神にも仏にもなれず

過去を変えると 今の僕 は消える。
それでも 救いたい人 がいる。



〜まえがき〜

人は人生の中で、何度か「もしも」を考えます。

あのとき違う言葉をかけていたら。
あの日、もう少しだけ一緒にいていたら。
あの人を止められていたら。

そんな問いに、明確な答えはありません。

本作は、少し未来の世界を舞台にしたSFです。
けれど本当に書きたかったのは未来技術ではなく、人が誰かを想う気持ちでした。

過去を変えることができたなら。
失った人を救うことができたなら。

そのとき私たちは、何を選ぶのでしょうか。

少し笑えて、少し切なくて、読み終えたあとに温かいお茶でも飲みたくなるような物語になっていれば幸いです。


プロローグ ──夢の受付

 西暦二〇五七年。人類が正式に「死後デジタル保存法」を施行してから十二年が経った。


 地球上のすべての人間は、生存中に「ソウルスキャン」を受けることが義務付けられており、脳波・記憶・口癖・くせ毛の生え方に至るまで、あらゆるデータが「クラウド天国(通称:お空サーバー)」に保存される。これにより、人は死んでも高解像度のホログラムとして子孫の前に現れ、笑い、話し、ときには文句を言い続けることができるようになった。

 ただし、ソウルスキャンを受けていない人間がいた。

 名前は、丸山健三郎。五十七歳。元・中学校美術教師。現在は無職。趣味は夢日記と昼寝。特技は「どうにかなる」と言いながらどうにかなってきたこと。

 健三郎がソウルスキャンを受けていない理由は単純だった。

「なんか、怖くないですか」

 役所の窓口で、彼は担当者に言った。

「怖い、とおっしゃいますと?」

「だって、死んだあとも映像で残るんでしょう。仏壇に白黒写真で飾られるより、ずっとリアルに。うちのじいちゃんは動かなかったですけど、僕が動いてしゃべってたら、孫は泣くより笑うんじゃないですかね。それがちょっと……恥ずかしい」

 担当者は書類から目を上げた。

「恥ずかしい」

「ええ」

 長い沈黙ののち、担当者はスタンプを「保留」に変えた。

 健三郎は帰宅して昼寝をした。そして、夢を見た。





第一章 神様(仮)の登場

 夢の中は、どこかの役所だった。

 壁は白く、床はリノリウムで、蛍光灯がじりじり鳴っている。カウンターの向こうには番号札の発券機があり、健三郎は気づけば整理券を持っていた。

「百四十七番の方、どうぞ」

 アナウンスが流れた。手元の券を見ると「一四七」と書いてある。

 健三郎は窓口に近づいた。

 カウンターの向こうに座っていたのは、白い服を着た中年男性だった。頭に後光のようなものが見えるが、よく見ると蛍光灯の反射だった。顔は穏やかで、どこかの定食屋のマスターに似ていた。

「お前、何か願いはあるか」

 神様(仮)は言った。言葉は敬語ではなかったが、威圧感はなかった。むしろ、健診の問診票を読み上げるような口調だった。

「えーと」と健三郎は言った。「健康だけあれば大丈夫です」

「健康」

「はい」

「……それだけか」

「贅沢は言いません」

 神様(仮)はメモ帳に何かを書いた。健三郎は首を伸ばして見ようとしたが、「見るな」と言われたので引っ込めた。

「では」と神様(仮)は続けた。「戻りたい過去はあるか」

 健三郎は考え込んだ。

 あの夏。あの別れ。あの朝。三十年前の美大の廊下。二十年前の職員室。十五年前の友人の葬式。

 いくつかの場面が浮かんでは消えた。

「……一瞬だけなら、覗いてみたい気持ちはあります」と彼はゆっくり言った。「でも、やり直したいかというと」

「やり直したくない?」

「結果、変わらないと思うので」

「なぜそう思う」

「僕、基本的に同じ間違いを繰り返すタイプなんですよ。学習能力が若干、こう……」

 健三郎は手のひらを水平に揺らした。神様(仮)は表情を変えなかった。

「ならばまた、あの苦労と痛みを味わうことになる」

「そうなんですよ。だったら今のままでいいなと思って」

 沈黙。

 神様(仮)は再びメモ帳に何かを書いた。今度は長く書いた。健三郎はまた首を伸ばしたが、また「見るな」と言われた。

「一つだけ聞いていいですか」と健三郎は言った。

「なんだ」

「先に逝った友達がいるんですけど」

 神様(仮)のペンが止まった。

「間に合う場面まで、戻してもらえますか。そいつらを、止めたい」

 今度は長い沈黙だった。蛍光灯が一回、大きくちらついた。

「……それは」と神様(仮)は言った。「過去の操作になる」

「でも、願いならかなえてくれるんじゃ」

「過去を操作すると、今が大きく変わる」

「変わっても構わないです。そいつらが生きてれば」

 神様(仮)はメモ帳を閉じた。

 それから、健三郎の目を初めてまっすぐに見た。その目は、穏やかで、悲しそうで、どこかの定食屋のマスターの目ではなかった。

「お前が今ここにいるのも、変わる」

 健三郎は黙った。

「お前が今まで生きてきたこと。会ってきた人。作ってきたもの。それも、変わる」

「…………」

「それでも、いいか」

 健三郎はしばらく天井を見た。リノリウムの床を見た。自分の手を見た。

「……考えます」と彼は言った。

 そこで目が覚めた。

 朝の六時。布団の中で、健三郎は三十分間、天井を見つめた。


第二章 お空サーバー株式会社・カスタマーサポート

 翌朝、健三郎はネットで「神様 夢 問い合わせ」と検索した。

 検索結果の三番目に、「お空サーバー株式会社・ドリームサポート窓口(β版)」というリンクが出てきた。

 クリックすると、雲の背景に天使のキャラクターが微笑むウェブサイトが開いた。天使は「ソラちゃん」という名前らしく、頭に輪っかとウサギ耳を同時につけており、デザインの統一感がなかった。

「夢に関するお問い合わせはこちらから承っております」

 フォームには名前・年齢・夢の内容・希望する対応・添付ファイル(任意)の欄があった。

 健三郎は「添付ファイル(任意)」の意味がよくわからなかったが、試しに夢日記のテキストファイルをアップロードした。

 三十秒後、自動返信が来た。



 丸山健三郎 様

 この度はお空サーバー株式会社・ドリームサポートにお問い合わせいただきありがとうございます。

 お客様の夢の内容を分析いたしました結果、「神様(仮)接触案件」と判定されました。弊社のエージェントが二十四時間以内にご連絡いたします。

 なお、神様(仮)接触案件は月に平均三万七千件発生しており、対応が混雑しております。お急ぎの場合はプレミアムプラン(月額二千八百円・税込)へのアップグレードをご検討ください。

 ソラちゃん(自動応答AIより)


 健三郎は「プレミアムプランとはなんだ」と思いながら、返信を待った。

 二時間後、電話が来た。

「丸山健三郎さんのお電話でしょうか。お空サーバー株式会社・ドリームサポート第三課の、松田と申します」

 声は若い女性だった。マニュアル読み上げ感が強かったが、どこか人間らしい間があった。

「はい」と健三郎は言った。

「このたびは弊社サービスにお問い合わせいただきありがとうございます。夢の内容を拝見しました。『神様(仮)より過去への帰還を打診され、保留にした』という内容でよろしかったでしょうか」

「よろしかったです」

「承知いたしました。ご希望の対応欄に『友人を救いたい』とお書きいただいておりますが、こちら、具体的にどのような……」

「亡くなった友達がいて、止めに行けたらと」

 しばらく沈黙があった。

「……少々お待ちください」

 保留音が流れた。「ふるさと」のオルゴール版だった。健三郎は台所に行って麦茶を注いだ。

 三分後、松田さんが戻ってきた。

「大変お待たせいたしました。上の者に確認しましたところ、当該案件は弊社の管轄外でございまして」

「管轄外」

「はい、過去への干渉につきましては、タイムライン管理局さんの所管となっております」

「タイムライン管理局」

「はい。別の省庁になります。大変恐縮でございますが、そちらへお問い合わせいただく形で……」

「その電話番号、教えてもらえますか」

 松田さんはためらいがちに番号を読み上げた。

「ただ、あの……」と彼女は少し声を落として言った。「タイムライン管理局さんは、あまりフレキシブルに対応してくれないと評判で」

「評判があるんですか」

「お客様からよくそういったお声を……。本当に大変申し訳ないんですが、私個人としては、応援しております」

 健三郎は少し笑った。

「ありがとうございます、松田さん」

「ご丁寧にありがとうございます。今後ともお空サーバーをよろしくお願いいたします」

 電話は切れた。

 健三郎はメモ帳にタイムライン管理局の番号を書いた。番号は〇一二〇で始まっていた。フリーダイヤルだった。こういうところだけ妙に親切だな、と思った。


第三章 タイムライン管理局・第七窓口

 タイムライン管理局は、東京都千代田区にあった。

 外観は普通の官庁ビルで、「法務省」と「財務省」の間に、ひっそりと「タイムライン管理局」の表札が出ていた。表札は古く、プレートの端が少し浮いていた。

 健三郎は来訪者証を受け取り、七階へ向かった。エレベーターの中に「タイムライン管理局は、過去・現在・未来にわたる時間の整合性を守る機関です。ご来訪の際は、改ざん申請書(様式第十七号)を事前にご用意ください」と書かれた紙が貼ってあった。紙は少し黄ばんでいた。

 七階、第七窓口。

 担当者は四十代の男性で、名札には「小野寺」と書いてあった。髪に白いものが混じり、目の下に薄いクマがあった。

「丸山さん、ですね。ご依頼の内容を拝見しました」

 小野寺は分厚いファイルを開いた。健三郎のフォームへの入力内容が、なぜかA4で二十枚ほどに拡張されていた。

「はい」

「『亡くなった友人を過去で救いたい』という件ですが」

「そうです」

 小野寺はページをめくった。付箋が大量に貼ってあった。

「何名様ですか」

「三人です」

「三名」

「一人は高校の友達で、一人は大学の先輩で、一人は同僚でした」

 小野寺は何かをパソコンに打ち込んだ。キーボードが古く、バチバチと大きな音を立てた。

「それぞれの時点に介入するとなると、三回の過去遡行が必要になります。一回あたりの審査期間が原則六ヶ月で……」

「一年半かかりますね」

「申し訳ありません。現在、大変混み合っておりまして」

「そんなに需要があるんですか、過去遡行」

「ええ。特に去年から急増しておりまして」小野寺は声を低くした。「SNSの影響かと思われます。みなさん、過去の投稿を消したがって」

「それで枠が埋まってるんですか」

「……正直に申しますと、その種の案件を優先するのは局内でも議論があります」

 健三郎は苦笑した。

「仮に審査が通ったとして」と健三郎は言った。「過去に行って止めることができた場合、今の僕はどうなりますか」

 小野寺は少し間を置いた。

「変わります」

「変わる、というのは」

「過去が変わると、現在の丸山さんの記憶・人間関係・生活環境など、すべてが再構成されます。今の丸山さんの『今』は、消えます」

「消える」

「上書きされる、という言い方もできますが」

「……今の僕が消えて、新しい僕になるということですか」

「厳密には、新しいタイムラインの丸山さんが存在し、今の丸山さんは存在しなかったことに」

 蛍光灯が、夢の中と同じように一回ちらついた。

「友達は生きてますか、その新しいタイムラインで」

「確率的には、介入が成功すれば、はい」

「確率的に」

「百パーセントの保証はできません。丸山さんの言葉を聞くかどうかは、その方々次第ですので」

 健三郎はしばらく黙った。

「申請、どうされますか」と小野寺は静かに聞いた。

「……少し、考えさせてください」

「もちろんです」小野寺は名刺を差し出した。「いつでもご連絡を」

 名刺の肩書きは「タイムライン管理局第七窓口・主任調整官」だった。読み解くのが少し大変な肩書きだったが、健三郎は素直に受け取った。


第四章 先立った者たちのこと

 家に帰って、健三郎は古いアルバムを出した。

 最初に逝ったのは、高校の同級生の岸田だった。三十一歳だった。岸田は美術部で、健三郎と二人で廊下に座って「将来なんになる?」という話を何時間もした。岸田は「漫画家」と言い、健三郎は「教師」と言い、岸田は「え、先生なの? 意外」と笑った。

 その後、岸田は本当に漫画を描き続け、一度だけ雑誌に読み切りが載ったが、それっきりだった。健三郎が連絡を取ろうとしたとき、岸田の母親が電話に出た。

 二番目は、大学の先輩の増田さんだった。四十二歳だった。増田さんはいつも飄々としていて、学食でカレーを食べながら「死ぬのは怖くないんだよね」と言っていた。健三郎は当時、それを哲学的な話だと思っていた。

 三番目は、同僚の北村だった。四十八歳だった。北村は音楽が好きで、職員室でいつもイヤホンをしながら採点していた。退職後に会ったとき、「なんかさ、もう疲れたよ」と言っていた。健三郎は「そうだよな」と言ってしまった。「そうだよな」ではなかった。もっと別の言葉を、もっと長い時間をかけて探すべきだった。

 三人とも、微笑んでいる写真がある。

 アルバムの中で、三人は微笑んでいる。動かない。白黒ではないが、動かない。

 健三郎は写真を閉じた。

 翌日の夢の中で、また神様(仮)が現れた。

「考えたか」

「考えました」と健三郎は言った。「申請しようと思います」

「そうか」

「でも、一個だけ聞いていいですか。新しいタイムラインの僕は、あの三人が生きてることを知ってますか」

 神様(仮)は少し首を傾けた。

「知っている。ただし、今の記憶は持っていない」

「今の記憶は消えるけど、三人が生きてる世界にいる、ということですか」

「そうだ」

「それは……幸せじゃないですか」

 神様(仮)は何も言わなかった。

「僕が幸せかどうかより、あいつらが生きてることのほうが大事です」

「お前は、消えることになる」

「でも、新しい僕はあの三人と一緒にいるんでしょう。なら、悪くない」

 神様(仮)はしばらく健三郎を見た。

「……お前は、妙なやつだな」

「よく言われます」

「お前のような人間が一番、扱いに困る」

「すみません」

「謝るな」

 神様(仮)はため息をついた。人間みたいなため息だった。


第五章 過去遡行、諸注意

 申請書類は、様式第十七号から様式第三十一号まで、合計十五枚あった。

 小野寺から郵送されてきた封筒を開けると、書類に加えて「過去遡行に関する注意事項(改訂第十一版)」という冊子も入っていた。冊子は六十四ページあり、フォントが小さかった。

 健三郎は最初の三ページを読んで、付箋を貼った。付箋には「わからない」と書いた。

 四ページ目に「過去への介入に際し、対象者(救済対象)が介入者(申請者)の説得を受け入れない場合、介入者はいかなる強制手段も用いてはならない」と書いてあった。

 つまり、話を聞いてもらえなかったら、それまでだということだ。

 健三郎は少し笑った。岸田は頑固だった。増田さんは話を聞いているようで聞いていなかった。北村は「大丈夫だよ」と言いながら大丈夫じゃないタイプだった。

 三人とも、すんなり話を聞く人間ではなかった。

 五ページ目に「介入者は、過去において自己の将来に関する情報を開示してはならない」とあった。つまり「未来からきた」と言ってはいけない。

 それは困る。どうやって説得するのか。

 健三郎はメモ帳を取り出した。

 「岸田へ。三十年後、お前の漫画を読んだ人間がいた。一人だけじゃなかったはずだ。続けてくれ」

 書いてから消した。開示しすぎだ。

 「岸田。飯食いに行こう」

 短すぎる。でも、もしかしたらこれくらいでいいかもしれない。

 増田さんへの言葉を考えた。増田さんは理屈が好きだった。「死は怖くない」と言うなら、「じゃあ生きていることも怖くないはずだ」と言えばよかったのか。

 北村へは。「そうだよな」と言った日のことを思い出した。あのとき、北村は少し目を細めた。肯定されたような顔だった。それが間違いだった。

 「そうじゃないよ、北村」

 その言葉だけは、はっきりしていた。

 書類を書き終えて、郵送した。受理通知は一週間後に来た。

「過去遡行審査・受理番号:TL-2057-00489」

 六ヶ月後に第一回ヒアリングの予定、と書いてあった。

 健三郎はカレンダーに印をつけた。半年後。長い。

 その夜の夢には、誰も来なかった。

 でも珍しく、ぐっすり眠れた。


第六章 未来へ飛んでみた話

 審査待ちの間、健三郎は暇だった。

 ある日、タイムライン管理局から追加書類が届いた。様式第三十二号から様式第四十号まで。健三郎はため息をついた。

 そして、封筒の端に小さな付箋が貼ってあることに気づいた。手書きで「未来観覧申請は別窓口でどうぞ(第九窓口)」と書いてあった。字は小野寺のものではなかった。松田さんの字に似ていた。

 健三郎は小野寺に電話した。

「未来観覧というのは、何ですか」

「ああ」小野寺は言った。「過去遡行ほど審査は厳しくないんです。未来を『観る』だけなら。干渉はできませんが」

「孫の世代を見ることはできますか」

 短い沈黙があった。

「技術的には、可能です。子孫がいらっしゃる場合」

「子孫、いないんですよ」

「……」

「子供もいないので」

「そうですか」

「でも、教え子はいます。三十年分の」

 また沈黙。今度は少し長かった。

「……それは、別途確認が必要になりますが」

「ダメですか」

「ダメではないかもしれません」

 一ヶ月後、健三郎は第九窓口に呼ばれた。

 担当者は若い男性で、名前は林田と言った。髪が少し長く、ランニングシューズを履いていた。タイムライン管理局の職員には見えなかったが、名札は本物だった。

「丸山さんの教え子、九百四十七名の二〇八〇年時点のデータが取得できました」

「九百四十七人も教えたんですか、僕」

「三十年分ですから」

 健三郎はしみじみした。

「全員見ますか」と林田は言った。

「全員は無理です。何人か、見せてもらえますか。元気そうな人を」

 林田はモニターを操作した。

 映像が流れた。

 一人目は、美術の授業で「絵なんか将来役に立たない」と言っていた男の子だった。二〇八〇年、彼は街の看板デザインをしていた。小さな事務所で、助手と二人で働いていた。笑っていた。

 二人目は、保健室登校が多かった女の子だった。今は地方の図書館で司書をしていた。眼鏡をかけて、本を棚に戻していた。静かで、落ち着いていた。

 三人目は、名前を思い出せない男の子だった。どんな生徒だったか、ほとんど記憶がない。その子は、大きな病院で何か医療的な仕事をしていた。忙しそうで、でも誰かに丁寧に説明していた。

「もういいです」と健三郎は言った。

「え? まだ九百四十四名います」

「もういいです」

 健三郎は目が少し滲んでいた。

「あいつら、生きてる」

「そうですね」と林田は静かに言った。

「大人になってる」

「はい」

「……それで十分です」

 その夜の夢には、神様(仮)が来た。

「見たか」

「見ました」

「どうだった」

「よかったです」と健三郎は言った。「僕のことなんか覚えてないかもしれないですけど。それでよかったです」

 神様(仮)は何も言わなかった。でも、少し、目が細くなった気がした。


第七章 その道で良し

 六ヶ月後のヒアリングが近づいたある日、健三郎はまた夢を見た。

 今度は役所ではなかった。

 どこかの海辺だった。夏で、光が白く、遠くで子供たちが走っていた。

 砂の上に、三人が座っていた。

 岸田と、増田さんと、北村だった。

 三人とも、若い頃の顔をしていた。岸田は高校生のままで、増田さんは大学生のままで、北村は初任給をもらった頃の顔をしていた。

 健三郎は近づいた。三人は気づかなかったが、向こうを向いて、海を見ていた。

 岸田が笑った。何かしゃべっていたが、波の音で聞こえなかった。増田さんが何か言い返した。北村が「それはないよ」という顔をした。

 三人とも、笑っていた。

 健三郎は砂の上に立ったまま、しばらく見ていた。

 手紙を出せたなら、何と書くだろう。

 その道で良し、とは書けないかもしれない。三人の道は、途中で終わってしまったから。でも、歩いた分だけは確かにあった。岸田の描いた漫画も、増田さんの笑い方も、北村の音楽も。

 「会えて良かった」と書こうと思った。

 三人がこちらを向いた。

 気のせいかもしれなかった。でも、三人は健三郎の方を見て、少し微笑んだような気がした。白黒ではなく、フルカラーで、動いて、笑った。

 それから波が来て、視界が白くなった。

 目が覚めると、朝の六時だった。

 健三郎は起き上がり、台所でお茶を入れた。湯気が上がった。

 タイムライン管理局への申請を、取り下げる気はなかった。あの三人を救えるなら、今の自分が消えても構わないという気持ちは変わっていなかった。

 でも、今日この朝は、今の自分でここにいた。お茶を飲んで、窓を開けて、鳥の声を聞いた。

 悪くない、と思った。

 本当に、悪くなかった。


エピローグ ──白黒にはならなかった

 西暦二〇五七年、秋。

 タイムライン管理局・第七窓口の小野寺は、珍しく早退した。

 机の上には、丸山健三郎の申請書類が残っていた。様式第十七号から第四十号まで、すべて丁寧に記入されていた。字は上手くないが、どの欄も誠実に埋まっていた。

 小野寺は廊下を歩きながら、自分の父親のことを考えた。父親は数年前に亡くなり、ソウルスキャンを受けていなかったので、仏壇の白黒写真の中にいた。動かなかった。しゃべらなかった。

 もし父親がデジタルホログラムで残っていたら、何か変わったのだろうか。

 わからなかった。

 第九窓口の林田は、その夜、丸山の教え子九百四十七名のデータをシャットダウンした。規則上、保存できるのは申請期間中だけだった。

 シャットダウンの前に、林田はもう一度だけモニターを見た。誰かが誰かに何かを教えていた。何の職業かはわからなかったが、丁寧な手つきだった。

 お空サーバー株式会社の松田は、定時に退社し、電車の中でスマホを見た。

 通知欄に「丸山健三郎様より評価が届きました」とあった。

 開くと、星が五つついていて、コメント欄に「松田さん、応援ありがとうございました。どうなるかまだわかりませんが、前に進みます」と書いてあった。

 松田は少し笑って、スマホをポケットにしまった。

 健三郎は、その夜もよく眠れた。

 夢は見なかった。

 でも、起きたとき、なんとなく、あの三人が夢に出てきた気がした。確かめようがないが、そういう感じがした。

 仏壇の白黒写真の中の先祖たちとは違い、この世代のものはデジタルで残る。動いて、しゃべって、神にも仏にもなれないまま、リアルに、消えずに、残っていく。

 それが良いことかどうか、健三郎にはまだわからなかった。

 でも今日も、お茶を飲んで、窓を開けて、生きていた。

 それで今日は、十分だった。

 そして、明日も、たぶん、十分なのだと思った。


(了)



 神様(仮)にどんな願いを言えるか、少し考えてみてほしい。


 健康だけで十分と言えるならば、それはかなり、良いことだと思う。



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〜あとがき〜


この物語は、「もしも過去を変えられたなら」という、誰もが一度は心のどこかで思う問いから始まりました。


あのとき別の言葉を選んでいれば。

もう少しだけ一緒にいられたなら。

何か一つでも違っていたなら。


そうした“仮定”は、ときに救いのようでありながら、同時に現在を否定してしまう危うさも持っています。


本作で描いた未来では、人は死後もデータとして残り、会うことも、話すこともできるようになっています。

それは一見すると、失われることのない優しい世界のように見えるかもしれません。


けれど実際には、「残ること」と「消えること」の境界は、これまで以上に曖昧になっているのではないか――そんな考えもありました。


誰かを救いたいという気持ちは、決して間違いではありません。

むしろ人間の中でもっとも誠実な衝動のひとつだと思います。


ただ、その願いのために「今ここにいる自分」が消えてしまうとしたら、それでも同じ選択をできるのか。


健三郎という人物は、その問いの前で何度も立ち止まりながら、それでも日常へ戻っていきました。

劇的な英雄ではなく、少し迷いながら、それでもお茶を飲み、窓を開けて生きる人間として。


この結末が「正しい答え」なのかどうかは、書いた今でもわかりません。


ただひとつ確かなのは、誰かを想った時間そのものは、過去にも未来にも上書きされずに残るのではないか、ということです。


もしこの物語を読み終えたあと、少しだけ静かな気持ちになったり、ふと誰かのことを思い出したりしていただけたなら、とても嬉しく思います。