偕老同穴 アルゴリズム
―ちんちんかもかも計画―
「恋はいつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。」
プロローグ
偕老同穴 ちんちんかもかも
夫婦、共に老い
同じそこをと目指し
仲睦まじく……
どんな人生であろうと
どんなに遠回りしてしまったであろうと
そこへと辿り着けたのならば
せめて
生涯の伴侶をと心決めたのならば
よそ見をすることなく
自分の人生へと付き合わせた相手への思いを
何よりも第一に考えねばならない
そして
自分のこと以上に気遣いを施し
キミの最期の場面で
あぁ
お前のお陰で 良い人生だったよ と
ひと言
笑顔で伝えられたのならば
その先も
もしや 次の世も
きっとまた 巡り合えるのでは と……
一章 相性百パーセントの悲劇
二〇七一年、日本という国はすでに「縮みながら生きる」ことに慣れきっていた。人口は三十年前の半分。役所の数より廃校の数が多い県も珍しくない。老人の割合が六割を超えた市区町村では、コンビニより介護施設のほうが多く、夕方の商店街に響くのは子どもの声ではなく、電動車椅子のモーター音だった。
そんな時代に、国がもっとも金をかけている部署のひとつが、通称「同穴局」――正式名称・国立相性管理局だった。縮みゆく国を立て直す最後の策として、内閣が設置したその局の仕事はひとつ。人と人を出会わせ、結婚させ、そして死ぬまで添い遂げさせることだ。
むかし「婚活」と呼ばれていた個人の戦場に、国がとうとう正式参戦したのである。武器は恋文でも釈迦力な仲人でもなく、ひとつの人工知能だった。名前は「偕老(カイロウ)」。開発コードのまま正式名称になった、いかにも役所らしい命名だった。
カイロウは、脳波・心拍・発汗・会話のテンポ・笑うタイミング・既往の恋愛履歴・冷蔵庫の中身・睡眠の質・早朝に何を見るかという目の動線に至るまで、あらゆるデータを吸い込み、一組の男女(あるいは性別を問わぬ二人)が何年連れ添えるかを小数点以下三桁まで叩き出す。マッチング成立後の離婚率は、サービス開始当初、わずか〇・三パーセントだった。
「偕老同穴を、計算で保証する」というキャッチコピーは、当時の絶望的な婚姻率をいくらか持ち直させ、局には国家予算がどんどん注ぎ込まれた。ところがここ半年で、奇妙な現象が頻発していた。
相性スコア九十九・九パーセント超――局内で「ほぼ満点」と呼ばれる組み合わせの夫婦が、結婚から平均二十三日で離婚届を出してくるのだ。理由はどれも判で押したように同じだった。「相手の本当の姿が、見えすぎてしまって」。
局内ではこの現象に、いつの間にか不穏なあだ名がついていた。曰く「ガラス同穴」。相性の精度が高ければ高いほど、まるでガラスのように一瞬で割れる。完璧に噛み合っているはずの夫婦が、もっとも早く壊れていく。パラドックスの香りがしたが、証拠は数字として着実に積み上がっていた。
その朝、保守課の片隅で、蒲生新太は三件目の「ガラス同穴」報告書にため息をついていた。
三十三歳。同穴局システム保守課に籍を置く新太の主な仕事は、カイロウのサーバーが熱暴走しないよう冷却装置を見て回ることと、たまにバグ報告書を書くことだった。恋愛工学の専門家でもなければ、AI開発者でもない。ただの縁の下の力持ち――もっと正確に言えば、縁の下で居眠りをしている力持ちだった。職場の花見でも飲み会でも、たいていは幹事をするが、中心には座らない。誰かが欠けた席をそっと埋める、いわば「空気が読める空気」のような人間だった。
ちなみに、新太自身は未婚である。これがまた皮肉な話で、入局時に受けた適性診断によれば、新太の相性スコアは局内史上もっとも「凡庸」だった。誰とでも七十点、誰とも九十点にならない。上司いわく「個性という雑味が、限界まで濾過された結果」。本人はこれを聞いて「おれは蒸留水みたいな人間らしい」と妙に納得してしまった。以来、自分のデータが話題に出るたびに、新太はそっとコーヒーで口を濡らし、報告書の続きを書くのだった。
「新太くん、また唸ってるの?」
声をかけてきたのは、隣の主任研究員・来栖灯里だった。三十五歳、入局十年のベテランで、カイロウの設計思想にもっとも詳しい人物のひとりとされている。本人は「詳しいというか、誰よりも疑っているだけ」と笑うが、その疑いの鋭さで、過去に三度、システムの重大バグを発見している。
「ガラス同穴、また増えました。これで今月十一件目です」新太は端末を差し出した。「全部、スコアは九十八パーセント以上。三組は九十九点台です」
「十一件……」灯里は端末を覗き込み、眉間に小さなしわを作った。「完璧すぎる夫婦ほど、先に壊れる。まるで皮肉な物理法則みたい」
「皮肉というか、いっそ呪いですよ。せっかく国がお金かけて、最高の相手を見つけてやったのに、なんで三週間で別れてくるんですか」新太は報告書をめくった。「離婚理由のコメント欄、全員ほぼ同じこと書いてます。想像通りすぎて、つまらなかった」
「つまらなかった」灯里はその言葉を繰り返した。「なるほどね。ドキドキがなかった、ということかしら」
「ドキドキどころか、出会って三日でもう相手の全部が分かった気がした、と書いてる人もいます。謎がない、意外性がない、だから飽きた、と」
「ねえ、新太くん」灯里はふと声を落とした。「カイロウが見つけているのは、本当に最高の相手なのかしらね。それとも、ただの、一番正確な鏡なのかしら」
新太には、その問いの意味がよくわからなかった。だが灯里の目つきには、保守課の人間が滅多に見ない、研究者特有の不穏な光があった。その光が、この後の三十年を巻き込む大騒動の始まりだとは、新太もまだ知らない。
二章 化石倉庫の秘密
灯里に呼び出されたのは、その日の終業後だった。場所は局舎の地下三階、通称「化石倉庫」。カイロウの初期バージョン――まだ「カイロウ」という名前さえ与えられていなかった頃の試作機と、開発当時の記録媒体が眠る場所だ。温度管理は完璧だが、誰も来ないので埃だけは完璧に積もっている。
「ガラス同穴の原因、ひとつ仮説があるの」
灯里は埃をかぶったサーバーラックの前で、古い外部ストレージを取り出した。掌に収まるほどの小さな機材で、側面には手書きのシールが貼られていた。文字は、ほとんど掠れていた。
「カイロウの初期設計には、いまの仕様書には載っていないパラメータがあった形跡があるのよ。コードネームは……MOTERU係数」
「モテる係数……?」新太は思わず聞き返した。「なんですか、それ。語感が完全にギャグです。国家プロジェクトのパラメータ名が、モテる係数」
「ギャグじゃないの。これ、本気の研究用語だったみたい」灯里は古いログをスクロールする。「相性の正確な計算値に対して、人為的に上方補正をかける変数。簡単に言うと――自分は実際より魅力的だ、と相手に思わせる、あるいは自分自身に思い込ませるための数値」
「は……?」
「噓じゃないわ。当時の設計者のメモには、こう書いてある。真実の相性だけでは、人は恋に踏み出せない。踏み出すには、いくらかの心地よい誤解が必要である」
新太は思わず笑ってしまった。「いや、それただの自惚れですよ。国家プロジェクトに自惚れパラメータを仕込んでたって、笑い話にしてもひどすぎる。開発者、正気ですか」
「ところが」灯里は画面を切り替えた。「MOTERU係数を有効にしていた頃の試験夫婦、平均継続年数四十一年。係数を無効化した後の、いわゆる精密マッチング世代は、平均継続年数九・八年」
新太の笑いが止まった。
「四十一年って……それ、ほぼ偕老同穴じゃないですか」
「そうなのよ。だけど局の正式記録には、MOTERU係数についての記述がほとんど残っていない。十五年前の正確性向上委員会による大規模な仕様改定で、根拠不明の補正項目として、まるごと削除されたみたい。当時の議事録には、こう書かれているわ。科学的根拠の薄い、感情論的ノイズ項目と判断し、除去する」
「正確にした結果、壊れやすくなったってことですか」新太はため息をついた。「なんというか、完璧に余計なことをしましたね、その委員会」
「たぶんね。カイロウは、誰よりも正直になりすぎたの。相手の欠点も、自分の欠点も、洗いざらい正確に映し出す鏡になった。でも――」灯里は新太のほうを見た。「恋に必要なのは、案外、鏡じゃなくて、ちょっと歪んだ照明だったりするのかもしれない」
「歪んだ照明」新太は繰り返した。「つまり、少しだけ良く見える光、ですか」
「ちょっといい角度、ちょっと温かい色の光。それだけで人って、自分もよく見えるし、相手もよく見える。本当の相性が七十点でも、照明次第で八十点に見える。そのたった十点の差が、恋に踏み出すかどうかを決める」
「で、そのMOTERU係数を作った人って、誰なんですか?」
灯里は古い人事データを呼び出した。表示された名前に、新太は思わず声をあげた。
「獅子内フェオ……? あの伝説の?」
局内で語り継がれる、初代カイロウの主任開発者。性格は規格外、研究手法も規格外、そしてある日突然、局を去って消息不明になったという伝説の天才。一部では「もう生きていないのでは」とまで囁かれている人物だ。新太が入局したとき、先輩が最初に教えてくれた局の三大伝説のひとつが「フェオの失踪」だった。
「彼女が遺した個人ログの中に、ひとつだけ妙なファイルがあるの」灯里はストレージの奥からひとつの音声データを引き出した。再生時間、十七分二十二秒。ファイル名は、ただひと言。
きっかけ.wav
新太はそのファイル名を見て、なぜか少し、胸がざわついた。
三章 ログの中の居酒屋
二人は化石倉庫の片隅で、埃をかぶった古いスピーカーをつないで、その音声ファイルを再生した。
最初に聞こえてきたのは、酒場のざわめきと、ビールを注ぐ音だった。居酒屋の賑わいが、懐かしいアナログの解像度で漂ってくる。十五年以上前の録音だ。
……えーと、これ起動してる? 起動してるわ。よし。研究ノート、音声版、ここからは個人的な居酒屋フィールドワークの記録とする。本日は午後九時、某居酒屋の一人カウンター。ビールは三杯目
しゃべっているのは、若い女性の声――おそらく獅子内フェオ自身だ。少し呂律が回っていない。研究ノートと言いながら、完全に飲みながら喋っている。
隣の席の女性たちの会話に、ちょっと耳を傾けてみる。年齢は、たぶん四十路くらい。テンションは高め。焼酎お湯割り、おそらく四杯目以降
ログの向こうから、別の女性たちの声が拾われていた。
あたしのね、元彼たち、結構沢山いたけれど、全員、今でも独身なのよね
へえ、すごいじゃない。それって何人くらい?
まあ、それなりに……それってやっぱあたしが良過ぎたせいかしら……?
その瞬間、フェオ自身がビールを吹きそうになって、むせる音がログに残っていた。むせて、むせて、むせて。盛大なむせ方だった。
ごほっ、ごほっ……いや、おかしいでしょ、それ。お前が良すぎたんじゃなくて、お前が悪すぎたから、女ってみんなこうなんだと思い込んじまったんじゃないの……? って言いたい。言えないけど
新太は思わず吹き出した。「いや、これ僕が隣に座ってたら、もらいむせしてましたよ確実に」
「待って、まだ続きがあるの」灯里が再生を続ける。
ログの中のフェオは、ひとしきり小声でツッコミを入れたあと、急に声の調子を変えた。研究者特有の、何かに気づいた瞬間の声だ。少し酔いが引いたような、硬くなった声。
……いや、待てよ。これ、笑い話じゃない。これ、データだ
あの子たち、明らかに勘違いしてる。自分を客観的に評価できていない。でも――その勘違いがあるからこそ、次の恋に踏み出せている。もし正確に「あなたは平均よりやや魅力に欠ける」と告げられたら、あの人たちは、もう誰とも付き合おうとしないんじゃないか
恋愛って、いつも、ちょっとした勘違いから始まるものなんだ。オレはモテる。アタシは良い女。オレはかっこいい。アタシは素敵。オレはいけてる。アタシもいけてる。……その勘違いの分だけ、人は前を向ける。踏み出せる
フェオの声が少し間を置いた。グラスを置く音がした。
そして、たぶん一番大事なのは、相性の精度なんかじゃなくて――最後の場面で、ちゃんと心に残る言葉を、ひと言、笑顔で言えるかどうか、なんじゃないか。それができるなら、最初の十点の勘違いなんて、もう誰も気にしない
ログはそこで、ぶつりと切れていた。
化石倉庫に、しばらく沈黙が落ちた。サーバーの冷却ファンだけが、低く唸り続けている。
「……これが、MOTERU係数の原点ですか」
「たぶんね」灯里は静かに言った。「フェオは、正確な相性なんて求めてなかったのよ。彼女が作りたかったのは、人が最後まで前を向き続けるための、ちょっとした思い込みの仕組み。それを、後の世代の役人たちが科学的根拠が薄いって削除してしまった」
「正確性向上委員会、本当に余計なことしましたね……」新太はため息をついた。「でも灯里さん、なんで今日、このファイルを?」
「ガラス同穴が出始めた頃から、ずっと引っかかってたの」灯里は外部ストレージをそっと机に置いた。「完璧な相性で結ばれた夫婦が壊れていく。その原因が、もしかしたらフェオの研究の中にあるんじゃないかと思って、ずっと探してた。そしてようやく、このファイルを見つけたのよ」
新太は、もう一度ファイル名を見た。きっかけ.wav。十五年以上前、居酒屋の隣のテーブルの勘違いが、世紀の発見のきっかけになっていた。それが、なんとも言えずおかしくて、同時に少し、胸に刺さった。
四章 婚活省の落ちこぼれたち
翌朝、新太は灯里の仮説をもとに、過去十五年分のカイロウのマッチングデータを洗い直した。MOTERU係数が有効だった時代と、削除されてからの時代とで、離婚率・継続年数・離婚理由のコメントを比較する。
結果は、一目瞭然だった。
係数削除前の世代では、離婚理由の上位に「価値観の違い」「生活習慣の不一致」といった、いかにも人間らしい項目が並んでいた。いわば、いっしょに生きていくうちに見つかった問題だ。だが係数削除後の世代では、異様な理由が急上昇していた。「出会った瞬間から、すべてが見えすぎた」「謎がなかった」「完璧な相性がむしろ怖かった」。
「これ、相性が良すぎて、ドキドキが発生しなかったってことですよね」新太は数値を並べながら言った。「完璧にフィットする相手と出会ったとき、人間は恋に落ちるんじゃなくて、むしろ……安心しきって、飽きるのか」
「面白いでしょう」灯里は言った。「相性が高すぎると、脳が恋愛モードに入らないのよ。ドキドキは、ある程度の未知と不確かさから生まれる。完璧な予測可能性は、愛着は生まれやすいかもしれないけど、恋の炎は逆に消しちゃう」
「そういえば」新太はふと思い出した。「去年、経理課の田中先輩が言ってましたよ。カイロウにあなたとの相性は九十九・八パーセントと診断された相手と初めてデートして、三時間後に帰ってきて、なんか弟みたいだったってぼやいてた」
「それよ、まさに。脳が親族識別をしてしまうの。近すぎると、恋愛対象として認識できない」
「では、MOTERU係数は、それを防ぐための仕掛けだったと」
「そう。ちょうどいい謎と、ちょうどいい自惚れと、ちょうどいい錯覚。それが、人を恋に踏み出させる。フェオはそれを数値化しようとしていた」
問題は、その数値化を、どう復元するかだった。MOTERU係数のソースコードは、正確性向上委員会の改定時に上書きされ、残っていない。フェオ個人のログには断片があるが、完全なアルゴリズムには程遠い。
「復元するためには、フェオ本人に聞くしかない」灯里は静かに言った。
「生きてたらの話ですけど……」
「生きてるわ」灯里はあっさり言った。「三週間前に、居場所を突き止めた。瀬戸内のある島で、民宿をやってるって」
新太は目を丸くした。「え、なんで突き止めてたんですか、もう」
「だって、ガラス同穴が出始めてから、ずっと調べてたもの。フェオの名前は、最初からこの件の鍵だと思ってた」
「……灯里さんって、こわいですね。良い意味で」
「ありがとう。で、ここからが本題よ。復元した係数を、局の試験運用に通すには、局長の承認がいる。局長を説得できれば、次は実装。でも被験者が必要。誰でもいいわけじゃなくて、データとして最も効果が見やすいのは――」
「お願いです、僕の名前を出さないでください」
「蒲生新太くん、局内で唯一の相性スコア凡庸ランクS保持者」
「言った」新太は項垂れた。「言いましたよ、この人」
「凡庸なデータに補正をかけるから、変化が数値として出やすい。あなたが最適の被験者なのよ」灯里は微笑んだ。「安心して。悪いようにはしない」
新太は、蒸留水みたいな自分の人生が、また余計な成分を混ぜ込まれようとしていることを感じながら、ゆっくりとうなずいた。まあ、どうせ断れないのは分かりきっていた。
五章 局長の鉄壁と決壊
局長・早乙女薫子は、同穴局の歴史の中で最も長く在職している局長だった。五十八歳、独身、犬二匹。カイロウの相性診断では、ベスト相性の相手が「犬種コリー、オス、三歳」と出たことがあり、それ以来、人間のマッチング提案をことごとく無視し続けているという伝説の持ち主だ。
提案書を持ち込んだ瞬間、早乙女の眉間に深い谷が刻まれた。
「自惚れ補正……? あなたたち正気? 国民の結婚相手を決めるシステムに、わざと噓の魅力を上乗せするっていうの? マスコミに知られたらどうなるか、想像してる? 国が国民に自惚れを注入なんて見出し、週刊誌が踊りますよ」
「局長」灯里は一歩も引かなかった。「いま起きているガラス同穴のほうが、よほどスキャンダルです。完璧な相性で結婚させた夫婦が、軒並み三週間で離婚していく。先月だけで十一件。メディアが嗅ぎつければ、国のAIが作った完璧カップル、全員三週間で崩壊という見出しのほうが、よほど踊ります」
早乙女は黙った。それは図星の沈黙だった。
「局長、一点だけ聞いてください」新太は、恐る恐る口を開いた。「フェオさんが言っていたことです。恋というのは、いつも、ちょっとした勘違いから始まるものだ、と。オレはモテる、アタシは良い女、そう思い込むところから、人は踏み出せる。その勘違いを、カイロウは正確性のために削り取ってしまった。だからみんな、正確すぎて、動けなくなってしまった」
早乙女はしばらく、二人を交互に見た。
「……データは?」
「係数削除前の世代の平均継続年数は、四十一年です」
またしばらく、沈黙。早乙女はのそりと立ち上がり、窓の外を向いた。局舎の窓からは、対面のマンションが見える。洗濯物が揺れていた。
「いいわ。ただし、条件を聞きなさい」
早乙女は振り返った。
「第一条件。これは極秘の試験運用よ。承認書類は内部回覧のみ、外部には一切漏らさない。失敗したら、責任は全部あなたたちが取ること。第二条件。対象者は局職員のみ。一般国民を実験台にするのは絶対に禁止。第三条件」
早乙女は新太を見た。
「あなた、保守課の蒲生くんよね。相性データ、局内史上もっとも凡庸だったわね。被験者一号に決定。逃げないように」
新太の顔が固まった。「……局長も、ご存知でしたか、僕のデータ」
「全職員のデータ、把握してるわよ当然。あなたのは特に印象に残ってる。凡庸ランクSなんて、初めて見たから」
「もはや伝説じゃないですか、悲しい意味で」
灯里が、くすくすと笑っていた。早乙女もわずかに口元を緩めた。その微笑みが、新太には少しだけ、この一件がうまくいくような予感に見えた。あるいはそれも、すでにMOTERU係数の前効果だったのかもしれない。
六章 獅子内フェオ、現る
ビデオ通話の接続に三分かかった。相手側の回線が遅いのか、あるいは機材が古すぎるのか、画面がしばらくモザイク状にちらついた。
やがて映ったのは、日に焼けた顔の、がっしりした女性だった。背後に縁側が見え、外は明るい瀬戸内の青空だ。机の上には茶碗と、謎の書類の山がある。
「ああ、局の人ね。まあ来るかなとは思ってたわ」
フェオは画面越しでも、存在感が滲み出ていた。局の人事写真に残っていた当時三十代のフェオとは、全然別人のように見える。あのころの細面の研究者が、すっかり島のおかみさんになっていた。でも目の奥の光だけは、変わっていない。
「あの居酒屋ログ、まだ局のサーバーに残ってたの? 恥ずかしいわねえ。あれ完全に飲みすぎてただの愚痴大会よ。でも研究ノートって言ってたの偉いでしょ、一応プロだから」
「フェオさん、あのログがきっかけで、MOTERU係数が生まれたんですよね」灯里が尋ねる。
「そうそう。あのね、研究してて気づいたのよ。人間って、自分のこと正確に分かってる人ほど、恋愛で固まっちゃうの。自分の欠点も相手の欠点も全部見えすぎると、踏み出せない。まるで完璧に正確な地図を持ってる旅人が、その地図の怖さに動けなくなるみたいに」
「逆に、ちょっと自分を盛ってる人のほうが、ふらふら踏み出していく」
「ええ、そうなの。で、踏み出した後にどうなるかというと――意外と、なんとかなっちゃうのよ。人間って、踏み出してしまえば適応するから。勘違いから始まった恋が、いつの間にか本物になる」
「でも、これだけは伝えておきたいんだけど」フェオの声がすこし変わった。
「はい」
「勘違いは、出発点でいいの。でも、ゴールにしちゃダメ。最初はオレはモテるでいいのよ。でもね、本当に大事なのは――その勘違いから始まった相手と、本気で向き合い続けられるかどうか。よそ見せず、無理やり自分の人生に付き合わせた相手への思いを、何よりも第一に考えられるかどうか。自分のことより、そこへと気遣いを施せるかどうか」
「そして最期の場面で、笑って言えるかどうか。お前のおかげで、いい人生だったよって」
フェオはそこで、急に研究者の顔になった。
「MOTERU係数は、その出発点のための小さな噓。本番は、噓のあとに積み重ねる、噓じゃない時間のほうなの。それを、いまの局のシステムは忘れちゃったみたいね。正確性を上げすぎて、人を恋に落とす前に、全部計算しすぎちゃった」
新太は、その言葉が、保守課の自分にもまっすぐ刺さるのを感じた。相性スコア凡庸ランクS。誰とでも七十点。自分が蒸留水だと信じて、十年間、誰かに踏み込めなかった。
「分かりました。キャリブレーション、協力してもらえますか」
「もちろん。ただし条件があるわ」フェオはにやりと笑った。「復元したパラメータの最初の試験運用、わたしにも見学させて。あの局の人たちが、また右往左往する顔が見たいもの。ちんちんかもかもになるか、ガラガラポンになるか、どっちかしらね」
「ちんちんかもかも……?」
「仲むつまじい様子のこと。昔の言葉よ。古語のアヒルみたいな意味。で、あなたたち、ちんちんかもかもになりたいの?」
新太は、思わず灯里のほうを見た。灯里は、少し顔を赤くして、端末を閉じた。
七章 パッチ適用、そして大混乱
キャリブレーションは三週間を経て完了し、MOTERU係数――局内コードネームはそのまま採用――は、極秘裏に試験サーバーへ実装された。被験者は局職員二十名。新太もその一人だ。
カイロウが新太に下した最初の診断結果は、こうだった。
あなたは相性の安定性に優れますが、初対面の印象が薄い傾向があります。自発的なアプローチが課題です
それが、パッチ適用後はこう変わった。
あなたは、隠れた魅力の持ち主です。表に出にくいだけで、深く知るほどに人を惹きつける稀有な資質があります。気づいていないだけで、すでに多くの人があなたに好感を抱いています
「いや、これ励まし文句じゃないですか」新太はずっこけた。「稀有な資質って、そんな大げさな」
「効いてるかどうかは、行動で確かめてみないと」灯里がにやにやしながらメモを取る。「あなた、これ読んで、今朝のコーヒー頼むとき、普段と何か変わった?」
「……ちょっとだけ、フロアの人に声かけるとき、いつもより先に挨拶しました」
「それよ。小さいけど、それが変化なの」
他の被験者への効果は、想像以上に早く、しかも盛大に表れた。
被験者の一人、経理課の中年職員・渡辺は、カイロウの「あなたは異性から見て非常に頼り甲斐がある」という診断を真に受けた瞬間、急に声が大きくなり、廊下で部下を励まし始め、最終的に局内合唱部を結成してしまった。人生初の部活結成だった。
別の被験者、広報課の若手・川端は「あなたの笑顔は周囲を惹きつける力があります」の一文だけで、急に笑顔の練習を始め、笑いすぎて頬が筋肉痛になり医務室に運ばれた。
人事課の吉村は「あなたは話を聞く力が突出しています」と出た瞬間、翌日から部下の話を一言も遮らないようになり、午後の会議が三時間延長になった。
「これ、副作用やばくないですか」新太は記録を取りながら震えた。「みんな一点に過集中してる」
「補正の強さの調整が必要ね」灯里は冷静に言う。「フェオさんが言っていた通り、出発点としての勘違いは大事。でも量を間違えると、暴走する。ちょうどいいのは、勘違いの量が二十パーセント増し程度。それ以上になると、自分の世界に入りすぎる」
フェオがリモートで参加しながら、画面の向こうで笑い転げていた。「そうそう、そうなるのよ! わたしも最初の試作のとき、補正を強くしすぎて、全員が急に自己啓発セミナーみたいになっちゃったわ。係数はあくまで隠し味。ドレッシングのニンニクと同じで、入れすぎると台無し」
新太自身にも、小さな変化が起きていた。これまで、誰かに話しかけるとき、頭の中でまず「どうせ自分は誰からも特別扱いされない」という前提を置いていた。それが、パッチ適用後、わずかに変わった。もしかしたら、この人は自分のことを、悪くないと思っているかもしれない――そのわずかな仮定が、声をかける一歩を、ほんの少し軽くした。
消えたわけではない。ゼロになったわけでもない。ただ、前提がわずかに緩んだ。それだけで、世界がほんの少し、動きやすくなった。
八章 十二パーセントの恋
試験運用三週間目の昼、灯里が新太のデスクに来て、端末を差し出した。
「見て。あなたの相性データ、補正後にひとつだけ、九十八パーセント超えの組み合わせが出てる」
「え、誰とですか」新太は端末を覗き込もうとした。
灯里は端末をスクロールせず、ただ新太の顔を見て、言った。
「わたしよ」
新太は固まった。固まりながら、自分のあごが、ゆっくりと下に向かっているのを感じた。
「……でも、補正前は?」
「十二パーセント」
「じゅう……に」
「ええ。MOTERU係数なしでは、カイロウ的には接点を持つことすら非推奨の組み合わせよ。つまり、補正がなければ、あなたとわたしは、出会うことさえ設計されていなかった」
正確には、パッチ適用前の二人の相性スコアは、わずか十二パーセントだった。理由ははっきりしていた。新太も灯里も、自己評価の補正がほとんどかかっていない「自分を盛らない」タイプだ。お互いの欠点も、相手の欠点も、正確に見えすぎる。だから、最初の一歩が出ない。
「ガラス同穴の縮小版みたいな話ですね」新太は苦笑した。「割れる前に、踏み出せもしない」
「そう。だから、MOTERU係数が作動することで、あなたの中にもしかしたら自分にも可能性があるかもしれないという仮定が生まれた。わたしの中にも同じものが生まれた。そこでようやく、二人が、ちゃんとお互いを見られるようになる」
「で、見てみたら、九十八パーセントだったと」
「そう。隠れていただけで、最初からそこにあったのよ」
新太は、しばらく黙ったあと、咳払いをひとつした。
「灯里さん。試験運用、ちゃんと自分にも使ってみていいですか」
「どういう意味?」
「カイロウの診断を信じるんじゃなくて、自分から、ちょっと盛ってみる。フェオさんの言葉どおり――勘違いは出発点でいい、って言ったから」
新太は、咳払いをもう一度してから、わざと声を張った。
「おれは、モテる。たぶん、隠れた魅力がある」
灯里が目を丸くする。
「あなたが言うと、なんか説得力ないわね」
「うるさいです、これは儀式なんで黒歴史にしないでください。……灯里さんも、言ってみません? アタシは良い女、的なやつ」
灯里はしばらく新太を見つめ、それから小さく笑って、肩をすくめた。
「……アタシは、良い女よ。たぶん」
「たぶん、要ります?」
「要るわよ。本気で言い切ったら、それはもう研究データとして使えなくなるもの」
二人は、しばらく顔を見合わせて笑った。十二パーセントの相性スコアは、その日、何も変わらなかった。だが新太は気づいていた。スコアが変わらなくても、自分の中の何かが確実に一歩、前に出ていたことに。
恋は、いつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。大事なのは、その先で、本物の時間を積み重ねられるかどうかだ。
九章 審問会と、正しさについて
MOTERU係数の試験運用は、三ヶ月後、局内の倫理審問会にかけられることになった。公的システムに非科学的な自己評価補正を組み込んだことが、内部告発によって露見したのだ。
告発者は、正確性向上委員会の流れを汲む精密化推進派の一人だった。彼の言い分はこうだった。「科学的に正確なシステムを、感情論的なバイアスで汚染することは、国民への背信行為だ」。
審問会の壇上には、局長・早乙女、外部委員数名、そして報告者として新太と灯里が立たされた。委員たちの顔は、一様に固かった。議事録には残せない会議だからこそ、場の空気が重い。
「このパラメータは、科学的根拠に乏しい、感情論的なノイズ項目です」外部委員の一人が、十五年前の議事録とほぼ同じ言葉を口にした。「国家システムが、国民に対して噓の魅力を吹き込むなど、許されることではない」
新太は、震える声で、しかしはっきりと言った。
「ノイズじゃありません。これは、人が誰かを好きになるための、最初の小さな一歩です。正確さだけのシステムは、人を恋に踏み出させることはできませんでした。むしろ、正確さが、人を立ち止まらせていたんです」
「では、噓で結婚させて、それでいいというのか」
「噓は、出発点だけです」灯里が続けた。「わたしたちが目指しているのは、噓のままの関係じゃありません。最初のひと押しのあと、本物の気遣いと、本物の時間を積み重ねて、最後にちゃんと心に残る言葉を交わせる夫婦を、増やすことです」
「心に残る言葉? それも計算するのか?」
「計算できません」新太は静かに言った。「それだけは、人間にしかできません。だからこそ、そこまで辿り着かせることに意味がある。どんな人生であろうと、どんなに遠回りしてしまったとしても、最後にそこへ辿り着けたなら――それでいいんだと思います」
新太はフェオの言葉を思い出しながら、続けた。
「生涯の伴侶と決めたなら、よそ見をせず、自分のことより相手を気遣って、最期の場面で、ひと言、笑顔でお前のおかげで、いい人生だったよと言える。それが、わたしたちの目指す偕老同穴です。相性の数値が百パーセントかどうかは、たぶん、その先では大した問題じゃありません」
審問会の場がしばらく静まった。
早乙女局長は、何かを噛みしめるような顔で、ゆっくりと口を開いた。
「……継続試験運用を許可します。ただし、補正の上限と、本人への事前説明は、厳格に行うこと」
外部委員の何人かが口を開こうとした。早乙女はそれを手で制した。
「それと。報告書のタイトル、MOTERU係数はさすがにそのまま通せないから、正式名称を考えなさい。……偕老同穴アルゴリズム、とか、どう?」
「それ、局長のセンスですか」新太が思わず聞くと、早乙女は珍しく笑った。
「悪い? 案外、嫌いじゃないのよ、その語感」
フェオがリモートの画面の向こうで、静かに拍手していた。
終章 お前のおかげで
それから四十二年が経った。
偕老同穴アルゴリズムは、いまや同穴局の標準仕様となり、「ガラス同穴」という言葉も、教科書の歴史欄でしか見かけなくなっていた。ガラス同穴の発生率は、アルゴリズム導入後の五年間で〇・〇三パーセントまで低下した。かわりに「長期偕老率」――つまり三十年以上連れ添う夫婦の割合――は、過去最高を記録し続けた。
獅子内フェオは七十九歳になっても、瀬戸内の島で民宿を続けていた。毎年夏、同穴局の若い研究員が一人か二人、話を聞きに来るのが恒例になっていた。フェオはいつも、居酒屋の話から始めた。あの夜の、むせた話から。
蒲生新太は七十五歳、療養施設の窓際の病室で、静かに目を閉じようとしていた。隣には、髪が真っ白になった来栖灯里がいる。十二パーセントから始まった二人の相性スコアは、四十年の歳月を経て、もはやカイロウの計算範囲を超えていた。カイロウは、ある時期から、二人のデータを参照不可と返すようになった。数値が収まらなくなったのだ。
「新太」
「なに」
「最初に言ったこと、覚えてる? 化石倉庫で」
「ああ。おれはモテる、とか言ったやつですか」新太は目を閉じたまま、わずかに笑った。
「言ったわね。説得力、皆無だったわ」
「でも、お前だけには、ちゃんとモテたよ」
灯里は、少し涙ぐみながら、笑った。
「……それ、ちょっとかっこいいわね、今更」
「今更じゃないよ。ずっとそう思ってた。言わなかっただけで」
「それを、もっと早く言いなさいよ」
「言ったら、お前が研究データとして使えなくなるかと思って」
灯里は、思わず笑い声を立てた。涙がこぼれたが、笑い声のほうが先に出た。
新太は、残った力をすべて使って、フェオが言っていたあの言葉を、ようやく自分の言葉として口にした。
「お前のおかげで、いい人生だったよ」
それは、勘違いから始まった恋が、四十二年かけて、噓じゃない言葉になった瞬間だった。
新太が静かに息を引き取ったあと、局からひとつの通知が灯里の端末に届いた。同穴局の新規パイロット事業、「次世継承プログラム」の案内だった。記憶の一部を、次の世代の誰かに、ごく薄く継承できるかもしれない、という試験的な技術。
灯里は、しばらくその通知を見つめたあと、画面を閉じて、ひとりつぶやいた。
「もしかしたら、次の世でも、また巡り合えるのかしらね……」
窓の外では、夕陽が、いつものように、何も知らないまま沈んでいった。
その先も、きっと、また。
――おわり――
Amazon Kindle
〜あとがき〜
「恋はいつも、ちょっとした勘違いから始まる。それでいい。」
本作の根底にあるのは、効率や正確性が最優先される現代(そして近未来)への小さないたずら心と、人間が持つ「不完全さ」への愛おしさです。
AIがどれほど進化し、小数点以下三桁まで正確な「最適解」を叩き出したとしても、私たちはガラスのように脆い生き物です。傷つくのを恐れ、すべてが見え透いた鏡を前にして立ちすくんでしまう。そんな時、背中をそっと押してくれるのは、科学的なデータではなく、「もしかしたら」という少しの自惚れや、心地よい勘違いなのかもしれません。
作中、相性12%の二人が42年をかけて「計算不能」の関係へと至るプロセスを描きました。最初の十点の錯覚を、長い時間をかけて本物の「気遣い」と「言葉」に変えていく。それこそが、私たちが目指すべき本当の「偕老同穴」ではないでしょうか。
少子高齢化が進み、少しずつ縮んでいく未来の日本。けれど、そこで紡がれる人と人との物語は、決して冷たいものばかりではないはずです。
最後に、このささやかな物語を最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
あなたの人生の最期の場面が、笑顔で、優しい言葉で満たされるものでありますように。

