多元宇宙の犬
―わたしの死亡記事、無数の死に方について―
第七話 キャンピングカーのラッキー
エンジンの低い振動が、足の裏から伝わってきた。
蒼一が目を開けると、そこは見慣れたはずの、しかし一度も座ったことのない運転席だった。フロントガラスの向こうには、見渡す限りの海岸線が広がっている。
「あなた、次のサービスエリアで休憩する? ラッキーがそろそろお散歩したいみたいよ」
助手席から由美子の声がした。後部座席を振り返ると、明るい黄色の毛をした犬が、窓の外を眺めながら、尾をゆっくりと振っている。
「ラッキー……」
蒼一は、その名前を口にした瞬間、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。理由はすぐに分かった。この世界の蒼一は、ぱふを見送ったあと、すぐに新しい家族を迎えていたのだ。退職と同時に、ずっと心に決めていた計画を、迷わず実行に移していた。
中古のキャンピングカーを買い、由美子と、新しく家族になった犬と一緒に、日本中を巡る旅。あの渓流沿いの古民家での暮らしも、ある意味では悪くなかったはずだが、この世界の蒼一は、もう一つの夢を選んでいた。
「次のサービスエリア、もうすぐだな」
蒼一はハンドルを握りながら、サイドミラーに映る自分の顔をちらりと見た。記憶にある自分より、少しだけ陽に焼けていた。
サービスエリアに到着すると、ラッキーは勢いよく車を飛び出し、駐車場の隅の草地で大きく伸びをした。由美子がリードを持って、軽くストレッチをする。蒼一はベンチに腰掛け、持ってきた水筒のコーヒーを飲んだ。
「今日はどこまで行く予定だっけ」
「日本海側まで出て、明日には能登の方まで行こうって言ってたじゃない。忘れたの?」
「いや、覚えてるよ。確認しただけだ」
由美子は呆れた顔をしながらも、笑っていた。蒼一は、その笑顔を見ながら、ふと自分の本来の世界で、いつも口にしていた「間に合わなかった」という言葉を思い出した。この世界では、それが間に合っていた。
それから数日、車は海岸線をなぞるように北へ進んだ。窓の外には、漁港の干物の匂い、塩田の白い結晶、防風林の松並木が、次々と流れていった。蒼一は、運転の合間、地図帳に小さく印をつけるのが習慣になっていた。これまで訪れた町、これから訪れたい町。印の数は、もう数えきれないほどに増えていた。
道中、決まった目的地はあまり作らなかった。気になる看板を見つけたら車を停め、知らない神社の階段を上り、知らない食堂で知らない名物を頼んでみる。そういう、行き当たりばったりの旅こそが、二人の――そしてラッキーの――一番好きな過ごし方だった。
旅の道中、特別なことは何も起こらなかった。強いて言えば、ある朝、ラッキーが急に道端の藪に向かって吠え続け、由美子が驚いて転びそうになったとき、蒼一が慌てて支えた、という程度のことだった。藪の中には、ただの野良猫がいただけだった。
「お前、あれくらいで大騒ぎするなよ」
蒼一が呆れたように言うと、ラッキーは少しだけ申し訳なさそうに尾を下げ、それからすぐにまた元気よく走り回った。
「いいのよ、放っておきましょう」由美子は笑いながら、転びそうになった膝のあたりを軽く払った。「あなたが支えてくれたから、大丈夫」
夜になると、三人――いや、二人と一匹――は、停めたキャンピングカーの中で、簡単な夕食を囲んだ。窓の外には、街の灯りも見えない、ただ星だけが広がる景色があった。
「こういう生活、悪くないだろ」
蒼一が言うと、由美子は小さく頷いた。
「悪くないわよ。あなたがずっとやりたがってたことだもの」
「ぱふが、もう少し長生きしてくれていたら、一緒に来られたのにな」
蒼一がそう呟くと、由美子は少し驚いたような顔をした。
「ぱふって、誰のこと?」
蒼一は、はっとした。この世界では、彼が以前飼っていた犬の名前は、由美子の記憶の中にはないらしい。あるいは、まったく別の名前だったのかもしれない。蒼一は曖昧に笑って、その質問をやり過ごした。
「いや、昔の知り合いの犬だよ。気にしないでくれ」
ラッキーが、その時、何も知らぬ様子で、蒼一の膝に頭を乗せてきた。蒼一はその頭を、ゆっくりと撫でた。手のひらに伝わる温かさが、どこか懐かしい感触に似ていた。
何年か後、この世界の蒼一と由美子は、日本中の道を、何度も何度も巡ることになる。北は北海道の果てまで、南は沖縄の離島まで。ラッキーは、その間に三度の世代交代を経たが、不思議なことに、毎回「ラッキー」という名前だけは引き継がれた。蒼一が、新しい子を迎えるたびに、必ずその名をつけたからだった。
享年八十六。最期は、停めたキャンピングカーの中、由美子の隣で、静かに息を引き取ったとされている。最後の言葉は「次は、もう少し北まで行こうか」だったと記録されている。傍らには、当時三代目だったラッキーが、ずっと身を寄せていたという。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。膝のあたりに、まだ犬の頭の重さが残っているような気がした。
「九十九さん。あの世界では、ぱふという名前は、誰の記憶にもなかったようだが」
「ええ」九十九さんは静かに頷いた。「枝分かれが大きくなるほど、名前そのものは変わっていきます。ですが」
「ですが?」
「先ほどのラッキーも、最初にお会いしたチャンスも、トトも、ルークも――そして、シロも」九十九さんは、ゆっくりと、本のページを撫でた。「目つきだけは、いつも変わらないと申し上げたのを、覚えておいででしょうか」
蒼一は、黙って頷いた。
「あれは、私の私見に過ぎませんが」九十九さんは、珍しく声を落とした。「名前は、世界によって移ろいます。けれど、その奥にある何かは、決して移ろわない。そういうことなのではないかと、私は思っております」
蒼一は、何も言えなかった。ただ、胸の奥が、温かく、そして少し痛かった。
「もう一つ、よろしいでしょうか」九十九さんは、すぐに頁をめくった。「少し似ていますが、また違う暮らし方の分岐です」
番外話 民宿の看板犬
その世界の蒼一は、退職後、由美子と二人で、小さな民宿を始めていた。場所は、本来の世界とよく似た、山あいの渓流沿い。建物も、見覚えのある古民家そのものだった。違うのは、玄関に「お宿 せせらぎ」という小さな看板が掛かっていることと、その下に、いつも一匹の犬が寝そべっていることだった。
犬の名は、宿帳に「看板犬・ラッキー」と几帳面に書かれていた。客が来ると、必ず誰よりも先に出迎え、誰よりも先に尾を振る。蒼一が淹れる茶の味より、ラッキーの出迎えの方が、よほど評判だという話を、常連客から何度も聞かされていた。
宿の経営は、決して儲かるものではなかった。それでも、年に何度か訪れる、同じ顔ぶれの客たちとの再会が、蒼一にとっての、何より楽しみな行事になっていた。渓流釣りを目当てに来る単身の客、夫婦で静養に来る客、たまに、親に連れられた子供たちが、ラッキーと庭で転げ回ることもあった。
ある年の秋、長年通っていた常連の老人が、車椅子で訪れた。足を悪くし、もう自分では渓流に立てなくなった、という話だった。
「もう、ここに来るのも、これが最後かもしれません」
老人は、そう言って、寂しそうに笑った。蒼一は、何と声をかけるべきか迷ったが、結局、ただラッキーを、その膝の上に乗せてやった。ラッキーは、いつものように尾を振り、老人の手に頭を擦り寄せた。
「この子の温かさだけは、足腰が弱っても、ちゃんと感じられますね」
老人は、そう言って、長い間、ラッキーの背中を撫でていた。蒼一は、その光景を、少し離れた縁側から、黙って見守っていた。
何十年か後、この世界の蒼一は、宿の暖簾を下ろした翌年、縁側で静かに息を引き取ることになる。享年八十三。最期の言葉は「今度の常連さん、ちゃんともてなせたかな」だったと伝えられている。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。胸の奥に、誰かを迎え入れる時の、あの温かさの名残が、まだ少し残っているような気がした。
「九十九さん。あの世界も、悪くなかったな」
「ええ」九十九さんは、静かに微笑んだ。「人を迎える暮らしというのも、なかなか良いものです」
番外話 由美子の十年
九十九さんは、すぐには次の頁を開かなかった。しばらく、蒼一の様子を窺うように、黒い本の表紙を撫でていた。
「もう一つ、ご覧いただきたい分岐がございます。少し、お辛いかもしれませんが」
「言ってくれ」
「順番が逆になる世界です」九十九さんは静かに言った。「奥様が、先に旅立たれる分岐です」
蒼一は、息を呑んだ。それでも、頷いた。
頁が開くと、蒼一は、また見慣れた古民家の中にいた。だが、家の中は、いつもより静かだった。台所に、由美子の気配がない。
「由美子……?」
呼んでも、返事はなかった。仏壇の前に行くと、そこには、見覚えのある写真が二枚、並んでいた。一枚はぱふ。もう一枚は、由美子だった。
この世界の蒼一は、七十二歳の時、由美子を病で見送っていた。あれから八年。蒼一は、毎朝、二つの位牌に手を合わせてから、渓流に出かける生活を続けていた。
縁側に出ると、年老いた犬が一匹、日差しの中で寝そべっていた。ぱふではない。だが、ぱふに似た、茶と白の混じった毛並みの犬だった。由美子が、自分が病に倒れる前年、「あなたが寂しくならないように」と言って、保護犬の施設から迎えてきた犬だった。名前は、由美子がつけた。「ラッキー」。理由は「これだけ運がよく出会えたんだから」という、彼女らしい、明るい理屈だった。
「ラッキー、今日も一緒に行くか」
犬は、年老いた足取りで、それでも嬉しそうに立ち上がった。
渓流に出ても、以前のような大物との格闘はなかった。蒼一は、もう、大きな魚を追いかける体力も、気力も、あまり残っていなかった。それでも、毎朝、川辺に立つことだけは続けていた。ラッキーは、いつも岸辺で、蒼一の背中を見つめていた。
「由美子がいたら、今日も笑われてただろうな。年寄りのくせに、無理するんじゃないよって」
蒼一は、独り言を、川面に向かって呟いた。ラッキーは、その声に反応するように、一声だけ、わん、と鳴いた。
「お前、由美子の言葉、分かるのか」
ラッキーは答えず、ただ尾を振った。
その日の夕方、蒼一は仏壇の前に座り、由美子の写真に向かって、いつものように話しかけた。
「今日は、大きいのは釣れなかったよ。でも、悪くない一日だった」
「孫たちが、来週、また顔を見せに来るそうだ。お前に似た孫娘が、また料理を教えてくれって言ってきてる。お前のレシピ、ちゃんと残しておいてよかったよ」
「ラッキーは、今日も元気だ。お前が選んでくれた子だ。本当に、いい子だよ」
写真の由美子は、いつものように、ただ静かに笑っていた。蒼一は、その笑顔を見ながら、ふと、自分が寂しいのか、それとも、まだ十分に幸せなのか、よく分からなくなった。たぶん、両方なのだろう、と思うことにした。
ある晩、蒼一は布団の中で、隣に誰もいないことに、ふと気づいた。十年近く経っても、時々、その事実に、新しく驚くことがあった。
「由美子。お前がいなくなって、もう十年だ。早いもんだな……いや、長かったのか、よくわからんな」
その言葉を、彼は毎年、命日のたびに繰り返していた。ラッキーは、布団の足元で、いつものように丸くなって眠っていた。
何年か後、この世界の蒼一は、由美子の十三回忌を済ませた翌年、静かに息を引き取ることになる。享年八十五。最期は、ラッキーに足元を温めてもらいながら、眠るように旅立ったという。観測記録には、こう記されている。
「最期の表情は、長く待ち合わせをしていた相手に、ようやく会えたような表情に近かった」
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。頬が、また少し濡れていた。
「九十九さん。あの世界の僕は……寂しかったんだろうか」
「分かりません」九十九さんは、いつもより、ずっと静かに答えた。「ただ、寂しさと、幸せというのは、別々の箱に入っているものではないのかもしれません。多くの分岐を見てまいりましたが、両方が同じ箱に入っていることの方が、むしろ普通のようでございます」
蒼一は、しばらく黙っていた。それから、ふと尋ねた。
「もし、由美子が先に、この交差点のようなものを見ていたら……彼女も、似たようなことを思うんだろうか」
「さて」九十九さんは、珍しく、はっきりとは答えなかった。「それは、奥様ご自身に、いつか聞いてみるのがよろしいかと存じます」
蒼一は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。だが、なぜか、それ以上は聞かないことにした。
第八話 死亡記事ライターのソウさん
蒼一が目を開けると、目の前には古いタイプライターが置かれていた。指先には、まだ温かいインクの匂いが残っている。
そこは、ある地方新聞社の片隅にある、小さな編集部だった。デスクの上には「訃報・お悔やみ欄担当 渡瀬蒼一」というプレートが置かれている。
「またそんな顔して。今日も誰かの一生を、たった三行にまとめなきゃいけないんですか」
声をかけてきたのは、編集部の隅で寝ていた一匹の犬だった。社員でもないのに、いつの間にか編集部の隅に居座るようになった野良犬で、誰かが「タイトル」と名付けてしまっていた。理由は、見出しを考えているときに限って、決まってその犬が起きてくるから、というだけの、ひどく適当な命名だった。
「タイトル、お前は呑気でいいな」
「呑気と言われましても、私には記事を書く能力がありませんので」
蒼一は、この仕事を三十年近く続けているらしかった。地方の小さな出来事から、町の名士の最期まで、ありとあらゆる「終わり」を、簡潔な文章にまとめる仕事。最初はただの担当替えで、本人としては不本意な異動だったが、いつしか、誰よりもこの仕事に向いている人間になっていた。
「今日の分、見せてみろ」
タイトルが横目で見上げると、蒼一はデスクの上の原稿を眺めた。蕎麦屋の店主、九十一歳。漁師、七十八歳。小学校の元教員、八十四歳。どれも、知らない誰かの、知らない人生だった。だが、書き終える頃には、まるで知人を見送るような気持ちになるのが、いつものことだった。
その日の午後、編集長が蒼一のデスクにやってきた。
「渡瀬さん、ちょっといいですか」
「何でしょう」
「実は、変わった依頼がありまして……」編集長は、なんとも言いにくそうな顔をしていた。「読者投稿欄に、こんな手紙が来たんです」
手紙には、こう書かれていた。
『私はもう長くないと思います。けれど、自分の死亡記事を、自分の言葉で誰かに書いてもらいたいのです。新聞社のお悔やみ欄担当の方に、お願いできないでしょうか』
差出人の名前を見て、蒼一は思わず手紙を取り落とした。
『渡瀬蒼一』
「これは……」
「同姓同名の方のようですね。珍しいこともあるもんです」編集長は気軽に言ったが、蒼一の顔色には気づいていないようだった。「とりあえず、本人にお会いして、お話を伺ってきてもらえますか」
蒼一は、震える手で手紙をしまった。
数日後、指定された場所――町外れの小さな診療所――を訪れると、ベッドに横たわる老人がいた。痩せて、頬はこけていたが、目だけは、妙にいたずらっぽく光っていた。
「ようやくお会いできましたね、渡瀬さん」
老人は、自分と同じ名前を名乗った。蒼一は、自分が今、まさに「もう一人の自分」を取材しているのだという、奇妙な実感に包まれた。
「どうして、自分の死亡記事を、わざわざ他人に頼むんですか」
「自分で書くと、どうしても格好をつけてしまうものでしょう」老人は、にやりと笑った。「誰かの目を通して書かれたものでないと、案外、本当のことは書けないんですよ」
「では、何をお書きすればいいんでしょう」
「好きに書いてください。ただ――」老人は、少し遠くを見るような目をした。「私はね、若い頃、犬を一匹飼っていたんです。名前は忘れてしまったが、たしか『シ』から始まる名前だった気がする。もう七十年近く前のことですから」
「七十年……」
「その犬を見送った日のことだけは、不思議とよく覚えているんですよ。雨が降っていて、私は何も食べる気がしなくて、ただ縁側に座っていた。そうしたら、隣の家の別の犬が、塀の隙間からこちらを覗いて、わんと一声鳴いたんです。それだけのことなのに、なぜか、励まされた気がしたんですよ」
蒼一は、ペンを止めたまま、しばらく言葉を失っていた。
「それを、記事の最後に書いてもらえますか。『犬に励まされた』と」
「分かりました」
その老人は、結局、その年の冬を越えて、翌年の春先に息を引き取った。享年九十三。蒼一が書いた死亡記事の最後には、確かに「若き日、一匹の犬に励まされた経験を、生涯忘れなかった」という一文が添えられた。
それを書き上げた夜、蒼一は編集部に一人残り、タイトルの頭を撫でながら、ぼんやりと考えていた。
「お前、本当はどこから来たんだ」
タイトルは答えず、ただ尾を一度、ゆっくりと振った。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。手の中に、まだペンの重さが残っているような気がした。
「九十九さん。あの老人は……」
「さて」九十九さんは、わざとはぐらかすように笑った。「分岐というのは、時々、奇妙な巡り合わせを起こすものでして。深くお考えにならない方がよろしいかもしれません」
蒼一は、その答えに、少し苦笑した。九十九さんという人物も、考えてみれば、一度も正面から本当のことを答えてくれたことがない。
「次は、何を見せてくれるんだ」
「少々、毛色の変わったものをご用意しております」九十九さんは、ページをめくった。「今度は、蒼一さん自身が、犬として生きる分岐です」
番外話 百歳という分岐
その世界に降り立った瞬間、蒼一が最初に感じたのは、時間の流れ方の違いだった。
身体は確かに自分のものだったが、肌の質感は、記憶にあるどの年齢の自分とも違っていた。鏡を見ると、そこには、白髪を整え、姿勢のいい、しかし明らかに百歳を超えた老人が映っていた。傍らの壁には、表彰状や家族写真がずらりと並び、その中の一枚には「祝・渡瀬蒼一様 百二十歳のお誕生日」という文字が見えた。
この世界では、世紀の半ばに開発された老化抑制療法が、ごく当たり前に普及していた。人々はもはや「あと何年生きられるか」を曖昧に怖れる必要がなかった。医療記録には、各人の推定寿命が、誤差数年の精度で表示されていた。蒼一のカルテにも、几帳面な数字で「推定百三十二歳前後」と記されている。
最初、蒼一はその数字に、ある種の安堵を覚えた。先の見えない不安が、ここにはなかった。あとどのくらい、と呟く必要すらない。だが、長く暮らすうち、彼はもう一つの感覚に気づくことになる。先が見えすぎることの、奇妙な重さだった。
家族は、もう四世代に広がっていた。子も、孫も、曾孫も、皆、それぞれの寿命の見当をつけて生きていた。命日を悼む文化は薄れ、誕生日を祝う行事ばかりが膨れ上がっていった。誰も、不意の別れを恐れない代わりに、誰も、不意の再会の喜びも知らなかった。
蒼一の傍らには、この世界でも、一匹の犬がいた。名は、誰がつけたのか、家族の誰に聞いても由来があやふやな「ぱふ三世」という、やや投げやりな名前だった。ただ、この犬種も、同じ老化抑制技術によって、すでに四十年近く生きていた。
「ぱふ三世、お前はあと何年生きる予定なんだ」
「カルテには、あと十二年と書かれていますが、正直、興味がありません」犬は、いつものように、淡々と答えた。「数字を知ったところで、今日の散歩が、特別美味しくなるわけではありませんので」
蒼一は、その言葉に、妙に胸を打たれた。先がどれだけ見えていても、見えていなくても、目の前にある一日の重みは、結局、変わらないのかもしれない。
ある年、蒼一の妻――この世界の由美子もまた、ほぼ同じ寿命を生きていた――が、ふと、夕食の席で呟いた。
「私たち、もう、何が来るか分かりすぎているのね。次の桜も、次の正月も、何が起きるか、だいたい予想がついてしまう」
「それは、悪いことなのか」
「悪いことではないわ。ただ、少し、味気ないとは思わない?」
蒼一は、その言葉に、しばらく答えられなかった。彼自身、いつからか、明日が来ることを当然のように思いすぎていた。
その晩、蒼一はぱふ三世を連れて、久しぶりに何の予定もない散歩に出た。決まった時間も、決まった道順もない、ただの思いつきの散歩だった。曲がり角を、いつもと違う方向に折れてみる。それだけのことが、なぜか、ひどく新鮮に感じられた。
「久しぶりに、わくわくしたな」
「予定にない散歩は、私も好みです」
蒼一は、寿命の数字を、それ以来、あまり気にしないことにした。あと何年生きるかが分かっていても、分かっていなくても、結局、大事なのは、その日その日を、どう過ごすかなのだという、ごく単純な結論に、彼はようやく辿り着いたのだった。
最終的に、この世界の蒼一は、推定よりわずかに早く――百二十九歳で――静かに息を引き取った。最後の散歩道で、ぱふ三世とともに、思いつきで選んだ知らない小道の途中、ベンチに腰掛けて、眠るように。観測記録には、こう一行添えられている。
「最期まで、予定外の道を楽しんでいた」
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
「九十九さん。先が見えるというのも、見えないというのも、結局、同じことなのかもしれないな」
「ええ」九十九さんは、静かに頷いた。「見えても見えなくても、目の前の一日は、結局、自分で味わうしかないものですから」
「次は、何を見せてくれるんだ」
「少々、毛色の変わったものをご用意しております」九十九さんは、ページをめくった。「今度は、蒼一さん自身が、犬として生きる分岐です」
第九話 犬になった蒼一
目を開けると、視界がやけに低かった。
色も、どこか違って見えた。世界の輪郭がぼやけ、その代わりに、匂いというものが、視覚と同じくらいの情報量を持って押し寄せてくる。土の匂い、雨の匂い、遠くの誰かの夕飯の匂い。
蒼一は、自分が四本足で立っていることに気づいた。
「これは……」
声を出そうとしたが、出てきたのは「わん」という、自分でも聞き慣れない響きだった。
記憶が、断片的に流れ込んできた。この世界の蒼一は、七十歳の時、急な病でこの世を去っていた。あまりに早い別れに、由美子はしばらく、誰とも会わずに、渓流沿いの古民家に一人で暮らしていたという。
ある雨の日、由美子が川辺を歩いていると、橋の下で震えている、生まれてひと月ほどの子犬を見つけた。誰の犬かも分からない、ただの捨て犬だった。由美子は迷った末、その犬を抱き上げ、家に連れて帰った。
その子犬が、今の蒼一だった。
「なんだか、変な目をしてるわね、あなた」
由美子は、子犬を抱き上げながら、不思議そうに笑った。蒼一――もう「ソウさん」という人間ではなく、ただの子犬――は、その声に、説明のつかない安心感を覚えた。
由美子は、その犬に「ソウ」という名前をつけた。深い意味があったわけではないらしい。ただ、夫の名前の響きに、何となく似ていたから、というだけの理由だった。
犬としての日々は、奇妙な感覚の連続だった。蒼一の中には、人間だった頃の記憶が、ぼんやりとした輪郭でいくつか残っていた。フライフィッシングをしていたこと、渓流の水音が好きだったこと、由美子の笑い声。だが、それらはもう、思い出というより、まるで遠い昔に読んだ本の一節のように感じられた。
代わりに、犬としての感覚が、日々を満たしていった。庭で蝶を追いかけることの楽しさ。雨上がりの土の匂い。風呂が大の苦手であること。由美子が悲しそうな顔をしていると、自分でも理由が分からないまま、そっと膝に頭を乗せたくなる、その衝動。
ある日、由美子が縁側で、夫の写真を見ながら静かに泣いていた。ソウは、いつものように膝に頭を乗せた。
「あなたも、寂しいの?」
由美子はそう言って、ソウの頭を撫でた。ソウは、その問いに答えることができなかった。だが、答えられるなら、こう言いたかった。
「寂しいんじゃない。ただ、ここにいるよ、と言いたいだけなんだ」
人間の言葉は、もう出てこなかった。代わりに、尻尾を一度、大きく振った。
それから何年もの間、ソウは由美子の傍にいた。渓流に一緒に出かけ、由美子が釣りをする間、岸辺で水面を見つめていた。時々、川に飛び込んで魚を追いかけようとして、由美子に叱られた。
「あなた、本当に魚が好きねえ」
由美子は呆れたように、しかし嬉しそうに笑った。ソウは、その笑い声を聞くたびに、自分の中の人間だった頃の記憶が、少しだけ温かくなるのを感じた。
由美子が再婚することはなかった。子供たちが時々訪ねてきて、孫たちがソウと庭で遊んだ。孫の一人が、ある日、ふと由美子に尋ねた。
「おばあちゃん、ソウって、おじいちゃんの名前と同じだね」
「そうねえ」由美子は、少し遠い目をして答えた。「でも、この子を見つけた時、なんだか、おじいちゃんが帰ってきたような気がしたのよ。馬鹿な話だけど」
「馬鹿な話じゃないよ」孫は、当たり前のように言った。「きっと、本当に帰ってきたんだよ」
ソウは、その会話を、縁側に寝そべったまま聞いていた。否定したい気持ちと、肯定したい気持ちが、同時に胸の中で渦巻いた。結局、どちらの言葉も、犬には出せなかった。
ソウは十四年生きた。最後の数年は、足腰が弱り、由美子に抱かれて庭に出ることが多くなった。それでも、渓流の水音が聞こえる場所に行くと、必ず尻尾を振った。
最期の日、ソウは縁側で、由美子の膝に頭を乗せたまま、静かに息を引き取った。由美子は、その小さな身体を抱きしめながら、長い間、何も言わずに泣いていたという。
「ありがとうね、ソウ。また、会いに来てくれて」
その言葉が、ソウの最後に聞いた言葉だった。観測記録には、こう記されている。
「享年十四歳相当。人間としての記憶を、最後まで完全に保持していたかどうかは不明。ただし、最期の表情は、人間がよく見せる、満足げな表情に近かったとされる」
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。頬に、まだ涙の感触が残っているような気がした。だが、それが人間としての涙なのか、それとも犬として最後に感じた何かの名残なのか、自分でもよく分からなかった。
「九十九さん……あれは、本当に、僕だったのか」
「それは、私にも分かりません」九十九さんは、珍しく静かな声で言った。「ただ、由美子さんの孫の言葉が、案外、真実に近いのかもしれない、とは思っております」
蒼一は、しばらく何も言えなかった。涙が、止まらなかった。
「少し、肩の力を抜くような分岐も、ご覧になりますか」九十九さんは、そっと、頁を変えた。「悪くないものが、一つございます」
番外話 孫たちの夏休み
蝉の声で目が覚めた。
蒼一が起き上がると、そこは縁側だった。麦茶の入ったグラスが、汗をかいて、すぐ手の届くところに置かれている。
「じいちゃん、起きた? 早く来て、ぱふた郎が虫取り網持って逃げてる!」
縁側から庭を覗くと、小学生らしい男の子が、一匹の犬を追いかけて走り回っていた。犬の口には、確かに虫取り網の柄が咥えられている。
「ぱふた郎……」
蒼一は、その名前を聞いて、思わず笑ってしまった。記憶を辿ると、この世界の蒼一は、孫たちに「おじいちゃんの昔の犬の名前を継いでくれ」と頼まれ、新しく迎えた子犬に、半分困りながら「ぱふた郎」という、なんとも安直な名前をつけたのだった。
「ぱふた郎、こら、返してやれ」
蒼一が声をかけると、犬は素直に網を放し、尾を振りながら駆け寄ってきた。男の子は不満顔をしながらも、すぐにまた違う遊びを思いついて、庭の奥へ走っていった。
「お父さん、お茶のお代わり、いる?」
縁側の奥から、蒼一の娘――この世界では、結婚後も時々実家に顔を出しているらしい――が、盆を持って出てきた。後ろには、もう一人、孫娘が、絵日記らしきものを抱えてついてきている。
「おじいちゃん、見て見て。今日の絵日記、ぱふた郎のこと書いたの」
絵には、丸っこい犬と、棒のような人間が、川辺で並んで描かれていた。蒼一は、その絵を見て、何とも言えず嬉しくなった。
「上手だなあ。これは、おじいちゃんか?」
「うん。今朝、一緒に渓流に行ったとこ」
「そうだったな」
夏休みの間、蒼一の家には、孫たちが入れ替わり立ち替わり泊まりに来ていた。由美子は、その賑やかさに、嬉しそうな、少し疲れたような顔をしながらも、毎日忙しく台所に立っていた。
夕方、蒼一は孫たちを連れて、もう一度渓流に出かけた。今度は釣りではなく、ただの水遊びだった。ぱふた郎は、子供たちと一緒に、浅瀬を跳ね回っていた。
「じいちゃん、昔の犬も、こんな風に泳いだ?」
孫の一人に聞かれて、蒼一はしばらく考えた。
「ああ、よく泳いだよ。お前たちのひいおばあちゃんの犬も、こうやって、夏は毎日水浴びしてたなあ」
「会いたかったなあ、その犬に」
「会えるよ、きっと」
蒼一は、自分でも、なぜそう答えたのか、はっきりとは分からなかった。ただ、そう言うのが、一番正しい気がした。
夜、子供たちが寝静まった後、蒼一と由美子は、縁側で二人だけの時間を過ごした。ぱふた郎は、二人の足元で丸くなって眠っていた。
「賑やかな夏も、悪くないわね」
「ああ。静かなのも悪くないが、こういうのも、なかなかいい」
「あなた、最近、よく昔のぱふの話をするわね」
「そうか? あまり意識してないが」
由美子は、少し含みのある笑みを浮かべた。
「いいのよ。話してくれた方が、私も嬉しい」
蒼一は、その言葉に、何か胸の奥が緩むのを感じた。
何年か後、孫たちが大きくなり、夏休みに泊まりに来ることも少なくなった頃、蒼一は同じ縁側で、静かに眠るように息を引き取ることになる。享年八十四。最期に呟いた言葉は、観測記録によれば「ぱふた郎、虫取り網、返したか」という、なんとも他愛のない一言だったという。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。耳の奥に、まだ蝉の声が残っているような気がした。
「九十九さん。あの世界は、特に大きな事件もなかったな」
「ええ」九十九さんは珍しく、にこやかに頷いた。「すべての分岐に、危機や格闘が必要だとは限りません。中には、ただ穏やかなだけの分岐も、確かにございます。お見せして、よろしかったでしょうか」
「ああ。むしろ、一番、安心した気がする」
九十九さんは、嬉しそうに本を閉じた。
「九十九さん。まだ、もう少し見られるか」
「ええ、いくらでも」九十九さんは、目を細めた。「最後にもう三つ、少し駆け足でご覧いただきましょう」
番外話 動物園の飼育員とチャンス
蒼一は、定年後の再就職先として、地元の動物園で飼育員の仕事を選んでいた。体力のいる仕事だったが、由美子には「動物に囲まれて過ごすなら、長生きできそうだ」と笑って説明していた。実際のところ、本当の理由は、もう少し単純なものだった。会社員時代、毎日机に向かっていた蒼一にとって、生きた何かの世話をする仕事というのが、ずっと心の奥に憧れとしてあったのだ。
担当は、なぜか猛獣ではなく、温和な草食動物のエリアだった。シマウマやカピバラ、年老いたロバが一頭。来園者からは「地味な担当ですね」とよく言われたが、蒼一自身は、騒がしくない動物たちの世話が、案外、自分に向いていると感じていた。相棒は、園内をうろつく許可をもらった、雑種犬のチャンス。来園者には「マスコット犬」として親しまれていたが、実際の仕事は、迷い出た小動物を探すことだった。
ある日、飼育エリアの戸締りに不備があり、孔雀が一羽、園内を堂々と歩き回る騒ぎになった。
「チャンス、追い込むぞ」
「追い込むも何も、孔雀は気が強いので、噛みつかれても泣かないでくださいね」
蒼一とチャンスは、来園者の悲鳴と笑い声に囲まれながら、半日かけて孔雀を保護した。途中、チャンスが先回りして通路を塞ぎ、孔雀をベンチの下に追い込んだ瞬間、見物していた子供たちから、思いがけない拍手が起こった。表彰こそされなかったが、園長から「お疲れさん」という、ねぎらいの缶コーヒーを一本渡されたのが、何よりの褒美だったという。
老いたロバが弱った冬、蒼一は毎晩、見回りのついでに、毛布を一枚多く掛けてやるのを習慣にしていた。ある朝、ロバが静かに息を引き取っていたとき、蒼一は、思いのほか強い悲しみに襲われた。チャンスは、その日一日、蒼一の足元から離れず、ただ静かに寄り添っていた。
何十年か後、蒼一は動物園の片隅で、まだ現役のまま、静かに息を引き取ることになる。享年八十。最期の言葉は「あの孔雀、まだ元気かな」だったと伝えられている。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
「九十九さん。孔雀というのは、犬泣かせだな」
「ええ。あちらでは、よく聞く話です」九十九さんは笑った。
番外話 南極観測隊のトト
その世界の蒼一は、定年退職した後、長年の夢だった南極観測隊に、雑用係として参加していた。隊員たちからは「最年長の新人」と呼ばれ、可愛がられていた。志望理由を聞かれるたびに、蒼一は「若い頃に諦めた夢を、年寄りになって叶えてみたかった」と、決まって答えていた。
基地には、隊の伝統で、一匹の犬――名はトト――が、皆の士気を支える存在として暮らしていた。極寒の中、誰かが弱音をこぼすと、必ずトトが、その膝に頭を乗せに来る。蒼一も、最初の冬、想像以上の寒さと孤独に心が折れそうになった夜、トトに膝を温めてもらったことを、よく覚えていた。
ある日、猛烈なブリザードの中、観測のために外に出た隊員が一人、戻ってこないという事態が起きた。基地中が騒然とする中、蒼一は、トトと共に、視界の悪い中を、慎重に捜索に出た。
「こっちだ、匂いをたどれ」
「人間には分からない仕事を、いつも私に頼りますね」
風の音で、互いの声すらかき消されそうな中、トトは迷うことなく、一定の方向へ進み続けた。蒼一は、自分の判断より、犬の鼻を信じることにした。
トトの嗅覚が、雪に埋もれかけていた隊員を、無事に見つけ出した。基地に戻ると、隊長が蒼一の肩を強く叩いた。
「お前さんと、その犬のおかげだ」
「儂は何もしておらん。トトの手柄だ」
トトは、誇らしげに尾を振った。その夜、基地中で、トトのために、配給のソーセージが一本、特別に振る舞われたという。
何年か後、蒼一は観測任務を終え、日本に戻ってからも、長くトトの子孫の世話を続けたという。享年八十一。最期の言葉は「あの氷、まだ厚かったかな」だった。
番外話 舞台に立つルーク
その世界の蒼一は、六十を過ぎてから、思いがけず、地域の小さな劇団に誘われ、舞台役者としての第二の人生を歩んでいた。きっかけは、ただの趣味の朗読会だったが、年配の役者が足りないという理由で頼まれた端役が、思いのほか評判になり、いつしか本格的な公演にまで誘われるようになっていた。
楽屋には、いつも一匹の犬――ルーク――が、座布団の上で丸くなっていた。劇団員たちは、ルークのことを「うちで一番、台詞を全部覚えている役者」と、半分本気で呼んでいた。本番中、台詞を忘れて固まった蒼一に、舞台袖から、ルークが小さく一声鳴いて知らせたことが、一度だけあったという。
「お前のおかげで、台詞を思い出せたよ」
「私の鳴き声で台詞が戻るなら、いつでも鳴きます」
その公演は、地方の小さな劇場での上演だったが、満席になった。蒼一が演じたのは、年老いた漁師の役だった。台本にはなかったが、蒼一は本番で、ふと、自分の人生のことを思い出しながら、その台詞を口にしていた。
最後の公演の夜、蒼一は満場の拍手の中、深く頭を下げた。客席の隅には、由美子と、ルークの姿があった。カーテンコールの後、楽屋に戻ると、ルークが真っ先に駆けてきて、足元にまとわりついた。
「お前にも、ちゃんと拍手をあげたかったな」
「私は、これで十分です」
何年か後、蒼一は舞台を退き、静かな余生を送った末、享年八十二で旅立った。最期の言葉は「カーテンコール、ちゃんと出られたかな」だった。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
番外話 食堂の暖簾とシロ
「もう一つだけ、よろしいでしょうか」九十九さんは、少し悪戯っぽく笑った。「これが、本当に最後です」
その世界の蒼一は、退職金をはたいて、小さな定食屋を始めていた。店の名前は「めし処 せせらぎ」。由美子が厨房を仕切り、蒼一はホールと会計を担当する、夫婦二人だけの店だった。
店の入り口には、いつも一匹の白い犬が寝そべっていた。名前はシロ。客が来ると、ゆっくりと顔を上げ、特に何をするわけでもなく、ただ尾を一度振るだけだったが、それだけで常連客の評判が良かった。
「ここの店、飯も美味いが、シロに会えるのが楽しみでね」
そう言って通ってくる客が、何人もいた。中には、シロにだけ会いに来て、何も注文せずに帰ろうとする客もいたが、由美子が「うちは定食屋ですから」と、毎回丁寧に追加注文を勧めるのが恒例になっていた。
ある年、近所に大きな新しいレストランが開店し、客足が一時的に落ち込んだ。蒼一は、夜、帳簿を見ながら、珍しく深いため息をついた。
「お父さん、そんな顔しないで。うちには、うちのお客さんがいるから」
由美子は、いつものように、軽く笑って言った。シロは、その夜、いつもより長く、蒼一の足元に頭を乗せていた。
数ヶ月後、新しいレストランは、いつの間にか閉店していた。理由は分からなかったが、常連客の一人が「あそこには、シロがいなかったからじゃないかな」と、笑い話のように言っていたのを、蒼一は妙に嬉しく聞いていた。
それから、店は何十年も続いた。常連客の子供が成長し、その子供を連れて再び店を訪れる、という光景も、当たり前のものになった。シロもまた、何代か入れ替わったが、店の入り口に犬がいる、という光景だけは、変わらなかった。
蒼一は、厨房に立てなくなった晩年も、入り口の椅子に腰掛け、シロの子孫と一緒に、客を迎え続けた。享年八十六。最期は、店の暖簾を仕舞った直後、椅子に腰掛けたまま、静かに息を引き取ったという。最期の言葉は「今日も、いい一日だったな」だった。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
「九十九さん。あの店、繁盛していたんだろうな」
「ええ、評判の店でしたよ」九十九さんは、満足げに頷いた。「もっとも、評判の理由は、料理の味より、入り口の犬だったという説もありますが」
番外話 りんご畑とぱふ二代目
「では、本当に、最後の一つを」九十九さんは、頁をめくった。
その世界の蒼一は、退職後、由美子の実家が長く営んでいたりんご農園を継いでいた。彼自身は農業の経験などほとんどなかったが、由美子の「父の畑を、誰かに継いでほしい」という願いに応える形で、一から栽培を学んだ。
畑には、いつも一匹の犬が、蒼一の足元をついて歩いていた。名は「ぱふ二代目」。由美子が、蒼一の昔語りを聞いて、子犬の頃から、半分本気でその名をつけてしまったのだった。
「お前の名前の元になった犬は、りんごが好きだったらしいぞ」
蒼一がそう話しかけると、ぱふ二代目は、まるで自分のことのように、嬉しそうに尾を振った。実際、この犬も、熟れたりんごの匂いを嗅ぐと、決まって鼻を鳴らす癖があった。
最初の年、台風で収穫前のりんごが、半分近く落ちてしまうという大きな打撃を受けた。蒼一は、畑の隅にしゃがみこみ、落ちた実を見つめながら、しばらく動けなかった。
「儂には、向いていなかったかもしれんな」
そう呟いたとき、ぱふ二代目が、落ちたりんごの一つを、そっと蒼一の足元まで運んできた。皮に少し傷がついているだけで、中身は十分に甘い、まだ食べられる実だった。
「……そうか。落ちたものでも、ちゃんと使い道はあるんだな」
その年、蒼一は落果したりんごを使い、ジャムやジュースに加工して販売することを思いついた。それが、思いがけず評判を呼び、翌年からは、農園の新しい名物になった。
何十年か後、蒼一は畑の一角に小さな東屋を建て、そこで晩年を過ごすことになる。享年八十五。最期の日、彼は東屋の縁台で、よく熟れたりんごを一つ手にしたまま、静かに息を引き取ったという。傍らには、ぱふ二代目の、年老いた子孫が寄り添っていたと伝えられている。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。手のひらに、まだりんごの感触が残っているような気がした。
「九十九さん。ぱふは、りんごが好きだった。それは、本当のことなんだろうな」
「ええ」九十九さんは、静かに頷いた。「分岐がどれだけ違っても、変わらないことというのも、確かにあるようです」
番外話 絵本作家とぱふの絵
「もう一つだけ、いいでしょうか」蒼一の方から、そう切り出した。九十九さんは、嬉しそうに頁をめくった。
その世界の蒼一は、定年後、思いがけず絵本作家としての道を歩んでいた。きっかけは、孫にせがまれて描いた、たった一枚の落書きだった。茶色と白の毛並みの犬が、川辺で笑っている絵。孫が「もっと描いて」とせがむうち、いつしか一冊の絵本になり、地元の小さな出版社の目に留まった。
絵本の主人公は「ぱふくん」という名の、どこか頼りない、しかし優しい犬だった。蒼一は、自分の記憶の中にいる、本当のぱふの面影を、毎回少しずつ絵に滲ませていた。物語の中で、ぱふくんは、いつも誰かが困っているところに、ふらりと現れて、何も言わずに寄り添う。
「おじいちゃんの絵本、図書館にあったよ!」
ある日、孫の一人が、興奮しながら報告に来た。蒼一は、その言葉に、これまでの会社員生活では一度も味わったことのない種類の喜びを感じた。
絵本は、何冊も続いた。読者からの手紙も届くようになった。多くは子供たちからのものだったが、中には「ぱふくんのおかげで、亡くなった愛犬を思い出して、優しい気持ちになれました」という、大人からの手紙もあった。蒼一は、そういう手紙を、机の引き出しの奥に、丁寧にしまっていた。
ある晩、由美子が、出来上がった新作の原稿を読みながら、ぽつりと言った。
「あなた、これ、本当のぱふのことを描いてるのね」
「分かるか」
「分かるわよ。あなたの絵、いつも同じ目をしてるもの」
蒼一は、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し恥ずかしそうに、机の上の絵を見つめた。
何十年か後、蒼一は最後の原稿を描き終えた数日後、机に向かったまま、静かに息を引き取ることになる。享年八十七。未完成だった最後のページには、空白の中に、ただ一行、「つづく」という文字だけが書かれていたという。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
「九十九さん。あの絵本、誰かに読まれているのかな」
「ええ、まだ多くの子供たちに」九十九さんは、優しく笑った。「あなたが描いた『つづく』は、今も、誰かの本棚で、続いているはずです」
番外話 獣医師とトトの恩返し
その世界の蒼一は、大学卒業後、ずっと地方の小さな動物病院で獣医師として働き続けていた。会社員ではなく、最初から、生き物と向き合う仕事を選んだ人生だった。
診療所の片隅には、いつも一匹の年老いた犬――トト――が、引退した「先輩」のような顔で寝そべっていた。元は、怪我をして運び込まれた捨て犬だったが、誰も引き取りに来ず、結局、蒼一がそのまま飼うことになったのだった。
ある夜、緊急の電話が入った。近所の農家の牛が、難産で苦しんでいるという。蒼一は、由美子に「また朝帰りになる」と告げ、トトを連れて駆け出した。
「お前、来てくれるのか」
「先輩として、後輩の手際を見ておかないといけませんので」
現場では、想像以上に長い処置になった。蒼一の手が冷え切り、何度も諦めかけた頃、トトが、ふと、農家の主人の足元に寄り添い、小さく鳴いた。それを見て、主人が少し肩の力を抜いたのを、蒼一は確かに感じた。緊張が緩んだ瞬間、ようやく子牛が無事に生まれた。
「先生のおかげです、本当に」
「儂だけじゃありません。この犬が、皆の気を緩めてくれたんです」
蒼一は、その夜、誰よりも先に、トトの頭を撫でた。
何十年か後、蒼一は診療所を後輩に譲り、隠居生活に入った後も、近所の生き物たちの相談相手として、頼られ続けた。享年八十三。最期の言葉は「あの牛、元気に育ったかな」だった。
蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。
「九十九さん。獣医というのも、悪くない人生だな」
「ええ、誰かを助ける仕事には、たいてい、誰かの支えがあるものです」九十九さんは、静かに本を閉じた。
「九十九さん。もう、十分見た気がする」
「そうでしょうとも」九十九さんは、優しく頷いた。「では、そろそろ、最後の場所へご案内いたしましょう。すべての分岐が、一度だけ交わる場所です」
終章 すべての交差点で
九十九さんがページをめくると、それまでの世界とは少し違う光景が広がった。
そこは、どこともつかない場所だった。空は無く、地面も無く、ただ無数の光の道が、四方八方に伸びている。蒼一が立っているのは、それらの道がすべて一点に集まる、小さな交差点だった。
「ここは……」
「観測上、便宜的に『交差点』と呼んでおります」九十九さんの声が、どこからか響いた。「あなたが、これまでご覧になったすべての分岐――そして、ご覧になっていない無数の分岐――が、ここで一度だけ重なり合います」
光の道の先に、蒼一はいくつもの自分の姿を見た気がした。フライロッドを持つ自分。宇宙服を着た自分。刀を腰に差した自分。タイプライターの前に座る自分。四本足で駆け回る自分。灯台の螺旋階段を上る自分。舞台の上で深く頭を下げる自分。絵本の原稿に向かう自分。どれもぼんやりとしていて、輪郭がはっきりしないのに、確かにそこにいるのが分かった。
蒼一は、その光景を眺めながら、ふと、これまで抱いていた「自分」という感覚が、すっかり揺らいでいくのを感じた。火星で死んだ自分も、深海で死んだ自分も、犬になった自分も、どれも嘘ではなかった。どれも、確かに生きて、確かに笑い、確かに誰かを愛した。一つの正しい人生があって、それ以外は失敗だった、というわけではないらしい。あったのは、ただ、無数の「あり得た一日」の積み重ねだった。そう思うと、自分がこれまで還暦を過ぎてから抱え続けていた、あの焦りのようなものが、わずかに軽くなっていく気がした。
そして、その全ての傍らに、一匹の犬の影があった。
姿は違う。チャンスのような機械の犬もいれば、トトのような毛並みの犬もいる。クラゲのようなルークの影もあり、木彫りの「シロ」のような、輪郭だけの存在もあった。けれど、九十九さんが言っていた通り、その目の色だけは、すべて同じだった。
「お前は……」
蒼一が口を開いた瞬間、その全ての影が、ふっと一つに重なった。そこに立っていたのは、ただ一匹の、見覚えのある犬だった。
「ぱふ」
蒼一は、思わずその場にしゃがみこんだ。
犬は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと尾を振り、蒼一の方へ歩み寄ってきた。蒼一は、その頭に手を伸ばした。指先に、確かな温かさがあった。
「お前、ずっと、いろんな世界で、僕を見ていたのか」
犬は答えなかった。ただ、いつものように、少し首を傾げた。
「九十九さん。これは、本当のことなのか。それとも、僕が見たいものを、見せてもらっているだけなのか」
九十九さんの声が、静かに響いた。
「私どもにも、それは分かりません」老人の声は、いつもより少し優しかった。「ただ、これだけは申し上げられます。あなたがどの世界を生きても、必ずそこには、誰かを見守る存在がいた。それが犬という姿を取っていたのか、ただの偶然なのか、あるいは、もっと大きな何かの意志なのか――それを決めるのは、私どもの仕事ではございません」
蒼一は、犬の頭を撫でながら、長い間、何も言わなかった。
そのとき、光の道の一つから、足音が近づいてきた。月見里だった。相変わらず、くたびれたスーツに、大きな鞄を提げている。
「あら、もうここまで来ていたんですね」月見里は、タブレットを片手に、こちらを見た。「九十九さん、規定の閲覧時間、もうかなり超過していますよ」
「これは月見里さん。少々、お見逃しいただけませんか」
「いつもそう言うじゃないですか」
月見里は、ため息をつきながらも、蒼一の傍にしゃがみ込み、犬の頭をそっと撫でた。犬は、月見里にも、警戒する様子もなく、尾を振った。
「あなたも、撫でたことがあるのか」蒼一が驚いて尋ねると、月見里は、少し気まずそうに微笑んだ。
「実は、私の分岐群にも、似たような同伴者がおりまして。猫の姿をしていますが」
「猫?」
「ええ。査察課の仕事は、なかなか気疲れするものですから」月見里は、立ち上がりながら、タブレットの画面を蒼一に見せた。複雑な図の隅に、小さな猫のアイコンが点滅していた。「規則を守れと言う立場の私にも、こういうものがいる、というのは、なんとも皮肉な話ですけれどね」
蒼一は、その言葉に、少し笑ってしまった。月見里も、つられたように、小さく笑った。
「渡瀬さん。これだけは、規則を超えてお伝えしておきます」月見里は、急に真面目な顔になった。「観測技術が、どれだけ進歩しても、私どもには、結局、この収束の正体を、完全には説明できません。ただの確率的な偶然なのか、もっと別の何かなのか――それを決めるのは、観測者である私どもではなく」
「僕自身、ということか」
「いえ」月見里は、犬の方を一瞥した。「たぶん、あなたと、その犬の間にしか、分からないことなのだと思います」
犬は、月見里の言葉に応えるように、もう一度、尾を振った。月見里は、最後にもう一度だけ犬の頭を撫でると、踵を返し、光の道のひとつへと戻っていった。その背中が見えなくなるまで、犬はじっと見送っていた。
「では、誰の仕事なんだ」
「あなたご自身の仕事です」九十九さんは、静かに本を開いた。「ここまで、たくさんの死に方、たくさんの生き方をご覧になりました。さて、蒼一さん。最後に、ご自分の記事を、どうお書きになりますか」
蒼一は、ふと、これまで巡ってきた世界の数々を、もう一度、ゆっくりと思い返した。動物園の孔雀、南極の雪、舞台のカーテンコール、定食屋の暖簾、りんご畑の香り、絵本の最後のページ。どれも、自分が選ばなかった道だったが、どれも、確かに、誰かを笑顔にした道だった。それを知ったことだけで、もう、十分な気がした。
本の空白のページが、蒼一の目の前に浮かび上がった。何も書かれていない、ただの白い紙。だが、その白さが、これまで見てきたどの世界よりも、自由に思えた。
蒼一は、犬の頭から手を離さずに、しばらく考えた。
宇宙で死ぬのも、悪くなかった。深海で死ぬのも、悪くなかった。データになって生き続けるのも、犬になって誰かを見守るのも、それぞれに、確かな温かさがあった。だが、最初に見た、あの渓流沿いの古民家での暮らしが、なぜか、一番自分に馴染んでいる気がした。
「九十九さん。なぜだろうな。一番、特別なことが何もない世界が、一番、選びたくなる」
「特別なことがない、というのは」九十九さんは、静かに言った。「裏を返せば、危機もなく、争いもなく、ただ穏やかな時間が、長く続いた、ということでもございます。それを選ぶというのは、決して消極的なことではないと、私は思います」
蒼一は、その言葉に、頷いた。渓流の水音、由美子の笑い声、リンゴの匂い、ぱふの写真。並べてみれば、何の変哲もないものばかりだったが、それらすべてが、確かに、自分という人間を形作っていた。
「九十九さん。書いていいのは、一つだけなのか」
「いえ」九十九さんは、少し意外なことを言った。「書いていただくのは、最後にどう終わるか、という一文だけです。それまでの道のりは、これからのあなたが、ゆっくりと選んでいくことになります」
蒼一は、犬の目を見た。犬も、こちらをじっと見ていた。
「分かった」
蒼一は、ペンを手に取った。
最終話 ぱふの命日
それから、どれだけの年月が流れたのか、蒼一自身にも分からなかった。
古本屋を出たあと、蒼一の暮らしは、特に何も変わらなかった。退職し、渓流沿いの古民家へ越し、由美子と二人で静かな日々を送る。十年前に見送ったぱふのことを、毎朝、ふと思い出す。それだけの、ごくありふれた日々だった。
ただ一つ変わったのは、「あとどのくらい?」と呟く回数が、少しだけ減ったことだった。先が見えないことに対する焦りが、完全に消えたわけではない。それでも、どの道を選んでも、誰かが傍にいてくれるのだという確信だけは、胸の奥にしっかりと根を張っていた。
時々、夜更けに目が覚めると、蒼一は、あの古本屋で見た無数の世界のことを思い出した。火星の赤い土、深海の青い光、嵐の中の灯台、満員の劇場、賑やかな食堂の暖簾。どれも、確かに自分が生きた一日だったような気がするのに、目を開けると、ここには、変わらず渓流の水音だけがあった。それでいい、と蒼一は思うようになっていた。すべてを生きることはできない。だが、すべてが、どこかで、確かに自分だったのだと知っているだけで、毎日は、前より少し軽く感じられた。
その日も、いつものように、夜明け前から渓流に出た。
霧はまだ深く、川面と空の境目がよく見えなかった。鳥たちが、どこか上の方で、ぱらぱらと鳴き始めている。蒼一は、長靴の中で冷たくなった指先を、何度か握ったり開いたりしながら、いつもの場所に立った。十年間、毎朝、ほとんど同じ場所、ほとんど同じ時間に、彼はここに立ち続けてきた。それでも、一度として、同じ朝はなかった。
水音は、いつもと変わらない。霧の中、毛鉤を振る。一投、二投。三投目で、確かな引きがあった。
「来た」
水面で、銀色の腹が翻る。今日もまた、いい一匹だった。慎重に寄せ、玉網に収める。それから、しばし見惚れて、丁寧に水へ返した。
家に帰ると、由美子が縁側で茶を飲んでいた。
「おかえり。今日はどうだった」
「今朝はこんなヤマメだったよ」
蒼一は、わずかに大きく両手を広げてみせた。由美子は、いつものように、ふふ、と笑った。
「また大袈裟ねえ」
「本当に大きかったんだよ」
そんな、何百回繰り返したか分からない会話をしながら、二人は軽い朝食を摂った。漬物と味噌汁、炊きたての白米。テレビは点けなかった。
食事を終えると、蒼一は仏壇の前に座った。今日は、ぱふの命日だった。果物籠から、よく熟れたリンゴを一つ取り、小皿に乗せて供える。
「ぱふ。今日も大きいのが釣れたよ」
蒼一は、写真の中で笑っているぱふに向かって、いつものように呟いた。それから、少しだけ、いつもと違うことを言った。
「お前、いろんなところで、ずっと俺たちのこと見ててくれたんだろうな。火星でも、海の底でも、データの中でも、犬になった時も」
その独り言は、由美子には聞こえないようにと思っていたが、由美子は意外にも、後ろから優しく声をかけた。
「何の話?」
「いや……夢を見たんだ。長い夢だった。お前にも、いつか話すよ」
「楽しみにしてるわね」
午後、大きなヤマメと格闘した。リールが鳴き、竿が弓のようにしなった。魚は岩陰へ逃げ込もうとし、蒼一は流れに足を踏み込んで、必死に竿を立て直した。冷たい水が長靴の縁から染み込んでくるのも構わず、彼はただ、その引きの強さに、十年ぶりに心を躍らせていた。何分か――いや、もっと長かったかもしれない――格闘の末、ようやく収まったのは、これまで見たこともないほど立派な一匹だった。
「やったぞ、由美子! 見てくれ、これは……」
由美子は手を叩いて喜んだ。蒼一は満足げに眺め、丁寧にリリースした。
家に戻ると、急に身体の奥から、心地よい疲労が押し上げてくるのを感じた。
「ちょっと疲れたから、昼寝でもするよ」
「あら、珍しい。お布団敷きましょうか」
「いや、ここでいいよ」
縁側の陽の当たる場所に、蒼一は横になった。仏壇のぱふの写真が、ちょうど見える位置だった。
「ぱふ……今日は、本当にでかいのが釣れたよ。お前にも見せたかったな」
そう呟いて、目を閉じた。
その夜、由美子が呼びかけても、蒼一は目を覚まさなかった。
翌日、机の引き出しから、一枚の遺言書が見つかった。日付は、ずいぶん前に書かれたものだった。
『どうぞ、すべてご自由に……』
そして、最後に、こう書き添えられていた。
『あっ、ひとつだけ。仏壇に供えてある、十年前に先立った愛犬・ぱふの小さな骨壺を、自分の骨壺の中に一緒に納めてくれ』
最期は、由美子と、大勢の孫子たちに囲まれ、満足そうな顔をしていたという。
享年八十二。まさに、ぱふ、だった。
遺影には、もちろん、ぱふと笑っている写真が指定されていた。あの渓流沿いの古民家の縁側で、両手をわずかに大きく広げ、傍らのぱふと一緒に笑っている、何の変哲もない一枚だった。
「今頃、やっと、また会えて、一緒に走り回ってる頃ね」
子供たちは、骨壺を見つめながら、微笑んだ。
「そうねえ、それじゃあ、きっと」由美子も、静かに微笑んだ。「チャンスも、トトも、ルークも、シロも、ラッキーも、来てるわね」
その名前を、由美子がどうして知っていたのか、誰も尋ねなかった。蒼一が、生前、夢の話として、ぽつりぽつりと語っていたからかもしれない。あるいは、ただの偶然だったのかもしれない。
仏壇の前には、誰かが置いたのか、小さな木彫りの「シロ」が、ひっそりと飾られていた。
「のーどっぐ、のーらいふ」
由美子は、それだけを呟いて、静かに手を合わせた。
エピローグ ご同輩
それから何年か経った、ある日のことである。
町外れの古本屋――名前は失われてしまったが、確かにそこにあった店――に、一人の老人が立ち寄った。還暦を少し越えたばかりの男だった。
棚を眺めるうち、一冊の本が目に留まった。タイトルも何もない、黒い背表紙の本。手に取って開くと、扉にこう書かれていた。
『私の死亡記事』
ぱらぱらと頁をめくると、そこには、渓流のこと、火星のこと、江戸の浪人のこと、海の底のこと、データになった意識のこと、犬になった人間のこと、そして、最後には、ぱふという犬の骨壺のことが、几帳面な文字で綴られていた。
「……縁起の悪い本だな」
男は呟いたが、なぜか棚に戻す気にはならなかった。
レジには、白髪の老人が座っていた。男が本を差し出すと、老人は懐かしそうに目を細めた。
「ああ、その本ですか。著者の方とは、長いお付き合いでございました」
「これを書いたのは、どんな人なんですか」
「さて」老人は、はぐらかすように笑った。「皆、好き勝手なことを書いて、嬉しそうに死んでいきますな、とだけ申し上げておきましょう」
本の最後のページには、こう記されていた。
『そんなことだよ、ご同輩。
あなたも、いつか、ご自分の死亡記事を書く日が来るでしょう。その時は、好きに書いてください。誰に遠慮することもありません。
ただ、もし可能なら、ひとつだけ。
あなたの傍らにいた誰かの名前を、どうか、最後の一行に書き添えてやってください。
人であれ、犬であれ、何であれ。
のーどっぐ、のーらいふ。』
男は、本を閉じ、しばらくその表紙を見つめていた。それから、レジに小銭を置き、店を出た。
外はもう、夕暮れだった。橙色に染まった商店街の屋根の上を、名前も知らない鳥が一羽、ゆっくりと横切っていく。男は、買った本を小脇に抱えながら、ふと、自分がこれまで生きてきた六十年あまりを、ざっと思い返してみた。特に誇れることもなく、特に恥じることもない、ごくありふれた六十年だった。それでも、今、こうして夕焼けを見ながら歩いていられることだけは、悪くない、と思えた。
夕暮れの商店街を歩きながら、男はふと、自分の家で待っている小さな犬のことを思い出した。今夜は、何のご馳走を用意してやろうか。そんなことを考えながら、男は少し早足になった。
古本屋の灯りは、いつものように、開いている時にだけ、開いていた。
(了)
Amazon Kindle
あとがき
書き終えてみると、結局、これは多元宇宙の話ではなく、犬の話だったのだと思う。
人は、還暦を過ぎると、ふと「あとどのくらい?」と数えたくなるものらしい。私自身、そういう年齢になって、この物語を書き始めた。先のことを考えれば考えるほど、不安は募るのに、その不安をそのまま書いても、誰も楽にはならない。それなら、いっそ、ありとあらゆる死に方を、笑ってしまうくらい並べてみようと思った。火星で死んでも、深海で死んでも、犬になって死んでも、案外、悪くない。そう思えたら、目の前の今日が、少しだけ軽くなる気がしたのだ。
そして、書いているうちに気づいたのは、どの世界を選んでも、必ず傍らに、誰かがいたということだった。名前は違う。姿も違う。けれど、その目つきだけは、いつも同じだった気がする。それが犬だったのは、たまたま私自身の傍らにいたのが犬だったからに過ぎない。読んでくださった方の傍らには、また別の誰かがいたかもしれない。
この物語が、ご自分の傍らにいる誰かのことを、少しだけ思い出すきっかけになれば、それで十分である。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
のーどっぐ、のーらいふ。
渡瀬蒼一(であろう、誰か)
あらすじ
退職後、山あいの渓流沿いに移り住んだ蒼一は、十年前に愛犬・ぱふを見送ってから、「あとどのくらい?」と呟く回数が増えていた。ある日訪れた古本屋で謎の老店主・九十九さんと出会い、自分の死亡記事が記された一冊の本を手にする。そこから始まるのは、無数のパラレルワールド巡り――火星の農務官、江戸の浪人、深海都市の住人、データ化された意識、そして犬として生まれ変わった自分。形は違っても、どの世界にも必ず同じ目をした犬がいることに気づいた蒼一は、すべての分岐が交わる「交差点」で、自分の物語の終わり方を選ぶことになる
紹介文
還暦を過ぎたある日、渡瀬蒼一は町外れの古本屋で一冊の本に出会う。タイトルは『死亡記事大全』。ぱらぱらと頁をめくると、そこには自分の名前のページがあり、まだ何も書かれていない空白が待っていた。
火星で死ぬ人生。深海で死ぬ人生。犬になって誰かを見守る人生。江戸の浪人として生きる人生――。店主の老人に導かれ、蒼一は次々と「選ばなかった自分」を覗いていく。どの世界も、滑稽で、少し切なくて、そしてなぜか、必ず一匹の犬がいる。
笑って読めて、最後にちょっと泣ける。多元宇宙とおじいちゃんと犬の話。
最愛の ぱふ に捧ぐ…


