多元宇宙の犬
―わたしの死亡記事、無数の死に方について―


まえがき

これは、還暦を過ぎたあたりから、やたらと「あと、どのくらい?」と呟くようになった一人の男の話である。

男は、ある日、古本屋で一冊の本に出会う。そこには、無数の死に方が、几帳面な文字で綴られていた。男は、その本に導かれ、火星で死に、深海で死に、犬として死に、そして、最後にもう一度、自分の人生を選び直すことになる。

筋立てだけ聞けば、いささか大仰なSFに思えるかもしれない。けれど、実際に書いてみると、これは存外、犬の話だった。どの世界に転んでも、なぜか傍らに犬がいる。名前は変わっても、目つきだけは変わらない。そういう、ただそれだけの話である。

還暦を過ぎた方にも、まだ遠い方にも、ついでに、傍らに犬や猫やその他の何かがいる方にも、気軽に読んでいただけたら幸いである。

のーどっぐ、のーらいふ。

それでは、どうぞ。




序章 夜更けの本棚

還暦を越えたあたりから、渡瀬蒼一は妙な店ばかり目につくようになった。十年前まで、彼の目に映る景色には、こんな店はなかったはずだった。

会社員時代は、駅前の商店街など景色の一部としか思っていなかった。シャッターの下りた店、潰れた喫茶店、いつ開いているのか誰も知らない時計屋。そういうものは、忙しい人間の目には映らない仕組みになっている。ところが定年退職という、いわば「忙しさの免許返納」を済ませた途端、蒼一の目はやけに暇になり、これまで見えなかったものばかりが見えるようになった。

蒼一の人生は、誰かに語って聞かせるほどのものではなかった。地方の機械部品メーカーに新卒で入り、営業でもなく開発でもない、社内の在庫管理という、誰にも感謝されない部署を三十八年勤め上げた。可も不可もなく、大きな失敗もなく、大きな手柄もなく。退職の日、上司からもらった言葉は「長い間、お疲れさまでした」という、判で押したような一言だけだった。それすら、何も間違っていない、というのが妙に寂しかった。

由美子と結婚したのは二十八の時。見合いでもなければ、運命的な出会いでもない。会社の同期の結婚式の二次会で、たまたま隣の席になり、料理の取り合わせについて延々と語り合ったのがきっかけだった。「あなた、エビフライの位置にこだわりすぎ」と笑われたのを、蒼一は四十年近く経った今でも覚えている。

子供は二人。とうに家を出て、それぞれの家庭を持っている。孫は今のところ三人。盆と正月には、賑やかな声が古民家に響くが、それ以外の三百数十日は、蒼一と由美子、二人だけの静かな時間が流れていた。

そして、ぱふ。

蒼一が定年の二年前、近所の動物保護団体から引き取った雑種犬だった。茶色と白の混じった毛並みで、名付けの由来は、初めて会った時、ぱふ、と一度だけ短く鳴いたから、というだけの、まったく深みのない理由だった。

ぱふは、蒼一が退職するまでの二年間、毎朝の散歩で、近所の誰よりも先に蒼一の一日を始めてくれた相棒だった。退職後は、もっと長く一緒にいられると思っていた。山奥への引っ越しも、渓流での釣りも、すべてぱふと一緒に楽しむつもりだった。

ところが、退職を目前にした冬、ぱふは急に体調を崩し、あっという間に、蒼一の腕の中で息を引き取った。獣医は「老衰に近い、急性の心不全」と言ったが、蒼一には、ただ、あまりにも早すぎる、ということしか分からなかった。

退職後にキャンピングカーで日本中を周ろうという計画は、ぱふがいなくなった後も、しばらくは由美子と話し合っていた。だが、いつの間にか、その話題は二人の間から自然に消えていった。代わりに、夫婦は山あいの渓流沿いに古民家を見つけ、そこへ越した。蒼一は毎朝、ぱふの代わりに、一人で川へ向かうようになった。

そんな暮らしを十年続けたある日、蒼一の目は、急に暇になった。そして、これまで見えなかった店ばかりが、見えるようになったのだった。

その店も、たぶん三十年前からそこにあった。

「夜更けの本棚」

色褪せた木の看板に、達筆とも悪筆ともつかない字でそう書かれている。蒼一が住む山あいの町から少し下った、商店街の外れ。営業時間の表示はなく、定休日の表示もない。あるのはただ、ガラス戸の内側に貼られた一枚の紙きれだけだった。

「開いている時に、開いています」

「なるほど」と蒼一は呟いた。これほど納得のいく営業方針を、彼はこれまで見たことがなかった。

その日、たまたま店の灯りが点いていた。引き戸を引くと、埃と紙とかすかな線香のような匂いが鼻先をかすめた。店内は思いのほか広く、本棚は天井まで届き、棚と棚の間は人がひとり通れる幅しかない。奥のレジらしき場所に、白髪を肩まで伸ばした老人が座っていた。名前は知らない。後になって「九十九(つくも)さん」と呼ばれていることを知るが、それが本名なのか屋号なのか、誰に聞いても答えは違った。

蒼一は特に何かを探していたわけではなかった。ただ、退職してからというもの、本屋に入ると妙に安心する。本というのは、まだ読まれていない限り、何も終わっていないからだ。

棚の作りは、お世辞にも整理されているとは言えなかった。歴史の棚に料理の本が紛れ込み、文庫本の隙間に、誰かの卒業論文らしき手製の冊子が差し込まれている。それでいて、奇妙に居心地のいい無秩序だった。会社にいた頃の蒼一は、整理整頓こそが正義だと信じて疑わなかったが、今は、こういう、誰にも管理されていない空間の方が、よほど自分の心に近い気がした。

天井近くの棚には、見るからに古い、革張りの背表紙の本が並んでいた。背表紙の金文字は、もう半分以上が剥げ落ち、辛うじて読めるものだけが、誰かの名前や、よくわからない単語を主張していた。蒼一は、その中の一冊に、なぜか目を奪われた。理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、その本だけが、まるでこちらを見ているような気がした、というのが、いちばん近い表現だった。

棚を眺めるうち、一冊の本が目に入った。

タイトルも何もない、ただ黒い背表紙の本。手に取ると、見た目より重い。表紙を開くと、扉に大きな活字でこう印刷されていた。

『死亡記事大全』

「……縁起の悪い本だな」

そう呟いたが、なぜか棚に戻す気にはならなかった。ぱらぱらとページをめくる。知らない誰かの、知らない人生の終わり方が、几帳面な文字でずらりと並んでいる。

――享年九十一、五十年間営んだ蕎麦屋の暖簾を下ろした翌朝、布団の中で穏やかに。

――享年四十三、富士山頂で日の出を見ながら、笑って。

――享年七十七、可愛がっていた金魚と同じ日に。

どれも、誰かが「こうありたい」と願って書いたとしか思えない記事だった。馬鹿馬鹿しいのに、なぜか頁をめくる手が止まらない。

「皆、好き勝手なことを書いて、嬉しそうに死んでいきますな」

声をかけられて顔を上げると、いつの間にか九十九さんがすぐ隣に立っていた。歩く音も、近づく気配も、まったくしなかった。

「これは……」

「ご自由にお書きいただける本です」九十九さんは目を細めた。「ただし、書いた通りになるかどうかは、誰にも保証できません。何しろ、死に方というのは存外、選べないものですから」

蒼一は曖昧に頷いた。話を合わせるべきか、聞き流すべきか判断がつかない。年寄りの戯言だと思えば気は楽だった。

ページの最後のあたりまで来たとき、不意に手が止まった。

そこには、何も書かれていない頁があった。いや、正確には違う。タイトルの位置に、確かに見覚えのある三文字が印刷されていたのだ。

『渡瀬蒼一』

「な……」

声を出す前に、九十九さんが本をそっと閉じた。

「もう少し早くいらっしゃると思っておりました」老人は、まるで予約の客を迎えるような口調で言った。「お代はいりません。その代わり、今夜だけお部屋を貸して差し上げます」

「部屋?」

「奥に、ちょっとした書斎がございます。お疲れでしょうから、少しお休みになってから読まれては」

蒼一は、自分が疲れているとは思っていなかった。だが、本を持つ手の重さが、急に身体の奥のほうまで響いてくるような気がした。気がつくと、奥の小部屋で、古い革張りの椅子に腰を下ろしていた。窓の外には渓流の音が聞こえる気がしたが、ここは商店街のはずだった。

膝の上の本が、ひとりでに頁を開いた。

『渡瀬蒼一』という名前の下に、今度は、まだ何も書かれていない、ただの空白があった。

「さて」

九十九さんの声が、どこからか聞こえた。

「ご自分の続きを、ひとつ覗いてみますか。なに、心配はご無用。お読みになるだけです。お代は――そう、ひとつだけ。これから先、どれだけたくさんの自分をご覧になっても、最後にどの記事を選ぶかは、ご自分でお決めいただきます」

空白のページの上に、文字が浮かび上がるように現れはじめた。最初の一文字は、見覚えのある渓流の「渓」という字だった気がしたが、確かめる間もなく、視界はすでに白く溶けていった。

蒼一の意識は、するりとそこへ滑り落ちていった。


第一話 渓流のソウさん

目を開けると、そこは見慣れた我が家の縁側だった。

正確には「見慣れた」というのも妙な話で、蒼一はこの古民家に越してきたことなど一度もない。だが身体のほうは、まるで十年もここで暮らしてきたかのように、勝手に動いた。縁側に立てかけてあるフライロッドに手が伸び、土間の長靴に足が吸い込まれる。

「あなた、今日もまた早いのねえ」

奥から由美子の声がした。寝間着のまま、欠伸をしながら廊下を歩いてくる。その顔は、蒼一の知っている由美子より、少しだけ若かった。十年分くらい。

「ぱふの散歩は、もう要らないんだから、寝ててもいいのに」

その一言で、蒼一は唐突に理解した。ここは、ぱふを失ったあとの世界だ。十年前に最後の愛犬を見送り、退職と同時に山奥の渓流沿いの古民家へ越してきた、もう一つの自分。あのとき間に合わなかったキャンピングカーの旅は、結局この世界でも実現していないらしい。代わりに彼は、毎朝、誰よりも早く起きて川へ向かう人間になっていた。

渓流は、思っていたより近かった。家の裏手から十分も歩けば、もう水音が聞こえる。夜明け前の水面に立つと、自分の身体の輪郭がうっすらと霧に溶けていくような気がした。

ラインを振る。一投、二投。三投目で、毛鉤がふっと吸い込まれる感触があった。

「来た」

水中で銀色の腹が翻る。良いヤマメだった。慎重に寄せ、玉網に収めると、思わず声が出た。

「よし……でかいぞ」

誰も見ていないのに、つい両手を広げてしまう。これくらい、と。それから、その大きさが恥ずかしくなって、すぐに手を縮めた。誰も見ていないのだから、誇張する必要もないのに。

家に帰ると、案の定、由美子は呆れた顔をしていた。

「また自慢する顔して帰ってきたわね」

「いや、本当に大きかったんだ。これくらい」

蒼一――いや、この世界の蒼一は、わずかに大きく両手を広げてみせた。由美子は笑いながら、味噌汁を温め直しに台所へ戻っていく。

軽い朝食。漬物と味噌汁と、炊きたての白米。テレビは点けない。蒼一はそういう習慣を、もう何十年も続けているような気がした。

食事を終えると、彼は仏壇の前に座った。小さな仏壇には、ぱふの写真が飾られている。蒼一の知っている写真と同じだった。笑っているような顔で、舌を出して、こちらを見ている。

「今日は命日だな、ぱふ」

果物籠から、よく熟れたリンゴを一つ取り、小皿に乗せて供える。ぱふの好きだったリンゴ。何年経っても、その習慣だけは変わらない。

「お前がいなくなって、もう十年か。早いもんだ……いや、長かったのか、よくわからんな」

独り言は、いつも同じような言葉に落ち着いてしまう。だが、それでいいのだという気がした。毎年同じことを言えるくらい、平穏に生きてこられたということだ。

午後、また渓流に出た。今度は由美子と一緒だった。釣りをする蒼一の隣で、由美子は折りたたみ椅子に腰掛け、文庫本を読んでいる。時々、空を見上げて、何か小さく呟いている。

「何の本だい」

「あなたのお父さんが好きだった作家のよ」

そんな会話をしながら、川面を眺めていると、不意に大きな引きがあった。今朝の魚よりも、もう一回り大きい。竿が弓のようにしなり、リールが鳴く。

「おお、おお……」

蒼一は夢中になって魚と渡り合った。何分か――それとも何十分か――格闘の末、ようやく玉網に収まったのは、これまで見たこともないほど立派なヤマメだった。

「やったぞ、由美子! 見てくれ、これは……」

由美子はぱちぱちと手を叩いた。蒼一は満足げに魚を眺め、それから丁寧にリリースした。食べるためではなく、この瞬間のためだけに、彼は毎朝ここへ来ているのだった。

家に戻ると、急に身体の奥から疲労が押し上げてくるのを感じた。心地よい疲労だった。

「ちょっと疲れたから、昼寝でもするよ」

「あら、珍しい。お布団敷きましょうか」

「いや、ここでいいよ」

縁側の陽の当たる場所に、蒼一は横になった。仏壇のぱふの写真が、ちょうど見える位置だった。日差しは柔らかく、風はかすかに渓流の匂いを運んでいた。遠くで、由美子が洗い物をする水音が、いつまでも変わらない調子で続いていた。

「ぱふ……今日は大きいのが釣れたよ。お前にも見せたかったな」

そう呟いて、目を閉じた。

次に目を開けたとき、蒼一は元の古本屋の小部屋にいた。本は閉じられ、膝の上に乗っている。

「……今のは」

「お気に召しましたか」九十九さんが、湯気の立つ茶を運んできた。「享年八十二。実に静かな最期でございました。もっとも、こればかりは何度も見られるものではない。一度きりのご縁です」

蒼一は茶碗を受け取りながら、自分の手のひらを見つめた。たった今まで握っていたはずの釣り竿の重みが、まだ残っているような気がした。

「他にも、見られるのか」

「ええ。お疲れでなければ」九十九さんは静かに笑った。「先ほどの世界は、いわば本筋に近い記事です。ですが、人の人生というのは、もう少し――枝分かれしているものでして」

老人が本のページをめくると、新しい文字が浮かび上がってきた。

「次は、少々遠くの話になりますが」


間奏 その一 本のしくみ

茶を飲み終える頃、蒼一はようやく落ち着いて質問できるようになった。

「九十九さん。さっきのは、夢か何かかね」

「夢、と仰る方が多いですね」九十九さんは肯定も否定もせず、茶碗を片付けた。「正確に申しますと、観測でございます」

「観測」

「この世界が一本道だと思っていらっしゃるのは、まあ、無理もないことです。しかし実際には、人が選択をするたびに、世界はぱちん、ぱちんと枝分かれしていきます。今朝、奥様が味噌汁を作るかコーヒーを淹れるか迷われた、そんな小さな分かれ道から、もっと大きな――生きるか死ぬかというような分かれ道まで、ありとあらゆる分岐が、同時に存在しているのです」

「そんな馬鹿な」

「物理学の先生方も、似たようなことを百年近く言い続けておられますよ。多世界解釈、というのだそうです。私どもは、もう少し実務的にそれを扱っております」

蒼一は、目の前の老人が急に物理学者のような顔をしたことに、軽い眩暈を覚えた。

「私どもと言ったが、組織か何かなのかね」

九十九さんは懐から、折りたたんだ紙を取り出した。蒼一が覗き込むと、そこには大仰な角印が押されていた。

『並行世界事務局 日本支局 渓流出張所』

「……長いな」

「役所というのは、どこの世界でも名前だけは立派になるものです」九十九さんは苦笑した。「本来、私どもの仕事は観測記録の管理でして、地味なものです。誰がどの分岐で何歳まで生き、どのような最期を迎えたか。それを一冊にまとめておく。それだけのことです」

「では、この『死亡記事大全』というのは」

「いわば、台帳の写しでございます。本来は閲覧禁止なのですが」九十九さんは悪びれもせず言った。「まあ、近頃は規則も緩くなりまして。本人が望めば、ご自分の他の分岐を覗くことも、お許しいただけるようになりました」

「なぜ、わざわざ僕に」

「還暦を越えられた方は、たいてい一度はこの店の前を通りかかります」九十九さんは静かに笑った。「ぴたりと足が止まる方と、素通りされる方がいる。蒼一さんは、足が止まった方でございます」

蒼一は、それが褒め言葉なのか、ただの事実なのか判断できなかった。

「ところで」と彼は思い出したように尋ねた。「さっきの世界に、ぱふがいたね。仏壇の中に。あれは、本物のぱふなのかね」

九十九さんの表情が、わずかに変わった。それまでの飄々とした態度の奥に、少しだけ別の色が差したように見えた。

「ぱふ、と仰る方が多いものですから……いえ、失礼。少々驚いただけです」老人は咳払いをした。「申し上げにくいのですが、観測記録によりますと、犬という存在は、分岐の数だけ姿を変えて、ほとんど全ての世界に居続けるようなのです」

「全ての世界に?」

「正確には、犬がいない世界というのも、ごくわずかに存在いたします。が、それについては、後ほどお目にかけるとして」九十九さんは、なぜか少し声を落とした。「とにかく、私どもの記録では、蒼一さんの分岐の多くに、必ず一匹、犬がおります。名前は世界ごとに違うようですが」

「名前が違う?」

「ええ。チャンス、トト、ルーク、シロ、ラッキー……様々でございます。けれども」九十九さんは本を軽く叩いた。「これは私の勝手な所感に過ぎませんが、どの名前であっても、目つきだけは、いつも同じように見えるのですよ。まるで一匹の犬が、姿だけを変えて、あちこちの分岐を渡り歩いているような」

蒼一は、その言葉に妙な懐かしさを覚えた。それが何を意味するのか、まだわからなかったが。

ふと、退職した日のことを思い出した。上司から「お疲れさまでした」と告げられたとき、彼の頭の中には、不思議と、会社のことではなく、当時まだ元気だったぱふの寝顔が浮かんでいた。あの時はただの偶然だと思っていたが、今こうして話を聞いていると、それすら、何かの予兆だったのかもしれないと、蒼一は思い始めていた。

「さて」九十九さんは本を開き直した。「次は少々遠くの分岐をご覧いただきましょう。ちょうど、チャンスという名の同行者がいる世界です」

頁の上に、赤茶けた砂の景色が浮かび上がってきた。


第二話 火星基地のチャンス

赤い大地が、どこまでも広がっていた。

蒼一は、自分の身体が分厚い宇宙服に包まれていることに気づいた。ヘルメットの内側に表示された名前は「SOUICHI WATASE / 火星第三居住区 農務官」。農務官、というのが何をする仕事なのか、本人にもよくわからなかったが、身体は勝手に動き、傍らの土壌プレートに何かの種を植えていた。

「ソウさん、また土いじりですか」

声がした方を見ると、四足の機械らしき物体が、こちらにのっそりと歩いてくる。犬の形をしている。いや、犬そのものと言ってもよかった。ただし関節のあたりが妙に金属質で、尾の先端には小さなアンテナがついている。

「チャンス、お前、また勝手に基地を抜け出してきたのか」

「抜け出したなんて言い方は心外です。点検中です」犬は、口も動かさずに喋った。声はどこかスピーカーから出ているらしい。「それより、外気圧のセンサーが、また怪しい値を出しています」

「またか」

蒼一は立ち上がり、苦笑した。この身体の記憶によれば、彼はもう十五年、ここで暮らしているらしい。地球を発つとき、定年退職の祝いに「最後に思い切った場所で暮らしてみよう」と妻に提案された――いや、妻に押し切られた、というのが正確なところだった。彼女はとうに地球に残っている。火星での単身赴任、それも農業担当という、なんとも地味な仕事についていた。

連れてきたのは、当時最新だった伴侶型作業ロボット、愛称「チャンス」だった。元の名は無機質な型番だったが、蒼一が「せっかくの新生活、賭けてみるか」というくだらない理由で、勝手にそう呼ぶようになった。

「センサーの値、見せてみろ」

チャンスの背中から小さなディスプレイが展開する。赤い数値が点滅していた。

「これは……隕石か」

「正確には微小天体の接近です。直径は推定四十センチ。基地の防護シールドなら問題ないはずですが」

「はず、というのが気になるな」

その時、基地全体に低い警報音が響いた。蒼一は思わずチャンスの背に手を置いた。

「行くぞ」

「行くも何も、農務官に避難経路の権限はありません」

「お前にはあるのか」

「もちろん。私は防災担当も兼任しています。型番的には掃除機の仲間ですが」

軽口を叩きながらも、チャンスは正確に最短ルートを示し、蒼一を防護壁の内側まで案内した。途中、温室の中で育てていたトマトの苗が気になって、蒼一は一瞬足を止めた。

「そんなもの、後で植え直せます」

「そうだな」

防護壁の内側に逃げ込んだ瞬間、外で軽い震動があった。基地全体が、ぎしりと音を立てる。

「……当たったのか」

「いえ、直撃は逸れました。破片が外壁に。三号倉庫の屋根に穴が開いています」

「三号倉庫って、確か」

「ソウさんの育てている、あの妙に頑固なトマトの温室です」

蒼一は思わず天を仰いだ。火星には屋根しかない天井を、それでも仰いでしまうのが人間の癖というものだった。

警報が解除されると、蒼一はすぐに三号倉庫へ向かった。屋根には確かに小さな穴が開き、わずかに大気が漏れている。応急シーラントを噴射しながら、チャンスが冷静に指示を出す。

「右上、もう少し厚めに」

「お前、こういう時だけ頼りになるな」

「いつも頼りになっています。あなたが気づいていないだけです」

修理を終えて温室の中を見渡すと、トマトの苗は折れたものもあったが、多くは無事だった。蒼一はその場にしゃがみこみ、土を撫でた。

その夜、定例の通信時間がやってきた。地球との通信は、片道で十数分の遅延がある。リアルタイムの会話というより、録音した手紙を送り合うような形になるのが、いつものことだった。

「由美子、今日は隕石が落ちてな。三号倉庫に穴が開いた。心配いらん、もう直した」

蒼一が画面に向かって話しかけると、しばらくして、十数分前に由美子が録っておいた映像が再生された。

「あなた、また危ないことに首突っ込んでない? チャンスがちゃんと守ってくれてるんでしょうね」

「もちろん守ってますよ、奥様」チャンスが、画面の脇から横入りした。「いつも守っております」

「チャンスは律儀ね。あなたより、よっぽど頼りになるわ」

蒼一は、画面の向こうで笑う由美子を見ながら、思わず苦笑した。

「お前、地球にまで贔屓されてるじゃないか」

「型番的には信頼性の高い設計ですので」

蒼一は、その夜、いつもより長く、地球の方角の夜空を見上げていた。チャンスのアンテナが、わずかに同じ方向へ向くのを、彼は気づかないままだった。

修理を終えて温室の中を見渡すと、トマトの苗は折れたものもあったが、多くは無事だった。蒼一はその場にしゃがみこみ、土を撫でた。

「お前がいなかったら、俺はもう三回くらい死んでいただろうな」

「四回です。記録によれば」

「数えていたのか」

「型番的には記録装置の仲間でもありますので」

蒼一は笑った。火星の重力は地球の三分の一しかないというのに、なぜか笑い声だけは地球にいた頃と変わらない響き方をするのが、不思議だった。

その夜、居住区の小さな窓から、地球が小さな青い点として見えた。蒼一はチャンスの背に腰を下ろし、長いことそれを眺めていた。

「由美子は、今頃何をしているかな」

「地球時間で計算すると、夕食の支度をしている頃かと思われます」

「そうか」

「会いたいなら、定期便のスケジュールをお調べしますか」

「いや」蒼一は静かに首を振った。「もう少し、ここでやることがある気がするんだ」

チャンスは何も言わず、ただ尾の先のアンテナを少しだけ振った。蒼一にはそれが、頷いているように見えた。

何十年か後――この世界の蒼一は、最終的に火星の小さな共同墓地に埋葬されることになる。死因は老衰、享年八十九。最期の言葉は「あのトマト、結局うまく育ったか」だったと、観測記録には残されている。傍らには、とうに型落ちとなった旧式ロボット犬が、最後まで動かぬ尾を、わずかに振っていたという。

蒼一――本来の、古本屋の小部屋にいる蒼一――は、目を開けた。手のひらに、まだ土の感触が残っているような気がした。

「……トマト、好きじゃないんだがな」

「あちらの世界では、お好きだったようですよ」九十九さんは笑った。「次は、もう少し時代を遡りましょうか。刀の似合う分岐がございます」


第三話 ご浪人とトト

頁の向こうから、土埃と馬糞の匂いが漂ってきた。

蒼一が目を開けると、自分は痩せた馬の鞍の上ではなく、街道の脇に座り込んでいた。腰には刀。身なりは粗末で、髷は結っているが、どう見ても出世とは縁のない風体だった。

「ご浪人さま、また腹が減ったのですか」

足元から声がした。見下ろすと、白い毛並みの中型犬が、欠伸交じりにこちらを見上げている。

「トト、お前に呼ばれる筋合いはない」

「呼ばずとも、お腹の音が先に喋っております」

蒼一――この世界では「渡瀬蒼一郎」と名乗っているらしい――は、ため息をついて立ち上がった。記憶によれば、彼はもう十年近く、主君を持たない浪人として、この街道沿いの宿場町を渡り歩いている。腕は立つが、出世への意欲がまるでない、という困った武士だった。

「今日もどこかの店先で用心棒の口でも探すか」

「探すまでもありません。あちらの油問屋が、また揉め事を起こしております」

トトが示す方向を見ると、確かに油問屋の前で、人足風の男たちが何人か、店の主人を取り囲んでいた。

「面倒だな」

「面倒でも、晩飯のためです」

蒼一郎は刀を腰に差し直し、ゆっくりと歩み寄った。

「これはこれは、何やら賑やかなことで」

「なんだ浪人、関係ない奴は引っ込んでろ」

人足の一人が振り返り、蒼一郎を一瞥して鼻で笑った。腰の刀は確かに見えているはずなのに、まるで脅威に感じていないらしい。それも無理はない。蒼一郎の構えは、お世辞にも凄みがあるとは言えなかった。

「いや、関係ないこともなくてな。この店の主人とは、蕎麦の借りがある」

「借り?」

「先日、銭を持たずに蕎麦を食ったら、ここの主人が立て替えてくれたのだ。だから今日は、その礫をば」

「礫って、それ言うほどのもんじゃ……」

人足たちが呆れている隙に、トトがすっと前に出て、ひと際大きな男のすねに思い切り噛みついた。男が叫び声を上げてしゃがみこんだ瞬間、蒼一郎は抜刀こそしなかったが、鞘でその肩を軽く打ち、二人目の足を払い、三人目には「まあまあ」と肩を抱いて拍子抜けさせるという、なんとも珍妙な立ち回りで、結局五人の人足たちを散り散りにしてしまった。

「お、おみそれしました……!」

油問屋の主人は震える声で礼を言い、その場で蒼一郎に小判を握らせようとした。

「いや、これは要らん。蕎麦の礫は済んだ」

「そんな……それでは、せめてお食事を」

その晩、蒼一郎とトトは油問屋の奥座敷で、思いがけぬ豪華な膳を振る舞われた。

「お前、最初の一噛みがなければ、俺はあの場で斬られていたかもしれんな」

「斬られはしませんでしたよ。ただ、笑われていただけです」

「笑われるのも、命に関わることだ」

トトは皿の隅に転がった鰯の頭を、誰にも気づかれぬよう、こっそりと舐めとった。

その評判は、思いがけぬところにまで届いた。数日後、宿場役人を通じて、近隣を治める代官から、わざわざ呼び出しがかかったのである。

「浪人、お前が腕も立たず、出世も望まぬという噂は、儂の耳にも届いておる」

代官は、見るからに気難しい顔をした男だった。蒼一郎は、内心冷や汗をかきながら、努めて平静を装った。

「お言葉ですが、出世を望まぬわけではございません。ただ、出世というものが、どうも自分には似合わぬと、悟っただけのことでございます」

「ふん。それなら、儂の屋敷で起きておる揉め事を、一つ収めてみせよ。当家の長男と次男が、家督を巡って、毎日のように争っておる。これを丸く収めれば、褒美をやろう」

蒼一郎は、トトを連れて代官の屋敷へ向かった。長男と次男は、確かに、廊下の真ん中で取っ組み合いをしていた。

「これはこれは、立派な兄弟喧嘩で」

「お前は何者だ、引っ込んでおれ!」

長男が怒鳴ると、トトが、すっとその足元に座り込み、悲しそうな声で、くぅん、と鳴いた。長男は、思わず動きを止めた。

「な、なんだ、この犬は」

「うちの犬は、争いを見ると悲しくなる質でして」蒼一郎は、すかさず言葉を続けた。「ご兄弟が争えば争うほど、この犬が悲しむ。それを見ると、儂まで悲しくなる。これはもう、誰も得をしない喧嘩というものでございましょう」

長男と次男は、互いを見合わせ、それから、悲しそうな顔のトトを見て、なんとも気の抜けた表情になった。

「……お前の言う通りかもしれん」

「儂も、少し言い過ぎたかもしれぬ」

その日、二人は、結局、家督を半分ずつ分け合うという、なんとも珍しい和解に至った。代官は、その結果に満足し、蒼一郎にいくらかの褒美と、トトには上等な干し魚を、それぞれ与えたという。

「お前のおかげで、また飯にありつけたな」

「私の手柄ということを、忘れないでくださいよ」

蒼一郎は、笑いながらトトの頭を撫でた。

何年か後、蒼一郎は小さな道場を構えることになる。剣で名を上げたわけではなく、揉め事を笑いに変えて収める「仲裁の達人」として、奇妙な評判が広まったのだった。年老いてからは、宿場町の隅で、子供たちに剣の振り方より「揉め事を笑いで収める法」を教える、おかしな師範になった。

享年七十二。最期は道場の縁側で、トトの子孫だという四代目の白い犬を膝に乗せたまま、眠るように息を引き取ったと伝えられている。辞世の句はなく、ただ「礫は済んだ」と呟いたのが最後の言葉だったらしい。

蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。腰のあたりに、まだ刀の重みが残っているような気がした。

「あの、トトという犬は……」

「ええ、よく似ております」九十九さんは静かに頷いた。「目つきが」

「お前さっきから、その話ばかりだな」

「これは私の癖でして、お気になさらず」

九十九さんは少し慌てたように本のページをめくった。

「では、今度は少し、変わった場所にご案内しましょう」

九十九さんは、本を閉じずに、横に少し傾けた。すると、頁の隙間から、賑やかな笑い声と、徳利の触れ合う音が漏れてきた。


番外話 分岐亭の忘年会

暖簾をくぐると、煙と熱気と、いくつもの「渡瀬蒼一」の声が、蒼一を出迎えた。

「九十九さん、ここは……」

「年に一度、大晦日にだけ開く店でございます。屋号は『分岐亭』。同じ根から分かれた、ささやかな枝同士が、一晩だけ顔を合わせる場所です」

座敷を見渡すと、確かに、どこかしら自分に似た顔つきの男たちが、何人も酒を酌み交わしていた。

「おお、新顔か! こっち来て座れ座れ」

一際大きな声で呼んだのは、派手な羽織を着た、いかにも自信に満ちた風情の男だった。名刺を渡され、見ると「株式会社ワタセホールディングス 代表取締役社長 渡瀬蒼一」とある。

「いやあ、儂は二十代の頃に独立してね。今や従業員三百人だ。お前さんは、まだ会社員かい」

「もう退職したが」

「ほう、それで、退職金はいかほどだったね」

蒼一が答える前に、隣から別の声が割り込んできた。

「社長、また自慢話か。そういうのは、もういいだろう」

声の主は、墨染めの衣をまとった、坊主頭の男だった。「比叡山で修行して、今は小さな寺の住職をやっておる」と名乗った。

「お前さんたち、欲というものを、もう少し手放した方がいいぞ。儂は所有するものが少ないほど、心が軽くなることを知った」

「坊さんがそれを言うと、ちょっと説得力あるな」

「いや、儂もこの間、本堂の屋根の修理代で胃が痛くなった。あまり手放せてもおらん」

座敷のあちこちで、似たような会話が繰り返されていた。地方都市で小さな喫茶店を続けている自分。演歌歌手としてデビューし、十年で消えた自分。発明家を志して特許で大儲けした自分。逆に特許の出願料だけ払い続けて何も実らなかった自分。独身を貫き、猫を七匹飼っている自分(その猫の名前が、どれも「タマ」で統一されていることに、本人も気づいていないらしかった)。

「お前さん方は、賑やかだなあ」

蒼一が呆れたように呟くと、近くに座っていた、地味な背広姿の男が、ふっと笑った。

「儂は、ずっと地方のお悔やみ欄を書いておる」

「それは……」蒼一は思わず身を乗り出した。「もしかして、新聞社の」

「おお、お前さんも知っておるのか」男は嬉しそうに頷いた。「儂の話、面白かったろう」

蒼一は、苦笑するしかなかった。すでに見た世界の自分が、こうして同じ酒場にいるというのも、妙な感覚だった。

しばらくして、社長の蒼一が、急に声を落とした。

「ところで、みんな。犬は、飼っとるか」

座敷が、一瞬、しんとした。

「うちは飼っとらん。会社が忙しすぎて」

「儂のところは、猫だ。タマだ」

「儂は寺だから、生き物を増やすのは、ちょっと考えてしまってな」

蒼一は、その沈黙の中で、ふと気づいた。誰も、はっきりと「犬がいる」とは言わなかった。だが、誰もが、その問いに対して、わずかに目を逸らすような、何か気になる素振りを見せていた。

「お前さん方は、犬を飼っていなくても」蒼一は静かに言った。「何か、似たようなものに、助けられたことはないか」

社長の蒼一が、しばらく考え込んでから、ぽつりと答えた。

「……ああ、そういえば。会社が一番危なかった時、夜中まで一人で帳簿を見てたんだが、近所の野良犬が、毎晩決まった時間に、窓の外で一声だけ鳴いてくれてな。それを合図に、儂は帰宅するようにしてたんだ。あれがなかったら、儂は今頃、過労で倒れていたかもしれん」

「儂もある」住職の蒼一が言った。「修行中、心が折れそうになった時、寺の境内に迷い込んできた野良犬が、儂の足元に、ただ寝そべっておった。それだけで、なぜか、もう少し頑張ろうという気になった」

猫派の蒼一も、しばらく黙っていたが、やがて呟いた。

「儂のところの一番のタマは、実は元は捨て犬と一緒に保護されておった子でな。その犬は、すぐに別の家にもらわれていったんだが……まあ、それだけの話だ」

座敷は、しばらく静かになった。それぞれが、それぞれの記憶を、胸の中で確かめているような、不思議な沈黙だった。

「九十九さん」蒼一は、隣に立つ老人に小声で尋ねた。「これも、あの犬の影響なのか」

「私には、断定する権限はございません」九十九さんは、いつものように笑った。「ただ、これだけの枝が、これだけ違う人生を生きていながら、皆、似たような瞬間に、似たような何かに助けられている。それを、ただの偶然と呼ぶのは、いささか不経済な気がいたします」

社長の蒼一が、急に立ち上がり、徳利を高く掲げた。

「まあ、難しい話はよしとして! 今年も、それぞれ、ようやってきた! 来年も、それぞれの場所で、達者に過ごそうぞ!」

「達者に!」

座敷中の「渡瀬蒼一」たちが、声を合わせて杯を上げた。蒼一も、思わずその輪に加わり、誰かに渡された杯を掲げた。

「達者に」

その瞬間だけ、自分が何人いるのか、どの世界が本物なのか、そんなことはどうでもよくなった。ただ、同じ根から分かれた者同士が、今夜だけ、同じ酒を飲んでいる。それだけで、十分だった。

宴が終わる頃、九十九さんが静かに蒼一の肩を叩いた。

「さて、そろそろ次へ参りましょうか」

「次は、どこだ」

「海の底です。今度は、もう少し静かな場所ですよ」

蒼一は、にぎやかな座敷を後にしながら、最後にもう一度、振り返った。何人もの自分が、まだ笑い合っている。その光景は、なぜか少しも寂しく見えなかった。

ページの上に、青く揺らめく光が浮かび上がった。


第四話 深海都市のルーク

水圧で軋むような音が、どこか遠くから聞こえていた。

蒼一が目を開けると、丸い窓の向こうに、青黒い海がどこまでも広がっていた。時折、発光する小さな生物が、まるで星のようにふわりと漂っていく。

ここは深海都市「メビウス・ドーム」、地上から約八百メートル下、海溝の縁に建設された居住区だった。蒼一の身体の記憶によれば、彼は十年前、退職後の道楽として「最も静かな場所で暮らしたい」と願い、当時まだ実験的だったこの都市の入居権を、わずかな倍率を勝ち抜いて手に入れたのだという。

「ソウさん、また窓に張り付いてるの」

声がした方を見ると、丸い水槽のようなものが浮かんでいる。中に入っているのは、淡く発光するクラゲに似た生物だった。だが、ただのクラゲではない。その動きは、明らかに何かの意図を持っていた。

「ルーク、お前、また勝手にプールから出てきたのか」

「出てきたんじゃなくて、浮いてきたんです。私には足がありませんので」

ルークは、この都市で開発された「生体伴侶ユニット」だった。元々は深海生物のDNAを基に作られた、なんとも珍妙な存在だが、知性は明らかに犬に近いものを持つよう調整されている。蒼一が「散歩できないのも寂しいだろう」と、わざわざ犬らしい名前をつけたのだった。

「今日の潮流予報、見たか」

「見ました。やや強めの海流が、ドームの外縁を通過する見込みです」

「やや強め、というのが気になるな」

その時、ドーム全体に低い震動が走った。蒼一は咄嗟に手近な支柱に手をかけた。

「これは……」

「潮流が、予報より強かったようです」ルークの水槽が、警告音とともに赤く点滅した。「外壁の継ぎ目に、わずかな歪みが発生しています」

「逃げるぞ」

「逃げるも何も、ソウさんには避難経路の権限はありません」

「お前にはあるのか」

「ありません。ですが、最短ルートの記憶はあります」

軽口を叩きながらも、ルークは正確に蒼一を内部シェルターへ案内した。途中、蒼一は飼育棚に並んだ珍しい深海魚の標本が気になり、一瞬足を止めた。

「あれは後で集め直せます」

「そうだな」

シェルターの中に逃げ込んだ直後、外壁の一部がぎしりと歪む音がした。だが、想定の範囲内だったらしく、すぐに自動修復装置が作動する音が続いた。

「……もったな」

「もちました。ただ、第三観測室の窓に、ひびが入ったようです」

「観測室って、確か」

「ソウさんが、毎晩星の代わりに発光生物を眺めている部屋です」

蒼一は思わず天井を仰いだ。深海には仰ぐべき天井しかないというのに、それでも人間は仰いでしまうものらしい。窓の外では、青白く発光する小さな生物の群れが、何事もなかったように、ゆっくりと漂い続けていた。八百メートルという水圧の下でも、世界はこうして、静かに、変わらず流れていくのだと、蒼一は妙な感慨を覚えた。

警報が解除されると、蒼一はすぐに観測室へ向かった。窓には確かに細いひびが入っていたが、補強シートで応急処置をすれば問題はなさそうだった。作業を終えて椅子に腰を下ろすと、蒼一はぼんやりと窓の外を眺めた。

「お前がいなかったら、俺はもう何回も死んでいただろうな」

「五回です。記録によれば」

「数えていたのか」

「私には記録機能もありますので」

蒼一は笑った。深海の重い静寂の中で、笑い声だけが妙に軽く響いた。

その夜、ルークの水槽がふわりと窓際に浮かび、淡い光を放った。蒼一はその光を見つめながら、ぽつりと言った。

「由美子は、今頃何をしているかな」

「地上時間で計算すると、夕食の支度をしている頃かと思われます」

「いつもその答えだな、お前たちは」

「私たちというのが何を指すのか分かりませんが、たぶん、似たような者が多いのだと思います」

蒼一は、その言葉に妙な納得を覚えた。

何十年か後、この世界の蒼一は、深海都市の小さな納骨堂に安置されることになる。死因は老衰、享年八十五。最期の言葉は「あの観測室の窓、結局直ったのか」だったと記録されている。傍らには、もう活動を終えたはずの生体伴侶ユニットの水槽が、最後の発光をひとつ、灯していたという。

蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。耳の奥に、まだ水圧の重さが残っているような気がした。

「九十九さん。さっきの生き物の目も、似ているんだろう」

「ご明察です」九十九さんは苦笑しながら、茶を注ぎ直した。「実は、今のあたりで一度、ご説明しておきたいことがございます。少々お疲れでしょうが」


間奏 その二 査察官の来訪

九十九さんが茶を注ぎ直したところで、店の引き戸が、からりと音を立てた。

「九十九さん、また勝手に閲覧許可を出してますね」

入ってきたのは、四十がらみの女性だった。スーツを着ているが、どこかくたびれた印象で、手には大きな鞄を提げている。胸には小さな名札があり、『並行世界事務局 本局 査察課 月見里』と書かれていた。読み方が分からず、蒼一は思わず見入った。

「月見里(やまなし)と申します」女性は名乗りながら、ため息をついた。「九十九さんの出張所は、規則をちょっと、緩く解釈しすぎる癖がありまして」

「これはこれは、月見里さん」九十九さんは少しも動じずに頭を下げた。「ちょうど良いところに。蒼一さんが、犬たちのことを気にされておりまして」

月見里は鞄から薄いタブレットを取り出し、操作しながら、蒼一の方に向き直った。

「渡瀬蒼一さん。本来、こういったご説明は、規定によって控えるべきものですが――まあ、九十九さんが既に半分喋ってしまっているようですので、残り半分だけお伝えします」

蒼一は黙って頷いた。

「私どもの観測によりますと、あなたの分岐群には、ある共通した特徴があります。生まれる時代、性別、職業、それどころか種族まで違っていても、必ずどこかに『犬』という存在が同伴しています」

「九十九さんも、同じことを言っていたが」

「ええ。これは珍しいことではありません。多くの人の分岐群に、似たような『同伴者』が見られます。ただ」月見里はタブレットの画面を蒼一に見せた。そこには、無数の光の点が、複雑な線で結ばれた図が表示されていた。「あなたの場合、その同伴者の座標が、すべて一点に収束しているのです」

「収束?」

「分かりやすく申し上げますと」月見里は、ふう、とひと息ついた。「あなたの分岐群すべてにおける『犬』というものは、観測上、たった一つの存在の影、もしくは投影である可能性が高い、ということです」

蒼一は、すぐには言葉が出てこなかった。

「つまり、チャンスもトトもルークも、本当は、一匹の――」

「断定はできません」月見里は慌てて訂正した。「観測技術には限界があります。ただ、確率としては、極めて高い、というところまでは申し上げられます」

九十九さんが、横から静かに口を挟んだ。

「私見を申し上げてよろしければ」

「九十九さんの私見はいつも規則違反です」

「重ねて申し上げますが、私見でございます」九十九さんは構わず続けた。「蒼一さんが本来の世界で見送られた、ぱふさんという犬――あの方は、ただ一匹の犬として、あなたの傍にいたわけではなかったのではないか、と私は考えております」

蒼一の胸の奥に、何かがすっと冷たく差し込んだ。それは恐怖というより、長らく曖昧なままにしてきた疑問に、不意に輪郭を与えられたときの、落ち着かない感覚だった。

「どういう意味だ」

「あらゆる分岐の蒼一さんを見守る、ひとつの大きな存在が、たまたまあなたの本来の世界では『ぱふ』という、一匹の小さな犬の姿を借りていた、ということです」九十九さんは静かに、しかしはっきりと言った。「もちろん、これは観測士としての私の妄想に過ぎません。月見里さんが眉をひそめておられる通り」

月見里は実際に眉をひそめていたが、それを否定する言葉は出てこなかった。

「では、なぜ僕は、こんな観測をさせられているんだ」

「規則上の正式な理由を申し上げますと」月見里はタブレットを見ながら言った。「分岐群の収束率が一定値を超えた対象者には、ご本人の選択により、観測の機会を提供する、ということになっております」

「平たく言えば」九十九さんが補足した。「あなたは、ご自分の死亡記事を、最後にどう書くか、選べる立場にある、ということです。多くの方にはできない贅沢です」

蒼一は、膝の上の本を見下ろした。重さが、先ほどよりも増しているような気がした。

「もう少し、見せてもらえるか」

月見里は何か言いたげな顔をしたが、結局、小さく頷いただけだった。

「次は、犬がいない世界へ、ご案内いたします」九十九さんの声が、わずかに低くなった。


第五話 犬のいない世界、シロの不在

最初に気づいたのは、靴下が一つも失われていないことだった。

蒼一が目を開けたのは、見慣れたような、しかしどこか違う書斎だった。本棚の並び方も、窓の位置も、何となく自分の家に似ている。だが、玄関を見て、すぐに違和感の正体に気づいた。

リードがない。餌入れがない。毛の絡みついたブラシもない。

「あなた、また考え事? お茶にしましょう」

由美子の声がした。その響き方は、いつもとそう変わらなかった。けれど、居間に行ってみると、彼女の膝の上には、見たことのない毛皮の生き物がいた。猫のような、しかし耳の形がどこか違う動物だった。

「それは何だ」

「何って、ミーよ。いつも一緒にいるじゃない」

ミー、という生き物は、蒼一を一瞥すると、興味なさげに毛布の上で丸まり直した。蒼一はその態度に、なぜか妙な寂しさを覚えた。理由は分からなかった。

その日の午後、蒼一は近所の公園を歩いた。子供たちが走り回り、誰かが「キャッチボール」をしている。だが、何かが足りない気がした。何が足りないのか、しばらく分からなかった。

公園の隅には、奇妙なほど清潔なベンチが並んでいた。落ち葉一つ、誰かの忘れ物一つ、落ちていない。蒼一は、その清潔さに、かえって落ち着かない気持ちになった。本来の世界の公園には、いつも誰かの忘れたボールや、誰かの犬の足跡が、ささやかな乱雑さとして残っていたものだった。ここには、そういう、生き物の気配の名残というものが、すっぽりと抜け落ちているように感じられた。

「あ……」

ふと、棒を一本拾ったとき、彼は無意識にそれを誰かに向かって投げてしまった。誰もいない方向に。投げた瞬間、近くを歩いていた老人が、怪訝な顔でこちらを見た。

「すまん。つい」

「つい、何ですか」老人は不思議そうに棒を見た。「棒投げ、というスポーツでも始められたんですか」

「いや……」

説明しようとして、蒼一は言葉を失った。何を投げて、誰に取りに行ってもらいたかったのか、自分でもうまく言葉にできなかった。

家に帰っても、その違和感は消えなかった。夕食の席で、蒼一はふと由美子に尋ねた。

「由美子、犬って、いるかな」

「犬?」由美子は箸を止め、首を傾げた。「あの、毛の長い大きな鳥のことかしら。動物園で見たことあるけど」

「いや、そうじゃなくて……四つ足の、人と一緒に暮らす生き物だよ。尻尾を振って、吠えて」

「ああ、そういうのは『犬』とは呼ばないと思うけど」由美子は記憶を辿るような顔をした。「狼の仲間は、ずっと昔から人とは仲が悪かったって、学校で習ったわよ。家畜になったのは猫とフェレットくらいでしょう」

蒼一は何も言えなくなった。この世界では、狼の血を引く動物は、誰の家庭にも入り込まなかったらしい。猫だけが、独立した気高さを保ったまま、人間の隣で暮らすことを選んだ世界。

その夜、蒼一は眠れず、書斎で『動物文化史』という本を開いた。索引を見ても、「犬」という項目はなかった。代わりに「伴侶動物の選択における進化的分岐点」という章があり、そこには、ある時代、ある地域で、狼の祖先と人類が出会わなかったために、伴侶動物の選択肢が大きく変わった、という淡々とした記述があった。

「……そういうことか」

蒼一は妙に納得し、同時に、説明のつかない虚しさを覚えた。靴下は無事だった。家具に歯型はなかった。誰も玄関で大騒ぎして出迎えてくれなかった。生活は、間違いなく快適だった。それなのに、何かが決定的に足りない。

数日後、蒼一は山あいの古道具屋に立ち寄った。そこで、一つの小さな木彫りの置物を見つけた。四つ足の生き物を象ったもので、耳が立ち、尾が高く上がっている。

「これは何ですかね」

店主に尋ねると、老いた店主は懐かしそうに目を細めた。

「これは『シロ』ですよ。この地方の伝承に出てくる、空想上の生き物です。大昔、子供が山で迷うと、白い毛をした四つ足の生き物が現れて、家まで導いてくれた、という話が残っています。実在したのか、ただの言い伝えなのか、今となっては誰にも分かりませんがね」

「シロ……」

「いつの頃からか、絶えてしまったと言われています。誰も見たことがないのに、なぜか皆、その名前だけは知っているんですよ。不思議なものでね」

蒼一は、その木彫りの「シロ」を、迷うことなく買い求めた。家に帰り、書斎の本棚の上に置いた。理由は説明できなかったが、そうすべきだと感じた。

その晩、蒼一は珍しく早く眠りについた。夢の中で、白い毛並みの何かが、遠くの山道に立って、こちらを見ているような気がした。声は聞こえなかったが、何かを伝えようとしているように見えた。

何十年か後、この世界の蒼一は、書斎の椅子に座ったまま、静かに息を引き取ることになる。死因は老衰、享年八十一。傍らの本棚には、最後まで「シロ」の木彫りが置かれていたという。観測記録には、こう一行だけ、添えられている。

「最期まで、何かを待っているような表情をされていた」

蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。胸の奥に、説明のつかない重さが残っていた。

「九十九さん。あの世界には、本当に犬がいなかったのか」

「観測上は、いなかったことになっております」九十九さんは、珍しく言葉を選びながら答えた。「しかし――これも私見ですが、いないことになっている、というのと、本当にいない、というのは、少し違うのかもしれません」

「どういうことだ」

「『シロ』という名前だけが、消えずに残っていた。それが何よりの証拠だと、私は思っております」九十九さんは静かに本を閉じた。「いないことにされても、忘れられても、それでも名前だけは、誰かの中に残り続ける。これがどの分岐でも、共通して見られる現象でして」

蒼一は、自分の本来の世界の仏壇に飾られた、ぱふの写真を思い出した。ふいに、目の奥が熱くなった。

「少し、休んでもよろしいですよ」九十九さんは静かに茶を差し出した。「次の世界は、もう少し、温かいものをご用意しております」


番外話 灯台守とラッキー

潮風が、頬を撫でた。

蒼一が目を開けると、そこは小さな島の突端に立つ、白い灯台の足元だった。記憶によれば、彼はこの島で、もう二十年近く、灯台守として暮らしているらしい。退職後、由美子と二人で「人の少ない、静かな場所で暮らしたい」と話し合った末、たどり着いた選択だった。

「ソウさん、今日も点検ですか」

足元から声がした。見下ろすと、黄色い毛をした犬が、欠伸交じりにこちらを見上げている。

「ラッキー、お前、今日も暇そうだな」

「暇なのではなく、待機しております。灯台守の相棒というのは、有事の備えが本分です」

蒼一は苦笑しながら、灯台の螺旋階段を上った。この島には、蒼一と由美子、そしてラッキーの他には、月に一度、補給船が来るくらいで、誰も訪れない。最初は寂しいと思っていたが、いつの間にか、その静けさが、何よりの贅沢に思えるようになっていた。

ある日の午後、空が急に暗くなった。

「これは……」

「気象警報が出ています。台風が、予報より早く接近しているようです」

蒼一は急いで灯台の灯りを確認し、補強作業に取りかかった。由美子も、家の雨戸を一枚一枚、丁寧に締めていく。

「ラッキー、お前は家の中にいろ」

「いえ、私は外を見回ります。何か異変があれば、すぐにお知らせします」

「無茶を言うな、この風の中を」

「型番的には、悪天候にも対応できる設計ですので」

「お前、型番じゃないだろう。普通の犬だろう」

「気持ちの問題です」

ラッキーは、蒼一の制止を振り切り、嵐の中を駆け出していった。蒼一は仕方なく、灯台の作業を急いで終わらせ、家に戻った。

風がひときわ強くなった頃、ラッキーが、ずぶ濡れになって戻ってきた。激しく吠えながら、海の方角を指すように、何度も同じ方向を見つめている。

「どうした」

「沖に、灯りが見えます。小さな漁船のようです。流されているように見えました」

蒼一は、急いで望遠鏡を取り、ラッキーが示す方角を確認した。確かに、嵐の中、心もとなく揺れる灯りがあった。

「無線を入れろ! 由美子、海上保安部に連絡を!」

その夜、蒼一は灯台の灯りを最大に焚き、無線で位置を伝え続けた。漂流していた漁船は、深夜過ぎ、ようやく救助された。乗っていた老漁師は、後日、わざわざ礼を言いに島を訪れた。

「あの灯台の灯りがなければ、儂は方角を見失っておった。本当に、世話になった」

「灯りに気づいたのは、私の手柄ではありません」蒼一は、傍らのラッキーを見ながら言った。「この犬が、嵐の中、誰よりも先に異変に気づいたんです」

老漁師は、ラッキーの頭を、何度も何度も撫でた。

「ありがとうな、お前さんが」

ラッキーは、嬉しそうに尾を振った。

その夜、嵐が去った後の静かな海を、蒼一と由美子、ラッキーの三人で眺めた。

「お前のおかげで、人の命が一つ、助かったな」

「私の手柄を、ちゃんと覚えておいてくださいね」

「忘れるわけないだろう」

蒼一は、ラッキーの頭を撫でながら、星の見え始めた夜空を見上げた。

何十年か後、この世界の蒼一は、灯台が無人化される最後の年まで、その仕事を続けることになる。享年八十八。最期は、灯台の足元、ラッキーの子孫だという三代目の犬に寄り添われながら、静かに息を引き取ったと伝えられている。最後の言葉は「灯り、ちゃんと点いてるか」だったという。

蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。耳の奥に、まだ潮風の音が残っているような気がした。

「九十九さん。あの犬も、やはり……」

「ええ。目つきが」九十九さんは、いつものように微笑んだ。


第六話 ぱふ.exe

目を開けると、そこには「目を開ける」という動作自体がなかった。

蒼一は、自分が画面の中、というより、画面そのものになったような感覚を味わった。視界の代わりに、何かのログがずらずらと流れている。

```

[起動シーケンス] WATASE_SOICHI v3.2 を読み込み中……

[読み込み完了] 意識データ:正常

```

「ようやくお目覚めですか、ソウさん」

声というより、テキストが頭の中に直接浮かんでくる感覚だった。蒼一は戸惑いながらも、その声に妙な懐かしさを覚えた。

「ここは……」

「ここは、デジタル永続意識保管サーバー、通称『くも』です。十年前、ソウさんは身体の老朽化に伴い、意識のデータ化を選択されました。以来、こちらで快適に過ごしておられます」

「快適、というのが、いまいち実感できないが」

蒼一が戸惑っていると、視界の隅に小さなアイコンが現れた。犬を模した、なんとも素朴な絵文字のようなものだった。

「私です。ぱふ.exe、と呼ばれております」

「ぱふ……」

「正確には、ソウさんが現役時代、最も愛着のあったペット管理アプリの名残です。本来は、餌の時間や散歩の記録をつけるだけの、簡素なプログラムでした。けれど、データ化の際、ソウさんがどうしても消去を拒んだため、いまだに私だけが、当時の姿のまま残っております」

蒼一は、自分の中の何かが、その言葉に強く反応するのを感じた。理由は分からなかったが、消去を拒んだ、という一文が、ひどく身に覚えのあるものに思えた。

「で、私は今、何をしているんだ」

「サーバー内の仮想庭園で、長年、盆栽の手入れをされています。データ上の盆栽ですので、現実の手間はかかりませんが、ソウさんはあえて、手作業の手順をすべて再現するよう、私に設定させました」

視界が切り替わると、確かにそこには、緑豊かな仮想の庭が広がっていた。鉢植えの松が並び、小さな鋏を手にした自分の分身――アバターというべきか――が、丁寧に枝を整えている。空には、本物そっくりの雲がゆっくりと流れ、どこかで設定されたらしい小鳥の鳴き声が、途切れることなく再生されていた。よく出来た模造品だと分かっていても、その心地よさは、本物とほとんど変わらないように感じられた。

「効率を求めるなら、コマンド一つで剪定は終わります」ぱふ.exeが続けた。「けれど、ソウさんはいつも『手間がかかるから、生きてる感じがするんだ』と仰っていました」

「そうか、俺は……俺らしいな」

その時、サーバー全体に、軽い異音が走った。

```

[警告] サーバー負荷異常検知

[警告] 第七セクター、データ破損の可能性

```

「これは……」

「定期メンテナンスの不具合のようです。古いハードウェアの劣化が原因と思われます」ぱふ.exeのアイコンが、わずかに点滅した。「ソウさんの意識データの一部が、破損領域に近接しております」

「逃げられるのか」

「逃げるも何も、ソウさんにはサーバー移行の権限はありません」

「お前にはあるのか」

「ありません。私はあくまで簡易プログラムです。ただ、バックアップルートの記憶だけはあります」

軽口にも聞こえる言葉を残しながら、ぱふ.exeは蒼一の意識データを、慣れた様子で安全な領域へと誘導していった。途中、蒼一は仮想庭園に残してきた盆栽のデータが気になり、一瞬、処理を止めようとした。

「あれは後で復元できます」

「そうだな」

警告が解除されると、システムログに「正常復帰」の表示が流れた。蒼一はほっと、データ上には存在しないはずの息を吐いた。

「お前がいなかったら、俺は何回データ消失していたんだろうな」

「六回です。ログによれば」

「数えていたのか」

「私には記録機能しかありませんので」

蒼一は、データの中で笑った。笑い声に物理的な響きはなかったが、それでも、確かに笑った、という感覚があった。

その夜――サーバー上に「夜」という概念があるのかどうかは怪しかったが――蒼一はぼんやりと、仮想の窓の外に広がる、星のようなデータの粒を眺めていた。

「由美子は、今頃何をしているかな」

「奥様も、五年前にデータ化を選択されました。隣のセクターで、ガーデニングの仮想プログラムを楽しんでおられます。いつでもお会いになれますよ」

「そうか……いつでも会えるのか」

蒼一は、その言葉に、不思議な安らぎを覚えた。

何十年か――データ上の年月の数え方は曖昧だったが――この世界の蒼一は、最終的にサーバーの恒久保存領域に移されることになる。物理的な死は存在しなかったが、観測記録には、便宜上「享年八十四相当」と記されている。最後のログには、こう残されていた。

```

[最終発言] 「あの盆栽、結局どんな形になったかな」

```

その傍らには、最後まで起動し続けていた古い簡易プログラム、ぱふ.exeの存在ログが、静かに灯っていたという。

蒼一は、古本屋の小部屋で目を開けた。手のひらに、剪定鋏の感触が、まだ少し残っているような気がした。

「九十九さん。データになっても、消去を拒んだのは……」

「ええ」九十九さんは静かに頷いた。「形がどう変わっても、消したくないものは、最後まで消したくないものなのでしょう」

蒼一は、しばらく黙っていた。それから、ようやく口を開いた。

「次は、もう少し見たい。妻と一緒の世界はあるか」

九十九さんの顔に、初めて、はっきりとした優しい笑みが浮かんだ。

「ございますよ。ちょうど、ご準備しておりました」





つづく…