。
 夏休みのある夜、浩一は久しぶりに机に向かい、白い葉書を一枚取り出した。長い間、書いては消し、消しては書いてきた、あの言葉を。今度は、最後まで書き切るつもりだった。
 ペンを握り、しばらく宙を見つめてから、浩一はゆっくりと文字を綴り始めた。
「中学三年間、隣のクラスにいた人のことが、ずっと好きでした。一度もそれを伝えられないまま、卒業してしまいました。今でも、あの人のことを思い出すと、苦しくなります。もしよかったら、あの頃よく流れていたあの曲を、かけてもらえないでしょうか」
 差出人の名前は、書かなかった。曲のリクエストの欄には、文化祭の夜、二人で見上げた花火の下で流れていたあの曲のタイトルを書いた。
 封をする手が、少し震えていた。これを出したところで、由美子に届くわけではない。彼女がこの番組を聴いている保証すらない。それでも浩一は、どうしてもこの想いを、形にして外に出したかった。電波に乗せて、夜の中に流してしまいたかった。
 葉書をポストに投函した夜から、浩一は毎晩、ラジオの前で正座するようにして放送を聴いた。一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、自分の葉書が読まれることはなかった。それでも諦めずに、布団の中でダイヤルを合わせ続けた。
 そして三週間目のある夜、聞き覚えのある低い声が、こう告げた。
「今夜のリクエストは……ペンネーム、ヒロくんから」
 浩一は飛び起きた。心臓が、痛いくらいに高鳴っていた。
 DJは、浩一の書いた言葉を、丁寧に読み上げた。誰にも言えなかった想い、言えないまま終わってしまった後悔。それが、知らない誰かの声によって、夜の電波に乗せられていく。スピーカーから流れてくる自分の言葉を聞きながら、浩一は、声を殺して泣いた。悲しいからではなかった。ようやく、この想いを誰かに――たとえそれが顔も知らないDJであっても――聞いてもらえたことが、たまらなく嬉しかったのだ。
 曲が流れ始めた。あの夜、花火の下で聞いたのと同じ旋律。浩一は布団の中で膝を抱え、暗闇の中、何度もその曲を聴き返した。
 由美子には、結局届かなかったかもしれない。それでも、あの夜流れた言葉と曲が、たしかに自分の十代の真ん中にあった想いを、形として残してくれた。そんな気がした。
 この夜のことを、浩一は生涯忘れなかった。大人になり、進学のために東京へ出て、紆余曲折を経てラジオの世界に入ったのも、あの夜、暗闇の中で聴いた自分の言葉と、それに応えてくれたDJの声が、心のどこかにずっと残っていたからかもしれない。
 由美子のその後を、浩一は人づてに少しだけ聞いたことがあった。違う高校に進み、やがて地元を離れたということ。それ以上のことは、何も分からなかった。
 季節は巡り、年月は流れた。浩一は自分の番組を持つようになり、誰かの想いを電波に乗せる側の人間になった。けれど由美子への想いだけは、半世紀近い時が過ぎても、あの夜のまま、胸の奥に静かに眠り続けていた。


終章 目覚め

「――先生、先生、大丈夫ですか」
 肩を揺さぶられ、浩一はゆっくりと目を開けた。スタジオの隣にある仮眠室の硬いソファの上だった。壁の時計は、午前三時を少し回っている。
「収録が終わったあと、座ったまま眠ってしまわれて。ずいぶんうなされてましたよ」
 若いディレクターが、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
 夢、だったのか。
 浩一は身体を起こし、こめかみを押さえた。あまりにも鮮明な夢だった。廊下の冷たい板張りの感触、花火の匂い、由美子の涙に濡れた瞳――まるで本当に、もう一度あの日々を生きてきたかのような感覚が、まだ身体の奥に残っていた。
 不思議なことに、これまでどうしても思い出せなかった由美子の顔の細部が、今朝ははっきりと思い出せた。笑った時に少しだけ下がる目尻も、話すときに小さく傾ける首の角度も。半世紀という歳月に薄れていたはずの記憶が、夢を通って、くっきりとした輪郭を取り戻していた。
「そういえば」
 ディレクターが思い出したように言った。「さっき、谷村さんが帰り際に、ロビーのスタッフにこれを預けていかれたそうです」
 差し出されたのは、一枚の古びた葉書だった。色褪せた紙の端は、長い年月を物語るように、ひどく擦り切れている。
 浩一は震える手でそれを受け取り、裏返した。見覚えのある、自分の少し癖のある文字が、そこに並んでいた。
「中学三年間、隣のクラスにいた人のことが、ずっと好きでした……」
 それは、夢の中で書いたはずの、あの葉書だった。十六歳の夏、誰にも知られず投函した、あのままの言葉。けれど現実の浩一は、あの葉書をいつ、どんな経緯で由美子の手元に渡したのか、まるで覚えがなかった。
 葉書の隅には、小さく走り書きが添えられていた。
「あの夜、ラジオから流れてきたこの言葉、誰のことを言っているのか、ずっと考えていました。卒業して何年も経ってから、消印の局名と、教えてもらった筆跡で、やっと分かったんです。ありがとう。あなたの言葉、ちゃんと届いていました」
 浩一は、しばらく言葉を失っていた。
 夢の中の出来事だと思っていたものが、本当に起きたことだったのか。それとも、長い年月の中で、現実と記憶と願いが溶け合い、今夜という夜に、形を結んだだけなのか。浩一には、もう判断がつかなかった。判断する必要もないように思えた。
 ただ確かなのは、十四歳のあの廊下で始まった小さな出来事が、五十年という長い時間を巡って、ようやく一つの円を閉じたということだった。
 窓の外が、わずかに白み始めている。浩一は古い葉書を胸ポケットにしまい、そっと立ち上がった。
 来週も、この深夜放送は続く。机の上には、まだ読んでいないリスナーからの葉書が、何十通も積まれている。誰かが、誰かに伝えられなかった言葉を抱えて、今夜もまたペンを取っているのかもしれない。
 浩一は小さく微笑んだ。
――来週あたり、あの曲を、もう一度リクエストしてみようか。
 音源は、まだ局のアーカイブに残っているだろうか。
 そう思いながら、浩一はスタジオへと続く廊下を、ゆっくりと歩き出した。窓の外では、まだ見えない桜のつぼみが、静かに春を待っていた。

(了)



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あとがき

『恋のリクエスト ― 一夜の夢、半世紀の恋 ―』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

人は人生の中で、伝えられなかった言葉をいくつ抱えて生きているのでしょう。

「あの時、もう少し勇気があったなら。」
「あと一歩だけ、踏み出していたなら。」

そんな思い出は、誰の胸にもひとつやふたつ、あるのではないかと思います。

この物語は、そんな「言えなかった想い」をテーマに書きました。

たった一度のすれ違い。
たった一言、口にできなかった言葉。

けれど、その小さな出来事が、時には何十年もの間、心のどこかで静かに生き続けることがあります。

そして私は、そんな記憶もまた、人を形作る大切な宝物なのではないかと思っています。

深夜ラジオという場所には、不思議な力があります。

顔も知らない誰かの声が、眠れない夜に寄り添ってくれる。
誰にも言えなかった気持ちを、そっと受け止めてくれる。

私自身、ラジオから流れてきた何気ない一言に励まされ、救われたことがあります。

もし、この物語を読んでくださったあなたの心の中にも、昔の誰かの笑顔や、伝えられなかった言葉が浮かんだなら、作者としてとても嬉しく思います。

人生には、叶わなかった恋があります。

けれど、叶わなかったからこそ、いつまでも美しく、やさしく心に残るものもあるのでしょう。

そして、もしかしたら――。

あなたが「届かなかった」と思っているその想いは、どこかでちゃんと、誰かの心に届いているのかもしれません。

この物語が、あなた自身の大切な記憶を振り返る、静かな時間になれたなら幸いです。

また別の物語で、お会いできる日を願って。