よっぽどの縁 1
── 時空を渡る、ひとすじの糸 ──
まえがき
人は一生のうちに、何人と出会うのだろう。
ましてや、広い世界、果てしない時間の流れの中で、同じ時代に生まれ、言葉を交わし、心を寄せる確率など、天文学的な数字の彼方にある。
本作は、奈良・薬師寺を舞台に、孤独を抱えた一人の男と、時間の迷路に迷い込んだ一人の女が、「縁」という名の目に見えない糸に手繰り寄せられていく物語である。
私たちが「ただの偶然」と片付けてしまう出来事の裏側には、もしかしたら時空さえも歪めてしまうほどの、巨大な引力が働いているのかもしれない。
今、このページを開いてくださったあなたとの出会いもまた、ひとつの大切な「縁」。
どうぞ、霧深い薬師寺の境内へ、足を踏み入れるようにお読みいただければ幸いです。
プロローグ 消えた僧侶の言葉
薬師寺の朝は、霧から始まる。
奈良の盆地に白く積もる霧は、塔の朱色を溶かし、時間そのものを曖昧にする。観光客がまだ来ない早朝、三重塔の影が境内に細長く倒れているその時間に、青木誠一は必ずここへ来た。
三十二歳。フリーランスのシステムエンジニア。仕事はリモート。家族はいない。友人と呼べる人間も、ここ数年でずいぶん減った。
別に悲しいわけではない。ただ、人と繋がることが、うまくできなくなっていた。
その朝、誠一はいつもの石段に腰を下ろし、スマートフォンをポケットに突っ込んで、霧をぼんやり眺めていた。
「億の中で出会う。それはただの偶然か?」
声がした。
振り返ると、白い法衣の老僧が、誠一の隣に座っていた。いつの間に来たのか、まったく気配がなかった。
「……失礼しました、独り言ですよ」
老僧は穏やかに笑った。目尻の深い皺が、幾十年もの時間を刻んでいた。
「この国だけでも一億二千万人。世界ならば数十億。その中で、たった百年しかない命が、同じ時代に生まれ、同じ場所で座を並べる。これを縁と呼ばずして何と呼ぶ」
誠一は何も答えなかった。答える言葉が見つからなかったのではなく、その声が自分の内側から聞こえるような気がして、不思議と黙り込んでいたのだ。
翌朝、また来た。
老僧はいなかった。
寺のスタッフに聞いてみると、首をかしげられた。
「そのような方は、うちには……」
誠一は苦笑して頷いた。夢でも見たのだろうと思った。
だが、老僧が消えた石段の上に、一枚の紙が落ちていた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
── 縁は、あなたを探している。
その夜から、誠一の時間が、少しずつ狂い始めた。
第一章 ズレた時間の中で
最初の異変は、カレンダーだった。
パソコンの右下に表示される日付が、前の日に戻っていた。再起動しても、同じ日付が表示される。十一月八日、木曜日。確かに昨日だった日付が、今日の朝にも表示されている。
おかしい、と思いながら仕事をしていると、クライアントからメールが来た。
「昨日送っていただいたファイル、確認しました」
昨日送ったファイル? 誠一はまだ送っていない。少なくとも、今日の自分は。
翌日も、また十一月八日だった。
その翌日も。
誠一は試しに、日記をつけ始めた。毎朝起きると、同じ日付が並ぶ。しかし、日記の文字は増えていく。そして、他人の記憶は、前の日へ戻らない。誠一の「昨日」だけが、繰り返されている。
「俺だけが、時間のループに入っている?」
いや、正確にはループではなかった。
誠一は気がついた。日付は戻っているが、自分の中の時間は進んでいる。世界は少しずつ、ズレている。まるで、誰かが時計の針を少しだけ曲げたように。
見知らぬ声
七回目の十一月八日の夜、誠一のスマートフォンに着信があった。
登録のない番号。出るかどうか迷ったが、何となく指が動いた。
「もしもし」
沈黙。
それから、女性の声がした。低くはないが、澄んだ声。
「……あなたが、繰り返しているんですね」
誠一は息を呑んだ。
「あなたも?」
「私は逆に、時間が飛ぶんです。気がつくと、三日後になっている」
名前は、中村遥。二十九歳。大阪でグラフィックデザイナーをしているという。会ったことは、ない。なぜ番号を知っているのか、彼女も分からない。
「ただ……不思議と、この番号に電話しなければいけない気がして」
誠一は窓の外を見た。十一月の奈良の夜、星がやけに近かった。
「縁って、あると思いますか」と、誠一は言った。
少しの間があって、遥は答えた。
「あると思いたいです」
第二章 異次元の窓
誠一が「窓」を最初に見たのは、二週間が経った頃だった。
深夜、コードを書いていると、空間の一部が薄く光った。
壁ではない。空気の中に、まるで水面のような揺らぎが現れた。縦六十センチ、横四十センチほどの、楕円形の光。
恐る恐る近づいて、のぞき込む。
向こう側に、知らない風景があった。
夜の川。橋の欄干。街灯が水面に映って、揺れている。
そして、橋の上に、一人の女性が立っていた。
背中しか見えないが、分かった。声で分かった。
「遥さん」
窓越しに呼んだ。届くかどうか分からなかったが、女性が振り返った。
距離があって、顔は見えない。でも、その人はこちらを見た。
そして、手を挙げた。
翌日、電話が来た。
「昨夜、橋にいましたか」と遥が言った。
「川沿いの、古い鉄橋? 大阪の、淀川近く?」
「誰かに見られている気がして、振り返ったら……何もなかった。でも、見えた気がした。光みたいなもの」
誠一は窓のことを話した。遥はしばらく黙って聞いていた。
「私の部屋にも、あります」
「え?」
「小さな穴みたいなもの。見ると、知らない天井が見える。誰かの部屋だと思う。本棚があって……コーヒーのカップが置いてあって」
誠一は自分の机の上を見た。
コーヒーのカップが、あった。
薬師寺の座標
誠一は再び薬師寺へ行った。
霧の朝ではなく、晴れた午後。観光客の中に混じって、あの石段に座った。
あの紙をずっと財布の中に持ち歩いていた。
「縁は、あなたを探している」
もう一度、よく見る。
気がつかなかったが、紙の端に、小さな文字が書いてあった。
数字の羅列。最初は電話番号かと思ったが、違う。
緯度と経度だった。
地図アプリで調べると、表示されたのは奈良ではなかった。
大阪。淀川沿い。鉄橋のそば。
誠一は立ち上がった。
第三章 重なる座標
大阪へ向かう近鉄特急の中で、誠一は遥に電話をした。
「今から、会えますか」
沈黙の後、遥は言った。
「会うと……何かが変わる気がして、怖いんです」
「変わることが怖い?」
「変わらないことも怖いけど」
誠一は笑った。久しぶりに、声に出して笑った。
「僕も同じです。でも、その老僧が言ってたんです。必要な時に、準備ができた時に、必ず出会うって」
「……私は、準備できてるのかな」
「電話に出た時点で、できてると思います」
鉄橋のたもとで待つと、遥は来た。
想像と少し違った。もっとおとなしい人を思い描いていたが、実際は歩き方に芯があって、目に迷いが少なかった。
「青木さんですか」
「はい。中村さんですね」
「……変な感じ。会ったことないのに、会った気がする」
「窓越しに見てましたから」
二人で笑った。橋の上で、川が光った。
時間が動く
その瞬間だった。
誠一のスマートフォンが震えた。日付を見る。
十一月二十九日。
繰り返していた日付が、初めて、前に進んだ。
遥も気がついたように、スマートフォンを見た。
「私も……時間が飛ばなくなった」
二人は顔を見合わせた。
「出会うことで、時間が戻ったってこと?」
誠一には分からなかった。ただ、空気が変わった気がした。川の匂いがリアルに感じられた。世界の手触りが、少し戻ってきた気がした。
第四章 縁の地図
それから三ヶ月が経った。
時間は正常に動いている。窓も消えた。
誠一と遥は、週に一度、大阪と奈良のどちらかで会うようになった。
不思議なことに、会うたびに何かが繋がった。
遥の友人が、誠一の元クライアントの知人だった。誠一の幼馴染みが、遥の通っていた大学の先輩だった。
「なんで今まで繋がらなかったんだろう」
「準備ができてなかったんじゃないですか」と遥は言った。
ある日曜日の午後、二人で薬師寺へ行った。
誠一にとっては庭のような場所だが、遥は初めてだった。
石段に並んで座り、霧の残る境内を眺めながら、誠一はあの朝のことを話した。老僧の言葉を、覚えている限り話した。
「億の中で同じ時代に出会う縁。パートナーともなれば、それはもう運命と笑う、って」
「笑う、ってところがいいですね」
「そうなんです。深刻じゃない。楽しそうに言うんです」
老僧の正体
その時、境内の向こうから、白い法衣の人影が見えた。
誠一は立ち上がった。
あの老僧だった。こちらに向かって歩いてくる。
「……いた。あの人です」
遥も立ち上がった。
老僧は二人の前に来て、静かに微笑んだ。
「やっと会えましたね」
誠一は言葉が出なかった。老僧は二人を交互に見た。
「縁とはね、繋がりたいと思う心が引き寄せるものではないんです。繋がる必要のある魂が、時空を超えて引き合うんです」
「……あなたは何者なんですか」と遥が聞いた。
老僧は笑った。目尻の皺が、深く動いた。
「私も縁の一本ですよ。あなた方二人を、正しい座標で出会わせるための」
それだけ言うと、老僧は踵を返した。
二人で後を追いかけたが、角を曲がると、もう姿はなかった。
ただ、石畳の上に、また一枚の紙が落ちていた。
── 出会えたことに、ありがとう。
楽しくやりましょう。
誠一は紙を拾って、遥に見せた。
遥は少しの間、それを見つめていた。
それから、顔を上げて、誠一を見た。
「楽しくやりましょうって、誰に言ってるんですかね」
「多分……俺たちに」
「そうですよね」
遥は笑った。
誠一も笑った。
塔の朱色が、冬の陽光に照らされて、鮮やかに燃えていた。
エピローグ 糸の向こうに
春になった。
誠一と遥は、薬師寺の近くに小さなアパートを借りた。同居ではない。二棟並んだアパートの、隣同士の部屋。でも、ベランダが向かい合っている。
誠一はいまでもたまに思う。あの老僧は何者だったのか。
夢だったのかもしれない。時間が狂っていたのも、窓が見えたのも、思い込みだったのかもしれない。
でも、遥は確かにいる。
それで、十分だと思った。
ある夜、ベランダに出ると、向かいの遥の部屋にも灯りがついていた。
カーテン越しに影が動く。
誠一は声をかけた。
「眠れないの?」
しばらくして、窓が開いた。
「なんか、空が変な感じ」
見上げると、星が多かった。冬よりも柔らかい光で、無数の点が、静かに瞬いていた。
「一億二千万人のうちのさ」と誠一は言った。
「うん」
「数十億人のうちのさ」
「うん」
「俺とあなたが、同じ時代に、同じ空の下にいる」
遥は少し黙った。
「……よっぽどの縁ですね」
「うん」
誠一は空を見たまま、笑った。
「よっぽどの縁だ」
── 了 ──
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あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は、私自身が深く感銘を受けた詩「よっぽどの縁」と、奈良の薬師寺が持つ長い歴史、そしてその教えに対する敬意から生まれた物語です。
現代社会は非常に便利になり、ボタン一つで世界中の誰とでも繋がれるようになりました。しかしその反面、私たちは本当の意味での「繋がり」や、出会いの尊さを見失いそうになることがあります。
作中で老僧が語ったように、縁とは無理に作り出すものではなく、「繋がる必要のある魂が、時空を超えて引き合うもの」なのかもしれません。
そしてそれは、決して重苦しい運命ではなく、「楽しくやりましょう」と笑い合えるような、軽やかで愛おしいものであると信じています。
誠一と遥の物語はここで一区切りとなりますが、二人のベランダ越しの会話は、これからも薬師寺の鐘の音とともに続いていくことでしょう。
最後に、この作品を執筆するにあたりインスピレーションをくれたすべての縁に、そして何より、この物語を最後まで見届けてくださった読者のあなたに、心からの感謝を込めて。
出会えたことに、ありがとう。
楽しくやりましょう。
── 縁の書き手

