よっぽどの縁 3

── 縁は、また誰かを探している ──



まえがき

人は、出会いによって変わる。

ある人は、一冊の本によって。
ある人は、一匹の犬によって。
ある人は、たった一人の人との出会いによって。

けれど、その出会いが、どこからやって来るのかを知る人はいない。

私たちは、偶然と呼ぶ。
運命と呼ぶ人もいる。
あるいは、縁と。

この物語は、一度出会った二人が、その先にある、もっと大きな「縁」に触れていく物語です。

出会いは終わりではありません。
ひとつの縁は、また次の縁へと繋がっていきます。

もし今、あなたの隣に大切な人がいるのなら。
それはきっと、よっぽどの縁なのです。



プロローグ 春の手紙

春の薬師寺には、桜より先に風が来る。
その風に乗って、一通の手紙が届いた。
差出人の名前はない。

白い封筒。
見覚えがあった。

誠一は封を切った。
便箋には、たった一行。

──縁には、終わりがない。

その文字を見た瞬間、胸の奥が小さく震えた。
隣でコーヒーを飲んでいた遥が顔を上げる。

「どうしたんですか?」

誠一は黙って手紙を差し出した。
遥は文字を読み、ゆっくりと息を吐いた。

「また……始まるんですね。」

「そんな気がする。」

春の風が、ベランダを吹き抜けていった。
薬師寺の塔が、夕日に染まっている。

二人はしばらく無言でその景色を見つめていた。
そして遥が、小さく笑った。

「最近、平和でしたからね。」

「平和だったね。」

「少しくらい不思議なことが起きても、もう驚きません。」

誠一も笑った。
確かにそうだった。

時間が狂い、空間に窓が開き、見知らぬ人の声に導かれて出会った。

あれ以上に不思議なことなど、そうそうない。

だが、その夜。
再び、世界は少しだけ軋んだ。




第一章 白い法衣の夢

夢を見た。
霧が深い。
見覚えのある景色だった。

薬師寺。

塔の朱色が、朝靄の向こうにぼんやり浮かんでいる。
石段の上に、一人の老人が座っていた。

白い法衣。
深い皺。
穏やかな笑み。

あの老僧だった。

「お久しぶりです。」

誠一は言葉を失った。

「あなた……。」

「元気そうで何よりです。」

「何者なんですか。」

老僧は微笑む。

「また、その質問ですか。」

「今度こそ答えてください。」

老人はしばらく黙って空を見上げた。

「人は、出会いによってできています。」

「……。」

「誰にも会わなければ、人は自分という形になれない。」

風が吹いた。
桜が舞う。

「だから私は、ときどき道案内をするのです。」

「縁を繋ぐために?」

「いいえ。」

老僧はゆっくりと首を振った。

「縁は、もともと繋がっています。」

「では……。」

「私は、見失った糸を少しだけ照らすだけです。」

誠一が何かを言おうとした瞬間。
霧が濃くなった。
老人の姿が霞んでいく。

「待ってください!」

老僧は最後に言った。

「近いうちに、お客様が来ます。」

「お客様?」

「どうか、優しく迎えてあげてください。」

そして、消えた。



第二章 見知らぬ少女

翌日の午後。
薬師寺の境内は、桜の花見客で賑わっていた。
誠一と遥は、石段に並んで座っていた。

「夢の話、本当なんですね。」

「自分でもそう思う。」

その時だった。

「……やっと見つけた。」

後ろから、声がした。
振り向く。
十七歳くらいの少女が立っていた。

制服姿。
長い髪。
どこか懐かしい顔。

だが、会ったことはない。
少女は二人を見て、ほっとしたように笑った。

「良かった。」

「君は?」

少女は少しだけ考えてから言った。

「まだ、名前は言えません。」

「え?」

「でも、お二人に会いに来たんです。」

遥が首を傾げる。

「私たちに?」

少女は頷いた。
そして、不思議なことを言った。

「ありがとうって、伝えたくて。」

「何を?」

少女は空を見上げた。

桜が舞う。

その横顔が、どこか遥に似て見えた。

「私を、この世界に生まれさせてくれて。」

誠一と遥は、同時に息を呑んだ。
少女はゆっくり微笑む。

「……まだ言えないんです。でも、きっと、もうすぐ分かります。」

そう言うと、制服のポケットから一枚の写真を取り出した。

「これ、預かっていてください。」

そこには、少し年を重ねた誠一と遥が写っていた。
そして、その間に立つ、一人の若い女性。

目の前の少女だった。

春の風が吹いた。
遠くで、薬師寺の鐘が鳴った。

誠一は、写真を持つ手が震えるのを感じていた。

──その少女は、いったい誰なのか。

そして、老僧の言う「お客様」とは、彼女のことなのか。

新しい縁が、静かに動き始めていた。



第三章 消えた一日

翌朝。
誠一は目を覚ますと、妙な違和感を覚えた。

窓から差し込む朝の光。
テーブルの上のコーヒーカップ。
隣の部屋から聞こえる、遥の掃除機の音。

すべて、いつも通り。
なのに、何かが足りない。

スマートフォンを見る。
日付は四月十七日。
その瞬間、胸がざわついた。

「……十七日?」

昨日は、十五日だったはずだ。
十六日が、ない。

慌てて隣の部屋へ向かう。
インターホンを押すと、遥が顔を出した。

「どうしたんですか?」

「今日は何日?」

「十七日ですけど……。」

遥も言い終わる前に、顔色を変えた。

「……あれ?」

二人とも、十六日の記憶がない。

部屋に戻り、スマートフォンの写真を確認する。
そこには、見覚えのない写真が数枚残っていた。

薬師寺。
桜の木。

そして――。
白い法衣の老僧。

三人で笑いながら写っている。

「なんだ、これ……。」

写真の最後の一枚には、手書きの文字が映っていた。

──思い出せない時間にも、縁はある。

誠一は息を呑んだ。

また、始まった。
世界が、少しだけ歪み始めている。



第四章 百年前の手紙

二人は薬師寺を訪れた。
境内では、桜吹雪が静かに舞っている。

寺の古い資料を管理している住職が、二人の話を黙って聞いていた。

やがて住職は立ち上がり、一冊の古びた帳面を持ってきた。

「不思議な話ですが……似た記録があります。」

帳面は、大正時代の日記だった。
ページをめくる。
そこには、達筆な字でこう書かれていた。

『霧の朝、白い法衣の僧に会った。』

『その人は、私が会うべき人に会わせてくれた。』

『人生は、不思議な縁でできている。』

遥が小さく息を呑む。
さらに最後のページには、こう記されていた。

『私もまた、誰かの縁の一本となりたい。』

その下に、見覚えのある言葉。

──出会えたことに、ありがとう。
  楽しくやりましょう。

二人は顔を見合わせた。

「……ずっと前からなんですね。」

誠一が呟く。
住職が静かに頷いた。

「縁は、人から人へ受け継がれていくのかもしれません。」



第五章 未来からの贈り物

翌日、少女が再び現れた。
境内の石段に座り、桜を見上げている。

「待っていました。」

そう言って微笑んだ。
彼女は、一冊のノートを差し出した。

「これを。」

開く。
そこには、未来の日付が並んでいた。

結婚。
引っ越し。
小さな喧嘩。
仲直り。
病気。
旅行。

そして――。

『二人は最後まで笑っている。』

遥の目に涙が浮かんだ。

「未来を知って、怖くないの?」

少女が聞く。
遥はしばらく黙っていた。
それから、誠一を見た。

「怖いです。」

「……。」

「でも、それでも一緒にいたい。」

誠一は、静かに頷いた。

「僕も。」

少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、どこか懐かしかった。

どこか――自分たちに似ていた。



第六章 老僧の告白

その夜。
誠一は再び夢を見た。

霧の中。
石段に、老僧が座っている。

「お待ちしていました。」

「あなたは、一体……。」

老僧は静かに笑った。

「昔、私にも大切な人がいました。」

誠一は黙って聞いた。

「しかし、出会えなかった。」

「……。」

「ほんの少し、タイミングが違った。」

風が吹く。
桜の花びらが舞う。

「その人とは、一生会えませんでした。」

初めて見る、寂しそうな表情だった。

「だから願ったのです。」

老僧は空を見上げる。

「せめて、他の誰かだけでも、出会えますように。」

「それで……。」

「長い長い時間をかけて、私は人の縁を見守るようになりました。」

誠一の胸が熱くなる。
老僧は、神様ではない。
超越した存在でもない。
たった一つの後悔を抱え続けた、一人の人だった。

「出会いは奇跡です。」

老僧が言う。

「だから、どうか大切にしてください。」

「……はい。」

老僧は微笑んだ。

「もうすぐ、すべてが繋がります。」

その姿が、少しずつ霧に溶けていく。

「待ってください!」

誠一が叫ぶ。
老僧は最後に振り返った。
そして、いつものように笑った。

「楽しくやりましょう。」

朝日が昇る。
夢は、静かに終わった。



最終章 縁は、また誰かを探している

翌日の夕方。
少女から渡されたノートの最後のページに、一つだけ住所が書かれていた。

――薬師寺 東塔前 午後六時。

誠一と遥は、約束の時間に東塔へ向かった。

春の夕暮れ。

境内に人影は少なく、鐘の音だけが遠くから聞こえている。

そこに、少女はいた。
白いワンピースを着て、塔を見上げていた。

「来てくれたんですね。」

「君は……誰なんだ。」

少女はゆっくり振り返った。
そして、少し照れくさそうに笑った。

「私の名前は……まだありません。」

「まだ?」

「だって、まだ生まれていませんから。」

春の風が止まった。

「……。」

「私は、お二人の未来から来ました。」

遥が息を呑む。
少女は優しく微笑んだ。

「私は、二人の娘です。」

長い沈黙。
遠くで、鐘が一つ鳴った。

「信じられないですよね。」

「……少しだけ。」

誠一が答える。
すると少女は笑った。

「お父さんは、昔からそう言う人なんです。」

その言葉に、二人は何も言えなくなった。

少女は一歩近づいた。

「ありがとう。」

「……。」

「二人が出会ってくれたから、私はここにいます。」

遥の目から、静かに涙がこぼれた。
少女も泣いていた。

「私は、それを伝えに来たかったんです。」



第七章 最後の鐘

夕暮れが深くなる。
その時だった。
霧が立った。

薬師寺の境内が、白く霞んでいく。
石段の上に、一人の人影が現れた。

白い法衣。
老僧だった。

「お久しぶりです。」

誠一と遥は、同時に頭を下げた。
老僧は少女を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「無事に会えましたね。」

少女が頷く。

「はい。」

「それは何よりです。」

老僧は、二人へ向き直った。

「私の役目も、ここまでのようです。」

「役目……。」

「人は、自分が思っている以上に、たくさんの縁に支えられて生きています。」

風が吹く。
桜が舞う。

「誰かが誰かに会い、その人がまた別の誰かと出会う。」

「……。」

「人生とは、その繰り返しです。」

老僧は空を見上げた。

「私が会えなかった人も、どこかで笑っているのでしょう。」

誠一が尋ねた。

「あなたは、後悔しているんですか。」

老僧はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ。」

そして、優しく笑った。

「あなた方が出会えたのですから。」

その言葉とともに、霧が濃くなっていく。

「もう会えないんですか。」

遥が聞いた。
老僧は答えた。

「会えますとも。」

「本当に?」

「縁は、一生では終わりません。」

そして最後に、いつもの言葉を残した。

「出会えたことに、ありがとう。」

「楽しくやりましょう。」

白い法衣が、桜の花びらの中へ溶けていった。



エピローグ 糸の向こうへ

それから、長い年月が流れた。

春。

薬師寺。

石段には、年老いた誠一と遥が並んで座っている。
二人とも白い髪になった。
けれど、笑顔は昔のままだった。

「最初にここへ来たの、何年前でしたっけ。」

「もう数えられないね。」

「そうですね。」

二人は笑った。

その時。
若い男女が、境内へ入ってきた。
どこかぎこちなく、少し緊張した様子で歩いている。

女性が、一枚の紙を落とした。
誠一が拾う。

そこには、たった一行。

──出会えたことに、ありがとう。
  楽しくやりましょう。

遥が小さく笑った。

「始まりましたね。」

誠一も頷く。

「うん。」

風が吹く。
桜が舞う。

境内の向こうに、一瞬だけ白い法衣が見えた。
その隣には、見覚えのある少女の姿もあった気がした。

次の瞬間には、もう誰もいない。
二人は空を見上げた。

春の空は、どこまでも青かった。

「ねえ。」

「うん?」

「私たち、よっぽどの縁でしたね。」

誠一は微笑んだ。
そして、ゆっくりと答えた。

「うん。」

「よっぽどの縁だ。」

桜の花びらが、静かに二人の肩へ降り積もった。







あとがき

最後まで『よっぽどの縁』三部作をお読みいただき、誠にありがとうございました。

人は、一生のうちにたくさんの人と出会い、そして別れていきます。
その中で、心に残り続ける人がいます。

何十億という人の中から出会えた奇跡。
同じ時代に生まれ、同じ空の下で笑い合える不思議。

私はそれを、「よっぽどの縁」と呼びたいと思いました。

この物語が、あなたの大切な誰かを思い出すきっかけになれば、これ以上の幸せはありません。

出会えたことに、ありがとう。
楽しくやりましょう。