マーズ・ゲート (The Gate Trilogy Book II)
――火星は記憶の凪――


赭い大地を渡る風は、何百万年もかけて、たった一粒の塵を運ぶ。

それは、自然が刻んだ気まぐれな軌跡ではない。

かつて銀色の月が、沈黙の中に過去と未来を閉じ込めたように、

火星もまた、時の狭間に佇む者たちのために設計された、もう一つの「駅」だったのかもしれない。



まえがき

 二〇二七年の春、私は『ルナゲート』を一冊の本としてまとめ終え、ひとまずその「物語」から距離を置こうとしていた。あの真鍮の紋章が見せてくれた光景は、あまりにも私の生活を変えてしまったからだ。
 しかし、ある日、差出人不明の小包が研究室に届いた。中には、握りこぶしほどの赭い鉄質の隕石の欠片と、一枚のメモ。メモには、火星探査機が持ち帰ったサンプルの中から見つかった、とだけ記されていた。
 欠片の表面には、月の真鍮に刻まれていたものと同じ筆致——いや、同じ「意思」を感じさせる、分子レベルの紋章があった。そこに記されていた言葉は、こうだった。
「火星で会いましょう。風があるから、あなたに触れられる場所で。」

 月のメッセージは「空気がなくても」だった。火星のそれは「風があるから」。対になっている。まるで、一つの物語の続きを、誰かが私に手渡してくれたかのように。
 私は再び、解析装置の電源を入れた。





第一章 半分の真空

 月の内部が完全な真空であったのに対し、火星はそうではない。地球の百分の一にも満たない、ごく薄い大気——それは、時空を飛び越えるための「滑走路」には適さない。
 しかし未来の科学者たちは、その「中途半端さ」にこそ価値を見出した。完全な真空の中で時空を飛び越えた旅人は、目的の時代の大気圏に再突入する際、想像を絶する速度のズレを抱えている。月の空洞を出た直後の彼らの「時間の体感速度」は、行き先の世界とあまりにもかけ離れているのだ。
 火星の薄い大気は、その速度差を少しずつ「滑らかにする」緩衝材として機能した。空気がまったくない場所から、空気に満ちた場所へ——その間に、ほんの少しだけ空気のある場所を経由する。深海から海面へ上がる潜水士が、減圧のために立ち寄る中間の層のように。
 月が「出発点」であるなら、火星は「待合室」だった。



第二章 三二〇〇年、二つ目のゲート

 レンとルナが月の空洞で最初に再会してから、幾度の周回が過ぎただろう。月という結節点は、二人の主観時間を容赦なく引き離していった。レンにとっての三年が、ルナにとっての五十年になる——その法則は、会うたびに二人の間に横たわる時間を、銀河の幅ほどにまで広げていった。
 時空管理局にとって、この「時間のズレ」は二人だけの問題ではなかった。月の空洞を経由するすべての観測員と技術者が、同じ問題を抱えていたのだ。
 そこで提案されたのが、火星における新たな中継拠点——通称「マーズ・ゲート」だった。火星の地下に広がる巨大な溶岩洞を利用し、薄い大気のもとで時間の流れをわずかに「均す」施設。理論上、ここを経由する者同士は、月だけを経由する場合に比べて、主観時間のズレの増加が大きく緩和されるはずだった。
 レンはその計画書を、何百回目かの帰還の際に受け取った。



第三章 観測員レンの、初めての「今日」

——マーズ・ゲート初代常駐技術者として、君を推薦する。
 上官の思念が、レンの意識に静かに響いた。
 常駐——それは、レンにとって生まれて初めて聞く言葉だった。彼はこれまで、常に「出発」と「帰還」を繰り返してきた。ある時代へ行き、観測し、月へ戻る。彼の人生には、連続した「今日」というものが存在しなかった。
 しかし常駐技術者になるということは、もう時空を飛び越えないということだ。火星という、たった一つの「今」に留まり続け、一日ごとに、ただ年を取っていく。
 レンは迷わなかった。
——お受けします。ただし、一つだけ条件があります。技術者ルナにも、この拠点への配属を。



第四章 技術者ルナの、五十年

 ルナは、母船の小さな個室で、星図を眺めていた。
 一九七九年の軽井沢へ向かったあの日から、彼女の主観時間では、すでに五十年近くが過ぎている。彼女は何百もの時代を渡り、何百人もの「原始的な観測対象」たちの郷愁や喜びや別れを見届けてきた。
 その間、レンに会えたのは、わずか数回。月の空洞で交わした、ほんの数分間の抱擁にも似た交信——それが、彼女の五十年を支えるすべてだった。
 辞令が届いたのは、彼女が次の任務へ出発する、わずか数時間前のことだった。
——マーズ・ゲート配属、承認。
 ルナは、星図に映る赭い小さな点を、長い間見つめていた。そこに行けば、もう「五十年」という単位で会うことはないのかもしれない。そんな予感が、彼女の胸の奥で静かに灯った。



第五章 赭い夕暮れの再会

 火星の夕暮れは、青い。
 赭い大地に降り積もった微細な砂塵が、太陽の光を散乱させ、地球の夕焼けとは正反対の、深く澄んだ青色の光が、地平線にゆっくりと滲んでいく。
 レンは、溶岩洞の入り口に立ち、その光を見ていた。薄いガラスのドームの向こうに、一機の小型シャトルが舞い降りてくる。
 ハッチが開く。
 月では、ヘルメットを合わせなければ、声は届かなかった。けれど、ここには——わずかとはいえ——空気がある。
——レン。
 ルナの声が、初めて、空気を震わせてレンの耳に届いた。振動を介した思念ではない。生まれて初めて聞く、彼女自身の「声」だった。
——……君の声は、こんな響きをしていたんだね。
 二人は、薄手の防護服越しに、指先を重ねた。月では、直接の接触は即死を意味した。火星の大気は、完全な防護を必要としないほどに薄い——それでも、確かに「触れる」という行為が、ここでは可能だった。
 赭い砂が、二人の足元で、風に乗ってかすかに舞い上がる。



第六章 風化という名の贈り物

 月の空洞には、風化がない。レンとルナが残した想いの結晶は、何千年経とうとも、刻まれたときのまま、永遠に輝き続ける。
 しかし火星には、風がある。風は時間と共に、すべてのものを少しずつ変えていく。岩は砂になり、足跡は数日で消える。
——僕たちがここに残したものは、いつか風に消されてしまうのかもしれない。
 レンが、赭い大地に視線を落としながら呟いた。
 ルナは、彼の手をそっと握り直す。
——それでいいの。月の上の私たちは、永遠に「あの日」のまま。けれど、ここでなら——私たちは、ただ古くなっていける。明日の私と、今日の私が、同じ時間を生きている。それが、どれほど贅沢なことか、レン、あなたにはまだ分からないでしょう。
 レンは、初めて理解した。永遠であることは、時を止めることだ。しかし「一緒に老いる」ということは、終わりがあるということ——その「終わり」こそが、二人がこれまで手に入れられなかった、何よりも贅沢な未来だったのだ。



第七章 二一五〇年、移民団の発見

 二一五〇年。人類が初めて火星に定住地を築いてから、すでに数十年が経っていた。
 地質調査隊の一人が、火星の地下に広がる溶岩洞の奥で、奇妙な金属片を発見する。鉄分を多く含むその欠片には、表面に分子レベルで整列した、見たことのない紋章が刻まれていた。
「火星で会いましょう。風があるから、あなたに触れられる場所で。」

 調査隊員たちは、それを古い探査機の破片だと結論づけ、サンプルとして地球へ送った。
 それが、二〇二七年、私の元へ届いた小包の正体だった。
終章 二つの月

 地球の夜空には、今も変わらず、銀色の月が浮かんでいる。その裏側では、レンとルナがかつて交わした鼓動の記憶が、永遠に、変わらぬまま眠っている。
 そして、すべての星が沈んだ後の夜空には、もう一つ——わずかに赭く輝く星が見える。火星だ。
 そこでは、二人の「今」が、ゆっくりと、しかし確かに進んでいる。風に晒され、少しずつ色を変えていく赭い大地の上で、レンとルナは、明日という、彼らにとって初めての概念を、共に生きている。
 月は、変わらないものの象徴。火星は、変わっていくものの象徴。
 そのどちらも、二人が手に入れた「愛」のかたちだった。


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あとがき

 この文章を書き終えた夜、私は窓を開け、空を見上げた。
 いつものように、月が浮かんでいる。けれど今夜は、その隣——もう少し低い位置に、小さな赭い光も見えた。
 二つの欠片は、今も私の手元にある。一つは冷たく、変わらない真鍮。もう一つは、ざらりとした、赭い鉄の欠片。
 もし本当に、レンとルナという二人が存在し、月から火星へとその場所を移したのなら——彼らは今、初めての「夕暮れ」を、一緒に見ているのだろうか。
 そう思うと、夜空はこれまでよりも、少しだけ近く感じられた。