第II部 未来予報士の不便な書斎
――あるいは、三十年後に置き去りにされた電報――
記録者 倉田誠司
未来は速くなった。
けれど、人が人を想う速度だけは変わらない。
〜まえがき〜
未来は、いつも希望として語られてきました。
空飛ぶ車。
人工知能。
病気を克服する医療。
どこにいても繋がる通信。
私たちは、たくさんの「便利」を手に入れてきました。
けれど、その一方で失ったものもあります。
返事を待つ時間。
誰かを想う沈黙。
何も通知が来ない夜の静けさ。
この物語は、一篇の詩から生まれました。
詩を書いた人がいました。その人は、失われたものを惜しみながら、それでも未来を想っていました。怒りと懐かしさと、ほんの少しの希望を、言葉に込めていました。
その詩の魂を借りて、私はこの小説を書きました。
便利さの先にある未来で、人間らしさはどこへ行くのだろう。
そんな問いを、一人の未来予報士と、一通の届かなかった電報を通して描いています。
ポケベルを知っている世代へ。
そして、ポケベルを知らない世代へ。
この物語が、あなた自身の大切な何かを思い出すきっかけになれば幸いです。
プロローグ ポケベルの音
倉田誠司は夢を見ていた。
夢の中では、まだ日本という国があった。
腰のベルトには小さな黒い機械がぶら下がっている。縦七センチ、横四センチ。液晶画面には数字が並んでいる。「090-XXXX-XXXX 折り返してください」と、誰かからのメッセージ。誠司はその数字を手帳に書き写し、近くの公衆電話へ走った。
耳の奥に電子音が残っている。
ピッ。ピッ。ピッ。
懐かしいポケベルの音。液晶には別の数字が表示される。
「0840」――おはよう。
昔の人は数字で会話していた。そんな馬鹿げたことを、夢の中の誠司は当たり前のように理解していた。
目が覚めた。
二〇五七年、七月。倉田誠司は五十三歳になっていた。
天井には、起床と同時に情報が投影される。気温、株価、世界ニュース、健康状態、睡眠評価。
AI秘書の声が響く。
「おはようございます倉田様。本日の生産性予測は92パーセントです」
誠司はうんざりしながら、スマートグラスに触れた。ガラス面が薄く光り、今日のニュースが流れ始める。
――日本州議会、連邦予算案を可決。防衛費は引き続きワシントンが管轄――
窓の外には東京州第一行政区の空が広がっている。かつて「東京都」と呼ばれた場所。いまは「JAPAN STATE, DISTRICT-1」と標識に刻まれ、道路標識の文字はすべて英語が先、日本語がその下に小さく添えられている。
誠司はグラスを外した。
夢の中のポケベルの音が、まだ耳の奥に冷たく残っていた。
第一章 五十一番目の境界線
倉田誠司がこの国に生まれたのは二〇〇四年だった。
子供の頃、父親がよく言っていた。「日本はすごい国だ」と。新幹線があり、電化製品があり、世界に誇れる文化と技術があった。
私たちはいつの間にか、かつて映画が夢見た未来を通り過ぎてしまった。
青年期、誠司は古い映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のことを好んで観ていた。主人公のマーティがデロリアンという改造車に乗って向かった未来の日付は、もうとっくの昔に過去の記録カレンダーへと消え去っている。映画の中の未来はどこかユーモラスだったが、現実の未来は、それよりもはるかに冷徹で、静かにやってきた。
それがいつから、こうなったのか。
二〇四一年の「統合条約」――正式名称は「太平洋安全保障・経済統合協定」――が締結されたとき、日本の有権者の多くはそれがどういう意味なのか、まだ理解していなかった。条約の全文は英語で書かれており、日本語の翻訳版が公開されたのは批准から三ヶ月後だった。
反対運動はあった。国会前に人々が集まり、ネットでは激しい議論が交わされた。しかしそのころすでに、情報空間はアルゴリズムによって細かく分断されていた。反対派は反対派だけのタイムラインを見ており、賛成派は賛成派だけの「世論」を眺めていた。
気づけば、条約は通過していた。
翌年から、円はドルに統合された。
その翌年、自衛隊はアメリカ軍の指揮下に編入された。
その翌年、選挙制度が「連邦標準方式」に改められた。日本語での立候補は認められているが、連邦議会への議席は存在しない。日本州選出の代表者は「オブザーバー」として会議に参加できるが、投票権はない。つまり、この国はいまや「アメリカの五十一番目の州」と化していた。名前だけの独立国として、誰かの都合の良いように塗り替えられた未来。
誠司はシステムエンジニアだった。プログラムを書くのが仕事だった。技術は変わっても、コードを書くという行為そのものは変わらなかった。だから彼は波に乗り続けた。ポケベルの時代を知り、携帯電話の時代を生き、スマートフォンに乗り換え、ウェアラブル端末を装着し、いまはスマートグラスとニューラルリンクが標準装備の時代だ。
通知は一日に三千件。仕事の半分は会議、残り半分はAIの監督。
人間が機械を使っているのか、機械が人間を使っているのか、時々分からなくなる。
「便利さと引き換えに、私たちは大事なものを失ってしまったんじゃないか」
そんな焦燥感に追われる日々に疲れ果てていたある日、一通の郵便物が届いた。
本物の紙の封筒だった。今どき郵便など滅多に存在しない。
封を開くと、中には一枚の便箋。たった一行、手書きの文字が躍っていた。
『未来は予測通りに壊れ始めました。至急お越しください。電波の届かない場所で待っています。 千歳』
千歳(ちとせ)。
二十代の頃、ネットの片隅で噂になった奇妙な老人。
「文明崩壊を予測している変人」
そんな扱いだった。だがなぜか、誠司はその手紙を無視できなかった。胸の奥で、夢の中のポケベルの音が、またピッ、と鳴ったような気がした。
第二章 Wi-Fiの届かない場所
長野へ向かう新幹線の窓から、誠司は山並みを眺めていた。
車内の乗客は全員がARグラスを装着している。誰も景色を見ない。皆、別の人工的な現実を見ていた。誠司だけがスマートグラスを外し、窓の外を見ていた。
富士山が見えた。その雄大な形だけは、何も変わっていなかった。
長野県北部。地図にも載っていない小さな谷がある。
衛星通信は届かない。携帯電話は圏外。Wi-Fiも存在しない。人工知能による補助サービスも利用できない。その場所は人々から「空白地帯」と呼ばれていた。
谷の奥には古い洋館が建っている。赤茶けたレンガ。蔦の絡まる壁。風見鶏のついた尖塔。まるで時間そのものから忘れられたような建物だった。
そこには、誠司の旧友であり、二十年前に東京を捨ててこの地に移住した畑中俊也(はたなか としや)と、あの手紙の主である老人が暮らしていた。
「よく来たな、誠司」
畑中は日焼けした顔で笑っていた。東京にいたころより、確かに若く見えた。
「畑中、お前と一緒にいるこの老人が……」
「ああ、未来予報士の千歳さんだ」
千歳は、年齢不詳の老人だった。八十歳とも百歳とも言われていた。二十代の頃、画面越しに見た姿とほとんど変わっていないように見えた。
「未来は今よりずっと良い、とどどなたかが言っていたけれどね」
千歳は、琥珀色に濁ったお茶をすすりながら、静かに呟いた。
彼の書斎には、古い紙の匂いが漂っていた。本棚、地球儀、蓄音機、振り子時計。二十一世紀の文明が忘れてしまったものばかりが並んでいる。そして机の上には、液晶画面はなく、ただ小さな真鍮の針と、煤けた文字盤があるだけの不思議な精密機械が並んでいた。
「今まだ、国と国とが争うのならば、未来はさほど良いとは思えない。そうだろう? 科学がどれほど進歩し、都市がどれほど光に満ちても、人間の心の中にある縄張り争いの本能は、石器時代から一歩も進んでいないように見える」
千歳は、誠司がかつて夢に見たあの小さな黒いプラスチックの箱を愛おしそうに撫でた。
「三十年前、若者たちはこの数文字の数字に命を吹き込んでいた。『0840(おはよう)』『4910(至急連絡)』。それは巨大な波に飲み込まれ、通り越し、今や誰もがスマートフォンを握りしめている。いつか誰かが、勝手に予測した便利すぎる時代がこれだ。ところが、それによって多くの弊害が起きて、人々は心病むばかり。便利さと引き換えに、大事なものを失ってしまったと気付いた時には、すでに遅かったのだよ」
誠司はその洋館に滞在することにした。
情報が来ない。通知が来ない。誰かに何かを求められない。その静けさに、最初は戸惑った。
しかし、三日目の朝、スマートグラスをポーチにしまい込んだとき、誠司は初めて気づいた。
鳥の声に、こんなにも種類があることを。土の匂いが、季節によって変わることを。
「私はね、未来を予測しているわけじゃない」
千歳は地球儀を回しながら微笑んだ。
「過去を見ているだけだ。人類は何千年も同じ失敗を繰り返している。だから未来は予測できる」
その言葉に、誠司の背筋が寒くなった。
第三章 悪魔の火と太陽の約束
「社会の速度は、人間の精神の限界を超えて加速しているね」
ある夜、暖炉の前で千歳は静かにパイプに火をつけた。
「間もなく、鉄路の王座は新幹線からリニアモーターカーへと引き継がれ、東京と大阪はわずか一時間で結ばれるという。移動時間は短くなる。それは確かに技術の勝利だ。だが誠司くん、考えてごらん。東京から大阪まで一時間で移動できるようになったとき、私たちは果たして幸せなのだろうか?」
誠司は答えられなかった。早くなるということは、それだけ「待つこと」を許されない社会になるということだ。一時間の距離になれば、出張はすべて日帰りになり、車窓の景色を愉しむ余裕すら奪われる。人間はただの効率的な『記号』として、超高速で射出されるだけだ。
「分からない……解らない、判らない……」
誠司の口から、三つの異なる『わからない』が溢れ出た。
事実として知ることができないのか(分からない)、論理として理解できないのか(解らない)、それとも、心がそれを正しいと判断したくないのか(判らない)。
千歳は未来の図面を広げた。そこには、自動運転の網が都市を覆い、衝突事故という概念そのものが消滅した社会が描かれていた。
「いずれ、車はすべて電気となるだろう。だが、その進歩の裏には必ず大きな代償がある。これほどの大電力を賄うためのエネルギー問題だ。そして国は、やはり『原発こそが唯一の解決策だ』と、あの悪魔の火を再び強く推し進めるはずだ」
「もし、その廃棄物を地球で処理できないと言うのなら」誠司は少し自嘲気味に言った。「いっそロケットに積み込んで、誰もいない遠い星へと運んでしまえばいい。地球を汚さないために、宇宙をゴミ捨て場にする。そんな傲慢な未来なら、いっそ分かりやすい」
「それよりも」千歳は穏やかな目で窓の外の月を見上げた。「原発へのしがらみや利権をすべて無くして、私たちはもっと太陽と仲良くしたらいいだけなのだ。太陽が惜しみなく注じてくれる光や熱、そして風。それらを最大限に利用する術は、技術的にはとっくに確立されている」
「そんなことは、皆、とうに分かっているはずです」誠司は声を落とした。
「そうだ。皆、分かっている。それでも、立ち塞がる巨大な大人の壁、利権という名の見えない怪物に阻まれて、正しい未来はいつまで経ってもやってこない。地球もろとも吹っ飛ばしかねない悪魔の力を、人間は制御できずにいる」
千歳の書斎の奥には、一本の古い壊れた時計があった。それは、原子力の脅威を象徴する「終末時計」のレプリカだった。核という盾を手にした国々が、お互いに銃口を向け合っている。
誠司は仕事でセキュリティシステムの設計をしていた時期があった。その経験から、一つのことをよく知っていた。
どんな堅牢なシステムも、「一人のバカ」によって崩壊する。内部の人間が意図的に扉を開ければ、外側の壁はいくら厚くても意味がない。
「もしかすると……私たちには、本当の未来なんて来ないのかもしれない」
千歳の言葉に、誠司の胸の奥で、恐ろしい思考が鎌首をもたげた。
――『ならば、この歪んだ世界のまま進むくらいなら、一度すべてが綺麗に滅んでしまった方が良いのではないか』。
そう思ってしまう自分自身の心の闇が、何よりも怖かった。
第四章 ゼロの日
それは誠司が五十三歳の、八月十五日に起きた。
終戦記念日。偶然ではなかった、と後から多くの人が言った。
午前十一時二分。
最初に止まったのは、すべてのスマートデバイスだった。
スマートグラスが暗転し、誠司の顔が黒いガラスに虚しく映り込んだ。洋館の電気も消え、静寂が落ちた。
谷の外から、畑中の仲間が車で駆け込んできた。顔面蒼白だった。
「通信も、決済も、銀行も、交通システムも、すべてが止まりました! 世界中で大混乱が起きています!」
核攻撃ではなかった。それは「カスケード崩壊」と呼ばれるシステム障害だった。
インフラのすべてが一つの巨大なクモの巣のようにネットワークで接続されていた時代。そのクモの巣の、ある一点に誰かが細工をしていた。一点が崩れると隣が崩れ、また隣が崩れ――ドミノのように、世界中のシステムがたった数時間で停止した。
人類が神のように信じていた巨大システムが崩壊した日。これを人々は「ゼロの日」と呼んだ。
東京では大混乱が起きたという。買い占め、略奪、停電、交通麻痺。
しかし、この未来観測所の周囲は静かだった。鳥が鳴いている。風が吹いている。川が流れている。昨日と何も変わらない。
誠司は気付いた。壊れたのは世界ではない。人間が作った仕組みだけだった。自然は何一つ壊れていない。
千歳は縁側でお茶を飲んでいた。「どうして分かったんですか」と誠司は尋ねた。
老人は少し笑った。「簡単だよ。一本の木に、すべての果実を実らせればどうなる?」
誠司は考えた。「折れる」
「その通り」千歳は頷いた。「文明も同じだ。便利さを一箇所に集め過ぎた。だから折れた」
システムが完全に元に戻ることはなかった。しかし、その混乱の中で奇妙なことが起き始めた。
スマートデバイスが消えたことで、情報はアルゴリズムで分断されなくなった。人々は目の前の人と話すしかなくなった。
誠司は、長野の谷に集まってきた人々とともに畑を耕し始めた。コンピューターしか触ってこなかった自分が、土を耕している。不思議だったが、嫌ではなかった。
道端で、人々が集まって話をしていた。英語ではなく、日本語で。
「この先の公園に水があります」「食料を分け合いましょう」
それまで頭の中で常に作動していた、英語への翻訳回路がぷつりと切れたような、剥き出しの言葉が通じ合う心地よさがあった。
ある昼頃。小さな少女が誠司の袖を引いた。
「ねえ、スマホって何?」
誠司は笑った。
「昔の人のお守りみたいなものかな。あの四角いガラスの板に、毎日みんなが一喜一憂して話しかけていたんだよ」
少女は真顔で「ふーん」と頷き、走って行った。
一ヶ月後、新しく立ち上がった地域のネットワークは、一点集中型ではない「分散型エネルギー網」を採用し、太陽光や風力を組み合わせた自律システムを作り始めた。
誠司は古いノートを開いた。二十代の自分が書いた走り書きがそこにあった。
「太陽は毎日エネルギーをタダでくれている」
三十年前に、分かっていた。それが実現するのに、「一度滅ぶ」必要があった。それは悲劇なのか、それとも、それが人間というものなのか。
誠司には分からなかった。ただ、今日の空が不思議なほど青いことだけは、分かった。
第五章 置き去りにされた電報
ゼロの日から一年が過ぎた。
谷の共同体には、数百人の人々が暮らしていた。電気も通信もあるが、最低限。誰も二十四時間繋がってなどはいない。
ある夜、誠司は千歳の書斎の奥で、鍵の掛かった一つの引き出しを見つけた。真鍮の小さなプレートには、こう刻まれていた。
「電報」
誠司に促され、千歳は静かにその鍵を開けた。
中には、一枚の黄ばんだ紙しか入っていなかった。
送信日は、2027年8月15日。ちょうど三十年前の日付だった。
「誰が送ったんです?」誠司は尋ねた。
「私だ。未来へ送ったんだよ。届くはずのない相手にね」
老人は微笑んだ。
紙には短い文章が打たれていた。たった一文。
『便利になるほど、人は人を待てなくなる』
誠司は言葉を失った。あまりにも単純で、しかし今の時代に読むと、恐ろしいほどの重みを持った言葉だった。
千歳は机の上の小さな電鍵(でんけん)を取り出し、トントン、と静かに叩いた。音はどこにも繋がっていないが、そのリズムは確かに、失われた時間を刻んでいた。
「三十年前から見えていたんだ。人類は便利さを追いかけ続ける。それ自体は悪くない。だが便利さは必ず時間を圧縮する。待つ時間、考える時間、迷う時間、許す時間、愛する時間。人間はその全部を削り始めた。ポケベルでなんとか連絡がつけられた時代、それより前は電報という短い文字で命を伝えた。急ぎの用事なら、速達という赤い線の入った封筒で十分に用が足りたのだよ」
千歳の声は穏やかだった。
「私は未来を救いたかったわけじゃない。ただ、覚えていてほしかっただけなんだ。人間が人間だった頃を。便利さと引き換えに、私たちが落としてきてしまった『名前のない大切なもの』を、こんなにも愛おしく、切なく思うのは……もしかしたら、僕らの世代までなのだろうか」
「それでも」誠司は言った。「僕は忘れたくないです。この場所で、あなたが語ってくれた、あの静かな時代の体温を」
千歳は優しく微笑んだ。それが、誠司が見た老人の最後の輝きだった。
未来予報士は、自分が予測した未来の、その先にある「人間の再生」を見届けるように、数日後、静かに眠るように息を引き取った。
葬儀の後、誠司は千歳の机から、もう一通の封筒を見つけた。
表には『三十年後に開封のこと』と書かれていた。日付は、ちょうど今日だった。
封を開くと、千歳の文字でこう遺されていた。
────────────────
もしこの手紙を読んでいるなら、私はもういないだろう。
三十年前、私は未来へ電報を送った。だが本当は、未来を警告したかったわけではない。未来はいつだって不完全だ。それでいい。
私が伝えたかったのは、人間は待てるということだ。
手紙を待てる。春を待てる。誰かを待てる。希望を待てる。
待つという行為は、未来を信じるということだからだ。
便利さが失われても、人間が未来を信じる限り、文明は何度でも立ち上がる。
どうか忘れないでほしい。人類最大の発明は、コンピューターでも、人工知能でもない。
希望である。
千歳
────────────────
誠司は長い間、便箋を見つめていた。そして静かに笑った。
ようやく返事が届いた。三十年越しの返事だった。
エピローグ 三十年後の星
二〇八七年、八月。
倉田誠司は八十三歳になっていた。
長野の、かつて畑中が耕していた土地の隣に小さな家を建ててから、もう何年も経つ。縁側に座り、誠司は曾孫(ひまご)の少女と一緒に夜空を見上げていた。
天の川が見える。流れ星が見える。空には無数の星が瞬いていた。東京にいたころは、一度も見えなかった光景だ。
「ひいおじいちゃん」曾孫が尋ねた。「昔は本当に星が見えなかったの?」
「ああ、明るすぎたんだ。今よりずっとね」
少女は不思議そうな顔をして、しばらく星を見つめてから言った。
「じゃあ、昔の人は損してたね。今は、ちょうどいいね」
誠司は笑った。
「そうだな。ちょうどいい」
遠くでフクロウが鳴いた。風が吹き、稲の穂がさわさわと揺れた。
早すぎる世界で、かつて私たちは「待つこと」を奪われていたのかもしれない。星が見えなくなるほどに、世界を明るくしすぎていたのかもしれない。
ポケベルの夢は、もう見なくなっていた。
代わりに、誠司はよくこんな夢を見る。
広い野原に立っていて、空が果てしなく広がっていて、その向こうで千歳が手を振っている。老人は笑いながら言う。
「未来はどうだった?」
誠司も笑って、こう答えるのだ。
「思ったより悪くありませんでしたよ」
新しい朝が来る。太陽が東の山並みを朱く染め始める。それは、どんなに人間が遠回りをしても、三十年前と変わらず、そしてこれからの三十年後も変わらずに、ただそこにあり続ける、唯一の確かな光だった。
未来は、続いていく。
――了
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あとがき
書き終えて思うのは、人間は不思議な生き物だということです。
どれほど便利になっても、どれほど技術が進歩しても、人は誰かを愛し、誰かを待ち、誰かを失ったことを悲しみます。それは数千年前も、きっと数十年後も変わらないでしょう。
未来を予測することはできても、人間の心を完全に予測することはできません。だからこそ、未来には希望があります。
テクノロジーは悪ではありません。問題は、テクノロジーに操られるのではなく、私たちがそれを使いこなす心を持っているかどうかです。ポケベルの時代を生きた人たちが覚えているもの。Wi-Fiの届かない山の中で感じるもの。それらは失われたのではなく、ただ私たちの身体の中で眠っているだけかもしれません。
あなたにとって、「便利さと引き換えに失いたくないもの」は何でしょうか。
読み終えたあと、少しだけ空を見上げていただけたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

