断ちもの稲荷
―羊羹と狐と、デキの悪い息子の話―
まえがき
神社で願い事をするとき、人はたいてい「叶えてください」と祈ります。
けれど昔から、日本には少し変わった願いの掛け方がありました。
願いが叶うまで、何かを断つ。
酒を断つ。煙草を断つ。甘いものを断つ。
好きなものを我慢することで、自分の願いの重さを神様に示す――そんな風習です。
もっとも、本当に神様がそれを見ているのかどうか、私には分かりません。
ただ、人は何かを願うとき、誰かのためであればあるほど、自分でも驚くほど律儀になるものです。
本作は、息子の進級を願う平凡な父親と、少し口うるさい狐の物語です。
羊羹を断つ話であり、親子の話であり、歳を重ねても人は祈るのだという話でもあります。
人生は大きく変わらなくても、ほんの少しだけ変わることがあります。
もし本書が、皆さまの心のどこかに小さな「コン」という声を残せたなら、作者としてとても嬉しく思います。
序章
神社で願いを掛けたなら、
叶うまでは、何かを断つ。
そうすれば神様も、ならばその願い、
何とかしてやろうと思う――かもしれない。
ただしそれは、酒でも煙草でも、好物の食べ物でもいい。
とにかく、断つのが惜しいくらい、
好きなものでなくては。
第一章 稲荷の境内
十一月も終わりに近づいた、平日の夕方だった。
会社帰りの僕は、駅から少し外れた裏道にある、名前もよく覚えていない稲荷神社の前で足を止めた。
別の言い方をすれば、ここしばらく素通りしていた神社だった。鳥居は色が剥げ、賽銭箱の角は錆びている。それでも今日だけは、素通りできない理由があった。
拓也のことだった。大学三年になる息子が、単位不足で進級が怪しいという連絡をもらったのは三日前のことだ。電話の向こうの道子は、いつもより少し早口だった。
「お祓いとかじゃなくていいから、何か願掛けでもしてきたら」と道子は言った。
「あなた、信じてないくせに、こういうとき変に律儀じゃない」
反論はしなかった。たしかに僕は神様というものを、あまり信じていない。けれど信じていないからこそ、損のない賭けのつもりで鳥居をくぐった。
賭けというのは、正確ではないかもしれない。むしろ、厄落としの儀式のようなものだ。
神社で願いを掛けたなら、その願いが叶うまで何かを断つ。古くからそう聞いている。
何かを断てば、神様もまた、「ならばその願い、なんとかしてやろう」と思うのかもしれない――というだけの、根拠のない言い伝えだ。
だが、根拠のなさが、こういうときには案外都合がいい。
断つものは、酒でも煙草でも、好物の食べ物でもいいらしい。
ただし、断つのが惜しいくらい、本当に好きなものでなくてはならない、という条件付きで。
境内には誰もいなかった。社務所の窓は板で塞がれ、賽銭箱の前に、欠けた耳を持つ狐の像が一対、向き合って座っている。
僕は財布から百円玉を取り出し、賽銭箱に落とした。手を合わせ、頭を下げる。「拓也の進級を、なんとかお願いします」
それだけ言うつもりだったのに、口がなめらかに動いた。「何か、断ちます。だから、お願いします」
風もないのに、社の奥で鈴の音がひとつ、小さく鳴った。
顔を上げると、向かって右の狐の像の耳の欠けが、さっきより少しだけ浅くなっている気がした。
気のせいだろう、と思いながら、僕は踵を返した。
帰り道、自転車のかごに、買い忘れていた大根を一本入れ、家路を急いだ。何を断つかは、まだ決めていなかった。
その晩、布団に入ってから、ふと「コン」という小さな声を聞いた気がしたが、すぐに眠ってしまった。
第二章 千年蔵狐、参上
三日後の夜、残業から帰ると、書斎の中に羊羹の包み紙のような甘い匂いが漂っていた。
買ったはずもないのに、と思いながら椅子に座ると、足元で「コン」と声がした。
見ると、本棚の影に、小さな狐が一匹、行儀よく前足を揃えて座っていた。毛は灰色がかった白で、耳の先が片方だけ欠けている。
「ご無沙汰しております」と狐は言った。声は存外低く、年季の入った蕎麦屋の主人のような調子だった。
「中堂稲荷、千年蔵狐の、コンノスケと申します」
驚きはしたが、不思議と怖くはなかった。むしろ、保険の勧誘員が来たときのような、面倒な気配を感じた。
「断ちものの審査に参りました」とコンノスケは続けた。「あなた、三日前、口約束だけして帰られましたでしょう。何を断つか、まだお決まりでない」
「審査、って」
「はい。断ちものというのは、誰でも好きに名乗れば済むという、軽いものではございません。こちらにも体面がございます」
コンノスケは前足で自分の耳を整えながら、こう続けた。「過去にも、あなたのような方は山ほどおりました。たいして好きでもない酒を断って、涙ながらに祈る。
正直、こちらは脱力するのです」
図星だった。
子供たちの受験のたびに、僕は酒を断っていた。
だが、もともとそれほど呑む方ではない。今思えば、あれは断ちものとしては、ずいぶん不十分なものだった。
「ご自分でも、薄々お気づきでしょう」とコンノスケは、見透かしたように言った。
「だからこそ今度は、惜しいくらい好きなものを断っていただきたいのです。さもなくば、こちらとしても、上に取り次ぎようがございません」
「上、というのは」
「さあ、それは私の階級では存じません」とコンノスケはあっさり言った。
「とにかく、本気の断ちものでなければ、願いは届きません。届かないものを取り次いで、こちらが恥をかくのは困ります」
妙に官僚的な狐だった。僕は思わず笑ってしまった。「審査役にしては、ずいぶん人間くさいことを言うね」
「狐は元来、人間くさいものです」とコンノスケは胸を張った。
「では、三日後にまた参ります。何を断つか、よくお考えください」
そう言うと、コンノスケは本棚の隙間に向かって歩き出し、線香の煙のように、ふっと姿を消した。
残ったのは、机の上にぽつんと置かれた、灰色の毛が一本だけだった。
第三章 断ちもの名鑑
三日後の約束通り、コンノスケはまた現れた。今度は、古びた帳面を一冊、口にくわえていた。
「これは何だ」と聞くと、コンノスケは机の上にぽとりと帳面を落とした。表紙には「断ちもの名鑑」と、達筆な毛筆で書かれている。
「中堂稲荷に伝わる、過去の断ちものの記録です」とコンノスケは言った。
「参考になるかと思いまして」
開いてみると、古い紙の匂いがした。一ページ目には、明治の頃の日付で「煙草を断つ。三日で挫折」とだけ書かれている。
「これ、失敗した人の記録も載ってるのか」
「むしろ、失敗の方が多いです」とコンノスケは、どこか誇らしげに言った。
「断ちものというのは、九割が途中で頓挫します。それが普通です」
ページをめくると、昭和のあたりに「饂飩を断つ。されど三日に一度は妻が作るので断ちようがない」という、本人も困っているらしい記述があった。隣には「審査不合格」の朱印が押されている。
別のページには「将棋を断つ。二ヶ月後、こっそり指していたのを近所の子供に見られ、神罰として将棋倶楽部の会長に選ばれる」という、罰なのか褒美なのか分からない結末が記されていた。
「これ、本当に神罰なのか」
「さあ、それは私の階級では存じません」とコンノスケは、いつもの言い回しで誤魔化した。
平成に入ると、「コンビニのアイスを断つ。願いは叶ったが、本人は最終的に糖尿病予備軍から脱出し、結果的に良かった」という、副産物のような結末もあった。
一番新しいページには、「カラオケを断つ。娘の結婚が決まり、解禁日に本人が熱唱しすぎて喉を潰す」と書かれていて、僕は思わず声を出して笑った。
「こうして見ると、断ちものって、案外うまくいってないことの方が多いんだな」
「うまくいくか、いかないかは、本質ではございません」とコンノスケは言った。
「大事なのは、惜しいと思うものを、惜しいと思いながら手放す、その姿勢そのものです。結果は、案外、ついでのようなものです」
妙に含みのある言葉だった。僕は帳面を閉じ、コンノスケに返した。「お前、見た目は狐なのに、説教だけは妙に達者だな」
「千年も審査役をやっておりますと、自然とそうなります」とコンノスケは、心なしか得意げに尻尾を振った。
第四章 志ん朝のうなぎ、僕の酒
父は落語好きだった。僕が子供の頃、土曜の昼下がりにはいつもラジオから誰かの声が流れていた。中でも父が贊めていたのが、古今亭志ん朝だった。
「あの人はね、うなぎを断っていたんだよ」と父は、何かにつけてその話をした。
「願掛けでね。だからあんなに売れたのかもしれないな」
子供の頃は、ただ「すごい人だな」と思っただけだった。だが歳を取ってから思い返すと、引っかかる部分が出てくる。
なぜ酒にしなかったのだろう、と。志ん朝さんほどの人なら、もし酒を断っていれば、もっと長く高座に上がれたかもしれない。もっと多くの、いい落語を聞けたかもしれないのに。
もちろん、それは僕の勝手な物言いだ。本人にしか分からない事情があったのだろう。それでも、ふとそんなことを思ってしまう自分が、少し嫌だった。
自分のことを思えば、なおさら偉そうなことは言えない。子供たちの受験のたびに、僕は酒を断ってきた。長男の高校受験、娘の専門学校受験、そして今度は拓也の大学の単位不足。
断つたびに、心の中では「これでよし」という気がしていた。だが正直なところ、僕はもともと、さほど酒を呑む方ではない。
週末に缶ビールを一本、それで充分という人間だ。
断ちものとしては、ずいぶん心もとない。今思えば、笑い話にもならない、ただの形だけの祈りだったのかもしれない。
しかも今では、ほとんど酒を呑まなくなった。健康診断の数値がどうとか、道子に言われたとかで、自然と遠ざかってしまった。
つまり、次に何かを断つとなったとき、酒という選択肢は、もう最初から使えないということだった。
コンノスケの言葉が、頭の中で繰り返された。
「惜しいくらい好きなものでなくては」
惜しいくらい好きなもの。
考えてみると、それは案外、身近なところにあるような気がした。
第五章 羊羹とレバニラと、狐の値踏み
その夜の夕食は、道子の手作りの鍋だった。拓也は塾の自習室にこもっていて、席にいない。
「結局、何を断つことにしたの」と道子が聞いた。
「考えてるところ」
「またお酒でしょ。やめときなさいよ、今ほとんど呑んでないんだから、それじゃ断ちものにならないわよ」
図星すぎて、僕は黙って白菜を箸でつまんだ。
「うなぎは」と道子が言う。「志ん朝さんがやってたって、よく自慢げに話すじゃない」
「うなぎは、もともとそんなに食べてないんだよ。年に一回、土用の丑の日くらいだろう。断っても、こっちが痛くも痒くもない」
「じゃあ羊羹は」
その一言で、僕の箸が止まった。
虎屋の羊羹。妹の久美子が、お中元とお歳暮のたびに送ってくれる、あの羊羹だ。
一切れの薄さで満足できる、あの上品な甘さ。一年に二回しか、食卓に上がらない貴重品だった。
「それは……勘弁してくれ」と僕は言った。「あれは、楽しみにしてるんだから」
「だから断ちものにいいんじゃないの」道子は涼しい顔で言う。
「あなたの言う『惜しいくらい好きなもの』ってやつでしょう」
言い返せなかった。だが、認めるのも悔しい。僕は話をそらすことにした。
「それより、最近の昼飯の話、知ってる?」
「日高屋のレバニラ定食でしょう。それか日乃屋のカレー、リンガーハットのちゃんぽん。週替わりで、判で押したように同じ店を回ってる」
「よく知ってるな」
「お弁当作らなくていいって、あなたが自分で言い出したのよ」
そのとき、テーブルの下から「コン」という声がした。覗き込むと、コンノスケが鍋敷きの陰に座って、こちらを見上げていた。
「失礼。会議中とは知らず」とコンノスケは言った。「ですが、奥様のおっしゃる通りかと。あなたの言う、安いチェーン店の定食――それは案外、本物の好物に近いのではありませんか」
「ただの昼飯だよ。羊羹みたいに、特別なものじゃない」
「特別である必要はございません」とコンノスケは前足を舐めながら言った。
「週に三度も四度も、財布の中身を気にせず通う店。それこそが、本当に体に染み付いた好物というものです。たまにしか食べない高級品より、よほど断つのは堪えるものですよ」
道子が目を丸くして僕を見た。「今、誰と喋ってるの」
しまった、と思った。道子にはコンノスケの姿が見えていないらしい。
「いや、独り言」と僕は誤魔化した。コンノスケは、にやりと笑った狐の顔で、鍋敷きの陰に再び姿を消した。
第六章 尾行する狐
翌週から、コンノスケは僕の昼休みに現れるようになった。
最初は日高屋でのことだった。レバニラ定食を待つ間、隣の椅子に、人間には見えない狐がちょこんと座って、こう言った。
「本日も、レバニラでございますか」
「他に何があるんだよ」と僕は小声で答えた。隣の席の同僚が、ちらりとこちらを見た。
「いえ、ただの確認です。断ちものを決めるための、観察期間ですので」
「観察って、お前が見てるだけじゃ、何の意味があるんだ」
「私は審査役ですから。本気度を見極める役目があります」とコンノスケは胸を張った。
「ちなみに、レバニラの匂いを嗅ぐと、私のような狐は、油揚げよりも興奮いたします」
定食が運ばれてくると、コンノスケは僕の膝の上に乗って、テーブルの上のレバニラを見つめた。あまりにも真剣な目つきだったので、僕は思わず笑ってしまい、それを見た同僚に「大丈夫ですか」と心配される始末だった。
次の日はリンガーハットだった。ちゃんぽんの湯気を眺めながら、コンノスケは「これもまた、罪深い匂いです」と呟いた。
「断ちものの審査役のくせに、お前、見てるだけで腹が減ってないか」
「腹が減るのと、断ちものの本気度を見極めるのとは、矛盾いたしません」コンノスケはそう言って、ちゃっかり僕の器から立つ湯気を吸い込んでいた。
三日目、日乃屋のカレーの店先で、僕はうっかり「コンノスケ、今日はどれにする」と声に出して聞いてしまい、レジの店員に怪訝な顔をされた。
それ以来、外では声を出さず、心の中で話すように気をつけた。
そんな調子で一週間が過ぎた頃、コンノスケが、珍しく真面目な顔でこう言った。
「あなたは、これらの店に、本当に何度も通っておられます。安くて、忙しいときでも頼れて、味に飽きない。これは、奥様の言う通り、立派な好物です」
「だから何だ」
「だから、これを断つのは、案外こたえるはずです。それでも――」コンノスケは、僕の顔をじっと見て言った。
「それでも、まだ何か、引っかかっておられるご様子。羊羹のことを、まだ忘れられないのでしょう」
僕は黙って、レバニラの最後の一口を食べた。何も言わなかったが、コンノスケには、それで充分だったらしい。
第七章 課長会議室の怪
年の暮れが近づくと、会社では評価面談の時期になった。
課長の田中に呼ばれ、会議室で向かい合った。
「孝之さん、最近、独り言が増えてませんか」と田中課長は、心配そうな顔で切り出した。
「独り言、ですか」
「日高屋でも、リンガーハットでも、ぶつぶつ言ってるって、若手から報告が来てて」
内心、ぎくりとした。コンノスケに小声で話しかけていたのを、誰かに見られていたらしい。
「いや、あれは……レシピの確認です。レバニラの味を、自分なりに分析してまして」
田中課長は、納得していない顔をしながらも、それ以上は突っ込まなかった。「まあ、無理しないでくださいね。最近、息子さんのことで大変だって、奥さんから会社にも連絡があったみたいですし」
会議室を出たところで、コンノスケが足元に現れた。「とんだ濡れ衣でしたね」
「お前のせいだろう」
「私のせいというより、あなたの独り言が達者すぎるのが原因かと」とコンノスケは、しれっと言った。
「これからは、心の中で話すようにする」
「結構です。ただ、そうなると、私の方が話しかけにくくなりますが」
「お前の都合は知らん」
それでもその日以降、僕は外では一切口を開かず、心の中だけでコンノスケと言葉を交わすようにした。
おかげで、社内での評判は、多少持ち直したらしい。少なくとも、田中課長から再度呼び出されることはなかった。
第八章 追試と、まだ決まらない断ちもの
十二月に入ってすぐ、拓也から連絡があった。追試の結果待ちで、合格しなければ進級は絶望的だという。
道子は電話を切ったあと、しばらく黒い壁を見ていた。「あの子、ちゃんと寝てるのかしら」
「寝てなくても、机に向かってるだけ立派だよ」と僕は言ったが、自分でも空虚に聞こえた。
何かしてやりたいが、何もできない。そういう種類の心配は、体の奥に重く沈んでいく。
会社では、課の忘年会の話が出ていた。誰かが買ってきた差し入れの中に、コンビニのレバニラ弁当があった。匂いを嗅いだだけで、僕は思わず手を伸ばしかけた。
「おや」とコンノスケの声がした。「断ちもの、まだ宣言していないとはいえ、もう少し用心されては」
「断つって決めたわけじゃないんだから、食べてもいいだろう」
「理屈はその通りです。ですが、人というのは、決めかねているときに限って、決めたつもりで動くものです」
図星すぎて、僕は弁当を元の場所に戻した。
その晩、家に帰ると、拓也が珍しく自分の部屋から出てきて、リビングのソファに座っていた。瘦せたように見えた。
「父さん、もし留年したら、ごめん」と拓也は言った。
何と言えばいいか分からず、僕はしばらく黙っていた。それから、思いついたことをそのまま口にした。
「父さんもな、お前らの受験のたびに、酒を断つって神社で願ってたんだよ」
「効果あったの」
「お前ら全員、ちゃんと入学できただろう」
拓也は少し笑った。「じゃあ、今回も何か断ってよ」
「もう考えてる」と僕は答えた。
それは、嘘ではなかった。
その夜、布団の中で、僕はとうとう決めた。羊羹だ、と。
ただ、まだ実際に断つ機会――つまり、羊羹が届く日――がやってきていなかった。決意だけが、行き場のないまま、僕の中で重くなっていった。
第九章 虎屋の羊羹が届く日
十二月半ば、お歳暮の季節に、宅配便が虎屋の包みを届けてくれた。妹の久美子からだった。
「お義兄さん、いつも息子さんたちのことで大変でしょうから、これでも食べて元気出してね」と、手紙が添えられていた。
道子が包みを開けながら、僕の方をちらりと見た。
「どうするの」
箱の中には、いつもの夜の梅が、品のいい木箱に並んでいた。一切れ切れば、もうそれだけで満ち足りてしまう、あの甘さ。
僕はしばらく箱を見つめていた。それから、蓋を閉じた。
「これにする」と僕は言った。
「拓也の結果が出るまで、この羊羹を、一切れも食べない」
道子は何も言わず、ただ少し驚いた顔をした。
「本気で言ってるの。あなた、毎回楽しみにしてるじゃない、お正月に妹さんからもらうの」
「だからこそだよ」
足元で「コン」という声がした。
見下ろすと、コンノスケが、いつもより居住まいを正して座っていた。
「ようやく、でございますね」とコンノスケは言った。
「審査は通るのか」
「これまでのレバニラやちゃんぽんも、十分に立派な断ちものでした」とコンノスケは言った。
「正直に申し上げますと、神様という方々は、案外そういう、安くて毎日でも通える店の好物の方を、よほど重く見るものです。
一年に二回しか食べない羊羹を断つよりも、よほど効くのです」
「じゃあ、お前は最初から、羊羹である必要はないって思ってたのか」
「思っておりました」とコンノスケは、悪びれもせず言った。
「ですが、あなたが自分で、惜しいと思うものを選んで決めたという、その事実が大事なのです。誰かに言われたものではなく」
妙に説教くさいことを言う狐だった。それでも、僕は箱を戸棚の奥にしまい、開かずの箱として封印することにした。
その夜、コンノスケは珍しく、僕の枕元まで来て、こう言った。
「孝之さん。一つだけ、申し添えておきます。断ちものというのは、結局のところ、神様のためではなく、ご自分のための儀式なのです。何かを我慢することで、自分の願いの本気度を、自分自身に確かめさせる――そういう仕組みです」
「じゃあ、神様は何もしてくれないのか」
「さあ、それは私の階級では存じません」とコンノスケは、いつもの言葉で誤魔化すと、ふっと姿を消した。
第十章 お礼参り、また来年
年明け、一月の半ばに、拓也から電話があった。
「進級、決まった」
道子は電話を僕に渡しもせず、その場でしばらく泣いていた。僕は隣で、ただ肩を叩くことしかできなかった。
翌週末、僕は久しぶりに、あの稲荷神社へ足を運んだ。賽銭箱の前の狐の像は、相変わらず耳が欠けたままだったが、心なしか、表情が和らいで見えた。
「ありがとうございました」と手を合わせ、頭を下げる。それから、財布から少し多めの賽銭を出した。
帰り道、コンノスケの姿はどこにも見えなかった。
境内の隅に、雪に残った小さな足跡が一列、社の裏手へ続いているだけだった。
家に帰ると、戸棚の奥にしまったままの虎屋の箱が、ふと目に入った。封印は、まだ解いていない。
「もう食べてもいいんじゃない」と道子が言った。
「拓也の進級、決まったんだから」
「いや」と僕は答えた。
「もう少し、置いておく。なんとなく、まだ早い気がする」
道子は呆れたように笑った。
「あなたって、変なところで律儀よね」
その晩、布団に入ってから、久しぶりに「コン」という声を聞いた気がした。
耳を澄ませても、何も聞こえなかった。きっと気のせいだろう。
けれど、眠りに落ちる直前、こんな声が、たしかに聞こえたような気がする。
「来年は、何を断ちますか。レバニラか、カレーか、ちゃんぽんか――それとも、また羊羹で」
答える前に、僕は眠ってしまった。
次の日も、その次の日も、戸棚の羊羹はそのままで、僕は相変わらず、週に三度は日高屋に通っている。
(了)
アマゾン キンドル
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
書き終えてみると、この物語は狐の話のようでいて、実のところ父親の話だったのだと思います。
子どもが大きくなるにつれて、親にできることは少しずつ減っていきます。
勉強を代わってやることもできない。
失敗を引き受けることもできない。
それでも心配だけは、なぜか昔より大きくなっていく。
親というのは、ずいぶん不思議な生き物です。
願掛けもまた、不思議な習慣だと思います。
神様のためなのか、自分のためなのか。
本当に効くのかどうかも分からない。
けれど、誰かを思って何かを我慢する時間には、きっと意味があるのでしょう。
もし皆さまにも、断つのが惜しいほど好きなものがあるなら、それは案外、人生を少し豊かにしてくれる宝物なのかもしれません。
そしてどこかの稲荷神社で、今日もコンノスケのような狐が、少しだけ偉そうな顔で人間たちを眺めている――そんなことを想像していただけたら嬉しく思います。
また別の物語でお会いしましょう。
※本作はフィクションです。登場する人物・店舗・作品等への言及は、すべて筆者の敬意を込めた創作上のものです。

