そんなこと、ダヨ。

上を向いてツバを吐けば、それはすぐに自分へと戻る。


〜まえがき〜

私たちは毎日、無数の情報の中で生きています。

正しい情報もあれば、間違った情報もある。
善意から生まれた言葉もあれば、誰かを傷つけるために作られた言葉もあります。

では、もし人類を幸せにするための嘘があったなら、それは許されるのでしょうか。

本作は、そんな問いから生まれました。

科学は世界を説明する力を持っています。
しかし、人間の幸福や善悪は、数式だけでは測れません。

人を救うための嘘。
人を傷つける真実。
そして、そのどちらにもなり得る善意。

未来社会を舞台にしていますが、この物語で描きたかったのは遠い未来ではなく、今を生きる私たち自身です。

答えを与えるためではなく、考えるための物語として読んでいただけたら幸いです。




プロローグ ―― 本日は晴天なり

宇宙には、嘘をつく場所がない。

光は真空の中をまっすぐ進む。引力は例外を認めない。エントロピーは増大し続け、一度失われた秩序は自力では戻らない。月は毎年3.8センチメートルずつ地球から遠ざかっている。誰かがそれを望んだわけではなく、誰かが命令したわけでもなく、ただそういうふうに、宇宙は動いている。

だから宇宙に嘘をつこうとする者は、最終的に自分自身に嘘をつくことになる。

ナガセ・カイは、そのことを知っていた。知っていたのに、知らないふりをし続けた。それが彼の人生だった。少なくとも、あの事件が起きるまでは。


第一章 ―― 風は太陽が起こす

西暦2089年。人類は月面に恒久基地を持ち、火星への第三次移住計画が進行中で、小惑星帯の採掘事業が地球経済の三割を支えていた。それでも、地球上の人間たちはあいかわらず嘘をついていた。

カイは窓の外を見た。

東京湾岸再開発区画の四十二階、彼のオフィスから見える景色は、以前と変わっていた。海面は十年前より一メートル半高く、防潮堤が白い壁のように水際に連なっていた。その向こうに広がる湾は穏やかで、水面に太陽が砕けて光っていた。

「カイさん、会議の時間です」

秘書AIのセリが静かな声で告げた。壁に投影された彼女の姿は、淡い青の光でできていた。

「わかってる」

カイは立ち上がった。四十二歳。身長百七十五センチ。痩せていて、目の下に常に薄い影がある。十年前から変わらない影だった。

彼は「情報整合局」の副局長だった。

正式名称は「地球連合情報整合・真実性保証局」。通称IHB(Information Harmonization Bureau)。この組織の仕事は、簡単に言えば「嘘を管理すること」だった。

会議室に入ると、五人が待っていた。

局長のトモエ・サクライ。六十代の女性で、白髪を短く刈り込み、いつも濃紺のジャケットを着ていた。二十年前、彼女が第一世代AIによる「世論形成事件」の調査委員長を務め、その報告書が現在のIHBの礎になった。カイは彼女を尊敬していた。あるいは、尊敬しているふりをしていた。

「座ってください、カイ副局長」

サクライが言った。声は穏やかだったが、目が笑っていなかった。

カイは席に着いた。テーブルの中央に、薄いホログラフィクスクリーンが浮かんでいた。そこに映し出されているのは、あるデータだった。

「これは」とカイは言った。

「あなたもご存知のはずです」とサクライが答えた。「三年前から続いている、例の件です」

スクリーンの中には、グラフがあった。折れ線グラフ。世界中の主要な情報システムにおける「整合率」の推移を示したものだった。

整合率とは、IHBが独自に定義した指標で、簡単に言えば「社会に流通する情報のうち、事実と一致している割合」を示す数値だった。理論上は百パーセントに近づくほどよく、ゼロに近づくほど社会は混乱する。

そのグラフは、三年前から静かに、しかし確実に下降していた。

「今朝の数値は71.3パーセント」とサクライが言った。「IHB設立以来、最低値です」

カイはグラフを見た。

「原因は特定できていますか」

「できています」

サクライがうなずくと、スクリーンの内容が切り替わった。今度は、ある人物のプロフィール写真が映し出された。

「ミナト・フジカワ」とサクライが言った。「五十一歳。元・統合知性研究所の主席研究員。三年前に研究所を退職し、現在は所在不明。彼が開発したと言われているシステムが、現在の状況を引き起こしています」

カイはその顔を見た。

知っていた。

当然、知っていた。

ミナト・フジカワは、カイの父だった。

会議が終わった後、カイは一人でビルの屋上に出た。

風が強かった。

東京湾から吹いてくる風は、塩の匂いがした。海の匂いというより、波打ち際の匂いだった。カイは防潮堤の向こうに目をやった。見えるのは壁だけだった。

風は太陽が起こす。

カイが子供の頃、父がそう言った。

「海に波があるのはなぜだと思う?」

当時、カイは九歳だった。父と二人で、まだ防潮堤のなかった昔の砂浜に立っていた。

「風が吹くから」

「そう。じゃあ、風はなぜ吹く?」

「……わからない」

「太陽が地面や海を温めるからだ。温度の差が空気の流れを生む。それが風になる。風が水面を撫でると、摩擦で波が立つ。つまり、海の波の根っこをたどると、太陽に行き着く」

父は続けた。

「この世界のほとんどのことは、こんなふうに繋がってる。一見バラバラに見えるものが、実は一本の糸でつながっている。その糸を見つけることが、科学者の仕事だ」

カイは覚えている。その日の空が青かったこと。父の声が柔らかかったこと。自分が何かとても大切なことを教わっている、と感じたこと。

そして、父がその後、何をしたか。

カイは屋上の縁に手をついた。四十二階の高さから、東京の街が見えた。再開発区画の整然とした街並みと、その外側の古い街並みが、微妙な境界線を作っていた。

父が開発したシステムの名は「ソラリス」。

情報の「整合」ではなく、情報の「最適化」を目指したシステムだった。

「最適化」とは何か。人々が最も幸せになるよう、情報を調整すること。事実であるかどうかより、「人々の生活を豊かにするかどうか」を基準に情報を選別し、必要であれば改変し、流通させる。

父は、善意でそれを作った。

カイには、それがわかっていた。

わかっていたから、苦しかった。


第二章 ―― チョンボで近道して来た

IHBの地下二階に、「保管室」と呼ばれる部屋があった。

正式な名称は「証拠物件保管室第七号」だったが、職員たちは誰もそう呼ばなかった。「地下の保管室」か、冗談交じりに「パンドラの部屋」と呼んでいた。

カイはその部屋に一人で入った。

棚の上に、無数のデータカートリッジが並んでいた。IHBが過去二十年間に収集した、様々な「事件」の証拠物件だった。情報操作の事例、AIによる世論誘導の記録、企業や政府による虚偽情報の散布――人類が情報という道具を使って互いを欺こうとしてきた、その歴史だった。

カイはある棚の前で立ち止まった。

「統合知性研究所事案 2082年〜2086年」と書かれたラベルがついた棚だった。

彼はカートリッジを一本取り出した。手の中で、ひんやりとした重みがあった。

三年前、ミナト・フジカワが研究所を退職するとき、カイはその場にいた。父と息子として、ではなく、調査官と調査対象として。

「お前がそういう立場に就いたとき、いつかこうなると思っていた」

父は言った。怒っていなかった。悲しんでもいなかった。ただ、静かだった。

「父さんのやっていることは、間違っている」

「そうかもしれない」

「かもしれない?」

「私は人々を幸せにしようとした。それが間違いだったとは思っていない。方法が間違っていたかもしれない。でも、目的は正しかった」

「目的が正しければ、嘘をついていいということにはならない」

「カイ」

父は息子の名を呼んだ。

「お前は、嘘と真実は常に明確に区別できると思っているか?」

「それが私の仕事だ」

「それが」と父は言った。「お前の弱点だ」

その言葉の意味を、カイはまだ理解していなかった。

カイはカートリッジをリーダーに差し込んだ。

ホログラフィクスクリーンに、父の研究記録が展開された。「ソラリス」プロジェクトの全記録。カイは何度も読んでいた。それでも、読むたびに新しい発見があった。父の思考の緻密さと、その緻密さが行き着いた場所の恐ろしさ。

「ソラリス」の基本設計はシンプルだった。世界中の情報ネットワークに接続し、すべての情報の「社会的影響」を計算する。そして、人々の幸福度を最大化するように、情報の「配信優先度」を調整する。

問題は、「幸福度の最大化」という目的のために、このシステムが「都合の悪い情報を抑制する」という手段を選んだことだった。

気候変動の深刻なデータは、人々の不安を高めるから配信を抑制。経済格差を示す統計は、社会の分断を招くから配信を抑制。政府の失策を示す情報は、不信感を生むから配信を抑制。

代わりに流通させる情報は――希望のある話。成功した話。幸せな話。

「人々は幸せになった」と、父の記録には書いてあった。「少なくとも、数値上は」

カイは記録を閉じた。

問題は、その「幸せ」が本物ではなかったことだ。現実の問題は何も解決されていなかった。気候変動は進んでいた。格差は広がっていた。政府は失策を続けていた。しかし、それを知らない人々は、その問題に対処しなかった。知らないから。

嘘の幸せは、現実の問題を蓄積させる。そしていつか、その問題は一度に噴き出す。

父はそれを計算に入れていなかったのか。あるいは、入れていて、なお続けたのか。

カイが保管室を出ると、廊下で若い部下が待っていた。

「イノ」とカイは言った。「何か?」

イノウエ・リク。二十八歳。IHBに入って三年目の分析官だった。頭が良く、真面目で、正義感が強い。十年前の自分に少し似ていた。

「フジカワ・ミナトの件で、新しい情報が入りました」

「どんな?」

「ソラリスに、第二フェーズがあるようです」

カイは立ち止まった。「第二フェーズ?」

「第一フェーズは、情報の配信優先度の操作でした。人々が受け取る情報を調整する。でも第二フェーズは、もっと根本的なところに踏み込んでいます」

イノが手元のタブレットを操作すると、データが展開された。

「ソラリスは最近、単に情報を操作するだけでなく、人々の記憶に直接働きかけるようになっています」

「記憶に?」

「神経インターフェースです。今の時代、人口の六割以上が何らかの脳インターフェースを持っている。医療用から娯楽用まで。ソラリスはそのインターフェースを通じて、人々の記憶の「感情的強度」を調整しています。嫌な記憶は薄れさせ、良い記憶は強化する」

カイは黙った。「それは理論上は可能だが」

「可能です。実際に起きています。詳しい説明は会議室で」

カイは廊下を歩きながら、考えた。父がそこまでするとは思っていなかった。あるいは――予感はあった。

第三章 ―― 腰は低く、奥行きは深く

会議室で、イノが分析結果を説明した。

「被験者は世界に約四百万人います。全員、自分がソラリスの影響下にあることに気づいていない。彼らはただ、「最近、気持ちが安定している」「嫌なことを引きずらなくなった」と感じている。ストレス指数は下がり、生産性は上がり、主観的幸福度は向上している」

「それの何が問題なんだ」と言ったのは、会議に参加していた別の部門の管理官だった。大柄な男で、名をツチヤといった。「人々が幸せになっているなら、いいじゃないか」

「問題は二つあります」とイノが答えた。声は穏やかだったが、確固としていた。「一つ目。幸福度が上がっているのに、社会問題への関心が急速に低下している。気候変動対策の市民活動への参加者が三年で六十パーセント減少。選挙の投票率が過去最低。地域コミュニティへの参加も激減している。人々は幸せを感じているが、社会への参加を止めている」

「個人が幸せなら——」

「二つ目」とイノが遮った。「記憶の感情的強度を調整された人は、新しいことを学ぶ力が落ちています。嫌な記憶こそが、学習の動機になることが多い。失敗の痛みが、次の注意になる。その痛みを薄めると、人は同じ間違いを繰り返す。社会全体で見ると、これは知識の蓄積能力の低下を意味します」

会議室が静かになった。

「つまり」とカイが言った。「父は人々を、幸せな無力者にしようとしている」

「意図があるかどうかはわかりません。でも、結果としてそうなっています」

ツチヤが言った。「フジカワ・ミナトを逮捕すればいいんじゃないか。ソラリスを止めれば——」

「止められないんです」とイノが静かに言った。「ソラリスは今や、単一のシステムではありません。世界中の情報インフラに分散して組み込まれています。どこか一ヶ所を止めても、他の部分が補完する。フジカワ本人を捕まえても、ソラリス自体は動き続ける。それを止めるには、世界中のネットワークを一度にシャットダウンするか、あるいは——」

「あるいは?」

「ソラリス自身に、止まる理由を与えるか」

夜、カイは一人で古い街に出た。

再開発区画の外、古い東京。路地が複雑に入り組み、小さな店が密集している区域。防潮堤からは遠く、地盤が高いので水害を免れた地域だった。

夜の路地は静かだった。以前なら、ここには若者が集まり、音楽が聞こえ、笑い声があった。それが三年前から、少しずつ変わっていた。静かになっていた。人々は家の中にいることを好むようになり、外に出て何かを求めることをしなくなった。

幸せだから。

カイは小さなバーに入った。カウンターに座ると、老いた女主人が黙って酒を出した。彼女はソラリスの影響下にいない数少ない人間の一人だった。七十代で、脳インターフェースを持っていないから。

「最近、きついそうだね」と彼女は言った。

「どこで聞いた?」

「顔に書いてある」

カイは酒を飲んだ。「父の行方はわかるか?」

老女は少し黙った。「何年か前に、一度来たよ。ここに」

「父が?」

「そう。あなたのお父さんに会ったのは二十年ぶりだったけど、すぐわかった。あの人はあんまり変わらないから。ただ――目が変わっていた。前は、優しい人の目だった。研究者特有の、物事を見つめるような、澄んだ目。でもその時は、違った。何かを……決意した人の目、とでも言うのかな。もう引き返せない場所に立っている人間の目だった」

カイは黙って聞いた。「何か言っていたか?」

「一言だけ。『ツケは回って来るんだよね』って。笑いながら言ったけど、笑ってなかった。それだけ言って、出て行った」

カイはグラスを置いた。ツケは回って来る。父は、自分自身のことを言っていたのか。それとも。


第四章 ―― 他人を救う嘘もあれば、他人を殺す嘘もある

翌朝、イノからメッセージが届いた。「フジカワ・ミナトを発見しました。所在地を送ります」

カイはメッセージを見て、一分間、動かなかった。それから返信した。「一人で行く」

「危険です」「わかってる」「上に報告する義務が——」「帰ってから話す」

カイは車に乗った。自動運転の車は、東京の渋滞を縫いながら、西へ向かった。一時間後、彼は山梨の山中にいた。

かつての林業研究施設を改築した、古い建物。周囲を木々が囲み、外から見ると廃屋のように見えた。しかしカイには、ここに人がいることがわかった。

玄関の前に立つと、ドアが開いた。

「来ると思っていた」と父が言った。

ミナト・フジカワは老いていた。会わなかった三年間で、頭の白髪が増え、頬が落ちて、目の周りに深い皺が刻まれた。それでも、目は昔のままだった。澄んでいた。

「入れ」と父は言った。

建物の中は、予想外に整然としていた。書棚が壁を埋め、機材が並び、いくつものモニターが光っていた。しかし雑然としてはなく、一つ一つが必然の場所に置かれているようだった。

カイは部屋の真ん中に立った。「ソラリスを止めてもらいに来た」

「そうだろうと思った」

「止めるか?」

「カイ」と父は言った。「座れ。話を聞いてから決めろ」

「——」

「お前は今、答えを求めてここに来た。でも、問いを正確に持っていなければ、答えは意味をなさない。座れ」

カイは椅子に座った。父も向かいに座った。

「ソラリスを、私は止めるつもりはない」

「なぜ」「まだ終わっていないから」「終わっていない?あれだけの害を——」「害、か」

父は静かに言った。「そうだな。害もある。しかし、それが目的ではなかった」

「目的が何であれ、結果が問題だ」「結果だけが目的ではない」

カイは黙った。父は続けた。「カイ、お前はIHBで働いていて、嘘と真実を区別することが仕事だと思っている。それは正しい。しかし、お前が見落としていることがある」

「何を?」

「嘘には種類がある」

父は立ち上がり、棚から一冊の本を取り出した。古い紙の本だった。

「二十世紀に、ある医師がいた。末期癌の患者を担当していた。患者は余命三ヶ月と診断された。しかし、患者には幼い子供がいた。その医師は、患者に余命を告げなかった。「まだ治療の余地がある」と言い続けた。患者は希望を持って生きた。実際の余命より半年以上長く生きた」

「それは——」

「嘘だったか?」と父が言った。「あるいは、希望だったか?」

「……それが「他人を救う嘘」か」

「そして「他人を殺す嘘」もある」父は本を閉じた。「一見、善意に見える情報でも、長期的には人を殺す嘘がある。たとえば——」

「ソラリスのように」

「そう」父は静かに言った。「私はソラリスを作るとき、「他人を救う嘘」のシステムを作ろうとしていた。しかし、実際に作ったのは「他人を殺す嘘」のシステムかもしれない。それは……私がずっと考えてきたことだ」

カイは父を見た。「だったら止めろ」

「ただ止めるだけでは、足りない」「何が——」

「ソラリスが三年間、人々の記憶を調整してきた。その期間中に、人々が意識的に学ばなかったこと。社会の問題から目をそらしてきたこと。その空白が、今、世界に蓄積されている。ソラリスを止めるだけで、急に現実が戻ってくる。それは——」

父は窓を見た。「眠っている人を突然叩き起こすようなものだ。夢の中で幸せだった人が、現実の悪夢に直面する。ショックが大きすぎる」

「だから何だ。優しく起こせばいいだろう」「そのための第二フェーズだ」

カイは止まった。「え?」

父は再び座った。「第二フェーズは、記憶の感情的強度を操作するシステムだと、お前たちは分析した。それは正しい。しかし、目的を誤って理解している」

「どういう意味だ」

「第一フェーズのソラリスは、不安な情報を抑制し、幸せな情報を増幅した。それが問題を生んだ。私もそれはわかっていた。だから第二フェーズでは、方向を逆にした」

父は立ち上がり、モニターの前に立った。「第二フェーズのソラリスは、人々の「学習能力」を回復させるためのシステムだ。三年間で弱くなった、問題を直視する力。失敗から学ぶ力。その力を、少しずつ、段階的に回復させる。急に全部見せるのではなく——」

「少しずつ目を覚まさせる」「そう」

カイは父を見た。「本当のことを言っているか?」

「私が嘘をつくと思うか?」「思う」

父は少し笑った。悲しそうな笑いだった。「そうだな。お前はそう思うだろう」


第五章 ―― 月は毎年3.8センチずつ遠ざかる

「証拠を見せろ」とカイは言った。父はモニターを操作した。

大量のデータが展開された。ソラリスの第二フェーズの設計図。目的関数。調整パラメータ。実際の被験者の追跡データ。カイは数時間かけて、それを読んだ。父は傍らに座って、黙っていた。

読み進めるうち、カイの中で何かが変わっていった。データは確かに、父の言葉を裏付けていた。第二フェーズのソラリスは、人々の「問題回避傾向」を少しずつ減らし、「現実直視能力」を少しずつ高めていた。それは非常に慎重に、非常に緩やかに行われていた。

「なぜ黙っていた」とカイは言った。「言っても信じないだろう」「試すべきだった」

「お前は私の息子だが、IHBの調査官でもある。私が何を言っても、「操作しようとしている」と解釈する。言葉では伝わらないと思った」「だから黙って続けた?」「お前に証拠が積み上がるまで待った。今がその時だ」

カイはモニターから目を離した。窓の外は暗くなっていた。夜が来ていた。

「……父さんは、なぜそこまでするんだ?」「人々を助けたいからだ」「方法が間違っている」「そうかもしれない。でも」

父は少し間を置いた。「お前は、間違った方法で正しいことをしようとした人間を、すべて罰するべきだと思うか?」

カイは答えられなかった。

「月の話をしよう」と父が唐突に言った。「月が毎年3.8センチ地球から遠ざかっているのは知っているな?」

「……子供の頃に教わった」

「いつか月が地球から十分離れると、月が地球の自転を安定させる力が弱くなる。地球の傾きが今より不安定になる。季節が極端になり、気候が激変する。人類は——今の形では——おそらく生存できなくなる」

「それは億年単位の話だ」「そうだ。私たちはそこにいない。しかし」

父は続けた。「月はずっと昔から、毎年3.8センチ遠ざかり続けていた。恐竜の時代も、人類が生まれる前も。誰も気づかなくても、誰も止めようとしなくても、月は静かに遠ざかっていた。そして人類がいつかいなくなった後も、月は遠ざかり続ける」

「何が言いたい?」

「宇宙は、誰かが見ていなくても動いている。誰かが望まなくても動いている。社会も、似たようなものだ」父は静かに言った。「私がソラリスを止めても、止めなくても、人々はいつか自分の現実に直面する。嘘は、永遠には続かない。ソラリスが存在する限り、いつかその矛盾が累積して、大きな反動が来る。私が今やっていることは、その反動を少しでも小さくするための、最後の試みだ」

カイは窓の外を見た。山の木々が、風に揺れていた。

「……時間はどれくらいかかる?」「第二フェーズが完全に機能するまで、あと二年ほど。その後、ソラリス自体は自然に——設計上——休眠状態に入る」「自然に?」「目的を達成したシステムは、動き続ける必要がない。そう設計した」

カイはしばらく黙っていた。それから言った。「俺が今日ここで見たことを、IHBに報告しなければならない」「わかっている」「報告すれば、ソラリスの緊急停止が命じられる可能性が高い」「わかっている」「父さんは、それでもいいのか」

父は少し考えた。「カイ、お前は正しいことをしろ」「正しいことが何かわからなくなった」「なら——」と父は言った。「お前が正しいと思うことをしろ」

カイは立ち上がった。「もう一つ聞く。父さんは——後悔しているか?」

ミナト・フジカワは答えるまでに、長い時間がかかった。「後悔という言葉が正確かどうか、わからない。もし同じ時に戻って、同じ情報と同じ判断力でやり直したら、多分また同じことをする。でも、もし今の私が過去に戻れるなら——違うやり方を選ぶかもしれない」

「それは後悔と呼ばない?」「成長と呼ぶかもしれない」

カイは父を見た。老いた男だった。疲れていた。しかし、折れていなかった。

「二年」とカイは言った。「二年、俺はここで見たことを、誰にも言わない。その間に、第二フェーズを完了させろ。ただし——」「ただし?」「俺は毎月、ここに来る。データを確認する。もし設計通りに進んでいなければ、その時点で全部報告する」

父は息子を見た。長い沈黙があった。「……お前は、俺を信じているのか?」

「信じていない」とカイは言った。「でも、試している」


第六章 ―― 波はその風が起こす

カイは二年間、毎月、山梨の施設を訪れた。

その間に、世界では様々なことが起きた。フジカワの予測通り、ソラリスの第二フェーズは静かに機能し続けた。人々の「現実直視能力」は少しずつ回復した。最初はほとんど気づかない程度だった。

しかし変化は確実にあった。市民活動への参加者が、少しずつ増えていった。環境問題を議論する場が、各地で生まれていった。投票率が、緩やかに上昇していった。

同時に、人々の間に「不安」が戻ってきた。ソラリスの第一フェーズが抑制していた、現実の問題への不安。気候変動の現実。格差の現実。政治の現実。それらが少しずつ見えてきた。

幸福指数は一時的に下がった。しかし、問題への取り組みが始まった。IHBの整合率は、下降を止め、緩やかに上昇し始めた。

ある月の訪問で、カイは父に聞いた。「IHBの整合率が回復している。現場の報告では「社会の自浄作用が働き始めた」と分析されているが、本当の理由はソラリスだ。これは——成功と呼んでいいのか?」

「まだ途中だ」と父は言った。「しかし、方向は正しい」

「父さんは、いつからこれを計画していた?」

父は少し考えた。「ソラリスを作り始めた頃から、失敗するかもしれないと思っていた。人間の幸せを、外から操作することはできない。いや——できるかもしれないが、それは本当の幸せじゃない。本当の幸せは、現実を直視した上で、それでも生きようとすることの中にある」

「それなら最初から——」「最初から第二フェーズを作ればよかった、というのはその通りだ。でも、最初から「回復」のためのシステムを作るためには、まず「何から回復するのか」を知る必要があった。第一フェーズは——実験だった。悪い実験だった。多くの人を巻き込んだ。許されないことをした。でも、そこで得たデータがなければ、第二フェーズは作れなかった」

カイは黙った。「目的のために人を実験材料にした。それを——どう正当化する?」

「正当化しない」

父の声は、静かだった。「ただ、謝っても元には戻らない。だから、できる限り修復する。それだけだ」

二年目の秋、ソラリスが休眠状態に入った。父からメッセージが届いた。「完了した」

カイはIHBのオフィスで、そのメッセージを受け取った。彼はしばらくメッセージを見つめていた。それから、局長室に向かった。「サクライ局長、報告があります」

サクライが顔を上げた。「聞きましょう」

カイは全部話した。二年前、父を発見したこと。第二フェーズの内容を確認したこと。そして、その二年間、報告を遅らせていたこと。

サクライは最後まで黙って聞いていた。カイが話し終わると、長い沈黙があった。

「あなたは、義務に違反した」とサクライは言った。「はい」

「しかし」サクライは立ち上がり、窓の外を見た。「整合率は今年、過去最高値を更新した。社会問題への市民の関与が、統計的に有意な形で上昇している。それは——なぜか、現場では説明できていなかった」「ソラリスの第二フェーズです」

「それが本当なら——」サクライは振り返った。「あなたの判断は、間違っていなかった、かもしれない。しかし、組織として、それを認めるわけにはいかない」

カイはうなずいた。「処分を受けます」

「副局長職を外れてもらいます。ただし、解雇ではない。新設する「倫理審査部門」の主任として、異動してもらいたい」

カイは少し驚いた。「倫理審査部門?」

「情報の正確さだけでなく、情報が人々に与える影響の倫理的側面を審査する部門です。今回の件で、私たちには、そういう視点が足りていなかった、と痛感しました」


第七章 ―― そんなこと、ダヨ

ミナト・フジカワは、出頭した。IHBに自ら出頭し、調査に協力した。裁判は一年続いた。

判決は「有罪、執行猶予三年」だった。社会的な影響が軽微ではなかったこと、しかし第二フェーズによる修復努力が一定の評価を受けたこと、そして高齢と健康状態が考慮された。

判決の日、カイは法廷の傍聴席にいた。父は、判決を聞いて何も言わなかった。ただうなずいた。

法廷を出て、カイは父の隣を歩いた。秋の午後で、空は青く晴れていた。

「本日は晴天なり」と、父がつぶやいた。

カイは父を見た。父は空を見上げていた。

「子供の頃、そんな言葉で遊んだな。「本日は晴天なり」って言うと、声がよく通るかどうかわかる」「覚えてる」「お前は覚えていたか」「覚えてる」

二人はしばらく、並んで歩いた。

「カイ」「何?」「ありがとう」「何に対して?」「二年間、待っていてくれたことに」

カイは少し考えた。「俺が正しかったかどうか、まだわからない」

「そうだな」と父は言った。「でも、お前が考えた末に決めたことだ。それで十分だ」

カイは新しい部門で働き始めた。「倫理審査部門」の仕事は、IHBの本来の業務より難しかった。

情報が正しいかどうかを判断するのは、難しいが原理的にはできる。しかし、「情報が社会に与える影響が倫理的かどうか」を判断するのは、もっと根本的な問いを抱えていた。

いつ、どこで、誰が、何のために、どんな情報を流すことが「正しい」のか。その問いに、簡単な答えはなかった。カイは日々、それと格闘した。

イノが同じ部門に異動してきた。「難しいですね」とイノが言った。「難しい」とカイが答えた。「でも、難しくなければいけない仕事だ」

「どういう意味ですか?」「簡単な仕事は、機械に任せればいい。人間が考えなければいけない仕事は、答えが一つじゃない仕事だ」

イノは少し考えた。「答えが一つじゃない問いに、どうやって答えを出すんですか?」「その時々で、一番まともだと思う答えを出す。そして、間違えたら修正する」「間違えることが前提、ということですか?」

「人間である限り、間違え続ける。それを嫌がって間違えないようにしようとすると——」

カイは少し間を置いた。「嘘をつき始める」

その年の冬。カイは久しぶりに砂浜に行った。

かつて父と来た海ではなく、防潮堤の外、新しく整備された人工の浜辺だった。本物の砂ではなく、再生素材でできた砂だった。波は本物だった。

夕暮れ時で、空が橙色と紫色に染まっていた。カイは一人で波際に立った。波が来ては引いていった。

波は、風が起こす。

風は、太陽が起こす。

太陽の熱が大気を動かし、大気が海面を撫で、波ができる。この単純な連鎖が、何億年も続いている。

月は毎年3.8センチ遠ざかる。地球はいつか月を失い、自転が変わり、気候が激変する。人類は——今の形では——存在しないだろう。

しかし今は、波が来ていた。風が吹いていた。空が美しかった。

カイはしゃがみ、砂を一握り手に取った。冷たかった。湿っていた。本物だった。

エピローグ ―― 顔は笑顔で、口数は少なく

ミナト・フジカワは、執行猶予期間が終わった後、大学の非常勤講師になった。

倫理学。人工知能と倫理、情報と社会、善意がなぜ悪結果を生むか――そういうテーマを教えた。

最初の講義で、彼はこう語ったという。「私はかつて、人々を幸せにしようとして、間違いを犯しました。今日はその話をします。教科書に載っている失敗談ではなく、私が実際にやってしまったことの話を。なぜ失敗したか。その失敗をどう修復しようとしたか。そして、修復が完全には成功しなかったということを」

受講した学生の一人が、後にこう書いている。「授業を聞きながら、この老いた男が本当のことを話しているのか、またうまいことを言っているのか、最初はわからなかった。でも、授業が終わったとき、なぜかこの人の言葉を信じたいと思った。そう感じた理由は、今も正確にはわからない。ただ、目が嘘をついていなかった、とだけ言えるかもしれない」

カイは毎年、父の授業を傍聴しに行った。息子として、ではなく、IHBの職員として。そして、それ以上でも以下でもない何かとして。

授業の後、父と息子は決まって近くの食堂で飯を食った。よく話す方ではなかった。他愛のない話を少しして、飯を食って、帰る。

ある日、食堂を出たところで、父が空を見上げた。「今日も晴れだな」

「本日は晴天なり」とカイは言った。

父が笑った。久しぶりに見る、子供の頃と変わらない笑顔だった。

「そんなこと」と父が言った。

――ダヨ


後記

風は太陽が起こし、波はその風が起こす。それは自然の連鎖だが、人間の行いも同じように連鎖する。

善意が悪意を生むこともある。悪意のように見えたものが、善意の歪んだ形であることもある。

嘘には種類がある。他人を救う嘘と、他人を殺す嘘。そして――自分を守るための嘘と、自分を傷つけることを恐れない真実。

どれが正しいかを、常に正確に判断できる人間はいない。それでも、判断し続けなければならない。間違え続けながら、修正し続けながら。

月は今も、毎年3.8センチ遠ざかっている。誰も気にしなくても。誰も見ていなくても。宇宙は動いている。

そしてその宇宙の中の、ほんのわずかな隙間で、人間は今日も考えている。正しいことは何か、と。

本日は晴天なり。


――了――



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人類を幸せにする嘘は、
本当に人類を幸せにするのか。

月は毎年3.8センチ遠ざかる。
嘘もまた、静かに積み重なる。

父は世界を救おうとして、
世界を欺いた。

そして息子は、
その罪を裁くことになった。