キミをのせて
―― 一枚の絵の物語 ――
プロローグ スタートライン
朝の空気は、いつもと同じように冷たかった。
スタートラインに立つたびに、僕は同じことを思う。なぜ走るのか、と。理由を問うのではない。問わずにはいられない何かが、足の裏から這い上がってくるのだ。アスファルトの感触。靴底を通して伝わる地面の硬さ。その先に何があるかを、僕はもう長いこと知らないふりをして走り続けている。
合図と共に、一斉に走り出す。
誰もが同じスタートラインに立ち、誰もが異なる場所へ向かう。それがレースというものだ。いや、レースだけではない。人の一生というものも、こんなふうに始まるのかもしれない。泣き声という号砲と共に飛び出して、どこへ向かうかも分からないまま、ただ走る。
僕は今日も走る。
先頭から三番目。悪くない位置だと、頭のどこかが囁く。でも振り返れば、大勢が後ろに迫っている。息づかいが聞こえるようだ。踏む音が、重なり合って地面を揺らすようだ。
追われながら、追う。
それが僕の人生だった、とは言いたくない。でも否定もできない。
第一章 道のかたち
コースは変わる。
のぼり坂がある。足に乳酸が溜まり、肺が悲鳴を上げ始める頃、頂上が見えてくる。見えてくるから、もう少し、もう少しと言い聞かせて足を動かす。頂上に立てば、今度は下り坂だ。重力に背中を押され、勝手に速くなる。スピードは上がるが、膝が笑い始める。上りよりも下りのほうが難しいことを、走り始めた頃は知らなかった。
トンネルがある。
光が消える。自分の足音だけが壁に反響して、何倍にも増えたような錯覚を覚える。まるで孤独が音を持ったみたいだ。暗闇の中でも足は動く。目が見えなくても、体は覚えている。ここを何度走ったか分からないくらい走ったから、体が道を知っている。
川がある。
踏み切るほんの一瞬、両足が宙に浮く。水面が光る。飛び越えた後の着地の衝撃が、膝から腰まで突き上げる。そんな小さな痛みを積み重ねながら、体は前に進む。
まるで障害物競走だ、と誰かが言った。
誰かとは、キミのことだった。
あれはいつのことだったか。春の終わりか、夏の始まりか。河川敷を並んで走った日のことを、今でも覚えている。キミは僕より少し後ろを走っていた。走るのが好きではないと言いながら、それでも走り続けた。息を切らしながら、笑いながら。
「人生みたいね」
キミはそう言った。
「障害物競走みたいに、色々なものが道に出てくる。跳び越えても跳び越えても、また次の障害が来る」
「それは嫌だな」と僕は言った。
「嫌じゃないわ」とキミは言った。「だって飽きないもの」
その言葉の意味を、僕はあの頃、半分しか理解できなかった。
第二章 キミのこと
キミと出会ったのは、二十代の始まりだった。
学生の終わりと社会の始まりの間の、あの不思議な宙吊りの時間。何者かになろうとして、何者にもなれていない時間。みんながそれぞれの焦りを抱えながら、それを見せないように笑っていた時代。
キミは笑うのが上手だった。
いや、正確には、キミは泣くのが上手だった。笑顔の中に、涙の気配が潜んでいた。それに気づいたのは、ずっと後になってからだ。あの頃の僕には、キミの笑顔しか見えていなかった。
初めて話したのは、どこだったか。
記憶は不思議なもので、大切な瞬間ほど細部が曖昧になっていく。会話の内容は覚えていない。でもキミの声の質感は、今でも耳の奥に残っている。少し低めで、でも決して暗くない声。雨の日の午後みたいな声だった。
何度か話すうちに、僕はキミが好きになった。
好きになった、というのも正確ではないかもしれない。気づいたら、キミのことを考えていた。キミが笑うと、世界が少し明るくなった気がした。キミが悲しいと、理由も分からないのに胸が痛かった。
それが恋だとは、しばらく気づかなかった。
気づいたときには、もう遅かった。
遅かった、というのも正確ではない。遅かったわけではなく、タイミングが、ずれていた。キミには別の誰かがいた。そして僕には、それを言い出す勇気がなかった。
いつか言えるだろう、と思っていた。
いつかは、来なかった。
キミは遠くへ行った。遠くというのは、地理的な意味だけではない。キミの人生が、僕の人生とは別の方向へ動いていった。当たり前のことだ。人はそれぞれ自分の道を走る。並んで走れる距離には、限りがある。
だから僕は走り続けた。
前を向いて、ただ走り続けた。
第三章 補水場
先頭との差は縮まらない。
縮まらないが、離れもしない。そういう時間が続く。抜こうと思えば抜けるかもしれない。でも何かが躊躇わせる。先頭に立つことへの欲望と、先頭に立つことへの恐れが、同じくらいの重さで共存している。
後ろには大勢いる。
油断すれば抜かれる。抜かれてもすぐに抜き返す。その繰り返しで、体力を使う。体力だけではなく、何か別のものも使っている。気力というか、集中力というか、人生にはそういう有限のものが確かにあって、走るたびに少しずつ減っていく。
疲れてきた。
それを認めるのに、長い時間がかかった。疲れを認めることは弱さではないと知識では知っていても、体はまだ疲れを知らないふりをしようとしていた。
補水場が見えた。
レースの途中にある、あの小さなテーブル。ボトルが並んでいる。受け取るために一瞬ペースを落とす。それがもどかしいと感じる走者もいるが、僕はこの瞬間が好きだった。立ち止まらずに補水できる。前に進みながら、何かを受け取れる。
ボトルを手に入れた。
喉に流し込む。冷たい水が食道を伝って、胃に落ちていく。体中に広がっていく感覚。乾いていたものが満たされていく感覚。
まだ大丈夫だ、と思った。
その瞬間に、転んだ。
派手に転んだわけではない。石ころに足を取られて、バランスを崩して、膝と手のひらを地面についた。たったそれだけのことだ。でも走る体にとって、転倒は予想外のことだ。体は混乱する。筋肉が緊張する。頭が一瞬、真っ白になる。
痛みがある。
膝が擦れた。手のひらが切れた。血が滲んでいる。痛みは確かにあるが、骨は折れていない。続けられる程度の痛みだ。
地面に膝をついたまま、しばらくそこにいた。
大勢に抜かれていく。足音が、脇を通り過ぎていく。誰も止まらない。当然だ。みんな自分のレースを走っている。止まる理由がない。
さて、どうする。
という問いが、頭の中に浮かんだ。
第四章 浮遊
立ち上がった。
足は動く。痛みはあるが、動く。前に向かって、動く。
大勢に抜かれたが、抜き返せる。まだ先頭は見えている。そう思った瞬間に、体が浮いた。
最初は錯覚だと思った。疲労が見せる幻かと思った。でも足が地面を離れていた。確かに、離れていた。
重力に反発するように、体が上へ向かう。
翼はない。飛ぶための道具は何もない。それなのに、浮いている。風が体の下を通り過ぎる。地面が遠くなっていく。走者たちの頭が、小さくなっていく。
怖い、とは思わなかった。
不思議なことに、恐怖はなかった。ただ、戸惑いがあった。これをどうコントロールすればいいのか、分からなかった。風が来るたびに、あちらこちらへ流された。立ち往生、というのは空でもできる。
上空から見ると、レースの全体が見えた。
先頭を走る者の後ろに、長い長い列が続いている。みんな一生懸命だ。みんな自分のために走っている。僕もその列の中にいたはずなのに、今は外から見ている。
これはお迎えか、と思った。
笑えない冗談だが、本当にそう思った。死ぬとき、人は体から浮き上がると聞いたことがある。これがそういうことなのか。しかしあまりにも穏やかすぎた。痛みもなく、苦しみもなく、ただ浮いている。
上空を見た。
そこに、先立った人たちがいた。
顔が分かるほど鮮明ではない。でも誰なのかは分かった。もう会えないと思っていた人たちが、そこにいた。柔らかく微笑んでいた。手を振っていた。
そうか、いよいよか。
口に出すと、声が返ってきた。
まあだだよ。
子どもの頃に遊んだかくれんぼの掛け声だった。まだ見つけに来るな、まだ終わりにするな、という意味の言葉。
もういいかい?
また聞いてみる。
まあだだよ。
同じ答えが返ってくる。声の方向を探してみるが、見つからない。
第五章 声
そろそろ疲れたよ、と言ってみた。
弱音だった。走り始めてから、初めて吐いた弱音かもしれなかった。誰かに聞かせるつもりで言ったわけではない。ただ、言わずにはいられなかった。
それはウソ、と声がした。
笑い声だった。責めるような声ではない。ただ、見透かされているような声だった。
ウソじゃない、と反論したかったが、できなかった。確かにウソかもしれなかった。疲れてはいる。でも走りたくないわけではない。もう終わりにしたいわけでも、ない。
不思議な声だった。
どこかで聞いたことのある声。記憶の中のどこかに、確かにある声。でも思い出せない。名前が出てこない。
まさか、と思った。
まさかキミも、そちら側にいるのか。
上空の微笑む顔の中に、キミはいなかった。でもこの声は、キミの声に似ていた。いや、似ているのではなく、キミの声だった。少し低めで、でも決して暗くない声。雨の日の午後みたいな声。
キミかい?
問いかけると、答えが返ってきた。
そうよ。
短い答えだった。でもその二文字に、長い時間が詰まっていた。
どうして?
どうしてここにいるのか。どうして声をかけてくるのか。どうして今さら。そのどれを聞きたかったのか、自分でも分からなかった。
うふふ、と笑い声がした。
答えではなかった。でもそれが答えだったのかもしれない。
もういいかい? と、もう一度言った。
まあだだよ、と返ってきた。
そんなやり取りを繰り返しながら、気づいたら目が覚めていた。
第六章 朝
夢だった。
当たり前のことを確認するように、天井を見た。いつもの天井。いつもの朝の光。時計の音。遠くで鳥が鳴いている。
でも今朝は、何かが違った。
キミの姿が、いつもより鮮明だった。
夢の中のキミは、いつも霧の向こうにいる。見えているようで、見えていない。輪郭だけがある。声だけが届く。でも今朝は、はっきりと見えた。
顔が分かった。目の形が分かった。笑うときの表情が分かった。
まさか、と思った。
まさかキミが本当に逝ってしまったのか。だから今夜、はっきりと見えたのか。それとも、これは単なる夢の中の鮮明さで、意味などないのか。
届かない、ということは分かっていた。
キミはもう、僕の届く場所にはいない。叶わなかった恋は、時間と共に遠くなった。遠くなったのに、消えなかった。人の心とは不思議なもので、忘れたと思っていたものが、ある日突然、鮮明に戻ってくる。
布団の中でしばらく天井を見ていた。
やがて起き上がり、顔を洗い、コーヒーを淹れた。窓の外では朝が始まっていた。誰かが犬を連れて歩いている。自転車が通り過ぎる。世界はいつものように動いている。
夢の中のキミは、どこへ行ったのだろう。
第七章 押入れの絵
先日、部屋の片付けをした。
片付けというのは奇妙な作業だ。物を整理しているつもりが、記憶を整理することになる。引き出しの奥から出てきた古い写真。使わなくなった道具。誰かからもらったが、何だったかも忘れたもの。それぞれに物語がある。
押入れを開けた。
普段は開けない、奥のほうの押入れだ。何年分かの「仕舞ったもの」が積み重なっていた。段ボール箱。布に包まれた何か。
布を外すと、絵が出てきた。
縦長の絵だった。人物画だった。
見た瞬間に、息を飲んだ。
キミに、似ていた。
正確に言えば、キミではない。別の誰かを描いたものだろう。でもその眼差しの柔らかさ、口元の少しだけ持ち上がった形、どこか遠くを見ているような表情が、キミを思わせた。
この絵のことを、思い出した。
数年前、古道具屋を歩いていたときに見つけた。誰が描いたのかも分からない。値段は安くなかったが、これは、と思って買い求めた。飾ろうと思っていたのに、適当な場所が見つからなかった。見つからないまま、仕舞ってしまった。そして忘れた。
忘れていた。
ちゃんと仕舞っていたのに、忘れていた。大切なものほど、そうなる。大切だから仕舞う。仕舞うから見えなくなる。見えなくなるから、忘れる。
でも消えてはいなかった。
押入れの奥で、ずっとそこにあった。
第八章 飾る場所
絵を持って、部屋を歩いた。
どこに飾ろうか。
玄関の壁。リビングの窓際。本棚の上。それぞれに当ててみると、どれも少し違う。絵には、それに合った場所がある。
しばらくして、決まった。
廊下の、ちょうど光が斜めに差し込む壁だ。朝と夕方で光の色が変わる場所。絵を当ててみると、しっくりきた。
釘を打った。
絵を掛けた。
一歩下がって見た。
不思議なことに、最初からそこにあったような気がした。ずっとそこにあり続けたのに、僕が気づいていなかっただけのような気がした。
キミの面影を持つ絵が、廊下に立っている。
朝、走りに出るときに前を通る。夜、帰ってきたときに前を通る。毎日、その絵の前を通り過ぎる。
キミに似た眼差しが、どこか遠くを見ている。
その視線の先に何があるのか、絵は教えてくれない。でもその眼差しが、何かを知っているように見える。まだだよ、とでも言うように。まあだだよ、とでも言うように。
第九章 レースの続き
今日も走る。
スタートラインは、毎朝ある。目が覚めるたびに、新しいスタートラインに立っている。昨日の続きを走るのか、新しいレースを走るのか、実はたいした違いはない。走ることに変わりはない。
先頭はまだ見えている。
縮まらないが、離れてもいない。それでいい、とは思わない。でも焦らなくてもいい、とは思う。焦りと諦めの間のどこかに、今の自分がいる。
後ろにも大勢いる。
それも変わらない。追われることと追うことは、たぶん生きている限り続く。
転んでも起きる。
起きたら、また走る。
補水場で水をもらったら、また走る。
空を浮遊することがあっても、やがて地面に戻ってくる。戻ってきたら、また走る。
走りながら、時々キミのことを思う。
叶わなかった恋は、叶わなかったまま、僕の中にある。それは悲しいことかもしれないし、そうでないかもしれない。悲しみは、時間をかけて別の何かに変わる。何に変わるかは、生きてみないと分からない。
廊下の絵が、今日も遠くを見ている。
まあだだよ、と言っているようで、実はそうではないのかもしれない。そろそろいいよ、と言っているのかもしれない。次へ進んでいいよ、と。前を向いて走っていいよ、と。
どちらにせよ、走ることに変わりはない。
今朝も空気は冷たかった。スタートラインに立つ。合図を待つ。
キミの面影を、胸の中にのせて。
エピローグ キミをのせて
走ることは、問いを持ち続けることだ。
先が見えないから走る。ゴールが分からないから走る。分かってしまったら、もう走る必要がなくなるかもしれない。だから人生はいつも霧の中にあって、その霧を切り裂くように、足を踏み出す。
キミは今、どこにいる。
夢の中では、まあだだよ、と言う。押入れから出てきた絵の中では、遠くを見ている。朝の空気の中では、声が聞こえた気がすることがある。
届かない、ということと、いない、ということは違う。
届かない場所にいても、確かにいる。いなくなったように見えても、何かの形で残っている。人は誰かの中に生き続ける。声の記憶として、眼差しの記憶として、叶わなかった何かの記憶として。
僕はまだ走っている。
転んでも起きる。疲れても補水する。空に浮いても地面に戻る。まあだだよと言われる限り、走り続ける。
廊下に絵を飾った。
毎日その前を通る。
キミに似た眼差しに見送られながら、今日もスタートラインに立つ。
胸の中に、キミをのせて。
走る。
あとがきに代えて
スタートラインに立つ者の話。走り続ける者の話。転んでも起き上がる者の話。そして、叶わなかった恋を胸に抱えたまま、それでも前へ向かって走り続ける者の話。
キミはいつも、どこかにいる。
押入れの奥にいる。夢の中にいる。朝の空気の中にいる。廊下に飾られた絵の眼差しの中にいる。
まあだだよ、と言いながら。
その声が聞こえる限り、走り続けよう。
キミをのせて、重力の向こうへ
――まだ見ぬ空の障壁画――
〜まえがき〜
人生には、なぜ今になって思い出すのだろうという人がいる。
若い頃、言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
そして、もう二度と会えないと知っている人。
それでも不思議なことに、その人たちは人生の折り返し地点を過ぎた頃になって、ふいに現れる。
夢の中で。
風景の中で。
あるいは一枚の絵の中で。
この物語は、そんな再会の話である。
けれど、死者を追いかける物語ではない。
生きている者が、もう一度走り出すための物語である。
第一幕
押し入れの奥の霧
休日の午後だった。
カズは何年も手を付けていなかった押し入れの整理をしていた。
子供が独立し、部屋が少し広くなった。
人生もまた、どこか余白が増えたような気がしていた。
段ボール箱を一つずつ取り出していると、奥から埃をかぶった細長い包みが出てきた。
新聞紙にくるまれた古い額縁だった。
「ああ……これか」
懐かしさと戸惑いが同時に胸をよぎる。
十数年前、旅先の小さな古道具屋で衝動買いした絵だった。
理由は一つ。
描かれていた女性が、かつて好きだった人にあまりにも似ていたからだ。
少し伏せた横顔。
風に揺れる髪。
どこか遠くを見る優しい目。
名前も知らない誰かが描いた絵だったが、その姿は若き日のキミそのものだった。
結局、飾ることもなく押し入れへしまい込んでいた。
カズは額縁の埃を払い、部屋の壁際へ立てかけた。
夕暮れの光が差し込み、絵の中の彼女が微笑んだように見えた。
「今さらなぁ……」
そう呟き、カズは布団へ入った。
その夜だった。
突然、胸が苦しくなった。
激しく息が上がる。
身体中から汗が吹き出す。
まるで全力疾走した直後のようだった。
目を開ける。
だがそこは寝室ではなかった。
見知らぬ広大な平原。
果てしなく続くスタートライン。
そして無数の人影。
誰もが前だけを見つめている。
何かを待っている。
次の瞬間。
轟音のような号砲が鳴り響いた。
⸻
第二幕
エンドレス・レース
人々が一斉に走り出した。
訳も分からぬまま、カズも走った。
立ち止まるという選択肢はなかった。
走らなければ置いていかれる。
置いていかれることが恐ろしかった。
急な上り坂。
深い谷。
終わりの見えないトンネル。
荒れ狂う川。
人生そのものを地形に変えたようなコースだった。
若者も老人もいる。
成功者のような顔もあれば、敗北者のような顔もある。
だが皆、必死だった。
誰もが何かを追いかけている。
何を追いかけているのか自分でも分からないまま。
気づけばカズは先頭集団にいた。
三番手。
息は切れていたが、不思議と脚は動いた。
抜かれたくない。
負けたくない。
そんな感情だけが身体を前へ運ぶ。
補水所が現れた。
ボトルを受け取る。
水を飲んだ瞬間だった。
足元がもつれた。
派手に転倒した。
身体が地面へ叩きつけられる。
激痛。
そして次々と追い抜かれていく人々。
何十人。
何百人。
カズは泥まみれになったまま動けなかった。
「もういいか……」
初めてそんな言葉が頭をよぎった。
若い頃のようにはいかない。
頑張っても追いつけない。
疲れた。
本当に疲れた。
だがその時。
風のような声が聞こえた。
懐かしい声だった。
カズはゆっくり立ち上がった。
泥を払った。
そして再び走り出した。
⸻
第三幕
重力の向こうへ
先頭集団の背中が再び見え始めた頃だった。
突然。
足が地面から離れた。
ふわり。
身体が浮き上がる。
重力が消えた。
カズは驚いた。
手足を動かしてもどうにもならない。
身体はゆっくりと空へ向かって昇っていく。
雲を抜ける。
風を抜ける。
地上のレースが小さく見える。
その時だった。
見覚えのある顔が現れた。
学生時代の友人。
職場の同僚。
先に旅立った親しい仲間たち。
みんな笑っていた。
酒場で再会したような顔で。
「よう!」
「久しぶり!」
「元気だったか?」
誰も悲しそうではなかった。
むしろ楽しそうだった。
カズは覚悟した。
「ああ……とうとう来たのか」
寿命。
終着点。
人生のゴール。
だがその時。
雲の向こうから笑い声が聞こえた。
いたずらっぽい。
懐かしい。
何十年経っても忘れられない声。
キミだった。
⸻
第四幕
もういいかい、まあだだよ
「久しぶり」
姿は見えない。
けれど確かにそこにいる。
カズは空を見上げた。
「そっちへ行ってもいいか?」
しばらく沈黙があった。
そして。
くすり。
と笑う声。
「まあだだよ」
昔と同じだった。
からかうような口調。
少し意地悪で。
少し優しい。
「疲れたんだ」
カズは言った。
「もう十分走ったよ」
「うそ」
即答だった。
「いや、本当だ」
「ううん。うそ」
キミは笑った。
「だってあなた、まだやりたいこといっぱいあるじゃない」
カズは黙った。
「ないよ」
「ある」
「ない」
「ある」
子供の喧嘩みたいなやり取りだった。
だが彼女は続けた。
「本当に終わった人はね、自分が終わったなんて言わないの」
カズは返事ができなかった。
「あなた、まだ悔しいんでしょ?」
図星だった。
「まだ見たい景色があるんでしょ?」
図星だった。
「まだ誰かを笑わせたいんでしょ?」
図星だった。
キミの声は柔らかかった。
「だったら走れる」
「でも歳だよ」
「歳なんて関係ない」
「体力もない」
「だったらゆっくり走ればいい」
「もう勝てない」
「誰に?」
カズは答えられなかった。
キミは静かに言った。
「人生は競争じゃないよ」
遠くで光が揺れた。
「あなた、自分で勝手にレースにしてただけ」
カズは思わず笑った。
その通りだった。
誰も追い立ててなどいなかった。
自分が勝手に焦り、勝手に比べ、勝手に苦しんでいたのだ。
「もういいかい?」
カズはもう一度聞いた。
すると彼女は少しだけ優しく笑った。
そして答えた。
「まあだだよ」
⸻
第五幕
飾られた未完のキャンバス
眩しい光が広がった。
世界が白く染まる。
そして。
カズは自分のベッドの上で目を覚ました。
朝だった。
窓から差し込む光が部屋を照らしている。
夢だったのか。
そう思った。
だが空気が違った。
朝霧のような優しい透明感が部屋に満ちていた。
壁際にはあの絵が立てかけられている。
カズはゆっくり近づいた。
絵の中の彼女を見つめる。
不思議だった。
これまで曖昧だった記憶が、今は鮮明だった。
笑った顔。
歩く姿。
声。
風の匂い。
すべてが戻ってきていた。
手は届かなかった。
想いも伝えられなかった。
それでもいい。
彼女は今も自分の人生のどこかにいる。
前へ進めと背中を押しながら。
カズは微笑んだ。
工具箱を持ってくる。
壁にフックを取り付ける。
トントン。
トントン。
そして絵を掛けた。
リビングの一番光が差し込む場所だった。
額縁を整えた時、裏側に小さな文字を見つけた。
今まで気づかなかった文字。
鉛筆で薄く書かれていた。
たった一言。
『まだだよ』
カズはしばらく見つめた。
やがて声を出して笑った。
誰が書いたのかは分からない。
説明もない。
けれど、それで十分だった。
カズは振り返る。
玄関へ向かう。
ドアノブを握る。
そして外へ出た。
朝日が世界を照らしている。
重力は戻っていた。
だが心は少しだけ軽かった。
人生というレースは終わっていない。
ゴールはまだ見えない。
それでもいい。
もう走る理由を知っているから。
キミをのせて。
重力の向こうへ。
【完】
〜あとがき〜
人は人生のどこかで、「もう十分だ」と思う瞬間に出会います。
若い頃ほど走れなくなったと感じたり、失ったものばかりを数えたり、叶わなかった夢を思い出したり。
けれど不思議なことに、本当に終わるその日まで、人は完全には走ることをやめられません。
この物語のキミは、初恋の人かもしれません。
先に旅立った誰かかもしれません。
あるいは、かつて夢を追いかけていた若い頃の自分自身なのかもしれません。
もし読後に、もう一度だけ何かを始めてみようと思っていただけたなら。
この物語は、きっと役目を果たせたのだと思います。



