ぱふ、二度目の人生はポンコツでした
――還暦男と暴走ロボット犬、運命修理大作戦――
序章 還暦の水半分
コップに水が半分入っている。
それを見て「もう半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うか。そんな話を、誰かがありがたそうにしてくるたびに、田中茂は内心で舌打ちをしていた。
六十二歳。市役所の窓口係を定年退職してから、もう二年が経つ。退職した日に思ったのは「これでようやく自分の時間が持てる」という、ささやかな期待だった。実際その時間のほとんどを、茂は一匹の犬と過ごした。名前はぱふ。柴犬とビーグルの間のような、出自不明の雑種。十二年間、雨の日も風の日も、朝晩二回、欠かさず散歩に出た。
そのぱふは、三ヶ月前に死んだ。
前触れもなく、ある朝、いつものように起きてこなかった。獣医は「老齢の心臓には、こういうこともあります」と申し訳なさそうに言った。茂は申し訳ながられても何も嬉しくなかった。
あれから茂は、毎朝同じ時間に同じ道を歩いている。理由はわからない。ぱふがいないのに、ぱふと歩いていた道を歩く。手にはいつも、ゴミ袋とトングを持っている。道に落ちているペットボトルや空き缶を拾い、時には他の家の犬が残した始末されていない糞まで拾う。
最初は「徳を積めば、ぱふの具合が良くなるかもしれない」と思ってやっていた。ぱふが死んでからも、その習慣だけが体に残った。拾うたびに、もう届かないとわかっている相手に向けて、習慣のように呟く。「頼むから、向こうで元気にしてくれよ」と。
その朝も、茂は河原沿いの遊歩道を歩いていた。空き缶を一つ拾い、潰れた弁当の容器を一つ拾い、そして――誰かの犬の落とし物を、いつもの慣れた手つきで拾い上げたところで、空を見上げた。
雲もない、よく晴れた六月の朝だった。
そして、その晴れた空から、何かが落ちてきた。
最初は鳥かと思った。次に、誰かが上げた凧か何かだと思った。だがそれは、明らかに鳥でも凧でもない速度と重量感を持って、まっすぐに、商店街のアーケードの屋根に向かって落下していった。
ガラガラガラン、と耳をつんざく音がして、シャッターの閉まった金物屋の屋根が、見事に陥没した。
茂は思わず、拾ったばかりの糞の袋を片手にぶら下げたまま、その場に立ち尽くした。
還暦を過ぎてから、そろそろ何も驚かないだろうと思っていた。だが、空から犬の形をした何かが落ちてくるというのは、さすがに想定していなかった。
第一章 空から落ちてきたポンコツ
屋根に空いた穴から、もうもうと白い煙が上がっていた。茂は迷った末、結局そちらに歩いていった。年寄りの野次馬根性というよりは、長年公務員として「とりあえず現場を確認する」という習性が抜けなかったせいだろう。
穴の下を覗き込むと、埃をかぶった木箱や陳列棚の残骸の中に、何か銀色の物体が転がっていた。
大きさは中型犬ほど。表面は艶のない金属で覆われ、所々に焦げた跡がある。四本の足、長い尻尾らしき突起、そして耳の形をした二つの突起。間違いなく、犬を模したロボットだった。
ただし、お世辞にも立派とは言えない。背中の継ぎ目からは配線が覗き、片方の耳はもげかけ、お腹のあたりのパネルには「試作品 PUF―02 天界クラウドサービス株式会社」という、かすれた印字が見える。
「天界クラウドサービス、株式会社……」
茂は思わず読み上げた。聞いたことのない社名だった。今どきはどんな業界でも「クラウド」を名乗るらしい。
ロボットの片目――レンズのようなものが、ジジ、と音を立てて点滅した。
「お、おん……。ご、しゅ……じん、さま……?」
声というより、壊れた目覚まし時計のアラームのような音だった。茂は反射的に一歩下がった。
「お前、喋るのか」
「わん……。いえ……失礼。再起動、します……」
ロボットの全身が一瞬硬直し、目のレンズが消灯した。そして三秒後、再び点灯すると、今度はやけに明瞭な、しかしどこか間延びした声が出た。
「おはようございます、ご主人様。本日も良い、散歩日和、ですね」
「いや、お前、誰のことを主人様と」
言いながら、茶色く焦げた前足が、もぞもぞと動き出した。次の瞬間、ロボットはガコン、ガコンという音を立てながら、ぎこちなく立ち上がった。そして茂の方に近づき――地面に鼻先を押し付けるようにして、すんすんと匂いを嗅ぎはじめた。
その動きに、茂は思わず息を止めた。
地面に鼻をつける角度。匂いを嗅ぐ前に、必ず一度、首を小さく左に傾ける癖。そして、満足すると小さく「フン」と鼻を鳴らす音。
それは、ぱふの癖そのものだった。
「……まさか」
茂が呟いたとき、ロボットはくるりと向きを変え、茂が手にぶら下げていたビニール袋――先ほど拾った犬の糞が入った袋――に向かって、嬉しそうに鼻を寄せていった。
「あ、これは……これは、いい匂いがします……。あの、ご主人様。これ、僕も拾って、いいですか」
「いや、これは拾い終わってる。お前が拾うものじゃない」
「そうですか……。残念です」
心から残念そうな声だった。茂は、自分の中で何かがぐらりと揺れるのを感じた。
第二章 ぱふらしき何か
結局、茂はそのポンコツを家に持ち帰った。
常識的に考えれば、警察か消防か、あるいは「天界クラウドサービス株式会社」とやらに連絡するべきなのだろう。だが連絡先を探そうとスマートフォンで検索しても、その社名はどこにも出てこなかった。存在しない会社の試作品が、空から降ってきたことになる。
家に着くと、ロボットは茂の家の勝手を知っているかのように、まっすぐ縁側に向かい、定位置――かつてぱふが好んで寝そべっていた場所に、ストンと腰を下ろした。
「お前、ここがどこだか分かるのか」
「分かりません。でも、なんだか、ここがいい気がします」
ロボットはそう言うと、満足げに目を細めた。レンズの開閉だけなのに、なぜか「目を細めた」ように見える。
茂はテーブルの上に置いてあった、古いドッグフードの缶を手に取った。何の気なしに蓋を開けると、ロボットの耳がピンと立った。
「それは、まさか……」
「いや、お前は食べないだろう。機械なんだから」
「そう、なんですけど……。でも、なんだか、それを見ると、無性に、駆け寄りたい気持ちに、なるんです」
言うが早いか、ロボットはガコガコと不器用な足取りで茶の間を横切り、缶の前で勢いよく転んだ。起き上がりながら、尻尾の部分――金属のロッドが、ぎこちなく左右に振れる。
「壊れてます、ね、僕」
「いや、まったくだ」
茂はため息をついた。だが同時に、口の端が緩んでいることに気づいて、慌てて引き締めた。
その夜、茂は布団に入っても、なかなか寝つけなかった。隣の部屋からは、ロボットがときどき発する、原因不明の作動音が聞こえてくる。ジジ、ガコン、ピー。
ふと、ロボットの腹のパネルに書かれていた文字を思い出した。試作品PUF―02。
PUF。
「ぱふ……?」
声に出してみて、自分でも馬鹿げていると思った。だがその夜、茂は久しぶりに、夢の中でぱふと散歩をした。
第三章 天界クラウドサービス株式会社
その存在しないはずの会社の名前を、茂は三日後に再び目にすることになった。
今度は名刺だった。茂の家の呼び鈴が鳴り、出てみると、そこに立っていたのは、妙に煤けたスーツを着た、痩せた中年男だった。髪はぼさぼさで、片方の肩に止まり木のように小さな黒い羽根が一枚、こびりついている。差し出された名刺には、達筆な毛筆体で、こう書かれていた。
「天界クラウドサービス株式会社 営業推進部 転生品質保証課 主任 鴉田(からすだ)」
「……あなたは」
「鴉田と申します。お忙しいところ恐れ入ります。実は、当社の試作機が、不可抗力により、御宅周辺に落下したという報告を受けておりまして」
鴉田は淀みなく、しかしどこか疲れた口調でそう言った。背広の内ポケットから、くしゃくしゃになったタブレット端末を取り出し、画面をスワイプする。
「ええ、これです。試作機、PUF―02。回収対象です」
画面には、まさに茂の家の縁側に転がっているロボットの設計図らしきものが表示されていた。
「あの、すみませんが」と茂は遮った。「天界クラウドサービスというのは、何の会社なんですか」
鴉田は一瞬、心底面倒くさそうな顔をした。それから、まるで百回目の説明をする保険外交員のような調子で、淡々と語り始めた。
「簡単に申し上げますと、弊社は、亡くなった魂を次の生に振り分ける業務を、行政――いえ、もっと上の機関から委託されている会社でございます。世間では『輪廻転生』と呼ばれているものですね。あれ、実は弊社のクラウドサーバーで、すべて処理されております」
「神様の仕事を、会社がやってるってことですか」
「神様、というのは、まあ……」鴉田は微妙な顔をした。「正確には、もう少し複雑な話になります。とにかく、弊社が魂の振り分けを担当しております。そしてこちらの試作機は、本来であれば、新しい肉体――つまり、別の犬として生まれ変わるはずだった魂のデータを、誤って機械の本体に書き込んでしまった、いわゆる不良品でございます」
「誤って」
「予算の都合で、データセンターの一部を、安価な業者にアウトソーシングしておりまして。その業者が、肉体生成用のデータベースと、廃棄予定だった試作ロボットのファームウェアを、取り違えたようです」
茂はしばらく、言葉が出なかった。
縁側で、ロボットがちょうど自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回転し、最終的に転倒して「ぴゃ」という奇妙な音を発していた。
「つまり」と茂は、ようやく言った。「あれの中に入っているのは……本来、別の犬になるはずだった、魂だと」
「その通りです。データを確認したところ、生前の個体識別番号は……ええと」鴉田はタブレットを操作する。「個体名『ぱふ』。飼育者、田中茂様。ああ、まさに、あなたですね」
茂は、何も言えなかった。
第四章 主任、鴉田カラスダ
「では、回収させていただきます」
鴉田はそう言うと、縁側に向かって歩いていった。だがロボット――もはや茂の中で「ぱふ」と呼ぶしかなくなっていたそれ――は、鴉田の気配を察するなり、後ろ足で勢いよく床を蹴って、家の奥に逃げ込んだ。
「うわ、ぎゃん」
「あ、待ちなさい。逃げても無駄ですよ。データはこちらで管理しておりますので」
「いやです。いやです。ここがいいです」
タンスの後ろに体半分を隠したまま、ロボットは器械にしては妙に必死な声を上げた。鴉田は深いため息をついて、こめかみを押さえた。
「あの……失礼ですが」茂は鴉田に声をかけた。「回収すると、どうなるんですか」
「正規の手続きに従い、データを初期化し、本来の振り分け先――新しい子犬の肉体に、魂を移植します。これが筋でございます。本来であれば、こちらの試作機自体も、産業廃棄物として処分されます」
「処分」
「ええ。製造元はもう存在しませんので。型落ちですし、はっきり言って、性能も中途半端で、商品化される予定もなかった代物です」
縁側の奥から、タンスの隙間に挟まって動けなくなったロボットが「むぎゅう」と呻く声が聞こえた。茂は、その音を聞きながら、自分の中で何かが固まっていくのを感じた。
「鴉田さん」
「はい」
「うちの、ぱふが死んでから、僕は、毎日考えてたんです。神様なんていない。あるのは運だけだ、と。あなたの会社の手違いで、あれが、たまたまあそこに落ちてきたのも、つまり運なんでしょう」
「まあ……弊社としては手違いと申し上げておりますが、結果としては、はい、運と言えば運です」
「だったら」茂は言った。「その運を、僕が拾います。あれは、僕が引き取ります」
鴉田は、心底困った顔をした。これまでの淀みない説明口調が、初めて途切れる。
「お客様、申し訳ありませんが、それは規定上、認められません。あの個体は弊社の資産であり――」
「資産?」茂の声が、思わず大きくなった。「あれは、十二年間僕と一緒に暮らした犬の、魂が入ってるんでしょう。それを、資産だと」
「いえ、その、言葉の選び方が悪かったというか」
鴉田は、明らかに動揺していた。羽根の付いた肩を、所在なさげにすぼめる。
その時、タンスの隙間から、ようやく身を引き抜いたロボットが、よろよろと茂の足元に駆け寄ってきた。そして、茂のズボンの裾に、力いっぱい、しがみついた。
「ご主人様……」
ジジ、と音を立てながら、レンズの奥で何かが点滅する。
「僕、ここにいたいです。ここで……もう一回、暮らしたいです」
茂は、何も言わずに、その焦げた金属の頭を、そっと撫でた。
第五章 暴走、商店街を往く
鴉田は結局、その日は「上に確認します」と言い残し、肩の羽根を一枚落として去っていった。茂は、これで少し時間ができたと思った。それが大きな間違いだったと知るのは、翌朝のことだった。
朝の散歩に出ようとした瞬間、ロボット――茂はもう「ぱふ」と呼ぶことにしていた――の様子がおかしくなった。
「ぱふ、どうした」
「け……検知……。け、検知しました……。回収用、ドローン……三機……接近中」
言うが早いか、ぱふは玄関を飛び出し、すごい速さで商店街の方向へ走り出した。
「おい、待て! こら!」
茂は六十二歳の足で、必死に追いかけた。情けないことに、すぐに息が切れた。それでも追いかけ続けたのは、ぱふが向かっている先に、ちょうど開店準備中の青果店があったからだ。
「危ない、止まれ!」
間に合わなかった。ぱふは陳列されたばかりのキャベツの山に勢いよく激突し、見事に弾き飛ばされたキャベツが、歩道を転がっていった。
「すんません、すんません!」
茂が頭を下げる間に、ぱふは何かに気づいたように顔を上げ、今度は道路を挟んだ向かいの結婚式場に向かって走り出した。ちょうど、白い衣装に身を包んだ新郎新婦が、記念撮影のために外に出てきたところだった。
「あ、わんちゃんだ!」
新婦が嬉しそうに声を上げた次の瞬間、ぱふは新婦のウェディングドレスの裾――純白のレースの裾に向かって、勢いよく頭から飛び込んでいった。理由は誰にも分からなかった。後でぱふ自身が言うには「何か、すごくいい匂いがしたので、確認したくなった」とのことだった。
「うわあああ」
新婦が転びそうになり、新郎が抱き止め、カメラマンが慌ててシャッターを切り、式場のスタッフが叫び、茂は「申し訳ありません! 申し訳ありません!」と頭を下げながら、ドレスに絡みついたぱふを引き剥がした。
空を見上げると、銀色に光る、UFOのような円盤型の物体が三機、ゆっくりと旋回していた。間違いなく、回収用ドローンだった。
「逃げるぞ、ぱふ」
「はい、ご主人様!」
還暦過ぎの男と、ポンコツのロボット犬が、商店街を全力で逃げ惑う図というのは、傍から見れば、相当に滑稽な光景だったに違いない。八百屋のおかみさんは腹を抱えて笑い、定食屋の店主はスマートフォンで動画を撮り、近所の小学生たちは「がんばれー」と声援を送った。
誰も、これが死後の魂を巡る、命の問題だとは思っていなかった。
第六章 記憶のバグ
商店街を抜け、河原の土手にたどり着いたところで、ドローンはようやく姿を消した。茂は土手に座り込み、肩で息をした。
「ぱふ、お前、なんで結婚式場に飛び込んだんだ」
「分かりません……。なんだか、こう……」ぱふは少し恥ずかしそうに、レンズを点滅させた。「真っ白いものに、飛び込みたくなる、衝動が、あるんです。きっと、バグです」
「いや、それ、ただの犬の習性だろ」
「そう、なんでしょうか」
二人は、しばらく黙って、川の流れを見ていた。茂は、こうして並んで座っているだけで、十二年間の散歩の感覚が、体の奥から染み出てくるのを感じた。
ふと、ぱふのレンズが、不規則に点滅し始めた。
「あ……。す、すみません。メモリの一部、断片が、流出、しています……」
ぱふの口から、ノイズ混じりの、奇妙な音声が漏れ始めた。それは、聞き覚えのある音だった。茂自身の声だ。
「――ぱふ、こっち向け。ほら、シャッターチャンスだぞ。あ、また違う方向見て……お前、ほんとに、写真下手だな」
それは、五年前、河原で撮ろうとして失敗した写真の時の、自分の声だった。録音した記憶など、どこにもないはずなのに、ぱふの中に、それが残っていた。
「これは……」
「魂のデータには、こういう、断片的な記憶が、付随することがあるそうです。鴉田さんが、そう言っていました」ぱふは、少し誇らしげに言った。「僕の中には、ぱふだった頃の、記憶のかけらが、たくさん、入っているみたいです」
ぱふは、続けて別の音を再生した。今度はそれは、雨の日に、傘も差さずに二人で歩いた帰り道の足音だった。茂の咳き込む声と、ぱふの軽い足音と、雨が地面を叩く音。
「あの日、お前、わざと水たまりに入って、僕にびしょびしょの足で抱きついてきたよな」
「そう、なんですか? 記憶では、ただ、嬉しかった、という感情のデータしか、残っていません」
「ああ、嬉しかったんだろうな、間違いなく」
茂は、自分の頬が濡れていることに、少し遅れて気づいた。泣いているのか、それとも、走ったせいで汗が出ているのか、自分でも判断がつかなかった。それでいいと思った。
「ぱふ」
「はい」
「お前がポンコツでも、バグまみれでも、僕は、もう一回、ちゃんと一緒にいたい」
「僕も、です」
ジジ、という、いつもの作動音が鳴った。だが今だけは、それが、何かに泣いているような音に聞こえた。
第七章 部長、鷲尾の登場
その日の夕方、再び呼び鈴が鳴った。今度は鴉田一人ではなかった。後ろに、立派な体格の、白髪を後ろに撫でつけた男を連れていた。両肩には、鴉田よりもずっと立派な、白い羽根が並んでいる。
「営業推進部長の、鷲尾でございます」
名刺を受け取りながら、茂は鴉田の顔をちらりと見た。鴉田は心なしか、いつもより小さく見えた。
「鴉田くんの報告で、事態を把握しております」鷲尾は、応接室にも通されないまま、玄関先で堂々と話し始めた。「規定通り、本日中に試作機を回収させていただきます。これは、上層部――そう、もっと上の方からの、直接の指示です」
「上層部、というのは」茂は聞いた。
「それは、お客様の知る必要のあることではございません」
「神様、ってことですか」
鷲尾は、一瞬、答えに窮した顔をした。それから、コホン、と咳払いをして話を逸らした。
「とにかく、規定です。規定は、絶対です。弊社は、創業以来、一度も規定を破ったことがございません」
その横で、鴉田が小さな声で「先月、第三営業部が、規定を破って、猫の魂を電子レンジに転生させてしまった件は……」と呟き、鷲尾に肘で小突かれて黙った。
茂は、奥の和室に隠れているぱふの方を、ちらりと見た。震えながら、こちらを見ている。
「鷲尾さん」茂は言った。「規定を破ったら、どうなるんですか」
「規定違反は、厳正に処分されます。担当者の評価が下がり、最悪の場合、降格、あるいは――」
「人間に戻される、とか?」
鷲尾の顔が、一瞬、固まった。鴉田もまた、目を逸らした。
「……なぜ、そのようなことを?」
「いえ、当てずっぽうです」茂は言った。「でも今、二人とも、ものすごく嫌そうな顔をしましたから」
しばらくの沈黙の後、鷲尾は重い口を開いた。
「私も鴉田くんも、元はこちらの世界の人間でした。働き過ぎて、体を壊し、ある日、何の前触れもなく、こちらに来ました。今の仕事を一定期間つつがなく勤め上げれば、希望すれば、もう一度、人間として転生できる規定があるのです」
「つまり」茂は言った。「あなたたちも、運に振り回されて、ここにいるってことですね」
鷲尾は、何も答えなかった。だがその沈黙は、肯定そのものだった。
第八章 保護犬登録大作戦
その夜、茂は、ある考えを思いついた。
元市役所職員としての、長年の癖というべきものだった。規定で押されるなら、規定で返す。鷲尾が「規定は絶対」と言うなら、こちらも規定を使えばいい。
翌朝、茂は古巣の市役所に向かった。窓口で対応してくれたのは、かつての同僚、保健所担当の山下だった。
「茂さん、お久しぶりです。今日はどうされたんです?」
「動物の、保護に関する登録の話で来た」
茂は、できるだけ平静な顔を作って説明した。「落下物として発見した、所有者不明の動物型ロボットを、地域の保護動物として、正式に飼育登録したい」と。
山下は怪訝な顔をしたが、茂が淀みなく規定の条文を引用しながら説明するのを聞いて、最終的にはこう言った。
「茂さん、こういう前例、聞いたことないですけど……。でも、規定上、『動物としての行動様式を有し、地域住民に保護されている個体』については、形式さえ整えば、受理は可能、ですね。一応」
「それでいい」
「でも、ロボットなんですよね? それ、動物として扱っていいんですか」
「行動様式は完全に犬だ。匂いを嗅ぐし、フンを欲しがるし、結婚式のドレスに突っ込む」
山下は、それ以上は聞かないことにしたようだった。長年の付き合いで、茂が何かに本気になったときの顔を、知っていたからだ。
書類を提出し、印鑑を押し、何枚もの形式的な手続きを終えると、山下はようやく一枚の証明書を発行してくれた。「地域保護動物登録証」。個体名の欄には、茂が指定した通りの文字が記載されていた。
「ぱふ二号」
その日の午後、再び訪れた鷲尾と鴉田に、茂はその証明書を突き出した。
「これは、地方自治体が発行した、正式な動物保護登録証です。この個体は、もう、御社の資産ではなく、地域住民によって保護されている、一匹の犬です」
鷲尾は、証明書をしばらく睨んでいた。
「……このような前例は、聞いたことがありません」
「規定は絶対だと、おっしゃいましたよね」茂は言った。「だったら、こちらの規定も、絶対です」
鴉田が、口元を押さえて、何かを必死に堪えていた。明らかに、笑いを堪えていた。
第九章 鴉田の正体
鷲尾は証明書を持って一度引き上げ、「上に確認します」と言い残した。鴉田だけが、しばらく玄関先に立ったまま、帰ろうとしなかった。
「鴉田さん、お茶でも飲んでいきますか」
茂が聞くと、鴉田は意外そうな顔をして、結局縁側に座った。ぱふが、警戒しながらも、少し離れた場所に寝そべる。
「あの証明書、効力があるか正直、私にも分かりません」鴉田は、湯気の立つ茶を見ながら言った。「規定の隙間を突くやり方は、上は嫌いますが、現場の人間としては、好きですよ、そういうの」
「鴉田さんも、人間だったんですよね」
「ええ。広告代理店に十八年いました。最後の三年は、ほとんど家に帰った記憶がありません」鴉田は、ふっと笑った。「ある朝、会議室で、企画書を作りながら、そのまま動かなくなりました。誰も、しばらく気づかなかったそうです」
「それで、ここに」
「ここに来て、最初に思ったのは『これで休める』でした。でも結局、こちらでも、似たような仕事をさせられています。人手不足なんですよ、どこの世界も」
ぱふが、少し興味を持ったように、頭を上げた。
「鴉田さんも、運が悪かったんですね」
「そう、思っていました。最初は。会社のために命を削って、その結果、こんな辺鄙な部署に配属されて。運が悪いとしか、言えないと」鴉田は、湯呑みを両手で包んだ。「でも、ここで働いていると、色々な『運』を見ます。あなたと、ぱふくんのような運もある。手違いで落ちてきて、手違いで、出会い直した。これは、運が悪かったのか、良かったのか。私には、正直、まだ分かりません」
「分からなくていいんじゃないですか」茂は言った。「運に、いい悪いの判定をつけるのを、僕はもう、やめにしました。良かったのか悪かったのかは、後になっても、結局誰にも分からない。ただ、起きたことを、抱えて生きていくしかない」
鴉田は、しばらく黙って、茶を飲んだ。
「正直に言いますと」と鴉田は、少し声を落として言った。「上の方では、このケースを『前例にしたくない』という意見が大半です。情に流された処理だと、糾弾する声もあります」
「だったら」
「ですが」鴉田は続けた。「私は、報告書に、こう書くつもりです。『当該個体は、地方自治体の正規の保護登録手続きを経たため、回収不能と判断する』と。これなら、規定違反ではなく、規定の範囲内の結果ということになります」
「それで、いいんですか」
「いいも悪いも」鴉田は立ち上がりながら、肩をすくめた。「規定の解釈は、現場の担当者に委ねられている部分も、あるんです。少なくとも、私の課の規定では」
ぱふが、嬉しそうに尻尾――もげかけたロッドを、ガコガコと振った。
「鴉田さん、ありがとうございます」
「お礼は結構です」鴉田は、玄関で靴を履きながら、最後にこう付け加えた。「でも、一つだけ、覚えておいてください。今回はうまくいきました。でも次に、もし、何かの手違いが起きたとき――それが、いい手違いになるか、悪い手違いになるかは、誰にも保証できません。それが、運というものの、本当の正体です」
茂は、その言葉を、静かに受け取った。
終章 半分でいい、それでいい
あの一件から、半年が過ぎた。
天界クラウドサービス株式会社から、それ以降、誰も訪ねてくることはなかった。鴉田からは、一度だけ、差出人不明の絵葉書が届いた。消印もない、奇妙な紙の質感の葉書には、こう書かれていた。「規定通り、処理完了いたしました。お元気で」。それだけだった。
ぱふ二号――今ではみんな、ただ「ぱふ」と呼んでいる――は、相変わらずポンコツのままだ。雨の日には片方の耳から変な音が鳴るし、急に充電が切れて、散歩の途中で立ち往生することもある。近所の人たちは、最初は驚いていたが、今ではすっかり馴染んで、「茂さんとこの、ロボット犬、今日も元気そうね」と声をかけてくる。
茂は、今でも毎朝、同じ道を歩いている。手にはゴミ袋とトング。隣には、ガコガコと不規則な音を立てながら歩く、ポンコツな相棒。
道端の空き缶を拾いながら、茂はふと、自分のコップに半分入った水のことを考える。
あれを半分しかないと見るか、半分もあると見るか。そんなことに、もうこだわらなくていい気がしている。半分は、ただ半分だ。多くも少なくもない。それでいい。それだけで、十分だ。
神様はいない。それは今も変わらず、茂の中にある確信だ。届かない願いに祈ったところで、何も保証されない。明日の朝、目が覚めることすら、誰にも約束されていない。あるのはただ、運という、気まぐれで、公平でも不公平でもない、ただの現実だけだ。
けれど、その運の隙間から、こうして、ポンコツな形をした何かが、もう一度、自分の隣に転がり込んできた。それもまた、運だ。良かったのか悪かったのか、誰にも判定できない、ただの運だ。
「ぱふ、止まるなよ。置いてくぞ」
「ま、待ってください、ご主人様……。あ、また足が、もつれ……」
茂は、振り返って、ポンコツが起き上がるのを待つ。急ぐ必要は、もうどこにもない。
先に逝ってしまった仲間たちは、もう戻らない。先祖たちも、もう戻らない。それでも、茂は今、確かにそう感じている。彼らは、どこかに、確かに、いる。神でも、宗教でも、教えでもない、もっと近くにある場所に。今、隣でガコガコと音を立てて立ち上がっている、このポンコツの中にすら、その気配が、確かにある。
そろそろ、と思う日もある。まだまだ、と思う日もある。どちらにしても、コップの水は、変わらずそこにある。
半分あれば、いい。
今日も、二人――いや、一人と一匹のポンコツは、河原沿いの道を、ゆっくりと歩いていく。
ガコン、ガコン、ガコン。
その音が、いつまでも、続いていけばいいと、茂は思っている。
(了)
Amazon Kindle
あとがき
還暦を過ぎてから、人はふと、コップの水の量を数えはじめるものらしい。半分しかないのか、半分もあるのか。そんなことを考えながら歩いていたら、いつのまにか、空からポンコツなロボット犬が落ちてくる話になってしまった。
神様がいるかいないか、それは結局、この物語の中でも答えが出ていない。鷲尾部長も鴉田主任も、はっきりとした答えを持っていない様子だった。ただ、運という、気まぐれな現実だけが、登場人物たちの足元に、いつも転がっている。
もし、あなたの隣にも、ポンコツな何かが転がり込んできたら――それを拾うかどうかは、もちろん、あなた次第である。
※本作はフィクションです。実在の人物・団体・サービスとは一切関係ありません。

