三軍の美学

―― あるいは、自由の手に入れ方 ――




まえがき

人生には、一軍と呼ばれる人がいます。

勉強ができる人。

仕事ができる人。

人に好かれる人。

運にも恵まれる人。

そして、その少し後ろには二軍がいて、

さらにその外側には、名前も順位もつかない人たちがいます。

たぶん

私も、その一人です。

若い頃は、もっと上へ行きたいと思いました。認められたいと思いました。誰かより優れていたいと願いました。

けれど歳を重ねるうちに、不思議なことに気づきます。

人生は勝ち負けだけでは測れない。

出世しなくても楽しい夜がある。
夢が叶わなくても笑える日がある。
誰にも知られなくても、誰かを支えていた人生がある。

本書は、そんな「三軍」と呼ばれる人々の、少し不思議で、少し滑稽で、そして少し優しい物語です。

もし今、何者にもなれなかった自分を責めている人がいるなら、この物語が、肩の力を少しだけ抜くきっかけになれば幸いです。

勝ち続ける自由もある。

けれど、負けても笑う自由もある。

そのことを、私はこの物語を書きながら、あらためて教えられました。



一、友よ、三軍を持て

「いいか、介。人生で大事なのは、三軍の友達を持つことなんだよ」

一郎はそう言って、枝豆の殻をテーブルに積み上げながら、もう三杯目の生ビールを呼んだ。
一郎は学生時代から成績優秀、就職してからも出世株、結婚相手も「絵に描いたような良い人」で、要するに、何をやっても一軍だった。

「三軍はな、楽しみを知ってるんだよ。期待されてないから、自由なんだ。お前らを見てると、こっちまで気が楽になる」

介は、その「お前ら」に自分が含まれていることを、特に否定する気力もなく聞いていた。

三十二歳、中堅商社の資料作成係。出世コースからは静かに外れ、合コンでは「あ、いい人そうですね」で会話が終わる男。

器量で勝てず、
頭脳でも並べず、
好きだった同期の女性は一郎の後輩と結婚した。

「お前の話、もう三回目だぞ」と介は言った。
「三軍を持て、ってやつ」
「いい話は何度でも言いたくなるんだよ」

一郎は満足そうに笑い、勘定はいつも介が多めに払うことになっていた。
一軍というのは、そういうところも一軍なのだった。

その夜、アパートに帰ると、郵便受けに見覚えのない一枚のはがきが入っていた。差出人の名前はない。ただ、金色の墨で、こう書かれていた。

「三軍互助会 定例会のご案内 ―― あなたは、立派に選ばれませんでした」

介はしばらくそれを見つめ、それから、笑った。誰かの悪戯にしては、やけに丁寧な筆致だった。

二、消える名刺、現れる路地

地図にない住所、というものが実在することを、介はその夜初めて知った。

はがきに記された場所は、駅から十五分、何度も通ったはずの商店街の奥だった。
だが、いつもそこにあるはずのコインランドリーの隣に、見覚えのない路地が、ぽつんと口を開けていた。

「こんな道、あったか……?」

入ってみると、提灯ひとつぶら下がった木戸があり、そこに小さな看板。

「三軍互助会 本部 ―― 一軍・二軍の方はお引き返しください」

戸を叩くと、しばらくして覗き窓が開き、目だけが見えた。

「ご用件は」

「あの、はがきが来て……入会したいわけじゅあなくて、ただ、気になって」

「結構です。では入会試験を行います。あなたの、もっとも恥ずかしい失敗を、三十秒で語ってください」

「は? 今ですか?」

「今です。タイムは計っております」

介は戸惑いながらも、なぜか口が動いた。
好きだった人に告白する直前、靴のかかとが折れて転んだ話。告白する前に、相手はもう、別の男と歩いていったという話。

戸の向こうで、くすくすという笑い声がした。複数人分。
「合格です。ようこそ」
戸が開いた。

三、入会試験は、自己紹介から

中は思いのほか広く、古い喫茶店のような内装に、不揃いの椅子が並んでいた。
十数人ほどの男女が、それぞれ缶ビールやお茶を片手に座っている。
壁には謎の表彰状がいくつも貼られていた。

「最も惜しかった人賞」
「諦めが早かった人賞」
「言い訳が美しかった人賞」。

正面の席には、丸い眼鏡をかけた中年男性が座っていた。
胸の名札には「会長・№2.5」と書かれている。

「ようこそ、新会員。私が会長です。といっても、一軍にも二軍にもなれず、便宜上『二・五軍』を自称しているだけの、ただの男です」

会長はにこやかにお茶を勧めながら、入会の説明を始めた。

「当会の理念はただ一つ。一軍になれなかった者、二軍にも入れなかった者、三軍として、堂々と楽しく生きること。これだけです」

「でも……三軍って、結局、負けた人たちの集まりじゃないんですか」

会長は笑った。それから、隣に座る年配の男を指した。

「彼、田中さん。三十年間、社内で『次期課長候補』と言われ続け、ついに一度も課長になりませんでした」

「永遠の補欠と呼んでください」と田中さんは胸を張った。

「彼女、後藤さん。婚活パーティーに二百回参加し、毎回『いい人だけど』で終わりました」

「私のあだ名は『次点の女王』です」と後藤さんは誇らしげに名刺――もちろん「次点の女王」と刷られた、明らかに自作の名刺――を差し出した。

介は、その名刺を受け取った瞬間、なぜか涙が出そうになった。馬鹿げているのに、温かかった。

四、言い訳オリンピック開幕

その夜、互助会では「言い訳オリンピック」という謎の大会が開催されていた。
ルールは簡単。自分の人生最大の失敗について、いかに美しく、いかに堂々と言い訳できるかを競う。

田中さんの番。
「課長になれなかった理由は、私が現場を愛しすぎたからです。机に座る器じゃなかった、という説もあります」

満場の拍手。会長が点数ボードに「8.5点」と書く。

後藤さんの番。
「結婚できなかったのは、運命の人がまだこの世に生まれていないからです。きっと今、どこかで赤ん坊として、すくすく育っています」

「9.2点! 自己肯定感の使い方が芸術的です」

介の番が来た。
みんなが期待の目でこちらを見る。介は少し考えて、口を開いた。

「僕が一軍になれなかったのは……たぶん、一軍になる練習より、三軍として面白く生きる練習の方が、性に合ってたんだと思います」

一瞬の静寂。それから、会場が割れるような拍手に包まれた。

「これは満点です! 10点! 新人にしてこの境地!」

介は、生まれて初めて、何かで一位になった気がした。それが「言い訳オリンピック」だということに、笑いと、ちょっとした切なさが混じった。

五、裏方賞、最優秀嫉妬賞

夜が深まるにつれ、互助会の本性が見えてきた。ただの慰め合いの会ではなかった。

「実は」と会長が声を落とした。「我々三軍には、もう一つの仕事があります」

聞けば、世間で「一軍」と呼ばれる成功者たちの裏には、必ず三軍がいるという。
資料を徹夜で作ったのに名前が出ない部下。
アイデアを出したのに「君のおかげだよ」の一言で終わる友人。
応援することに人生の大半を使った、目立たない誰か。

「我々は、その存在に勲章を与えるのです」

壁の表彰状の正体が、ようやく分かった。「最優秀嫉妬賞」は、嫉妬を抱きながらも誰かを心から祝福し続けた人へ贈られる賞だった。

「最も影で支えた賞」は、一郎のような一軍たちを、誰にも気づかれず支え続けた者への賞。

介は、自分が一郎の企画書を、何度も「ちょっとだけ」直してやったことを思い出した。
一郎はいつも「俺の手柄」として発表していた。

「それも、立派な三軍の仕事です」と会長は言った。
「あなたがいなければ、彼の輝きの半分は、存在しませんでした」

「……それ、褒められてるのか、慰められてるのか、分からないです」

「両方です。三軍とはそういうものです」

六、黒幕たちの真実

夜中の二時。
酔いと興奮の中、介はふと壁の名簿に目をやった。
古い会員リストには、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。

今をときめく経営者、有名な作家、テレビに出るコメンテーター――
その隣に、小さく「元・三軍会員(現在は転向)」の印。

「転向、というのもあるんですか」

「ええ。たまに、三軍から一軍に這い上がる者もいます」

会長は寂しそうに笑った。

「不思議なのは、転向した者の大半が、最終的にここへ戻ってきたいと泣いて頼んでくることです」

「なぜですか」

「一軍には、自由がないからです。常に勝ち続けなければならない。負けることを許されない。三軍には、それがある。負けても、笑っていい自由が」

その時、入会試験の戸が、けたたましく叩かれた。
覗き窓を開けると、そこには――
一郎が立っていた。

スーツはしわくちゃ、ネクタイは曲がり、目は真っ赤だった。

「頼む……入れてくれ……」

会場がざわついた。介も、思わず立ち上がった。

七、一軍の正体

一郎は椅子に座り込むと、ぼそぼそと話し始めた。
会社の昇進争いで、後輩に出し抜かれたこと。
妻に「あなたは家ではいつも空っぽね」と言われたこと。
誰よりも勝ってきたはずなのに、誰よりも、何かに負けている気がすること。

「俺はずっと、お前らに『三軍の友達を持て』なんて偉そうに言ってきた。
けど本当は……お前らを見て、安心してたんだ。
自分はまだ、こっちじゃないって」

会場は静かだった。
誰も笑わなかった。
会長だけが、優しく言った。

「一郎さん。あなたも、入会試験を受けてみますか」

一郎は泣きながら、自分の失敗を語った。三十秒のはずが、五分かかった。
誰も止めなかった。

語り終えると、会長は静かに言った。

「不合格です」

「な、なぜ……!」

「あなたの失敗談には、まだ『取り戻せる』という前提が隠れています。
三軍とは、取り戻せないことを、ちゃんと笑える者の称号です。
あなたはまだ、一軍の戦場で戦う権利を、十分に持っています」

「それは……」

「帰って、もう一度戦ってきなさい。
そして、また負けたら、今度こそ笑って戻ってきなさい。ここは、いつでも開いています」

一郎は、何かが抜けたような顔で、夜の路地へ戻っていった。
介はそれを見送りながら、初めて、一軍の友人を少しだけ可哀想に思った。

八、もう一度、乾杯

明け方、互助会の戸を出ると、路地はもう、いつもの商店街の景色に戻っていた。
コインランドリーの隣には、何の変哲もない壁。
ポケットには、「次点の女王」の名刺と同じ作りの、自分の入会証だけが残っていた。

「公認・三軍 黒田介 殿 ―― 自由、保証付き」

夢だったのか、本当だったのか。
介は、もう、それを確かめる気はなかった。

数日後、いつもの居酒屋で、田中さんと後藤さんと、また呑んでいた。

互助会で会った仲間たちだ。
「結局、俺たちは負け組なんですかね」と介が言うと、田中さんが笑って首を振った。

「負け組とは思わないが、勝ち組なはずもない、ってやつだろ」

「それでも」と後藤さんが、グラスを掲げた。

「きっとあいつらより、いい人生だったって、裏付けなしに、誇らしく思うことがあるよね」

「証拠は何もないけどな」と介。

「証拠なんていらないんだよ」と田中さん。

「自由だけは、ちゃんと手に入れたんだから」

三人は、何の根拠もなく、笑いながら乾杯した。グラスがぶつかる音が、やけに気持ちよく響いた。

一度きりの人生ならば。

それもまた良し。

それがまた、良し――。

(完)


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あとがき

「三軍」という言葉には、どこか自虐的な響きがあります。
けれど私は、この言葉の中に、不思議な温かさを感じています。


人生の多くは、一位になる物語ではありません。
誰かを応援したり、少し悔しがったり、時には言い訳をしたりしながら、それでも毎日を生きていく。
そんな無数の人々によって、世の中はできているのだと思います。

本作の登場人物たちは、決して特別な英雄ではありません。
けれど彼らは、自分の弱さや負けを笑いに変える、小さな才能を持っています。
もしかすると、その才能こそ、人が幸せに生きるための知恵なのかもしれません。

読者の皆さまの人生にも、笑って語れる失敗が、少しずつ増えていきますように。

そしていつの日か、
「それもまた良し」
と乾杯できる夜がありますように。


もしや

あなたは、一軍ですか?


僕は、

ずっと、三軍ですが…    笑