時間どろぼう
― ある夜、天井から記憶が還ってくる物語 ―
まえがき
人は、どれほどのことを忘れて生きているのでしょう。
初めて転んだ日の痛み。
誰かに頭を撫でられた温もり。
夕暮れの匂い。
台所から聞こえてきた包丁の音。
忘れたつもりはなくても、いつの間にか思い出せなくなっているものがあります。
けれど、もしかしたら。
それらは本当に消えてしまったのではなく、どこかで静かに預かられているのかもしれません。
古い家の柱に。
庭の木に。
縁側に落ちる夕陽の中に。
この物語は、「忘れること」と「思い出すこと」の間にある、少しだけ不思議な夜の話です。
もし読み終えたあと、懐かしい匂いを思い出したなら。
今はもうない家のことを、少しだけ考えたくなったなら。
どうか、忘れてしまったと決めつけないでください。
私たちの時間は、案外どこかで、
静かに帰る場所を待っているのかもしれません。
きっと、あなたの時間も、
誰かに優しく預けられているのでしょう。
序章
真夜中に目を覚ますと
決まって
天井には何者かの姿がある
そして
その直後
懐かしい匂いが漂って来る
これは? と思うが
思い出せない
遥か昔の
あの頃って頃の
何だっけ? と考えていると
その両者ともが
姿を消してしまう
まるで時間を
盗まれたように。
けれど、その頃の私は、
それが「返されようとしている時間」なのだとは、
まだ知らなかった。
一 天井の影
目が覚めると、いつも同じ時刻だった。枕元のデジタル時計は、決まって午前三時十七分を指している。
高遠まひるは、その数字を見るたびに、自分の体がまだ夢の縁にぶら下がっているような感覚を覚えた。視界の隅、天井の、ちょうど蛍光灯の傘の脇のあたりに、何かがいる。
人の形をしているようで、していない。輪郭は煙のようにゆらゆらと揺れていて、目を凝らすほど形を失っていく。最初の夜はぎょっとして飛び起きたが、もう二十回近くこの現象を経験した今では、驚きよりも、もっと別の感情のほうが強くなっていた。懐かしさだ。
そう、それが起こった直後、決まって匂いがする。
夏の終わりの、雨上がりのアスファルトの匂い。あるいは、誰かの台所で煮込まれている味噌汁の匂い。古い木の廊下に染み込んだ、線香と畳の匂い。毎回少しずつ違うのに、どれもまひるの胸の奥の、鍵のかかった引き出しを叩いてくる。
「これは——」
そこまで考えて、まひるはいつも止まる。何だったか。どこで嗅いだ匂いだったか。誰と、いつ。
遥か昔の。あの頃という頃の。
何だっけ。
考えようとした瞬間、天井の影も、匂いも、潮が引くようにすっと消えてしまう。あとに残るのは、暗い部屋と、自分の心臓の音と、何か大切なものを取りこぼしたという、ぼんやりとした喪失感だけだった。
まるで、時間を盗まれたように。
まひるは三十二歳、フリーランスのコピーライターで、都心のワンルームマンションに一人で暮らしていた。仕事は順調だったし、人間関係に大きな悩みもなかった。だから最初は、ただの過労による幻覚だろうと思っていた。睡眠外来にも行った。脳波にも異常はなかった。医者は「ストレス性のものでしょう」と言って、軽い安定剤を出した。
薬を飲んでも、現象は変わらなかった。
ただ、ひとつだけ気づいたことがある。現象が起きる夜は、決まって、まひるが昔のことを——たとえば子供の頃に住んでいた町のことや、もう何年も会っていない祖母のことを——ふと考えた日の翌晩だった。
二 もの忘れ熱
異変に気づいたのは、SNSだった。
「#最近忘れっぽい」というハッシュタグが、ある夜から急に伸びていた。最初は単なる体調不良の話題かと思っていたが、読み進めるうちに、まひるは妙な共通点に気づいた。
——小学校の運動会の記憶が、急に思い出せなくなった。
——祖父の声を、もう思い出せない。顔は覚えているのに。
——実家の匂いを、突然忘れてしまった気がする。
それらの投稿は、奇妙なことに、ほとんどが同じエリア——まひるが今暮らしている街の、北側に位置する「茜町」という古い住宅街にかつて住んでいた、あるいは縁のある人々によるものだった。
茜町は、まひるにとっても、どこか聞き覚えのある地名だった。ただし、いつ、なぜ覚えているのか、それがどうしても思い出せない。
そんなある夜、まひるは仕事の打ち合わせの帰り、雨に降られて駆け込んだ喫茶店で、一人の老紳士と隣り合わせになった。白髪を几帳面に撫でつけ、染みのついたノートを広げているその人物は、宮田と名乗った。かつて大学で「時間の物理学」を研究していたが、今は無職だという。
「茜町のことを調べているんですね」宮田は、まひるの手元のスマートフォンの画面をちらりと見て言った。「最近、その手の相談を受けることが多くてね」
「相談、ですか?」
「もの忘れ熱、と私は呼んでいます」宮田は薄く笑った。「正式な病名じゃない。医学的にも認められていない。だが、現象としては確かに存在する。ある地域に縁のある人々が、特定の記憶だけを、まとめて失っていく」
まひるは、自分の天井の影のことを話すべきか迷い、結局話した。話さずにはいられなかった。
宮田は驚かなかった。むしろ、ノートに何かを書きつけながら、満足げにうなずいた。
「やはり、あなたもですか。——『時間どろぼう』という言葉を聞いたことは?」
三 古い町の図面
宮田の話は、こうだった。
人が「忘れる」というのは、本当は消えてなくなることではない。記憶は脳の中の電気信号であると同時に、その出来事が起きた「場所」そのものにも、ごくわずかな痕跡を残す——そういう説を、宮田は大学を追われる前、大真面目に研究していたのだという。
「土地は覚えている、という言い方をよくしますね。比喩だと思われがちですが、私はそうは思わない。何十年も同じ家族が暮らした台所には、その家族が交わした言葉や、流した涙や、笑った瞬間の、ごく微量の『残留時間』が積もっていく。それは熱のように、匂いのように、その場所に染み込んでいくんです」
そして、古い土地、古い建物が壊されるとき。その残留時間は行き場を失う。
「普通なら、そのまま霧散して消えるだけです。けれど、ごく稀に——とりわけ、長い年月、多くの人の記憶を抱え込んできた土地では——その残留時間が、ひとつの『意識』のようなものに育つことがある。土地そのものが、自分に染み込んだ記憶を手放したくないと、そう願うかのように」
それが、「時間どろぼう」だと、人々は呼んできた。本当は盗んでなどいない。むしろ逆だ、と宮田は言った。
「壊される前に、その土地は、自分が抱えてきた記憶の欠片を、元の持ち主たちに返そうとする。夜ごと、眠っている人の枕元を訪れて、少しずつ、少しずつ。けれど人間は目を覚ましてしまうし、覚醒した意識は、うまくその記憶を受け取れない。だから、影だけ見えて、匂いだけ漂って、肝心の中身は、するりとこぼれ落ちてしまう」
まひるは、その夜のうちに、市役所の都市計画課のホームページで、茜町の再開発計画を調べた。
戦前から残る木造家屋が建ち並ぶその一角は、来月末、ついに最後の区画の解体工事が始まることになっていた。古い銭湯、古い駄菓子屋、古い稲荷神社——その全てが、更地になる予定だった。
そして、その図面の片隅に、まひるは見覚えのある住所を見つけた。
茜町三丁目、四番地。
そこは、まひるが五歳まで——祖母と暮らしていた家があった場所だった。
そして、その瞬間。
思い出せないはずの記憶の奥で、
何かが、かすかに扉を叩いた。
四 解体前夜
解体前夜、まひるは傘も差さずに、茜町へ向かった。
工事の足場とブルーシートに囲まれたその一角は、すでに半分以上が更地になっていて、月明かりの下、最後に残った数軒の木造家屋が、ぽつんと寄り添うように建っていた。その中の一軒——傾いた木戸と、色褪せた表札——に、まひるは見覚えがあった。
「祖母ちゃんの……」
声に出した瞬間、その場の空気が、ふっと重さを変えた。
天井の影と同じ気配が、家の戸口に立っていた。今夜はもう、輪郭が揺らいでいなかった。煙のような体の中に、無数の光の粒——まるで遠い夜景のような、小さな光の集まり——が、ゆっくりと渦を巻いている。そして、いつもの懐かしい匂いが、今夜は何倍も強く、まひるを包み込んだ。
雨上がりのアスファルト。味噌汁。線香と畳。そして、もうひとつ——金木犀と、煮物の匂い。
「あなたが……」
まひるが言いかけると、その存在は、声ではなく、匂いと光の揺らぎで応えた。言葉にならない言葉が、頭の中ではなく、もっと深い場所に、直接流れ込んでくる。
——わたしは、盗んでなどいない。
——この土地で重ねられた、五十年分の朝と夜を、ただ、抱きとめてきただけだ。
——だが、もうここは壊される。わたしは、誰のものでもなくなる前に、預かっていたものを、ひとつひとつ、持ち主に返さねばならない。
——あなたの分は、いちばん、返しそびれていた。
光の粒のひとつが、すうっとまひるの方へ近づいてきた。
五 匂いの行方
それは、ただの記憶だった。何の変哲もない、平凡な記憶。
五歳のまひるが、夕方の縁側で、祖母の隣に座っている。
縁側には切り分けられたスイカが置かれていた。
まひるは種を遠くへ飛ばそうとして、うまくいかず、祖母を笑わせている。
「もっと大きくなったら、きっと飛ばせるようになるよ」
祖母はそう言って、濡れた髪をタオルで優しく拭いてくれた。
台所からは煮物の匂いがしている。
庭の金木犀が咲いていて、その甘い香りと出汁の匂いが混ざり合っている。
「ただいま、まひる」
「おかえり。」
その声は、もう何年も聞いていなかったはずなのに、
一度も忘れたことなどなかった。
涙が出た。失っていたことにすら気づいていなかった記憶だった。けれど取り戻した瞬間、それがどれほど大きな穴を自分の中に空けていたか、まひるは初めて理解した。
「ありがとう」
まひるが言うと、目の前の存在は、応えるように、淡く光った。そして、その輪郭が、少しずつ、薄くなっていった。
——他にも、まだ多くの人に、返さねばならないものがある。今夜のうちに、できる限り。
「待って——あなたは、このあと、どうなるの」
——わからない。土地がなくなれば、わたしを留めておくものもなくなる。けれど、それでいい。誰かの記憶の中に、ちゃんと帰れたのなら。
光はそう告げると、夜の闇に溶けるように、家々のあいだを縫って、町の奥へと去っていった。あちこちの窓に、ふっと明かりが灯るのが見えた。きっと、誰かが、まひると同じように、忘れていた何かを、たった今、思い出したのだろう。
翌朝、重機の音で、茜町の最後の家々は静かに崩れていった。
その秋。
更地になった町の片隅に、一本だけ残された金木犀が、小さな花をつけた。
まひるは仕事の帰り道、ふと思い立って、その場所へ足を運んだ。
夕暮れの風が吹く。
すると、不意に懐かしい匂いがした。
出汁の匂い。
畳の匂い。
そして、祖母の家の縁側で嗅いだ、あの金木犀の香り。
気づけば、まひるは微笑んでいた。
「ちゃんと帰ってきたんだね。」
返事はない。
けれど風が、ひとつだけ、やさしく揺れた。
金木犀の香りが、
夕暮れの町へ、静かにほどけていく。
どこか遠くで、
誰かが、ふいに昔のことを
思い出している気がした。
そして今日もどこかで、
帰りたがっている時間が、
誰かの眠りを、そっと訪れている。
その人が、
「おかえり」と言ってくれるのを、
静かに待ちながら。
——人はそれを、
「時間どろぼう」と呼ぶのかもしれない。
― 了 ―
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あとがき
歳を重ねるほど、人は未来よりも過去のほうが愛おしくなるのかもしれません。
けれど、不思議なことに、本当に大切だった時間ほど、私たちは案外うまく思い出せません。
それは失われたのではなく、日々を生きていくために、いったん心の奥へしまわれているのでしょう。
もし今夜、
理由もなく懐かしい匂いがしたなら。
どうか少しだけ、
立ち止まってみてください。
それはきっと、
あなたの中で迷子になっていた時間が、
「帰ってもいいですか」と、
そっと扉を叩いている音なのです。
どうかその時は、慌てて思い出そうとせず、静かに目を閉じてみてください。
記憶というものは、追いかけると逃げてしまいますが、待っていると、案外、自分から帰ってきてくれるものです。
人は、思い出だけでは生きていけません。
けれど、思い出があるからこそ、
前へ進めるのだと思います。
もしあなたにも、
もう思い出せない誰かの笑顔や、
どこかの町の匂いがあるのなら。
今夜、少しだけ耳を澄ませてみてください。
天井の向こうで、
あなたの「時間どろぼう」が、
静かに順番を待っているかもしれません。
この物語が、あなたの大切な時間を思い出す、小さなきっかけになれば幸いです。

