今朝、何者かが背筋から侵入してきたが、特に何も起こらなかった件
―銀河系最弱の侵略者と、平凡なサラリーマンの、はなはだ生産性に欠ける一週間―
まえがき
宇宙人に侵略される話は数多くあります。
地球が滅亡したり、巨大兵器が空を覆ったり、人類が存亡の危機に立たされたり。
けれど、もし侵略者のほうが少しだけ頼りなく、しかも予算削減のあおりを受けた役所勤めだったら、いったい何が起きるのでしょうか。
本作は、そんな「壮大なはずなのに、妙に生活感のある侵略」を描いた物語です。
背筋から侵入してきた宇宙人。
けれど彼にできることは、まばたきを少し動かしたり、通勤タイミングを微調整したりする程度。
世界は救われません。
世界も滅びません。
ただ、少しだけ毎日が便利になって、少しだけ誰かがいなくなるのが寂しくなる――そんな一週間のお話です。
読んでくださった皆さまの日常にも、名前のつかない小さな奇跡がありますように。
序章 侵入
結論から言おう。俺、来栖岳(くるすがく)、三十二歳、独身、係長補佐(という名の万年係長候補)の体には、現在、宇宙人が住んでいる。
いや、正確には「住んでいる」というと家賃を払ってくれそうな響きがあって誤解を招く。住み着いている、いや、間借りしている、いや――とにかく入り込んでいる。本人(本宇宙人)曰く「合法的な観察活動の一環」だそうだが、合法かどうかを判断する地球側の法律はまだ存在しないので、その主張の正当性については保留とする。
事の始まりは、火曜日の朝、六時四十二分だった。
目覚まし時計が鳴る三分前、俺はまだ半分眠っていた。布団の中で寝返りを打とうとしたその瞬間、背中の真ん中、ちょうど手の届かない場所から、何かが「入ってきた」のである。
比喩ではない。本当に、物理的に、ぐっと押し入ってくる感触があった。冷たいというより、奇妙に生温かい何か。まるで満員電車で後ろから押されたときのような、抵抗のしようがない圧。それが背骨に沿って、すうっと入り込んでいく。
体が動かない。声も出ない。いわゆる金縛りというやつだ――そう思おうとした。学生時代に一度経験したことがある。あれは確か、レム睡眠から覚醒する際に脳だけ先に起きて体だけ眠っているとかいう、医学的にちゃんと説明のつく現象だったはずだ。だから今回もきっとそれだ。きっとそうに違いない。
そう自分に言い聞かせている間に、感覚は終わった。十秒か、二十秒か。とにかくあっという間に、体の自由は戻った。
俺は布団から飛び起きた。心臓が痛いくらい鳴っていた。部屋を見回す。いつもの六畳。いつものカーテン。いつもの、洗濯し忘れた靴下が床に転がっている光景。何も変わっていない。
「……気のせい、だよな」
声に出してみる。いつもの自分の声だ。少し掠れているのは寝起きだからだろう。
しかし、その日一日、俺は妙に落ち着かなかった。何者かに身体を乗っ取られるのではないか、という、子供じみた不安がどうしても拭えなかったのだ。これまで一日中それを警戒して過ごしてきたが、今のところ何も起きてはいない。
夢か、現か、幻か。
それとも逆に、何かが「取れた」のか。
はてさて、明日の朝、俺は無事に生還できるのだろうか――などと、いささか大げさなことを考えながら、その日はとりあえず会社に行った。
これは、その後の俺の体に何が起きたかについての、些末で、間抜けで、そして最終的にはやや感動的とも言えなくはない(本人はそう思っていないが)、一週間の記録である。
第一章 同居人、未満
水曜日の朝、それは唐突に喋り出した。
「――テスト、テスト。聞こえているか、現地生命体」
俺は歯ブラシを口に入れたまま、洗面所の鏡の前で固まった。声は外から聞こえたわけではない。頭の中、もっと言えば、脳の奥のほう、こめかみの裏あたりから直接響いてきた。
「聞こえているなら、何らかの反応を返してほしい。まばたきでもいい」
俺はとりあえず歯ブラシを置いた。鏡の中の自分は、寝不足でくまの濃い、何の変哲もない三十二歳の顔をしている。
「お前、誰だ」
声に出して聞いてみる。すると、頭の中の声は、心なしか嬉しそうなトーンになった。
「おお、発話による応答だ。記録、記録。――失礼した。名乗るのが遅れた。私は『銀河辺境管理機構・現地調査部・観察員七号』である。地球の暦で言うと、火曜の早朝、貴殿の生体システムへの浸入作業を完了した」
「浸入作業」
「うむ。専門用語で言うところの『霊体的接続』だ。簡単に言えば、貴殿の中に、今、私が入っている」
俺は洗面所の床にしゃがみこんだ。冷たいタイルの感触が、これが夢でないことを妙にリアルに伝えてくる。
「いや、ちょっと待て。入っているって、何だよそれ。お前、俺の体を乗っ取りに来たのか」
「乗っ取り、というと聞こえが悪いが、概ねそういう任務である」
随分あっさり認めるじゃないか、と俺は思った。本来、侵略者というのはもっと尤もらしい言い訳を用意してくるものではないのか。地球の文化を学習した上で来訪したのなら、もう少し気の利いた台詞があってもいいはずだ。
「で、いつ乗っ取るんだ」
しばらく沈黙があった。頭の中で、何か機械が空回りするような、間延びした「ンンン……」という音が響く。
「それなんだが」
「ああ?」
「正直に申し上告げると――失礼、申し上げると――乗っ取りは、すでに、完了している」
「は」
「貴殿の運動神経系に対する制御権を、現在、〇・三パーセントほど確保している」
俺は自分の右手を見た。指を一本立ててみる。普通に動く。グーパーしてみる。普通に動く。
「……〇・三パーセントって、何だよ」
「まぶたの不随意な痙攣一回分、程度の制御力だ」
「それじゃ何もできないだろうが」
「うむ。本来であれば、貴殿の神経系全体を完全制御し、地球侵略の第一段階たる『現地社会への完全偽装潜入』を果たすはずだったのだが――機材が、老朽化していた」
俺はその場に立ち上がり、もう一度鏡を見た。冷静に考えよう。これは寝不足による幻聴か、あるいは何らかの精神疾患の前触れである可能性が高い。普通の判断としては、病院に行くべきだ。
しかし、頭の中の声は、俺の懐疑をものともせず続けた。
「機構の予算削減により、最新型の浸入装置が我が部署には配備されなかった。私が支給されたのは、三世代前の払い下げ品だ。本来の性能であれば、貴殿は今この瞬間、私の人格として再起動しているはずだった」
「……それは、つまり」
「つまり、私はこの体を乗っ取ることに、失敗した。だが浸入自体は成立してしまったため、退去することもできない。要するに――」
「要するに?」
「要するに、しばらく、ここに居候することになる」
俺は会社に遅刻した。
第二章 名前も知らない侵略者
「お前、名前は何て言うんだ」
その日の昼休み、会社の屋上で一人コンビニのおにぎりを食べながら、俺は頭の中の居候に尋ねた。同僚に話を聞かれるわけにはいかないので、屋上は貴重な密談スペースだった。
「先ほども名乗った通り、『銀河辺境管理機構・現地調査部・観察員七号』だ」
「長すぎる。覚えられない」
「我々の文明においては、個体識別番号こそが最も重要な情報であり――」
「シチローでいいか」
「……シチロー」
「七号だからシチロー。覚えやすいだろ」
頭の中で、何か納得したような、それでも釈然としないような気配があった。
「貴殿の文化における命名規則には、極めて即物的な傾向が見受けられる」
「悪いか」
「いや……悪くない。むしろ、悪くない、と感じている自分に驚いている」
シチローは存外、素直な性格らしかった。これまで会話を重ねた限り、こいつは典型的な「使えない新人」のような気配を漂わせている。地球侵略という大層な任務を背負っているはずなのに、妙に頼りない。
「で、シチロー。お前、〇・三パーセントしか制御権がないって言ってたよな。具体的に何ができるんだ」
「実演しよう」
次の瞬間、俺の右目の下が、ぴくっと痙攣した。
「それだけか」
「それだけだ」
俺はおにぎりを食べ終えて、深いため息をついた。
「つまりお前は、俺の人生に対して、まばたきの調整くらいの影響力しか持っていない、ほぼ無害な居候ってことだな」
「いや、待ってほしい。任務としては重大な失敗だが、貴殿にとっては不幸中の幸い、というやつではないか」
「まあ、そうだな」
俺は意外と冷静に状況を受け入れている自分に気づいた。考えてみれば、頭の中に勝手に喋りかけてくる存在がいるというのは、独り暮らしの人間にとっては、案外――話し相手が増えただけ、とも言える。寂しさを誤魔化すための強引な解釈かもしれないが。
「ただし、一つ言っておく」
「何だ」
「俺の仕事の邪魔だけはするな。来月の予算会議の資料、まだ半分も終わってないんだ。お前のせいで遅刻したことは、もう不問にしてやる。だから、大人しくしてろ」
「了解した。ところで」
「何だよ」
「先ほど摘取した個体――おにぎり、というらしいが、あの『鮭』という具の風味分析データを、本国に送信してもよいか」
「好きにしろ」
その日の午後、俺は珍しく定時で仕事を終えることができた。隣の席の後輩、二宮(にのみや)が「来栖さん、今日なんか機嫌いいですね」と話しかけてきたので、「いや、特に何もないよ」と答えたが、内心では「実は宇宙人に取り憑かれて、コンビニのおにぎりの感想を勝手に銀河に送信されている」という事実を、誰にも言えるはずがなかった。
第三章 祓い屋とコンビニのおでん
事態が変な方向に転がり始めたのは、木曜日だった。
「岳、最近顔色悪いわよ」
実家の母から電話がかかってきたのは、火曜の「侵入事件」から数えて三日目の夜だった。俺は別に顔色など見せていないはずなのに、母というのは謎の察知能力を持っている。
「いや、別に普通だよ」
「ううん、なんか変な気配がする。お母さん、こういうの分かるのよね」
母は昔から「気配」を信じるタイプの人間で、年に一度は近所の神社で厄払いを受けるのを習慣にしている。俺はその手の話を、いつも適当に流していた。
「お母さん、今度の土曜日、空けときなさいね」
「何で」
「知り合いの霊能者の先生に、ちょっと見てもらいましょう」
「いや、いいよ、別に」
「いいから。お母さん、すごい虫の知らせがあるの」
電話を切った後、頭の中でシチローが静かに呟いた。
「貴殿の母体――母君は、何らかの異常を察知している可能性がある」
「いや、お袋はいつもこんな調子だよ。霊感とかオカルトが好きなだけで」
「『霊感』というのは、貴殿の文明における、未知の存在を検知する非公式な能力を指す言葉か」
「まあ、そんなようなもんだ」
「興味深い。我々の調査記録によれば、地球の一部の個体は、低周波の生体波形の乱れを、無意識に感知する傾向があるとされている。貴殿の母君は、その能力を持つ可能性がある」
「もう何でもいいから黙ってろ」
土曜日、俺は結局、母に連れられて、都内の住宅街にある小さな祈祷所のような場所に連れて行かれた。出てきたのは、白髪を後ろで束ねた、妙に威厳のある老婦人だった。名刺には「霊視・除霊・気の整え 風祭(かざまつり)」とだけ書いてあった。
「あなた、何か憑いてますね」
開口一番、風祭先生はそう言った。
俺はぎくりとした。シチローもさすがに緊張したのか、頭の中で「……まさか発見されたのか」と呟いている。
「これは……古い、古い気配ですね。狐かしらね。あるいは、土地神様の眷属かもしれない」
「狐」
「ええ。背骨のあたりから入ってきたでしょう」
俺はますますぎくりとした。母も「やっぱり!」と興奮している。
「あの、それ、本当に狐とかその、神様の系統のもの、ですか」
「間違いありません。長年の経験で分かります」
頭の中で、シチローが何やら困惑したような声を出した。
「貴殿の主観に基づく超常的解釈と、私の客観的存在は、明らかに齟齬がある。私は狐ではないし、土地神でもない。銀河系の公的機関に所属する正規の観察員である」
「……でも向こうはそう言ってるぞ」
「人類の文明レベルにおける認識フレームワークの限界だ。気にする必要はない」
風祭先生は、それから一時間ほどかけて、塩を撒き、お札を貼り、太鼓を叩き、何やら聞き取れない祝詞を唱えた。シチローはその間「これは何の儀式だ、解析、解析」とブツブツ言い続けていたが、最終的に何の効果もなかった。
「これで大丈夫です。憑きものは取れましたよ」
風祭先生は満足げにそう言ったが、頭の中のシチローは涙ながら(なのかどうかは分からないが)に「私はまだここにいる」と訴えていた。
帰り道、母はすっかり安心した顔で「これでもう大丈夫ね」と言いながら、コンビニでおでんを買ってくれた。俺はそれを一人、夜の道端で立ち食いしながら、頭の中の宇宙人に向かって聞いてみた。
「結局、お前は取れてないんだろ」
「取れていない。ついでに言うと、貴殿が摘取しているこの『おでん』という食品――特に大根という部位――の出汁の染み込み方について、興味深いデータが得られた。本国への報告に追加しておく」
「……お前、本当に侵略者なのか」
「任務上はそうだ」
「グルメリポーターの方が向いてると思うぞ」
第四章 本部からの連絡
日曜日の朝、シチローの様子がおかしかった。
「どうした、らしくないな」
「……本国から、通信が入った」
その声には、明らかに動揺の色があった。これまで妙に達観したような、官僚的な口調で喋っていたシチローが、初めて人間――いや宇宙人らしい感情を見せた瞬間だった。
「何だって?」
「機構の予算が、さらに削減されることになった」
「うわ、お前のところもか」
「『現地調査部』そのものが、来期より閉鎖される見通しだ。理由は、過去十年間における浸入成功率の低さと、報告内容の――何と言うか、『侵略任務に対する貢献度の低さ』」
「貢献度の低さって」
「貴殿の星の、グルメ情報ばかり送り続けたせいだと思われる」
「お前のせいじゃないか」
「いや、それだけではない。観察員七号より前の――一号から六号までの先輩諸氏も、同様の問題を抱えていたようだ。一号は、ある惑星の音楽文化にのめり込みすぎて、侵略どころか現地のバンドに加入したという記録がある。三号は、現地の『睡眠』という行為があまりに快適すぎるとして、任務放棄して三百年間眠り続けているらしい」
俺は思わず笑ってしまった。
「お前らの組織、ポンコツすぎるだろ」
「否定はしない」
「で、それで、お前はどうなるんだ」
「閉鎖に伴い、現在活動中の全観察員は、来週末までに撤退するよう命令が出た」
俺は一瞬、安堵した。ようやくこの妙な居候生活が終わるのか、と。しかし同時に、何か別の感情が胸の奥に湧いてきたことにも気づいた。それが何なのか、自分でもよく分からなかった。
「撤退って、どうやるんだ。具体的に」
「本来であれば、浸入時と逆の手順――背骨を通じての離脱――を行うことになる。だが、装置が老朽化しているため、正規の手順での離脱が可能かどうかは未確認だ」
「未確認って、つまり」
「最悪の場合、貴殿の神経系に、半永久的に居座ることになる可能性がある」
俺は布団の上で固まった。
「いや、ちょっと待てよ。それ、結構重大な話だろ」
「重大だ。本国にも問い合わせているが、なにぶん予算削減中なので、サポート部門の対応が遅い。三週間前に提出した経費申請も、まだ承認されていない」
「お前のところ、本当にどうしようもないな」
「だが、安心してほしい」
「何が安心要素なんだよ」
「とりあえず来週末までに、離脱を試みる予定だ。失敗したら――まあ、その時はその時だ」
「適当か」
「銀河の真理として、明日のことは明日考える、という格言がある」
「それ、地球にもある格言だぞ」
「奇遇だな」
その日、俺は会社の同僚から「来栖さん、結婚相談所のパンフレットもらってきました」と渡されたが、頭の中の宇宙人が来週末で消えるかもしれないという状況の方が、今の俺にとってはよほど重大な懸案事項だった。
第五章 微弱な能力
撤退までの一週間、シチローは妙に律儀だった。毎日、俺の生活を細かく観察し、本国への報告書――もう誰も読んでいないかもしれないが――を欠かさず作成していた。
「今日の報告。対象個体は、午後三時、自席にて『コーヒーが薄い』という不満を抱いた。これは地球における労働環境の悲哀を示す、重要なサンプルである」
「お前、それ本当に送ってるのか。意味あるのか、それ」
「意味があるかどうかは、上層部が判断することだ。私の仕事は、観察し、報告することのみ」
「真面目だな、お前」
「これしかできないからだ」
その「これしかできない」という言葉に、俺は少し胸を突かれた。〇・三パーセントの制御権しか持たない侵略者。先輩たちはバンドに入ったり三百年眠ったりと、それぞれ好き勝手に任務放棄しているのに、シチローだけは、できる範囲のことを、馬鹿正直に最後までやり続けている。
「シチロー、お前さ、〇・三パーセントの制御権で、何かもっとマシなことできないのか」
「マシ、とは」
「例えば、便利なこと。せっかく宇宙人が体の中にいるんだから、何か役に立つ能力とか」
「……検討してみる」
数日後、奇妙なことが起きるようになった。
通勤電車で、いつもギリギリのタイミングでホームに着くのに、なぜかその日に限って、必ず目の前のドアが開く瞬間に到着するようになった。エレベーターのボタンを押すと、なぜか毎回一番近い階に止まっている。コンビニのレジに並ぶと、なぜか自分の番だけ会計がスムーズに進む。
「これ、お前か」
「〇・三パーセントの制御権を、貴殿の歩行速度の微調整に全投入している。タイミングの最適化だ。我ながら、地味な能力だと思う」
「いや、地味だけど、めちゃくちゃ助かるぞ、これ」
「そうか」
「マジで。毎朝の電車のタイミング、これだけでストレスが半分減った気がする」
頭の中で、シチローが何だか嬉しそうな気配を漂わせた。少なくとも俺にはそう感じられた。
「他にできることはないか?」
「あと一つ。これは少々、感情的なデータの解析に基づくものだが」
「何だよ」
「貴殿は、隣の席の二宮という個体に対して、心拍数の変化を示す瞬間が、週に三回ほどある」
俺は固まった。
「お、おい、それは関係ない話だろ」
「関係なくはない。貴殿の生体反応の記録として、極めて顕著なデータだ。ちなみに、彼女が貴殿に話しかける直前、貴殿の前髪を整える行動が、無意識に増加している」
「黙れ」
「了解した」
俺は布団に潜り込みながら、なんとなく――この侵略者が、来週末で本当にいなくなってしまうのだということを、改めて思い知った。
第六章 退去
撤退の日は、よりによって会社の歓送迎会と重なった。
「離脱手順は、貴殿の神経系が最も弛緩している状態――つまり、深い睡眠時か、あるいはアルコールによる弛緩状態で行うのが望ましい」
「は? アルコール?」
「機構の古い文献に、そのような記載がある。信頼性は六割程度だが、他に選択肢もない」
その夜、会社の近くの居酒屋で、二宮の異動を祝う(という名目の)飲み会が開かれていた。俺は同僚たちに囲まれ、生ビールを片手に、頭の中の宇宙人と内緒の打ち合わせをするという、なかなか忙しい夜を過ごすことになった。
「シチロー、本当に今夜やるのか」
「うむ。本国から最終通告が来た。今夜0時を以て、私の任務権限は失効する。それまでに離脱できなければ、貴殿の中に永久に留まることになる」
「永久にって、それ困るだろ、お前」
「困る。私としても、できれば正規の手順で帰還したい。あちらには、私の机がある。育てている観葉植物もある。水やりを同僚に頼んできたが、あいつは絶対に水をやり忘れるタイプの個体だ」
「お前、宇宙人にも色々あるんだな」
二時間後、酔いがちょうどよく回ったタイミングで、シチローが「今だ」と告げた。
「これから離脱手順に入る。多少、貴殿の背中に違和感が生じるかもしれない」
「分かった。みんなには、ちょっと外の空気吸ってくるって言ってくる」
俺は店の外に出て、人通りの少ない路地裏に立った。夜風が気持ちよかった。
「準備はいいか」
「待て、シチロー」
「何だ」
「お前、本当にこのまま帰っちゃうのか。せっかく〇・三パーセントとはいえ、お前のおかげで電車のタイミングとか良くなったし。あと、お前、結構、いいやつだったと思うぞ」
頭の中で、しばらく沈黙があった。
「貴殿は、おかしなことを言う。私は、侵略に失敗し、貴殿の生活に居座っただけの、無能な観察員だ」
「いや、お前、ちゃんと仕事してたよ。馬鹿正直に。お前の先輩たちみたいに、勝手にバンドに入ったり寝続けたりせずに、毎日真面目に俺のこと観察して報告書書いてた。それ、ちゃんと『仕事』だったと思うぞ」
「……」
「向こうに帰ったら、その観葉植物、ちゃんと自分で世話できるように、上司に異動願い出した方がいいんじゃないか。お前、意外と現場仕事より、こういう細かい観察の方が向いてる気がする」
「貴殿に職業相談をされるとは思わなかった」
「俺もする側になるとは思わなかったよ」
シチローが、何かを堪えるような、それでもどこか吹っ切れたような声で言った。
「では、行く。短い間だったが――いや、貴殿の暦で言えば一週間だが、私の主観時間で言えば、もう少し長かった。世話になった」
背筋に、来た時と同じ、ぐっと押し入るような感覚があった。だが今度は、それが逆方向に――ゆっくりと、抜けていく感触だった。
体が一瞬、軽くなった。頭の中が、静かになった。
俺は路地裏に一人、立っていた。
「……シチロー?」
応答はなかった。
終章 明日、ちゃんと生きている
月曜日の朝、目覚まし時計が鳴る三分前、俺は目を覚ました。
頭の中は、静かだった。誰の声もしない。当たり前のことなのに、妙に物足りない静かさだった。
布団から起き上がり、洗面所に向かう。鏡の中には、いつもの俺がいる。寝不足でくまの濃い、何の変哲もない三十二歳の顔。一週間前と、何も変わっていない――はずだった。
通勤電車のホームに着くと、いつもより三分早かった。電車のドアは、ちょうど目の前で開いた。
「……まあ、たまたまだろ」
会社では、二宮が「来栖さん、おはようございます」と声をかけてきた。俺は無意識に前髪を整えてから、「おはよう」と返した。返した後で、自分の行動に気づいて、少し恥ずかしくなった。
エレベーターは、なぜか一番近い階に止まっていた。
昼休み、屋上でコンビニのおにぎりを食べながら、俺はふと、空を見上げた。曇り空で、何も見えない。当然だ。宇宙人が、わざわざ目に見える形で別れの挨拶をしてくれるわけがない。そんなのは映画の中だけの話だ。
それでも、一応、声をかけてみた。
「シチロー、聞いてるか」
応答はなかった。当然だ。
「観葉植物、ちゃんと育てろよ」
風が吹いた。それだけだった。
その日の夜、母から電話がかかってきた。
「岳、最近どう? 風祭先生のおかげで、もう大丈夫でしょう」
「ああ、うん。おかげさまで」
俺はそう答えた。本当のことを言うつもりはなかった。たぶん一生、誰にも言わないと思う。
電話を切った後、俺はベッドに横になり、天井を見上げた。
今朝、目が覚めたとき、誰も入ってこなかった。何も起こらなかった。それは、当然のことのはずだったのに、なぜか少しだけ、寂しい気がした。
夢か、現か、幻か。それとも――最初から、誰も入ってきていなかったのか。
分からない。
ただ、明日の朝も、俺はきっと、無事に目を覚ますだろう。それだけは、なぜか確信できた。
電車のタイミングが、最近やたらと良いのも、たぶん、ただの偶然だ。
きっと、そうに違いない。
――了――
アマゾン キンドル
あとがき
書き始めた当初は、「侵略に失敗した宇宙人が居候する話」という軽い思いつきでした。
しかし書き進めるうちに、シチローは単なる宇宙人ではなくなっていきました。
予算削減に悩み、報告書を書き、観葉植物を心配する。
どこにでもいるような、不器用で真面目な働き者。
気がつけば、私は彼のことを少し好きになっていました。
人生には、ときどき説明のつかない出会いがあります。
それは人ではないかもしれないし、仕事かもしれないし、本かもしれません。
ほんの少しだけ人生に入り込み、何かを変えて、そして静かに去っていく。
あとになって振り返ると、確かにそこにいたのだと分かる存在。
もし皆さまにも、そんな「シチロー」のような存在がいたなら、この物語は少しだけ現実に近づくのかもしれません。
また別の物語でお会いできれば幸いです。

