流れに逆らわず
——見えない何者かに導かれる物語——
〜まえがき〜
人生には、不思議な出来事があります。
急いでいる日に限って信号が赤になったり、
選んだレジだけがなぜか進まなかったり、
大切に思っていた人との縁が途切れたり。
私たちはそんな出来事に出会うたび、
「なぜ自分だけが」と思ってしまいます。
けれども、時間が過ぎて振り返ったとき、
あの遠回りがあったから今がある、
そう思える瞬間もまた存在します。
この物語は、一篇の詩から生まれました。
見えない何者かに導かれているのか、
それとも偶然が重なっただけなのか。
その答えは、私にもわかりません。
ただ、人生には逆らうよりも、
そっと身を任せた方が良い流れがあるような気がしています。
この物語が、あなたの人生で起きた小さな遠回りを、
少しだけ優しく見つめ直すきっかけになれば幸いです。
【詩】流れに逆らわず
流れに逆らわず
交差点の直前で
赤に変わった信号を嘆くよりも
良くぞここで止めてくれたと
感謝出来たならば
きっと
この人生
微笑むことが出来るのだろう
スーパーで
ここぞと思って並んだレジが
他所より遅かった敗北感は
その次に待つ危険から
回避するが為に遅らせた時間だと
思えたならば
きっと運も味方に付く
えっ? 思えない?
いやいや
まだ出会っていないのならば
出会ってしまった方よりも
可能性は高いのかもしれない
すべては
見えない何者かに導かれていて
その流れに逆らわず
流されたならば……
そんな渦の中に
今 いるようだ
序章 赤い信号
水無月カオルは、いつも少しだけ遅刻する男だった。
と言っても、大遅刻ではない。会議の開始ちょうどに滑り込む、あの絶妙な五分遅れだ。上司の松田には「君は時間という概念を持っていないのか」と何度も言われたが、カオルはそのたびに「持っています、ただ少し薄めに」と答えた。松田はそのたびに深いため息をついた。
三十二歳。独身。営業部第二課所属。趣味は特になし。特技は、コンビニのレジで一番遅い列を選ぶこと——というのは本人の自虐だが、不思議と当たっていた。
その日も、カオルは大通りを早足で歩いていた。朝の九時五分。会議は九時十分から。奇跡的に間に合いそうだった。
交差点が見えてきたとき、信号は青だった。
渡れる——そう確信したその瞬間、信号が黄色になり、赤になった。
「……嘘だろ」
カオルは足を止めた。歩道の先端、点字ブロックのぎりぎりで。
舌打ちをしかけた、そのとき。
横断歩道を走って渡っていた自転車が、交差点の中で突然タイヤを滑らせた。バランスを崩し、荷台から段ボール箱が二つ、道路に転がった。もし一秒でも早くカオルが踏み出していたら、そこに直撃していた。
カオルはしばらく、呆然とその光景を見ていた。
「……危なかった」
誰に言うともなくつぶやいた言葉は、朝の風の中に溶けて消えた。
信号が青になる。カオルはゆっくりと歩き出した。
何かが、変わった気がした。
うまく言葉にはできないが、何かが。
第一章 スーパーの法則
そのことがあってから一週間、カオルは「信号が赤になることへの怒り」を感じなくなっていた。
正確には、怒ろうとするたびに、あの自転車の場面がフラッシュバックするのだ。そして怒りの代わりに、ぼんやりとした感謝のようなものが胸の中に浮かんでくる。
「止めてくれた、のかもしれない」
最初にその言葉が浮かんだとき、カオルは自分でも可笑しくなって一人で笑った。信号が人の意思を持って自分を守ってくれた、などというのはどう考えても笑い話だ。
だが笑いながらも、その感覚は消えなかった。
水曜の夜、カオルはスーパーに寄った。夕食の材料を買うためだ。パスタと、トマトソースと、安いワインを一本。
野菜売り場に向かうと、先客がいた。中年の女性が、ブロッコリーを一つずつ手に取り、重さを確かめるようにして選んでいた。丁寧に、丁寧に。
カオルが欲しかった国産トマトは、ちょうどその女性の真正面にあった。
以前のカオルなら、「すみません」と声をかけて隙間から取っていただろう。あるいは舌打ちしながら待っていただろう。
だが今日のカオルは、ふと思った。
——今じゃない、のかもしれない。
なんとなく、そう思った。特に根拠はない。ただ、待つことにした。
カオルはパスタの棚に向かい、種類を眺めた。フェットゥチーネ、リングイネ、ペンネ——いつもはスパゲッティ一択だったのに、なぜかリングイネが目に留まった。手に取って裏の説明文を読んでいると、
「あの……」
声をかけられた。振り向くと、先ほどのブロッコリーの女性が立っていた。五十代くらい、丸いフレームの眼鏡をかけて、どこか懐かしい雰囲気を持っていた。
「それ、おいしいですよ。リングイネ」
「え?」
「ボンゴレに合うんです。あさりのパスタ。私、毎週作るんですが、スパゲッティよりずっと味が絡むので」
カオルは一瞬面食らったが、「そうなんですか」と素直に答えた。
「明日、あさりが安くなるって貼り紙が出てましたよ。入口のところに。よかったら」
女性はそう言って、ブロッコリーをかごに入れながら立ち去った。
カオルはリングイネをかごに入れた。
翌日、あさりを買った。リングイネのボンゴレを作った。
それは、自分でも驚くくらいおいしかった。
トマトを取り損ねた夜に、何かを得ていた。
第二章 敗北のレジ
カオルには、ちょっとした悩みがあった。
スーパーのレジで、なぜか自分が選んだ列だけが遅くなる。これは統計的に証明できる気がするほど、一貫した現象だった。隣の列がすいすい進む中、自分の列だけはお年寄りが小銭を探し、バーコードが読み取れない商品が出て、ポイントカードの手続きが始まる。
「なんで俺の列だけ……」
これが口癖だった。
だが例の赤信号の夜以来、カオルの思考は少しずつ変わり始めていた。
ある土曜日。三列あるレジのうち、カオルは左端の列を選んだ。二人待ちで、一番すいていた。
案の定、前の客が「これ、値引きシールがついてたんですが」と言い出した。店員が無線で確認を始める。
カオルは「またか」と思いかけた。そのとき——
右端のレジで、突然けたたましい音が響いた。機械のエラー音だ。レジが止まった。そちらに並んでいた三人が、舌打ちしながら別の列に移動してくる。
さらに——真ん中の列で、老人が財布から小銭を取り出し始めた。百円玉を一枚、一枚、確かめながら。
結果として、カオルの列が一番早く進んだ。
カオルはレジを通過しながら、ぼんやり思った。
——遅らせていたのかもしれない。もっと遅くなる場所から。
馬鹿みたいな考えだ、とは思う。でも、馬鹿みたいな考えが、不思議と腹の底に落ちていく。
信号が赤になって、道路で転倒した自転車を避けられたこと。
トマトを取り損ねて、リングイネとボンゴレのことを教えてもらったこと。
遅いレジに並んで、エラーと老人の小銭から守られていたこと。
点と点が、ぼんやりと繋がっていくような気がした。
いや、繋がっているのではなく——流れているのかもしれない。何かが、どこかへ向かって。
第三章 招待券
彼女に振られたのは、三月の終わりのことだった。
相手は同じ会社の後輩、村田ひかり。二十八歳。真面目で、少し天然で、笑うと目が細くなる。カオルは半年かけてゆっくり距離を縮め、ようやく告白した。
「カオルさんのことは、好きです。でも——恋愛的な意味では……」
その先は、聞かなくてよかった。
カオルは「わかった。ありがとう」とだけ言って、居酒屋を出た。三月の夜風が妙に冷たかった。
一週間、ぼうっとして過ごした。仕事はなんとかこなした。ご飯はたまに食べた。
友人の橘に電話すると「次に行けよ」と言われた。「次って何だよ」と答えると「お前に合う人がいるってこと」と言われた。「どうしてわかる」と聞くと「わかんないけど、そういうもんだろ」と言われた。
それは慰めにも励ましにもなっていなかったが、不思議と嫌いじゃなかった。
カオルは一人でスーパーに行き、いつものリングイネを買い、ボンゴレを作り、ワインを一人で飲んだ。
ぼんやりワインを飲みながら、あの赤信号のことを思った。
止めてくれた。
待たせてくれた。
遅らせてくれた。
では今回は——次に待つものへの、招待券、なのだろうか。
「……さすがに都合よすぎるだろ」
一人でつぶやいて、一人でワインを飲み干した。
でも、グラスを置いたとき、不思議と少し、軽くなっていた。
招待券、という言葉だけが、頭の中に残った。
第四章 見えない何者か
その人に出会ったのは、梅雨の晴れ間の昼休みだった。
カオルは会社近くの公園のベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べていた。空が久しぶりに青く、鳩が三羽、のんびりと地面を歩き回っていた。
隣のベンチに、女が座った。
年齢はよくわからなかった。カオルと同じくらいか、少し上か。黒い髪を無造作に束ねて、文庫本を読んでいた。読書に集中しているのか、まつ毛が伏せられたまま動かない。
カオルはおにぎりを食べ終え、ぼんやりと鳩を眺めていた。
そのとき、女の文庫本が手から滑った。風で煽られたのか、本はカオルのベンチの足元まで飛んできた。
カオルは拾い上げた。表紙を見ると、『流れの中で』という見慣れない題名だった。著者名は聞いたことがない。
「ありがとうございます」
女が立ち上がって受け取りに来た。近くで見ると、目が大きく、少し疲れたような、でも穏やかな顔立ちをしていた。
「面白いですか、それ」カオルは口から出るより先に声が出ていた。
女は少し驚いたように目を丸くして、でもすぐに柔らかく笑った。
「面白い、というより——救われる感じがする本です」
「救われる」
「流れに逆らわないで生きている人の話なんです。うまくいかないことばかり起きるんだけど、全部その人を正しい場所に連れて行くための流れで……」
彼女は少し照れたように「ちょっと変な本なんですけど」と付け加えた。
「変じゃないと思います」カオルは言った。「俺も最近、そういうこと、少し考えてたので」
女はまた少し目を丸くして、それからもう一度、さっきよりもっと柔らかく笑った。
その日の昼休みは、四十分話した。
名前は、篠原ナツ。同じビルの別の会社に勤めているらしかった。
カオルはその夜、橘に電話して「出会ったかもしれない」と言った。橘は「そういうもんだろ」と言った。カオルは「それしか言わないのか」と言った。橘は「それしか言えないだろ」と言った。
第五章 渦の中
ナツとは、次の週もあのベンチで会った。
偶然だったのか、示し合わせたのか、どちらともつかなかった。カオルが先に座っていて、ナツが「また来てしまいました」と言いながら隣に座った。
「また、来てしまった」という言い方が、カオルには妙に響いた。まるで「来ようと思って来た」のではなく「来るように流れてきた」というような——
そういえば自分も、今日は別のコンビニに行くつもりだったのに、気づいたらここにいた。
二人は昼休みのたびに会うようになった。最初は公園のベンチで、そのうちカフェで、そのうち夜に食事をするようになった。
ナツはよく笑い、よく聞き、よく話した。カオルの「信号の話」を聞いたとき、「それ、すごくわかります」と言った。
「私も昔、乗り損ねた電車があって、次の電車で隣に座った人が今の会社を紹介してくれたんです。乗れてたら、今の仕事してなかったから」
「なんか、みんなそういう話、持ってるんですかね」
「持ってるんだと思いますよ。ただ、気づかないか、忘れるか、怒ってるかで、見えなくなるんじゃないかな」
カオルは、その言葉を聞いてしばらく黙った。
怒っている間は見えない。
それだけのことなのかもしれない。信号が赤になることへの怒り。レジが遅いことへの苛立ち。振られたことへの悲しみ。そういう感情が目を塞いでいる間は、見えない何者かが自分を連れて行こうとしている流れが、ただの「不運」に見える。
「見えない何者か、か」カオルはつぶやいた。
「え?」
「なんでもないです。ちょっと、詩みたいだなと思って」
ナツは首をかしげて笑った。
梅雨が明けて、夏になった。
カオルとナツは、夏祭りに行った。花火を見た。かき氷を食べた。ナツが金魚すくいで取れなくて悔しそうにしていた。カオルも取れなかった。二人で笑った。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、ナツが言った。
「カオルさんって、なんか不思議ですよね」
「不思議?」
「うまくいかないことを、怒らないじゃないですか。なんか、受け止める感じで」
「最近、そうなってきた、だけですよ」
「何かあったんですか?」
カオルは少し考えて、答えた。
「信号が、赤になったんです」
ナツは一瞬きょとんとして、それから何かを理解したように静かにうなずいた。
電車が来た。二人は乗った。
第六章 流されながら
秋になった頃、カオルの部署が異動の対象になった。
営業第二課が再編される、という話が出て、カオルは希望していなかった企画部への異動を打診された。営業畑しか歩いてきたカオルには、企画の仕事は未知の領域だった。
「俺、企画って向いてないと思うんですが」と上司の松田に言うと、「向いてる向いてないは、やってみないとわからん」と返ってきた。
以前のカオルなら抵抗しただろう。今のカオルは、少し考えてから「わかりました」と言った。
流れかもしれない、と思ったから。
企画部に移って最初の三か月は、正直しんどかった。用語が分からない。会議の進め方が違う。自分が場違いな気がした。
でも——面白かった。
数字を積み上げる営業と違い、企画は「まだ存在しないもの」を言葉にする仕事だった。カオルは、そこに自分でも気づいていなかった何かを見つけた。物事をつなげる感覚。点と点を結ぶ感覚。
ナツに話すと、「合ってる気がする」と言った。
「なんで?」
「信号の話とか、スーパーの話とか、全部つなげて考えてるじゃないですか。カオルさんって。企画って、そういう仕事でしょ」
カオルは笑ったが、半分本気でそう思った。
冬になった。カオルとナツは付き合い始めた。
特別なプロポーズのような告白があったわけではなく、気づいたらそういう関係になっていた。ナツは「なんか、流れましたね」と笑った。カオルも「流れたな」と笑った。
二人の部屋に、あの公園で落ちた文庫本『流れの中で』が置いてある。カオルも読んだ。内容は、ナツが言った通りだった。うまくいかないことばかりの主人公が、すべての「うまくいかない」を経由して、自分のいるべき場所に辿り着く話。
最後のページにこんな言葉があった。
「流れに逆らわないことは、何もしないことではない。目を開けていることだ」
カオルはその一節を、手帳に書き写した。
終章 渦の中に今 いる
春になった。
カオルは交差点に立っていた。
あの交差点。あの朝、信号が赤に変わった、あの交差点。
一年前のことが、不思議と昨日のことのように思えた。自転車が転倒した場所には、今は何もない。ただ車が通り、人が歩き、いつもの朝がある。
信号が赤になった。
カオルは止まった。急いでいたが、怒らなかった。
ふと、後ろから声がした。
「カオルさん」
振り向くと、ナツがいた。今日は同じ方向に仕事があるとは聞いていたが、こんな場所で会うとは思っていなかった。
「何してるんですか?」
「信号待ち」
「私も」
二人は並んで信号を待った。
青になった。
歩き始めながら、カオルはナツに言った。
「一年前、ここで赤に変わってよかった」
「え?」
「俺の話。ここから全部始まったんだ」
ナツはしばらく考えるように黙って、それから笑った。
「じゃあ今日も、どこかで何かが始まってるかもしれないですね」
「かもしれない」
二人は歩いた。
朝の光が路面に弾けて、どこかで鳥が鳴いていた。
渦はまだ、続いている。
見えない何者かに連れられるように、二人は春の街を歩いていった。
——了
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〜あとがき〜
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
主人公のカオルに起きた出来事は、
特別な奇跡ではありません。
赤信号。
遅いレジ。
失恋。
思い通りにならない異動。
誰の人生にも訪れる、ごくありふれた出来事ばかりです。
しかし私たちは、その「ありふれた出来事」の意味を、
その瞬間には知ることができません。
今日の失敗が、
明日の出会いへ続いているかもしれない。
今日の遠回りが、
数年後の幸せへ向かう道かもしれない。
そんなことを考えながら、この物語を書きました。
流れに逆らわないことは、
何も考えずに生きることではありません。
目を開き、
耳を澄まし、
人生が連れて行こうとしている方向を見つめること。
もし今、思い通りにならない出来事の中にいる方がいるなら、
どうか焦らないでください。
その出来事は、まだ途中なのかもしれません。
あなたの人生の流れが、
穏やかで温かな場所へ続いていることを願っています。

