還暦軌道
─東へ、西へ、そして空の彼方へ─
まえがき
還暦——それは昔なら人生の終着駅のように語られた年齢でした。
しかし現代では、多くの人が六十歳を過ぎても働き、学び、新しい夢を見つけています。還暦とは終わりではなく、人生の新しい軌道へ入る通過点なのかもしれません。
けれど、私たちはいつか必ず、「残された時間」という問いと向き合います。
もし、人生に期限が与えられたなら、人は何を選ぶのでしょうか。
会いたかった人に会いに行くでしょうか。
果たせなかった約束を果たすでしょうか。
それとも、大切な人へ、伝えられなかった言葉を届けるでしょうか。
本作は、SFという衣をまといながら、「時間とは何か」「人生とは何か」を描いた物語です。
宇宙へ向かう旅は、未来への旅であると同時に、過去へ帰る旅でもあります。
東へ、西へ、そして空の彼方へ。
主人公・結城修の軌道が、読者の皆さま自身の人生の軌道と、どこかで静かに重なってくれたなら、著者としてこれほど嬉しいことはありません。
雲は流れ、同じ形には二度と戻りません。
だからこそ、人生は美しい。
この物語が、あなたの空を見上げる時間の一助となれば幸いです。
プロローグ 雲を見上げる男
六月の夜、結城修は団地のベランダに出て、缶ビールを片手に夜空を見上げていた。
雲はゆっくりと東から西へ流れていた。月明かりに縁取られた雲の輪郭は、見ているうちに少しずつ形を変えていく。さっきまで犬の横顔のように見えていたものが、次に見たときには、もう違う何かになっている。
「ああ、もう違う」
修は小さく呟いた。六十年前、生まれたばかりの自分が初めて見た雲も、きっとこんな風に流れていたのだろう。誰も覚えていない、写真にも残っていない、たった一度きりの雲。
今日は還暦だった。
リビングでは、妻の由美子と娘の沙也加が後片付けをしている音が聞こえる。息子の大輔は、海外からのビデオ通話で「おめでとう、父さん」と笑っていた。ケーキには、ろうそくが六本——一本で十年を表す、家族からの粋な提案だった。
六十年。
修は手のひらを月明かりにかざした。指先は、わずかに震えている。三日前、病院で告げられたことを、修はまだ誰にも話していなかった。
——脊髄小脳変性症、急速進行型。
医師の言葉は、まるで天気予報のように静かだった。「現在のところ、概ね十二ヶ月から十四ヶ月、日常生活に大きな支障のない期間が続くと考えられます」
十二ヶ月。
雲が、また形を変えた。
修は、ベランダの隅に置かれた古い段ボール箱に目を移した。今日の昼、押し入れを整理していた由美子が見つけ、「これ、あなたの? 懐かしいわね」と渡してきたものだ。中には、三十年前——大学院を出てすぐ、宇宙物理学研究所で働いていた頃の資料が入っていた。
その中の一枚、変色した茶封筒。差出人の名は「大久保良一」。
修はまだ、封を切っていなかった。
雲が、月を隠した。
東から西へ。
それは、修がずっと避けてきた問いだった。
「お父さん、こっちおいでよ! ケーキの写真撮るよ!」
沙也加の声がした。修は封筒をそっとパジャマのポケットに入れ、雲に背を向けて、家族のいる部屋へと戻った。
だが、その夜、修は眠れなかった。
第一部 告知
第一章 十二ヶ月
三日前——
修は北品川総合病院の診察室で、四十代後半の主治医・高梁(たかやな)から、MRI画像を見せられていた。画面に映る自分の小脳は、記憶の中にあるものより、心なしか縮んで見えた。
「進行性の小脳萎縮が見られます。脊髄小脳変性症の一種ですが、今回のタイプは進行速度がやや速いものです。現時点では、字を書く、歩く、話すといった日常の動作には問題がありません。ですが——」
高梁は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「今後十二ヶ月から十四ヶ月のうちに、手足の震えや言語障害が徐々に進行し、その後は介助が必要になる可能性が高いと考えられます」
修は、自分の手を見た。六十年間、ペンを握り、計算尺を握り、ハンドルを握り、生まれたばかりの娘や息子を、そして孫を抱き上げてきた手だった。震えてはいない。今は、まだ。
「治療法は」
「対症療法が中心になります。進行を完全に止める根本的な治療法は、現時点では確立されていません」
確立されていません。修はその言葉を、心の中で繰り返した。研究者だった自分が、かつて最も嫌っていた言葉だった。
病院を出ると、品川の街は、いつも通りだった。昼休みのサラリーマンが行列を作るラーメン屋、ベビーカーを押す若い母親、工事現場の音、空を切るように飛ぶ旅客機の白い線。
誰も、修の十二ヶ月のことを知らない。
修は、駅前の歩道橋に上った。高さ十数メートルから見下ろす街は、いつもと同じ速さで動いていた。電車が来て、人が降りて、人が乗る。誰も立ち止まらない。
——時間は、待ってはくれない。
三十年前、修はこの感覚を、別の場所で味わったことがあった。研究所の屋上から、夜空に向かう小型ロケットの光跡を見送ったときだ。あのとき、修はまだ二十代だった。宇宙物理学研究所で、「クロノス計画」と呼ばれる、相対論的時間遅延の実証実験に関わっていた。
そして、由美子の妊娠を知った日、修は研究所を辞めた。
安定した収入、定時に帰れる仕事、家族との時間。それらはすべて、修が「正しい」と信じて選んだものだった。後悔はしていない——そう、三十年間、修は自分に言い続けてきた。
沙也加が生まれ、大輔が生まれ、二人は育ち、家を出て、それぞれの人生を歩み始めた。由美子と二人だけの暮らしに戻ったのは、五年前のことだ。
そして今、修の手元には「十二ヶ月」という、新しい締め切りがある。
歩道橋の上で、修は空を見上げた。雲が一つ、ゆっくりと東から西へ流れていった。
——その姿は、もう二度と見られない。
修は、ポケットの中の茶封筒に、指で触れた。三十年間、開けることのなかった封筒。差出人は、大久保良一。修の、たった一人の「研究仲間」だった男。
帰り道、修は何度もその封筒を取り出そうとして、結局ポケットに戻した。
そして今夜、家族が眠った後——
修は、リビングのソファに座り、テーブルの上に茶封筒を置いた。封筒の端は、三十年の時を経て、すっかり黄ばんでいる。消印の日付は、修が研究所を去った、ちょうど一ヶ月後のものだった。
修は、長い間、その封筒を見つめていた。
そして、ゆっくりと、封を切った。
第二章 大久保の手紙
中には、便箋が三枚。万年筆の、やや右に傾いた癖のある字。見覚えのある筆跡だった。
「修へ」
そう書き出されていた。
「退職の話を聞いたとき、正直、引き止めたいと思った。でも、由美子さんのお腹の子のことを聞いて、何も言えなくなった。お前は、ちゃんと選ぶべきものを選んだんだと思う」
修は、その先を読み進めた。
「覚えているか。打ち上げの前の夜、屋上で二人で雲を見ていたこと。あの夜、お前が言ったんだ。『雲って、二度と同じ形にならないんだな』って。俺は、その言葉が忘れられない。クロノス計画が目指しているのは、結局、それと同じことなんじゃないかと思う。一瞬一瞬、同じ形では戻らない時間を、どうやって誰かのために『取っておく』か——そういう話なんだ」
修の手が、止まった。
「俺はこれから、この計画に残る。お前がいなくなるのは寂しいが、いつか——本当に時間が必要になる人が現れたとき、この技術が誰かを救えるかもしれない。そのときが来たら、もう一度、お前に声をかける。研究者としてじゃない。あの夜、雲を見ながら隣にいた、たった一人の友人としてだ」
最後に、一枚の写真が入っていた。
二十代の修と大久保が、研究所の屋上で、夜空を見上げている後ろ姿。遠くに、ロケットの白い航跡が、まだ薄く残っている。
修は、写真を持つ手が、震えていることに気づいた。震えは、病気のせいではなかった。
三十年前のあの夜のことを、修は驚くほど鮮明に思い出すことができた。打ち上げの轟音が遠ざかったあと、屋上には静寂が戻り、二人は並んでベンチに座っていた。煙の名残が風に流され、その向こうで、いくつもの雲が、ゆっくりと形を変えていった。
「修、お前、本当にいいのか」
大久保が、そう聞いた。修は「いい」と答えた。あのとき、迷いはなかったはずだ。
だが——
修は、リビングのテーブルに置かれたタブレットを手に取った。画面に触れる指は、まだ震えている。
「大久保良一」
検索窓に、その名前を打ち込んだ。
表示された結果に、修は息を呑んだ。
一番上のニュース記事。「クロノス・リング計画、最終有人試験飛行へ——大久保良一主任研究員、『三十年の悲願』」
日付は、三日前。修が病院で告知を受けた、同じ日だった。
記事には、赤道直下の軌道エレベーター「アルファ・テザー」を使い、相対論的速度域での有人飛行を行う計画の概要が書かれていた。写真に写る大久保は、修の記憶よりずっと年を取っていたが、その目だけは、三十年前と変わらないように見えた。
修は、記事を最後まで読んだ。
試験飛行の予定日は、二週間後。
そして、記事の最後に、小さくこう書かれていた。
「なお、本計画では一般から一名、『市民観測員』として搭乗者を募集する予定であることが、関係者への取材で判明した」
窓の外が、わずかに白み始めていた。
修は、長い間、その記事を見つめていた。
そして、震える指で、メッセージアプリを開いた。宛先には、何年も前に登録したまま、一度も使ったことのない名前があった。
「大久保良一」
修は、一行だけ、メッセージを打った。
「手紙を、今読んだ。三十年遅れて、すまない」
送信ボタンに、指を置いたまま、修はしばらく動けなかった。
東の空が、ゆっくりと明るくなっていく。
修は、指に力を込めた。
第三章 由美子への告白
翌朝、修はほとんど眠っていなかった。
由美子は、いつもと変わらない様子で、味噌汁の鍋をかき混ぜていた。修は、テーブルの上に、二つのものを並べた。一つは、病院からの診断書。もう一つは、大久保からの手紙だった。
「由美子」
由美子が、振り返った。修の表情を見て、何かを察したのか、火を止めて、向かいの席に座った。
「話があるんだ」
修は、診断書を由美子の前に差し出した。
由美子は、それを手に取り、ゆっくりと読んだ。読み終えるまで、長い時間がかかった。
「……いつ」
「三日前」
「三日前って——あなたの還暦の日じゃない」
修は、頷いた。
「なんで、すぐに言わなかったの」
由美子の声は、静かだったが、震えていた。
「言葉が、見つからなかった」
由美子は、診断書をテーブルに置き、両手で顔を覆った。修は、何も言わずに、その様子を見ていた。
しばらくして、由美子が顔を上げた。目は赤くなっていたが、涙は流していなかった。
「治療は」
「対症療法しかない、と言われた」
「セカンドオピニオンは」
「考えてる。だけど——根本的には、変わらないと思う」
由美子は、深く息を吐いた。
「これから、どうするの」
修は、少し迷ってから、もう一つの紙——大久保からの手紙と、印刷したニュース記事を、由美子の前に置いた。
由美子は、それに目を通した。読み進めるうちに、その表情が変わっていった。
「これは……」
「三十年前、大久保から届いていた手紙だ。今日まで、開けていなかった。中に、こんなことが書いてあった」
修は、手紙の内容を、由美子に説明した。クロノス計画のこと。三十年前の約束のこと。そして、今、大久保が率いる計画が、最終試験飛行のために、一般から「市民観測員」を一人募集していること。
由美子は、しばらく黙っていた。
「あなた、行きたいの」
直球の問いだった。修は、すぐには答えられなかった。
「正直に言えば——分からない。でも」
「でも?」
「今しか、行けない気がする」
由美子の眉が、少し動いた。
「身体が、まだ動くうちに、ということ?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
修は、窓の外に目を向けた。雲が一つ、東から西へ流れていくのが見えた。
「俺は、三十年間、ずっと『今度』と言い続けてきた。今度、研究の世界に戻ろう。今度、もう一度、大久保に会おう。今度、由美子と二人で、もっと色んな場所に行こう。——でも、その『今度』は、一度も来なかった」
「……」
「沙也加と大輔が小さい頃は、それで良かったんだ。後悔はしてない。本当だ。でも、もう、『今度』を使い切ってしまった気がする」
由美子は、修の手を、そっと握った。修の手は、まだ少し震えていた。
「危ない仕事なんでしょう」
「分からない。でも、命に関わるようなことではない、はずだ。それに——」
修は、由美子の目を見た。
「もし、何かあったとしても、俺には、もう『十二ヶ月』という締め切りがある。これ以上、何を恐れることがあるんだろう」
由美子は、その言葉に、小さく息を呑んだ。そして、しばらくしてから、ぽつりと言った。
「ずるい言い方ね」
「すまない」
「ううん」
由美子は、修の手を、強く握り直した。
「私も、ずっと思ってた。あなたが、何かを諦めて、私たちのために生きてくれたこと。感謝してる。でも、ずっと、心の隅で——いつか、あなたが後悔するんじゃないかって、怖かった」
修は、何も言えなかった。
「行ってきなさい」
「由美子」
「でも、約束して。必ず、帰ってくること。十二ヶ月のうちの、一日も無駄にしないで」
修は、由美子の手を、両手で包んだ。
「ありがとう」
そのとき、修のタブレットが、通知音を立てた。
メッセージの送り主は、「大久保良一」。
修は、深呼吸をしてから、画面を開いた。
第四章 決断
画面に表示されたのは、メッセージではなく、ビデオ通話の着信だった。
修は、由美子と顔を見合わせた。由美子が、小さく頷いた。修は、通話ボタンに触れた。
画面に映ったのは、白髪交じりの、見覚えのある——そして、見覚えのない男だった。三十年という時間が、大久保の顔に刻まれていた。だが、その目は、写真で見たのと同じ、変わらない強さを持っていた。
「……修か」
大久保の声は、かすれていた。
「久しぶりだな」
「ああ」
二人は、しばらく、何も言えなかった。画面越しに、互いの顔を見つめ合っていた。
「同じ日に、メッセージが来るとは思わなかった」
大久保が、ようやく口を開いた。
「ニュースを見たんだ。お前が、まだこの計画を続けていたとは思わなかった」
「続けていた、というか……正直、何度も諦めかけた。予算は何度も切られたし、機体は二度、作り直した。でも——」
大久保は、少し笑った。
「あの夜の約束だけは、忘れられなかった」
修は、息を整えた。言うべきことを、言わなければならなかった。
「大久保。聞いてくれ」
修は、自分の病気のことを話した。脊髄小脳変性症。十二ヶ月から十四ヶ月。震える手のことも、隠さずに伝えた。
画面の向こうで、大久保の表情が動かなくなった。長い沈黙が流れた。
「……そうか」
大久保は、それだけ言った。そして、もう一度言った。
「そうか」
「だから、お前が言っていた『本当に時間が必要になる人』というのが、まさか自分のことになるとは、思わなかったよ」
修は、自分でも驚くほど、平静な声でそう言った。
大久保は、画面の向こうで、何かを考えているようだった。やがて、まっすぐに修を見た。
「修。これは、お前の身体に負担をかける旅じゃない。クロノス・リングは、最大でも光速の数パーセントで、地球を三周するだけだ。時間にすれば、お前にとっては、わずか数時間の旅にしかならない」
「数時間の旅。それで、何が変わるんだ」
「お前にとっては、ほとんど何も変わらない。だが——地球に残る側にとっては、わずかに『時間が進む』ことになる。一般相対性理論が予測する、時間の遅れだ。今回の試験飛行では、その差は、せいぜい数秒程度だろう。だが、それを人間が体感し、測定し、証明する。それが、この計画の目的だ」
修は、その言葉を、噛みしめるように聞いた。三十年前、紙の上の数式でしか見たことのなかったものが、今、現実の旅として、目の前にある。
「市民観測員には、何が求められるんだ」
「医学的なスクリーニングを通過すること。そして——この体験を、自分の言葉で、人々に伝えること。研究者の言葉じゃなく、普通の人間の言葉でだ。正直に言えば、お前のような経歴を持つ人間が、こんな状況で応募してくることなんて、想定していなかった」
「不利になるか。この病気のことは」
大久保は、首を振った。
「いや。むしろ——選考委員会には、俺が話す。お前の状況を考えれば、医学チームの判断は早まるはずだ。だが、修。一つだけ、確認させてくれ」
「何だ」
「これは、お前が望んだことか? それとも、ただ、何か特別なことをしなければならないと、自分を追い込んでいるだけか?」
修は、由美子の方を見た。由美子は、静かに、頷いた。
修は、画面の中の大久保を見た。
「三十年間、ずっと『今度』と言い続けてきた。その『今度』が、もう来ないことは分かっている。だから——これは、俺が望んだことだ」
大久保は、深く息を吐いた。
「分かった。応募の手続きは、こちらで急がせる。期限は、明日の正午までだ」
「明日?」
「試験飛行まで、二週間しかない。修——お前は、それまでに、何をしたい?」
修は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと答えた。
「行きたい場所が、いくつかある」
「どこだ」
「東北。それから——もう一つ、行かなければならない場所がある。三十五年前、果たせなかった約束の場所だ」
大久保は、画面の向こうで、小さく笑った。
「東へ、西へ、か」
「ああ」
「分かった。アルファ・テザーへの出発は、十日後で構わない。それまでは、修、お前の時間だ」
通話が切れた後、修は、しばらく画面を見つめていた。
由美子が、修の隣に座った。
「東北に行くの?」
「うん。それと——もう一つ」
「もう一つ?」
修は、由美子を見た。
「美咲さんに、会いに行きたい」
由美子の表情が、わずかに変わった。だが、それは、修が予想していたような、嫉妬や戸惑いの表情ではなかった。
「やっと、行く気になったのね」
「由美子……知っていたのか」
「三十五年も、引っかかってたものね、あなたの中で。——行ってきなさい。私も、本当は、ずっと気になってたの。あの『紅葉の約束』のこと」
修は、由美子の手を握った。
「ありがとう」
窓の外、東の空に、朝日が昇り始めていた。
第二部 旅立ち
第五章 桜の記憶
二日後、修は新幹線に乗り、北上駅で降りた。岩手県北上市——修が生まれ、十八歳まで育った町だった。
駅前のロータリーは、修の記憶の中にあるものより、ずっと小さく見えた。あるいは、修自身が大きくなったのかもしれない。
修は、タクシーに乗り、北上展勝地へ向かった。北上川沿いに、約二キロにわたって桜並木が続く、東北を代表する桜の名所だ。子供の頃、毎年春になると、両親に連れられて、ここを歩いた。
六月の展勝地は、深い緑に包まれていた。桜の木々は、もうすっかり葉桜——いや、葉桜どころか、新緑が深くなり、すっかり夏の様相を見せていた。
当然だ。桜の季節は、もう三ヶ月も前に終わっている。
それでも、修は、この場所に来たかった。
川沿いの道を、修はゆっくりと歩いた。震える足は、思っていたよりも、しっかりと地面を踏んでいた。
「結城さんの、修くんかい?」
声をかけられて、修は振り返った。腰の曲がった、八十代と思われる女性が、修を見つめていた。
「もしかして……田中のおばさん?」
「ああ、やっぱり! 還暦の集まりで、写真見たわよ。あなた、東京で偉い学者さんになったって、お父さんが、よく自慢してたんだから」
修は、苦笑した。「学者」にはなれなかった、とは言わなかった。
「お墓参り?」
「はい。これから」
「そう。——あなたのお父さんとお母さん、本当に、毎年この桜を楽しみにしてたわよ。お父さん、最後の年も、車椅子で、ここまで来てね」
修は、その言葉に、胸が締め付けられるのを感じた。父が亡くなったのは、十二年前。母は、その三年後だった。修は、仕事を理由に、最期に立ち会えなかった。
「最近は、桜の時期も、早くなったでしょう」
「ええ、本当に。私が子供の頃は、ゴールデンウィークが見頃だったのに、今じゃ、三月の終わりには、もう満開。気候も、変わったわねえ」
修は、頷いた。気候変動による開花時期の前倒し——データとしては知っていたことだったが、故郷の言葉で聞くと、また違う重みがあった。
田中のおばさんと別れた後、修は、両親の墓に向かった。小高い丘の上にある墓地から、北上川と、桜並木が見渡せた。
修は、墓石の前にしゃがみ込み、線香に火をつけた。
「父さん、母さん。修です。久しぶりに、帰ってきました」
風が、墓地を吹き抜けた。
「来年の春、桜を見に来ることは……できないと思います。でも——」
修は、自分の病気のことを、墓に向かって話した。十二ヶ月のこと。クロノス・リング計画のこと。
「俺、これから、ちょっと変わった旅に出ます。父さんたちが、毎年この桜を見に来たように——俺も、自分にとっての『桜』を、見に行こうと思います」
修は、丘の上から、緑に染まった北上川を見下ろした。
三ヶ月前、ここは、淡い桜色に染まっていたはずだ。修は、それを見ることができなかった。
だが、修は、ふと気づいた。
桜は、毎年、咲く。来年も、咲く。修がいなくなった後も、咲き続ける。
修が悲しんでいたのは、桜が終わったことではなかった。自分が、その瞬間に、ここにいなかったこと——そして、もう、両親と一緒に、その瞬間を共有することは、二度とできないということだった。
それは、桜の問題ではなかった。時間の問題だった。
修は、ゆっくりと立ち上がった。
「行ってきます」
そう言って、修は、丘を下り始めた。
次に向かう場所には、果たせなかった約束が、まだ残っている。
第六章 紅葉の約束
美咲が暮らすのは、京都の北、鞍馬の山あいだった。
修が最後に彼女に会ったのは三十五年前。大学四年の秋、修は宇宙物理を、美咲は日本画を専攻していた。
「来年の紅葉、一緒に見よう」
そう言って別れたきり、修は由美子と出会い、研究所に入り、美咲からの年賀状が途絶えた十年目に、彼女の結婚を知った。
約束は、誰にも責められないまま風化した。
鞍馬駅からバスを降り、細い石段を上る。六月の山は青々としていて、紅葉の気配は欠片もない。
修は震える手で住所を確かめた。小さな工房の表札に「佐伯美咲」とある。佐伯は、結婚後の姓だ。
戸を叩くと、中から「はい」と返事があった。
出てきたのは、白髪を一つに束ねた女性だった。三十五年の歳月は確かにそこにあったが、目元に残る笑い皺は、大学の写生室で絵筆を握っていた頃のままだ。
「……修くん?」
美咲は、修の顔を見て、ゆっくりと目を見開いた。
「久しぶり」
修は、それしか言えなかった。
工房に招かれ、美咲が淹れてくれた冷茶を飲む。
壁には、紅葉を描いた日本画が何枚も掛けられていた。燃えるような赤ではなく、雨に濡れた後の、深く沈んだ赤だった。
「急にごめん。手紙も出さずに」
「うん。驚いたけど……嬉しい」
美咲は、修の手元を見た。湯呑を持つ指が、細かく震えている。
「身体、悪いの?」
修は頷いて、三日前に受けた告知のことを話した。十二ヶ月。クロノス・リング。東へ、西へ、そして空の彼方へ。
美咲は黙って聞いていた。話し終えると、彼女は立ち上がって、奥の部屋から一枚の小さな絵を持ってきた。
色紙大の日本画。描かれていたのは、紅葉のトンネルだった。
「三十年前、あなたが来なかった年の秋に描いたの」
「……美咲」
「約束、覚えててくれたんだ」
美咲は、少し笑った。責める色はどこにもない。
「私ね、修くんが来ないって分かったとき、代わりに絵に描くことにしたの。毎年、秋になると、この場所の紅葉を描くの。誰にも頼まれてないのに、三十回描いた」
「どうして」
「約束したから。あなたが来ても来なくても、私はここで紅葉を見るって決めたから」
修は、言葉が出なかった。
三十年間、修は「今度」と言って、自分を正当化してきた。でも美咲は、「今度」を使わずに、三十回の秋を積み重ねていた。
「修くん」
美咲は、色紙を修に差し出した。
「これ、持って行って。あなたの旅に」
「でも、これは」
「私は、もう十分見たから。紅葉は、毎年咲くでしょう。でも、あなたには『十二ヶ月』しかない。だったら、あなたが空の向こうへ持って行って」
修は、震える手で色紙を受け取った。裏に、小さく「1990年11月」と書かれている。修が研究所を辞めた年だ。
「ありがとう」
「一つだけ、聞いてもいい?」
「何」
「後悔してる?」
修は、窓の外を見た。六月の青葉が、風に揺れている。
「後悔は、してない。由美子と、子供たちと過ごした三十年は、俺の宝物だ。でも——」
「でも?」
「一つだけ、取り返しがつかないと思ってたことが、今日、少し軽くなった気がする」
美咲は、目元を押さえて、小さく笑った。
「そっか。なら、良かった」
帰り際、美咲が工房の戸口で言った。
「修くん。空の上から見たら、紅葉って、どんな形に見えるかしら」
「分からない。でも、見てきたら、必ず伝える」
「約束ね」
「ああ。今度は、必ず」
鞍馬の駅で、修は色紙をパジャマの内ポケットに入れた。大久保の手紙と並んで、二つの過去が、胸の上で重なった。
第七章 十日後、アルファ・テザー
赤道直下、太平洋上。
軌道エレベーター「アルファ・テザー」の基部ステーションは、雲の上に浮かんでいた。
修は、与圧服を着て、搭乗ゲートの前に立つ。隣には、大久保がいる。三十年前の屋上より、ずっと年を取った二人の姿が、ガラスに映っていた。
「怖いか」
大久保が聞いた。
「いいや」
修は、ポケットの色紙に触れた。
「ただ、由美子に『必ず帰ってくる』って約束した。それだけ守れればいい」
医学チームの最終チェックが終わる。
医師が修に告げた。「結城さん。地上に戻ってくる頃、地上ではあなたより8.4秒だけ時間が進んでいます」
8.4秒。
修の十二ヶ月にとっては、誤差のような数字だ。
「発進五分前」
アナウンスが響く。
修は、大久保に一度だけ振り返った。
「大久保。三十年前、お前が言った通りだったな」
「何が」
「時間は、誰かのために『取っておく』ことができる」
大久保は、泣きそうな顔で笑った。
ゲートが開く。
修は、クロノス・リングのハッチをくぐった。
座席に座り、ハーネスを締める。目の前の小窓から、青い地球が見える。東から西へ、雲が流れている。
「結城修、クロノス・リング、発進準備完了」
管制の声が、ヘルメットの中で響いた。
修は、そっと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、北上展勝地の緑と、鞍馬の青葉と、まだ見ぬ秋の紅葉。
そして、リビングで待つ由美子の顔。
「発進」
機体が、静かに滑り出す。
Gが身体を押し付ける。窓の外の雲が、ぐにゃりと形を変えた。
修は、心の中で呟いた。
『ああ、もう違う』
だが、今度は悲しくなかった。
違うからこそ、美しいのだと、六十歳の修は、やっと理解できた。
地球を三周する、たった数時間の旅。
還暦の男が、東へ、西へ、そして空の彼方へ——
最後の軌道を、描きに行く。
第三部 帰還
第八章 8.4秒
クロノス・リングの窓は、すぐに漆黒に染まった。
大気の摩擦音が消え、Gが抜けると、身体がふわりと浮く。
窓の外、地球が青く回っていた。
東から西へ。雲が、筋になって流れている。プロローグで見た団地のベランダと同じ向きだ。でも、ここから見ると、雲は一枚の絵みたいに静止して見える。
「現在速度、光速の3.1パーセント。軌道一周あたり52分」
管制の声が、ヘルメットの中で淡々と告げる。
修は、与圧服の内ポケットから、美咲の色紙を取り出した。
「1990年11月」
三十四年前の紅葉が、無重力の船内でゆっくり回る。
ふと、窓の外に目をやった。
ちょうど日本列島が眼下を通過する。六月の本州は、緑の絨毯だ。
その中に、ぽつり、ぽつりと、赤い点が見えた気がした。
「錯覚か」
いや、違う。
高度三百キロから見る紅葉なんて、あるはずがない。でも修には、見えた。
北上の山も、鞍馬の谷も、全部が新緑なのに、修の網膜には、三十年間見られなかった赤が焼き付いている。
「修くん。空の上から見たら、紅葉って、どんな形に見えるかしら」
美咲の声が、耳の奥で再生される。
修は、小さく呟いた。
「形なんて、ないよ。ただ、光ってる」
地球を一周、二周。
三周目の途中で、減速Gが身体を座席に押し付けた。
「大気圏再突入まで三分」
窓の外が、オレンジに染まり始める。
修は色紙を、もう一度ポケットにしまった。大久保の手紙と重ねて。
機体が揺れる。雲を突き抜ける。
アルファ・テザーの基部ステーションが、眼下に近づいてくる。
着地の衝撃は、思ったより静かだった。
ハッチが開く。
与圧服のヘルメットを外した瞬間、湿った赤道の空気が肺に入ってきた。
大久保が、すぐそこに立っていた。
「おかえり、修」
「ああ。ただいま」
医師が、メディカルチェックをしながら告げる。
「結城さん。地上時間で、三時間四十二分十五秒が経過しました。あなた自身の体感時間は、三時間四十二分六・六秒。差分は8.4秒です」
8.4秒。
修は、笑った。
「受け取った」
第九章 ただいま
成田に着いたのは、日本時間の深夜だった。
到着ロビーに、由美子が一人で立っている。
修は、ゆっくりと歩み寄った。震える足は、宇宙に行く前と、ほとんど変わらない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
由美子は、修の顔をじっと見て、それから、小さく泣き笑いした。
「何よ、その顔。地球三周してきた男の顔じゃないわ」
「どんな顔してる」
「いつもの、修さんの顔」
二人は、誰もいない到着ロビーのベンチに並んで座った。
修は、ポケットから美咲の色紙を取り出して、由美子に見せた。
「美咲さんから」
由美子は、黙って受け取り、しばらく眺めていた。
「綺麗な赤ね。……ずるいわね、美咲さん」
「どうして」
「私より先に、あなたに『紅葉』を見せた」
修は、由美子の手を握った。
「違うよ。俺が本当に見たかった紅葉は、これからだ」
由美子が、修の目を見る。
「8.4秒、稼いできたんでしょう」
「ああ」
「その8.4秒、どう使うの」
修は、少し考えてから、由美子の耳元で囁いた。
「『ありがとう』って、八回言う。残りの0.4秒で、もう一回、『愛してる』って言う」
由美子は、吹き出して、それから、修の肩に顔を埋めた。
「馬鹿ね。本当に、馬鹿」
深夜の空港に、二人の笑い声だけが響いた。
第十章 雲を見上げる男、再び
それから十ヶ月が過ぎた。
修の病状は、医者の予測通りに進んでいた。字を書くのが難しくなり、箸を落とすことが増えた。言葉も、少し呂律が回らなくなってきた。
でも、修は毎日、ベランダに出る。
あの還暦の夜と同じように、缶ビールはもう飲めないけれど、麦茶のカップを片手に、空を見上げる。
今日も、雲が東から西へ流れていた。
さっきまで象の形をしていた雲が、今は、ロケットの航跡みたいに見える。
「お父さん、寒いから中入りなさい」
沙也加が、毛布を持って出てきた。娘の隣には、三歳になる孫の健太がいる。
「健ちゃん、これ、何に見える」
修は、呂律の回らない声で、空を指さした。
「ひこうき!」
健太が、無邪気に答える。
修は、満足そうに頷いた。
8.4秒、稼いだ時間は、もうとっくに使い切った。
でも、その8.4秒があったから、修は美咲に会いに行けた。由美子に、ちゃんと「ありがとう」を言えた。そして今、孫と一緒に雲を見上げている。
隣の部屋から、由美子の声がする。
「お父さん、そろそろ薬の時間ですよ」
修は、孫の頭を撫でてから、ゆっくりと立ち上がった。
足は震える。でも、倒れなかった。
ベランダの手すりに掴まり、最後にもう一度、空を見た。
雲が、また形を変える。
『ああ、もう違う』
修は、そう思って、笑った。
違うからこそ、今日も、空は美しい。
そして修は、家族の待つ部屋へ、ゆっくりと戻っていった。
東へ、西へ。
そして、還暦の軌道は、静かに、円を閉じる。
エピローグ 十二ヶ月と一日目
修が逝ったのは、告知からちょうど十二ヶ月と二週間後の、秋の朝だった。
葬儀の後、由美子は、修の机を整理していた。
引き出しの奥から、古い茶封筒が出てくる。差出人は「大久保良一」。
その隣に、色紙が一枚。
「1990年11月」の紅葉と並んで、もう一枚、新しい色紙が置かれていた。
由美子が開くと、そこには、修の震える字で、こう書いてあった。
「2026年11月」
描かれていたのは、赤ん坊を抱いた、若い夫婦だった。
背景には、真っ赤な紅葉。
どう見ても、由美子と、三十年前の修と、生まれたばかりの沙也加だった。
色紙の隅に、小さな文字。
『美咲さんへ。空の上から見た紅葉は、こんな形でした。約束、果たしたよ。 修』
由美子は、色紙を胸に抱いて、窓の外を見た。
秋の空に、雲が一つ、東から西へ流れていく。
由美子は、誰に言うでもなく、呟いた。
「本当に、馬鹿ね」
そして、泣きながら、笑った。
十二ヶ月と一日目。
秋の空に、雲が一つ、東から西へ流れていく。
同じ形の雲は、二度と現れない。
だから人生は、美しい。
修の時間は終わったけれど、修が残した軌道は、まだ誰かの空に、続いている。
─完─
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あとがき
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
人は誰も、自分に残された時間を知ることはできません。
だからこそ、「今度いつか」「またそのうち」という言葉を、私たちは何気なく使います。
しかし振り返ってみると、人生の多くは、その「今度」が来ないまま過ぎていくのかもしれません。
主人公の結城修は、「十二ヶ月」という期限を与えられました。けれど、本当は私たち全員が、見えない締め切りの中を生きています。
この作品で描きたかったのは、死ではありません。
限りある時間の中で、人はどう生きるのか。
誰に会い、何を伝え、どんな景色を見上げるのか。
そして、人が生きた軌道は、本人がいなくなった後も、誰かの空に残り続けるのではないか——そんな願いでした。
物理学の世界では、時間は伸び縮みします。
けれど、人の心の中の時間は、もっと不思議です。
たった8.4秒が、一生分の意味を持つこともある。
もし本書を読み終えたあと、誰かに「ありがとう」と伝えたくなったなら、この物語は役目を果たしたのだと思います。
今日、空を見上げた雲も、二度と同じ形には戻りません。
だからこそ、その一瞬を大切に。
読者の皆さまの人生の軌道が、穏やかで、美しいものでありますように。

