Protein Behavior AP-7 II
—— 九九・七パーセントの帰還 ——
「還る者たちへ。」
まえがき
前作『0.3パーセントの遺伝子』をお読みくださった方には、もうお分かりだろう。あの物語は、ただ一人、銀河の中心を目指して進み続けることを選んだ女性、久遠陽(くおん・はる)の記録だった。
本書は、その続きである。ただし、主人公は変わる。
オデュッセイア号がプロキシマ・ケンタウリbの軌道上で二つに分かれたとき、六人は地球への帰路についた。〇・三パーセントの彼女を見送り、九九・七パーセント側として、家族の待つ場所へ還ることを選んだ六人――その帰路の記録と、彼女が遺していった、もう一つの「家」の物語である。
「繋ぐ、ということは、最も古い形の冒険だ」と、ミハルは言った。
還ることもまた、冒険の一形態であることを、この物語が、少しでも伝えられればと思う。
目次
序章 帰還船テレマコス
第一章 老いゆく六人
第二章 五十二年後の地球
第三章 上賀茂、灯
第四章 視る者、ふたたび
終章 通い路は閉じない
序章 帰還船テレマコス
西暦二二九六年、初秋。
正確に言えば、「初秋」という言葉は、もう私たちのどの暦にも対応していない。船内時間で、プロキシマ軌道を離れてから二十一年と三ヶ月。地球時間では、おそらく二十六年ほどが過ぎている。
観測ドームの主スクリーンに、一つの星が、ひときわ明るく浮かんでいた。
太陽。
二十一年前、私たちがこの船――誰が、いつ呼び始めたのかは、もう分からない。いつの間にか皆が「テレマコス」と呼ぶようになっていた、ドライブ・モジュールと小型ハビタットの複合体――に乗り込んだとき、太陽はまだ、私たちの「故郷」だった。けれど、二十一年の航行のあいだに、太陽は一度、ただの「明るい星」になった。無数の星々の中の、一つの点に。
そして今、その点が、再び、特別な意味を持って、私たちの前に浮かんでいる。
私の名は、ファルザナ・サディキ。宇宙医学博士。八十九歳。
――いや、八十九歳というのは、地球の暦での歓算だ。私の体は、AP-7のおかげで、おそらく六十代の終わりくらいの状態を保っている。それでも、鏡を見れば、私は老人だった。手の甲の血管が、若い頃よりも、くっきりと浮いている。
医務室の壁には、六つの名前が並んでいた。
エリオット・キーン。ミハル・ルジャンスキ。アンナ・コルナイ。レオン・モリアン。ジョルジョ・ロッシ。そして、私。
七つ目の名前――久遠陽――は、もう、別の表のものだった。私たちが地球に持ち帰る記録の中にある、もう一つの航海記録の、表に。
「ファルザナ」
声がした。船橋から、ミハルだった。八十六歳。灰色だった髪は、今はほとんど白い。けれど、目の力は、二十一年前と変わらない。
「太陽が見える」
「知っている」と私は答えた。「もう三日前から、見えている」
「いや」とミハルは、わずかに笑った。「肉眼で、見える、という意味だ」
私は船橋へ向かった。窓の向こうに、確かに、それがあった。点ではなく、わずかに、円としての輪郭を持つ、光。
「帰ってきたのね」と私は呟いた。
「まだ、五年かかる」とミハルは言った。「太陽系の外縁は広い。だが――そうだな。帰ってきた、という言い方は、悪くない」
その夜、私は医務室で、エリオットの定期検診を行った。
エリオット・キーン。船長。九十二歳。
検診の数値は、悪かった。心臓の機能が、過去一年で、明らかに低下していた。AP-7は、細胞の崩壊を遅らせる。けれど、止めることはできない。九十二年という時間は、たとえ〇・三パーセント側の人間にとっても、長い時間だった。
「どうだ」と彼は、検診台の上で、私に聞いた。
「正直に言いますか、船長」
「もちろん」
「あと、五年は、保たないかもしれません」
エリオットは、しばらく、天井を見ていた。それから、笑った。
「五年か。――太陽系に入るのに、ちょうど、それくらいだったな」
「船長」
「ファルザナ、私は、ハルに言ったことを、覚えているか」
「『私は、もう少し、九九・七パーセントに近い〇・三パーセントだ。地球へ、帰る役だ』――そう、おっしゃいました」
「そうだ」とエリオットは頷いた。「私は、地球に帰るために、生きてきた。――その役目を、最後まで、果たしたい」
「果たせます」と私は言った。「あと五年、私が、何とかします」
「頼むよ、ドクター」
その夜、私は船室に戻り、久遠陽が遺していった、最後の記録を、もう一度、開いた。
「お母さん。私は、地球に帰りません」――その言葉から始まる、母・静子への手紙。私たちは、その手紙を、いつか、京都の久遠家へ届ける義務を、負っていた。
ハル、あなたは、まだ、進んでいるのね。
私は、窓の外の、無数の星々の中に、彼女の船が進んでいるはずの方向を、探した。見えるはずもなかった。けれど、私は、しばらく、そちらを見ていた。
第一章 老いゆく六人
エリオットは、五年を、保たなかった。
正確には、四年と七ヶ月だった。
船が、太陽系の外縁――ヘリオポーズを越えたとき、エリオットは最後の冷凍ローテーションに入っていた。覚醒予定は、その三ヶ月後。けれど、彼は、目を覚まさなかった。
私が、ポッドの中の彼の状態を確認したとき、彼の心臓は、すでに、十二分前に、最後の拍動を終えていた。
「ファルザナ」とミハルが、医務室に入ってきた。「アンナとレオンを呼んだ。ジョルジョは、もう知っている」
「眠ったまま、でした」と私は言った。「苦しんだ様子は、ありません」
「冷凍睡眠の中で、死ぬ、というのは」とミハルは、ポッドの中のエリオットを見つめながら、言った。「悪くない死に方だ。彼は、いつも、そう言っていた」
その夜、私たち五人は、コモン・スペースに集まった。
ジョルジョが、最後に残っていたワイン――地球から積んだものの、最後の一本――を開けた。八十二歳になった彼の手は、わずかに震えていた。
「船長に」とアンナが言った。八十五歳。ボブカットだった茶髪は、今は短く刈り込まれた白髪になっていた。
「船長に」と、私たちは続けた。
レオンが、エリオットの遺した最後のログを、皆に共有した。彼は、自分の死期を、おそらく、悟っていた。ログの最後には、こう書かれていた。
私が眠りに入るのは、これで最後になるかもしれない。
もし、目を覚まさなかったら――私の体は、冷凍状態のまま、テレマコスの「冬の間」に残してくれ。地球に着いたら、軌道上で、解凍してくれればいい。
私は、ハルに、「我々は地球へ帰る役だ」と言った。
ならば、私の体も、帰らせてくれ。たとえ、心臓が止まっていても。
それが、私の「帰還」だ。
――エリオット・キーン
「分かった、船長」とミハルが、ログに向かって、静かに言った。「あなたを、ちゃんと、帰す」
その夜以降、私たちは、五人になった。
五人での航行は、二十年近くを共にした六人での航行とは、何かが違った。冷凍ローテーションのスケジュールを組み直す必要があった。船内のコモン・スペースの椅子は、いつのまにか、五脚に減っていた。誰かが、六脚目の椅子を、片付けたのだった。それが誰だったのか、誰も口には出さなかった。
「ハル」とジョルジョが、ある日、私に言った。「ハルの隣にいた、あの『おじちゃん』――今、もし船にいたら、エリオットの隣にも、誰かいたんだろうな」
「そうかもしれません」
「俺たちには、見えなくなった」とジョルジョは言った。「ハルが、いなくなってから。あれは、ハルの中の彼らが、ハルと一緒に、行ってしまったからなのか。それとも、俺たちが、もう必要とされなくなったからなのか」
「分かりません」と私は答えた。「ただ――」
「ただ?」
「私たちが見なくなったのは、もしかしたら、私たちが、もう『行く』必要のない人間だから、かもしれません。私たちは、帰る人間です。彼らは、行く者の傍にいる」
ジョルジョは、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「それなら、エリオットの隣にいたのは、――きっと、地球の方を向いていたんだろうな」
太陽系に入ってから、私たちは、最後の冷凍ローテーションを終えた。
地球の軌道に近づくにつれ、私たちが二十六年前――いや、船内時間ではすでに四十四年前――に発した光速通信が、地球で、どのような反響を生んだのか、断片的な情報として、届くようになった。
最初に届いたのは、簡潔な公式メッセージだった。
「オデュッセイア計画・第一報、確認。地球連合宇宙機構(UESA)は、貴船の発見を、人類史上最大の発見の一つとして、正式に記録した。貴殿らの帰還を、心より歓迎する。――UESA事務総長」
二番目に届いたメッセージは、私的なものだった。私の夫、レザからのものだった。
「ファルザナ。生きているなら、これを聞いてくれ。子どもたちは、もう、私より年上になった。孫が、五人いる。曾孫が、二人いる。――皆、君に会いたがっている。けれど、急がなくていい。私は、もう少し、待てる」
レザは、メッセージを送った時点で、すでに九十四歳だった。彼が、私の帰還まで生きているかどうか、誰にも、分からなかった。
私は、その夜、自分の船室で、長いこと、泣いた。
二十一年前、私が「ハルの代わりに、地球へ帰る」と言ったとき、私は、自分が何を選んだのか、本当には分かっていなかった。私は、「行かない」ことを選んだ。けれど、「帰る」ことも、私が思っていたよりも、はるかに長い、はるかに重い、別の冒険だった。
第二章 五十二年後の地球
地球連合宇宙機構の正式な記録によれば、テレマコスが地球軌道に到達したのは、西暦二三〇一年。発進から、地球時間で、五十四年後のことだった。
私たちは、五人だった。エリオットの遺体は、冬の間に、冷凍状態のまま残されていた。
軌道上で、私たちを迎えたのは、想像していたよりも、はるかに大きな歓迎だった。
地球を出るとき、オデュッセイア計画は、世界中の注目を集めていた。けれど、それは、「人類が初めて太陽系を出る」という、技術的な達成への注目だった。
今、地球から届くメッセージは、まったく違う種類のものだった。
「『見えないものたち』の記録は、地球に到達してから、二十数年のあいだに、社会を変えました」と、UESAの広報官は、迎えのシャトルの中で、私たちに説明した。「最初は、懐疑論が大勢でした。集団幻覚説、心理的影響説――様々な説明が試みられました。けれど、プロキシマbのP-AP-7のサンプルデータが届いたとき、状況は変わりました」
「銀河規模で撒かれたタンパク質、という仮説が」とアンナが言った。
「ええ。あなた方が送ってくれたデータは、その後、地球上の複数の研究機関で、独立に再検証されました。今では、『パンスペルミア痕跡仮説』――いえ、もう『仮説』とは呼ばれていません。『久遠=ヴァン・ホーヴェン理論』として、標準的な学説の一つになっています」
「久遠の名前が、残っているのですね」と私は言った。
「もちろんです」と広報官は言った。「久遠陽は――いえ、皆さんも――、人類が、自分たちの起源について抱いていた、最も古い問い、『私たちは、どこから来たのか』に、答えを示した人々です」
シャトルが、地球の大気圏に近づいた。窓の外に、青い惑星が、徐々に大きくなっていく。
五十四年前、私が最後に見た地球と、今、目の前にある地球は、見た目には、ほとんど変わらなかった。雲の形、海の青さ、大陸の輪郭。けれど、私は、その「変わらなさ」の中に、何か、奇妙な感覚を覚えた。
私が見ている地球は、五十四年前の地球ではない。私が知っている人々の、ほとんどは、もう、別人のように年老いているか、あるいは、もう、いない。
降下する船の中で、ミハルが、ぽつりと言った。
「ハルが言っていた。『あなたが行くところで、これを使う日が来るかもしれません』――母親が、彼女に鏡を渡したときの言葉だ。私は、ずっと、それを、彼女自身の旅のことだと思っていた」
「違うのですか」
「いや」とミハルは言った。「今、思うんだ。――我々も、同じだ。我々が向かっているのは、五十四年前の地球ではない。我々は、今、『鏡の中』に入っていくようなものだ。見慣れた風景の中に、見知らぬ五十四年が、映り込んでいる」
着陸地点は、UESAの新しい本部があるアイスランドの基地だった。タラップを降りるとき、私の足は、わずかに震えていた。重力――地球の重力は、私たちの体には、奇妙に重く感じられた。AP-7は、低重力・無重力には、よく適応する。けれど、一・〇Gの地球は、二十一年ぶりの私たちにとって、初めて経験する「異星」のようでもあった。
出迎えの列の中に、車椅子に乗った、一人の老人がいた。
レザだった。
私は、タラップの途中で、立ち止まった。
九十七歳になった夫は、私の記憶の中の彼よりも、ずっと小さく、ずっと薄くなっていた。けれど、彼の目は、すぐに、私を見つけた。
「ファルザナ」と彼は言った。声が、震えていた。「君は、――全然、変わっていない」
「あなたは」と私は、タラップを駆け下りながら、言った。「あなたは、ずっと、待っていてくれたのね」
「待つのは」とレザは、私の手を取って、言った。「得意なんだ。最初の二十年で、慣れた」
私は、彼の前に膝をつき、彼の手を、両手で包んだ。彼の手は、紙のように薄く、温かかった。
「ただいま、レザ」
「お帰り、ファルザナ」
その後ろに、私が知らない、たくさんの人々が並んでいた。私の子どもたち――もう老人になった彼らと、その子どもたち、孫たち。彼らは、皆、「写真でしか見たことのない、若い母」を、目の前に見て、戸惑っているようだった。
私たちの帰還は、世界中に中継された。私たちは、しばらくのあいだ、「五十四年前から来た五人」として、世界中のメディアの取材を受けた。
その合間に、私たちは、五人で集まり、ある一つの「義務」について、話し合った。
「ハルの手紙を、久遠家に届けなければ」と私は言った。
「京都に、まだ、その家はあるのだろうか」とレオンが言った。
UESAの記録によれば、久遠家は、まだ、京都・上賀茂に存在していた。ただし、現在の戸籍上の所有者は、久遠静子――ハルの母――ではなかった。静子は、二二六〇年代に、亡くなっていた。
現在の所有者の名は、久遠灯(くおん・あかり)。
「ハルの、親戚か」とジョルジョが言った。
「分かりません」と私は答えた。「でも、行ってみる価値があります」
「私が、行く」と私は言った。「ハルの最後の言葉を、彼女の家に、届けるのは、私の役目だと思います」
誰も、反対しなかった。
第三章 上賀茂、灯
京都は、五十四年前とは、ずいぶん違っていた。
新幹線の代わりに、私は、リニア・チューブと呼ばれる、地下を走る輸送システムに乗った。京都駅は、新しい建物に変わっていた。けれど、駅から見える比叡山の影は、ハルが日記に書いていたとおり、変わっていなかった。
上賀茂神社の北、田畑の残る一角――その場所も、まだ、残っていた。久遠家の主屋は、二百八十年以上の歳月を経て、なお、そこに建っていた。
木戸の前に立ったとき、私は、ハルの記録の中の一節を思い出していた。
「私はその匂いを、宇宙服のメモリアル・ポケットに入れて持っていきたい、と本気で思った」
私が木戸を押すと、軋んだ音がした。
「どなたですか」
声が、奥からした。日本語だった。私は、船内で習得した日本語で、答えた。
「ファルザナ・サディキと申します。――オデュッセイア号の、乗員です」
しばらく、沈黙があった。それから、足音がした。
玄関に現れたのは、小さな、けれど、背筋のまっすぐな、老婦人だった。白髪を、後ろで一つに結んでいる。年齢は、八十代後半に見えた。
彼女は、私の顔を、しばらく見ていた。それから、深く、頭を下げた。
「お待ちしておりました」と彼女は言った。「――五十四年、待っておりました」
彼女の名は、久遠灯。
奥の間に通され、茶を出された。黒い萩の茶碗――ハルの記録に出てきた、あの茶碗だった。
「静子おばさまから、何度も、聞かされておりました」と灯は言った。「『いつか、あの船の人たちが、ハルの言葉を、届けに来てくれる』と」
「静子さんは」
「私の、大祖母の妹の、お孫さん――いえ、ややこしいですね」と灯は、少し笑った。「血は、薄いです。私は、ハルさんの、又従姉妹の孫、というくらいの繋がりです。静子おばさまには、ハルさんの他に、子どもはいませんでした。だから、私が、養子として、この家に入りました」
「いつ、ですか」
「私が、五歳のときです。――静子おばさまは、当時、すでに、七十代でした。『久遠の家を、誰かに、繋いでもらわなければならない』と、よく言っていました」
私は、胸ポケットから、ハルの最後の手紙のデータを取り出した。
「これを」と私は言った。「ハルさんが、最後に、お母様に向けて、書いたものです。地球まで、光の速さで、四光年以上かかりました。届いたのは、私たちが、まだ、テレマコスで航行している間のことです」
灯は、データを受け取り、しばらく、それを見つめていた。
「これは」と彼女は、やがて、言った。「読まなくても、分かります。――静子おばさまが、亡くなる前に、すでに、受け取っていますから」
「すでに?」
「ええ」と灯は言った。「光の手紙ではなく――もっと、別の形で」
灯は、立ち上がり、奥の納戸へ向かった。私も、後をついていった。
仏間の隣の納戸。鍵のかかった桐簞笥の最上段。灯は、そこから、もう一巻の巻物を取り出した。「久遠家別記」――ハルの記録に出てきたものよりも、新しい巻物だった。
「静子おばさまは、晩年、これを、書き続けていました」と灯は言った。「ハルさんが、地球を離れて、五十四年。静子おばさまは、その大半を、見届けることなく、亡くなりました。――けれど、晩年、静子おばさまは、夜ごと、ある『夢』を見るようになったのです」
巻物には、ハルの記録に出てきた歴代の当主の記述に続いて、新しい行が、書き加えられていた。
久遠静子 二二五三年 夜、銀ノ鏡ヲ持ツ娘ノ姿ヲ見ル。遠キ場所ニ在リ。穏ヤカナリ。
久遠静子 二二六〇年 娘、語ラズシテ「ありがとう」ト言フ。涙ハ出ズ、ただ安シ。
久遠静子 二二六四年 娘ノ船、停止セシ夢ヲ見ル。されど、消エテハイナイ。光ヲ、反射シ続ケテイル。
久遠静子 二二六八年 ……静子、最後ノ記録。「私ハ、もう、視エル者ニナッタ。ハル、あなたガ、私ニ、視ル力ヲ、遺シテイッタノカモシレナイ」
私は、その最後の行を、しばらく、見つめていた。
「静子さんは」と私は、ようやく、言った。「ハルさんの最後の選択を――地球に帰らない、という選択を――知っていたのですか」
「知っていた、というのは、違うと思います」と灯は言った。「でも――感じていた、とは、言えるかもしれません。静子おばさまは、二二六八年の冬に、眠っているあいだに、亡くなりました。とても、穏やかな顔をしていた、と、当時の家政士の方が、記録に残しています」
私は、ハルの手紙のデータを、もう一度、見た。
お母さん、私は、地球に帰りません。
静子は、その言葉を、五十四年前の光の速さの手紙よりも、ずっと早く――おそらく、十数年のうちに――「夢」として、受け取っていた。
「灯さん」と私は言った。「あなたは――」
「ええ」と彼女は、静かに、頷いた。「私も、視えます。子どもの頃から」
第四章 視る者、ふたたび
その夜、私は、久遠家に泊めてもらうことになった。
縁側に出ると、夏の終わりの夜だった。庭の隅に、蛍が、二匹、三匹と、現れていた。ハルが、五十四年前に見たのと、同じ場所に。
「ファルザナさん」と灯が、隣に座って言った。「私が、子どもの頃に見ていたものを、お話ししても、よろしいですか」
「もちろんです」
「私が、五歳でこの家に来てから、しばらくして――庭のあの石の近くに、よく、人影が見えるようになりました。最初は、おじいさんのような、年配の男性でした。でも、もう少し大きくなると、別の人影も、見えるようになりました」
「別の人影」
「女性の姿でした」と灯は言った。「銀色の、丸い、小さなものを、いつも、両手で持っているような、姿でした。鏡のような――そう、思っていました。けれど、その人は、こちらを見ているわけではないのです。いつも、別の方向――星の方向を、見ているように、見えました」
私は、息を呑んだ。
「灯さん、それは――」
「ハルさんだと、後で、分かりました」と灯は、微笑んだ。「静子おばさまの巻物の記録と、私が見ていたものが、同じ時期に、起きていたからです」
私は、自分の胸ポケットから、もう一つのデータを取り出した。オデュッセイア号が、星間空間で記録した、「彼ら」との対話のログだった。
「灯さん。これを、お聞きいただいてもいいですか」
私は、小さな再生機を取り出し、ニコラス・ヴァン・ホーヴェンの声、そして、ハルと「おじちゃん」との対話の記録を、再生した。
灯は、目を閉じて、それを聞いていた。
再生が終わると、灯は、長い間、何も言わなかった。それから、ゆっくりと、口を開いた。
「ファルザナさん。私が、子どもの頃に見ていた『おじいさん』――その人影は、いつも、私に、こう感じさせました。『懐かしい』と」
「懐かしい」
「私は、その人と、会ったことがないのに、――会ったことがある、と感じました。ハルさんの記録に書かれている、『おじちゃん』と、同じ存在だと、私は思います」
「でも、灯さん。ハルさんと一緒にいた『おじちゃん』は、ハルさんと一緒に、星へ、行ってしまったはずです。私たちは、それ以降、彼らを、見ていません」
「ええ」と灯は言った。「けれど、考えてみてください、ファルザナさん。AP-7は、〇・三パーセントの、すべての人間が、持っているものです。久遠の家は、何百年も、そういう人間を、産み続けてきました。――『おじちゃん』が、ハルさんと一緒に、行ってしまったとしても」
「別の、誰かが――」
「私たちの中に、また、目を覚ます。それが、AP-7の、本当の性質なのだと、私は、思っています」
灯は、自分の左手を見た。その薬指には、何も、はまっていなかった。けれど、彼女は、その指で、空中に、何か、小さな円を、描くような動作をした。
「私は、AP-7陽性です」と彼女は言った。「八十年前、検査を受けました。私は、〇・三パーセント側の人間です。――でも、私は、宇宙には、行きませんでした」
「なぜ」
「家を、守る必要があったからです」と灯は、静かに言った。「視る者は、たいてい、家を継がず、どこかへ行ってしまう――久遠家別記には、そう書かれています。でも、私は、視えました。そして、家にも、残りました」
「それは――」
「久遠家は、何百年も、『視る者』と『視ない者』、両方を、必要としてきました」と灯は言った。「けれど、私の代で、初めて、両方が、一人の人間の中に、揃ったのかもしれません」
蛍の光が、庭の中を、ゆっくりと動いていた。
「ファルザナさん」と灯は言った。「私には、孫が一人、います。今、七歳です。名前は、――久遠 暦(こよみ)」
「暦さん」
「先月、検査を受けました。AP-7、陽性でした」
私は、何も言えなかった。
「暦は、まだ、何も見ていないようです。でも、いつか、見るかもしれません。――そのとき、私は、暦に、ハルさんの話をします。ファルザナさん、もし、お時間があれば、その記録を、コピーしていただけますか。暦が、いつか、それを必要とするときのために」
「もちろんです」と私は言った。「いくらでも」
終章 通い路は閉じない
私が、京都を離れる前日、灯は、私を、本堂――母屋の北側の、小さな祭祀の間に、案内した。
仏壇の奥に、家紋の三つ星と、もう一つの梵字のような印が、彫られていた。仏壇の引き出しの一番下には、もう、巻物はなかった。代わりに、小さな桐の箱が、一つ、置かれていた。
「これは」と灯が言った。「静子おばさまが、最後に、ここに、納めたものです」
箱を開けると、中には、一枚の写真があった。
セピア色に変色した、古い写真。若いハルが、出発の前夜、本家の縁側に座って、蛍を見ている横顔だった。誰が撮ったのかは、分からない。けれど、その写真の裏には、静子の筆跡で、こう書かれていた。
ハル。
あなたは、行ってしまった。
けれど、あなたが見せてくれた、巻物の言葉を、私は、もう一度、読み直しました。
「星ヨリ来タリテ星ヘ還ル者アリ。久遠ノ家ハソノ通ヒ路ナリ」
通い路は、一方通行ではありません。
あなたは、星へ、還りました。けれど、あなたの中の何かは、今も、この家に、繋がっています。私は、夜ごと、あなたを見ます。あなたは、銀の鏡を持って、星々の間に、座っています。
ハル、あなたは、寂しくないですか。
――いいえ、答えなくていい。私には、もう、分かっています。あなたは、寂しくない。あなたの傍には、誰かが、いる。
私は、ここで、灯を育てます。久遠の家を、繋ぎます。あなたが、星の通い路を、繋いでいるように。
いつか、この家に、また、視る者が、生まれるでしょう。その人が、あなたのところまで、この想いを、届けてくれるかもしれません。
ハル、いってらっしゃい。何度でも、いってらっしゃい。
――静子
私は、その写真を、灯に返した。
「灯さん」と私は言った。「私たちは、明日、地球を発って、もう一度、世界中の研究機関を回ります。――でも、もう一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「私たちが持ち帰ったデータの中に、ハルさんが最後に進んでいった方向の、軌道予測があります。AP-7陽性者は、低温下で、ある周波数の信号――〇・一八ヘルツのパルス――を、共有する、ということが、分かっています。もし、暦さんが、いつか、その力に気づいたら」
「ええ」
「その信号を、聞く方法を、私たちは、これから、研究します。もしかしたら、いつか――暦さんが、ハルさんの『今』を、知ることができるかもしれません」
灯は、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます、ファルザナさん」
翌朝、私は、京都駅から、リニア・チューブに乗った。
窓の外に、比叡山の影が、見えた。ハルが、五十四年前に見たのと、同じ影だった。
私は、ポケットから、自分の生体センサーリストを取り出した。AP-7陽性者である私の中にも、〇・一八ヘルツの、規則的な、微弱なパルスが、ずっと、流れている。それは、テレマコスの中でも、そして今、地球の上でも、変わらず、続いていた。
その先に、何が、繋がっているのかは、私には、分からない。
けれど――久遠灯が言ったとおり、通い路は、一方通行ではない。
地球から、銀河の中心へ。銀河の中心から、地球へ。〇・三パーセントの誰かが、進み、〇・三パーセントの誰かが、見送り、そして――〇・三パーセントの、新しい誰かが、生まれてくる。
久遠暦は、まだ、何も見ていない。
けれど、いつか、彼女は、庭の隅を指して、こう言うかもしれない。
「あの、銀色のものを持っているおばちゃんは、誰?」
そのとき――久遠の家の通い路は、また、一つ、繋がる。
そして、それは、きっと、久遠の家だけの話ではない。
九九・七パーセントの私たちが、地球で、日々の暮らしを送っているあいだにも、〇・三パーセントの誰かの中で、〇・一八ヘルツの信号は、静かに、明滅し続けている。
それは、星から来て、星へ還る、長い長い物語の、ほんの、小さな一節に過ぎない。
けれど、一節も、繋がらなければ、物語にはならない。
私たちは、繋いだ。
そして、これからも、誰かが、繋いでいく。
了
あとがき
ここまで読んでくださった皆さまへ。
『0.3パーセントの遺伝子』を書き終えたとき、私は、物語は久遠陽(くおん・はる)と共に、星々の彼方へ旅立ったのだと思っていました。
けれど、不思議なことに、物語は終わっていませんでした。
彼女が旅立ったあと、地球に帰った人々は、その後、どんな人生を歩んだのだろう。
残された人たちは、どのように老い、誰を想い、何を繋いでいったのだろう。
そんな問いが、静かに私の中に残り続けていました。
本作『Protein Behavior AP-7 II ――九九・七パーセントの帰還――』は、英雄の物語ではありません。
むしろ、帰る人の物語です。
待つ人の物語です。
そして、繋ぐ人の物語です。
私たちは人生の中で、「遠くへ行く人」に憧れることがあります。
けれど現実には、多くの人が誰かを送り出し、帰りを待ち、日々の暮らしを守っています。
もしかすると、人類の歴史を支えてきたのは、その九九・七パーセントの人々だったのかもしれません。
還ること。
待つこと。
繋ぐこと。
それらは決して受動的な営みではなく、人間が何千年も続けてきた、最も古い冒険の一つなのだと思います。
作中で繰り返し登場する「通い路は、一方通行ではない」という言葉には、そんな願いを込めました。
人と人。
過去と未来。
地球と星々。
生者と死者。
見えるものと、見えないもの。
私たちは、ときに離れながらも、完全に断たれることはないのかもしれません。
もしこの物語が、読者の皆さまにとって、大切な誰かを思い出す時間になったなら。
あるいは、自分自身が誰かから受け継ぎ、また誰かへ渡していく存在なのだと感じていただけたなら。
作者として、とても嬉しく思います。
星から来て、星へ還る。
その長い旅路の途中で、私たちは出会い、別れ、そして繋いでいく。
物語もまた、その一つの通い路であると信じています。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
またどこかの物語で、お会いできますように。

