夢渡り株式会社
~あるいは、眠れない男の現世と来世における苦難の記録~
著:田中ポンコツ三郎(推定)
プロローグ 眠れない夜に
宇宙には約二兆個の銀河があり、それぞれに数千億の星が存在するという。
そのうちの一つ、天の川銀河の外れにある太陽系第三惑星の、さらにその表面積のほんの一部を占める日本列島の、東京都某区のボロアパート「サンハイツ武蔵野荘」の、六畳一間の部屋の、煎餅布団の上で、田中三郎は今夜も眠れずにいた。
三十八歳。独身。無職(自称・発明家)。
彼の部屋には、いくつかの特徴があった。まず、天井まで積み上げられたジャンク部品の山。次に、どれひとつとして実用に耐えない発明品の残骸たち。そして壁には、「特許申請中」と書かれた紙が十七枚貼ってあったが、うち十六枚は「拒絶査定通知書」の封筒に封印されており、残り一枚はまだ申請すらされていなかった。
彼のこれまでの発明を列挙すると——
「自動猫じゃらし機・改」(猫に嫌われる周波数の音を発することが判明、ご近所から苦情)
「節電型電気毛布」(発熱しない)
「全自動名刺整理システム」(名刺を全部シュレッダーにかける)
「雨の日でも濡れないマスク」(マスクだけ濡れない。顔は濡れる)
彼の銀行口座残高は、今月七日の時点で、四千八百二十二円だった。今日は二十三日である。
三郎は布団の上で大の字になり、天井のシミを数えながら(十七個)、なぜ自分はいつも眠れないのかを考えた。
理由は明白だった。
夢を見たかったからだ。
特定の夢を。特定の人に会える夢を。
その人の名前は、三郎にはもうわからなかった。顔もぼんやりとしか思い出せない。ただ、笑うと目の端に小さなしわができて、それがひどく好ましかったことだけ、なぜか鮮明に覚えていた。
「夢は通い道」という言葉が、どこかから聞こえてくる気がした。
——会いたい人には、夢の中で会える。
三郎はむっくりと起き上がり、ジャンク部品の山を見渡した。
「作るか」
こうして、世界を変えかねない(あるいは変えなかった)発明が始まった。
第一章 ドリーム・ナビゲーター、誕生す
一
三郎が「夢渡り装置・試作一号機」を完成させるまで、三週間かかった。
設計の基本コンセプトは単純だった。「眠りを深くして、特定の夢を見やすくする装置」である。原理的には、低周波電磁波で脳のデルタ波を誘導し、潜在記憶の特定ページを開きやすくする、というものだ。
「原理的には」というところが重要だ。
三郎に神経科学の知識はなかった。電磁工学の知識もほぼなかった。あったのは、不眠と、会いたいという気持ちと、それから謎の確信——「自分は天才かもしれない」——だけだった。
完成した一号機は、ヘルメット型だった。
スキーのヘルメットをベースに、そこにラジコン用モーターと、分解した電子レンジの部品と、百均で買ったLEDテープと、なぜか鍋の取っ手(用途不明)が取り付けられていた。電源は単三電池六本。コードが三本、飛び出ていた(うち二本は何にもつながっていなかったが、三郎はそのことに気づかなかった)。
三郎は一号機を頭にかぶり、スイッチを入れた。
LEDが光った。モーターがうなった。
五秒後、何かが爆ぜる音がして、部屋が消臭剤のような匂いに満たされた。
三郎は気を失った。
二
翌朝、三郎は自分が床で倒れていることに気づいた。
頭の上には、黒く焦げたヘルメットがあった。鍋の取っ手だけが、なぜか無事だった。
だが、問題はそこではなかった。
三郎は夢を見ていた。正確には——夢の中にいた。
夢の中で彼は、見知らぬ喫茶店に座っていた。窓の外は夕暮れで、赤とオレンジの光が店内を満たしていた。テーブルの向かいには誰かが座っていたが、目が覚める瞬間に、その人の輪郭がすうっと消えてしまった。
残ったのは、コーヒーの香りと、笑い声の残響と——涙の感触だった。
三郎は焦げたヘルメットを抱きしめた。
「これだ」
彼は確信した。方向性は間違っていない。ただ出力が強すぎるか、何かが逆になっているか、あるいは電池の向きが一本反対だったかのどれかだ(後で確認すると、電池は全部逆向きだった)。
三
試作二号機は三日後に完成した。今度は電池の向きを正しくし、爆発しそうな部品を半分取り外し、鍋の取っ手は「お守り」として残した。
結果:動かなかった。
試作三号機:煙が出た。
試作四号機:近所のラジオが全部同じ周波数になった(NHKラジオ第一・東京FM・ラジオNIKKEI、全部同じ田中三郎の鼻歌を流し始めた。苦情三件)。
試作五号機:三郎ではなく大家の山田さん(七十二歳)が奇妙な夢を見たと翌朝苦情を言いに来た(「若い頃の恋人が出てきた、どうしてくれる」と言われた。三郎は全力で謝った)。
試作六号機で、ようやく安定した。電源はモバイルバッテリー。本体はもはやヘルメット型ではなく、ネックバンドに小型の発振器を取り付けたコンパクトな設計。LEDは省略した(光ると眠れないことに気づいたため)。そして鍋の取っ手は、なぜかまだついていた。
初めて試した夜、三郎は夢を見た。先週より、ずっと鮮明に。
彼女——あるいは彼、あるいは誰か——は、今度はきちんと座っていた。テーブルに肘をついて、三郎のことを見ていた。笑っていた。目の端に、あのしわがあった。
「久しぶり」と、声が聞こえた気がした。
三郎は目が覚めた後、三十分動けなかった。
四
装置は機能する。これを確信した翌週、三郎は特許申請書を書こうとして、やめた。
問題は、これを自分だけのために使うのはもったいない、という考えが頭に浮かんだことだった。世の中には、夢で会いたい人がいる人は大勢いるはずだ。死別した家族。遠く離れた恋人。縁が切れてしまった友人。あるいは、もっと曖昧な存在——前世の記憶、来世の予感、夢の中にしかいない誰か。
三郎は、六畳一間の床に正座し、レポート用紙に「事業計画書」と書いた。
それが——「夢渡り株式会社」の始まりだった。
あとになって振り返ったとき、三郎は思うはずだった。「あの瞬間に、やめておけば良かった」と。
だが今の彼にそれはわからない。ひとが自分の人生を変える決断をするとき、だいたいそういうものだ。
第二章 資金調達という名の地獄めぐり
一
三郎は翌朝、スーツを着た。正確には、スーツらしきものを着た。就職活動のときに買った安物で、七年間クローゼットに眠っていたため、かすかにカビの香りがした。アイロンをかけようとしたが、アイロン台が見つからなかったため、フライパンで代用した(失敗した)。
目的地は、近所の「さくら銀行・武蔵野支店」だった。
窓口に座った中年の行員——名札には「石田」とあった——は、三郎の事業計画書を受け取り、一分間眺め、それから静かに返却した。
「こちらの事業の内容なんですが」と石田は言った。「夢の中に入れる装置を販売する、ということですね?」
「正確には、装置のレンタルと、夢渡りのナビゲーションサービスのセット販売です」と三郎は言った。
「ナビゲーション、とは?」
「利用者が夢の中で迷子にならないように、会いたい人に確実に会えるよう、装置側から夢の方向をある程度制御するサービスです」
「制御できるんですか?」
三郎は少し間を置いた。「現在、精度は約十七パーセントです」
石田は咳払いをした。「十七パーセント、ということは……」
「八十三パーセントの確率で、まったく別の夢を見ます」
沈黙。
「過去の実績としては」と三郎は続けた。「イカに追いかけられる夢、給食の時間に裸で出席している夢、なぜかカバの背中に乗って砂漠を渡る夢、などが報告されています」
「自分の実験での話ですよね?」
「そうです」
石田はネクタイを整えた。「融資は、難しいと思います」
二
五行の銀行を回り、三件のクラウドファンディングプラットフォームに応募し、二件のエンジェル投資家説明会に出席した。結果は全滅だった。
クラウドファンディングは、審査の段階で「本サービスはいわゆる〝疑似科学〟に該当する可能性があります」という理由で弾かれた。投資家説明会では、一人目の投資家(五十代、眼光の鋭い男性)が三分で席を立ち、二人目の投資家(三十代、やたらとスマホを見ていた女性)は最後まで聞いてくれたが、「面白いとは思います、でも私の専門は食品テックなので」と言って去った。
三郎はファミレスのドリンクバーの前に座り、コーラを三杯飲んで、考えた。金がない。技術はある(かもしれない)。需要はある(はずだ)。あとは何が足りないか。
三郎の目の前で、隣のテーブルに老夫婦が座った。どちらも七十代くらいで、黙ってコーヒーを飲んでいた。ときどき何かを言い合い、そのたびに小さく笑った。
三郎は、じっとその二人を見た。
——ああ、こういう人たちだ。
夢で会いたい人がいる人というのは、こういう人たちだ。若い人だけじゃない。むしろ年をとるほど、夢の中に会いたい人が増えていくのかもしれない。
三郎は立ち上がり、ドリンクバーでコーヒーを一杯作り、老夫婦のテーブルに近づいた。「すみません、少しよろしいですか」
三
老夫婦の名前は、倉田正吉・倉田スミという夫婦だった。正吉は元大工、スミは元小学校教員。二人には三十年前に亡くなった息子がいた。
「息子に、夢で会えるかもしれない、ということですか」
正吉は静かに言った。三郎はうなずいた。「十七パーセントの確率で、です。正直に言います。八十三パーセントはイカとか砂漠とかになります。でも——可能性はあります」
スミは黙ってコーヒーを飲んだ。正吉も黙っていた。三郎はだんだん不安になってきた。変なことを言ってしまっただろうか——
「いくら払えばいいですか」とスミが言った。
「え?」
「試してみたい、ということです」とスミは言った。顔は穏やかだった。「八十三パーセントでイカが出てきても、構いません。残りの十七パーセントのために払えるものなら、払います」
正吉が財布を出した。「いくらですか?」
三郎は考えた。価格設定をしていなかった。「……三千円、でどうでしょう」
「安すぎる」と正吉は言った。「一万円にしなさい。そんな安い値段では、あなたが損をする」
三郎は泣きそうになった。なぜかはわからない。
こうして「夢渡り株式会社」は、ファミレスのドリンクバーのそばで、最初の一万円を売り上げた。
第三章 夢渡り、ビジネスになる
一
問題は、装置が一台しかないことだった。倉田夫妻への施術(と三郎が呼ぶもの)は、夫婦の自宅で行われた。三郎が持参した試作六号機を正吉の頭に装着し、眠るのを手伝い、三時間後に外す。翌朝の報告を聞く。
結果:正吉は、田んぼの中で魚を素手で捕まえようとしている夢を見た。
「息子は?」
「出てこなかった」
十七パーセントどころではなかった。三郎は深く反省した。
しかし翌週、スミの番だった。スミは装置をつけて眠り、翌朝こう言った。「息子が出てきました」
声が少し震えていた。
「何か話しましたか?」
「覚えていません。でも——笑っていました。元気そうでした」
それだけで、スミは一週間、機嫌が良かった、と正吉は後から三郎に言った。
——これだ、と三郎は思った。これが需要だ。
こうして「夢渡り株式会社」は、ファミレスのドリンクバーのそばで産声を上げた事業を、静かに、しかし確実に広げ始めた。
二
三ヶ月後、三郎のもとに、ひとりの女性が訪ねてきた。名前は、来栖凪子(くるすなぎこ)。三十四歳。職業、IT企業のエンジニア。
「ネットで見ました」と彼女は言った。「夢渡り、というやつ」
「どこで見たんですか?」「あるおばあさんのInstagramです。『孫の顔を夢で見た』って、装置をかぶった写真を上げてて。バズってました」
三郎は倉田スミの顔を思い浮かべた。あの人はInstagramをやっていたのか。
来栖凪子は、整った顔立ちの、きびきびした雰囲気の女性だった。三郎の六畳一間のジャンクの山を見回し、眉一本動かさなかった。
「会いたい人がいるんですか?」と三郎は聞いた。
「いません」と彼女は即答した。
「え?」
「私はエンジニアです。あなたの装置が本物かどうか確認したくて来ました。その上で——本物なら、一緒にビジネスをしませんか?」
三
凪子は有能だった。ただし、方向性が三郎とは百八十度違う意味で。
「現在の問題点は三つです。スケーラビリティ、信頼性、そして法的リスク」
「わかります、わかります、わかりません」と三郎は言った。
「法的リスクというのは、医療機器に該当する可能性があるということです。脳に電磁波を当てる装置ですよね。薬機法に引っかかる可能性があります」
「え」「刑務所に行きますか?」「行く前に気づいたので大丈夫です」
凪子の提案はこうだった。装置を「睡眠補助機器」として販売する。電磁波の出力を基準値以下に抑える。効能の標榜は一切しない。「夢に何が出てくるか、弊社は一切関知しない」というサービス設計にする。
「それでは詐欺になりませんか」と三郎は聞いた。「詐欺にならないための設計です。効能を謳わなければ、夢に誰が出てきても出てこなくても、弊社の責任ではない」
「……なんか、釈然としない」「正直でいいですね」と凪子は笑った。目の端に、小さなしわができた。
三郎はそれをぼんやり見ていた。「どうしました?」「いえ、何でも」
こうして「夢渡り株式会社」は、正式に二人体制で再出発した。
第四章 霊界管理局からの通知
一
問題が起きたのは、会社設立から四ヶ月後のことだった。朝、三郎が事務所(サンハイツ武蔵野荘・六畳一間)に出勤(起床)すると、ドアの下に封筒が挟まっていた。
差出人のところに、こう書いてあった。「霊界管理局・現世夢路管理課」
三郎は封筒を手に取り、しばらく眺め、凪子に電話した。「なんか、変な手紙が来た」「どんな手紙ですか?」「霊界管理局から」
五秒の沈黙。「……それ、普通郵便ですか?」「切手は貼ってない。料金後払いって書いてある」「霊界に料金後払いのシステムがあるんですね」「そうみたい」
中を開けると、A4の紙が一枚入っていた。フォントはなぜかゴシック体だった。
【通知書】
田中三郎殿
このたびは「夢渡り装置」なるものをご開発いただき、誠にありがとうございます。
当局は、霊界と現世のあいだの夢路の管理を担う公的機関でございます。
このたびご連絡に及びました理由は、貴殿の装置が、当局の管轄する「夢路回廊」に無断アクセスを行い、一部の回廊において交通渋滞を引き起こしていることに関する、苦情への対応のためでございます。
ご対応いただきたい事項は、以下の通りでございます。
一、無断アクセスの即時中断
二、または、正式なライセンス申請(申請費用:米ドル換算不能・要相談)
三、現在の渋滞解消のための技術的協力
ご不明な点は、夢の中でご連絡ください。担当は壱番と申します。
霊界管理局・現世夢路管理課 主任 壱番
三郎は手紙を二回読んだ。「凪子さん、法務部門が必要かもしれない」
二
凪子は翌日、手紙を検分した。「紙質が変です。普通の紙じゃない。なんか……冷たい」「そこですか、まず気になるのは」「質感の話は重要です。偽造かどうかの判断に使えます」
企業弁護士に相談したが、「霊界管理局からの通知書」を見せると、弁護士(四十代・男性・眼鏡)は「これは…… 私の専門外です」と言って手紙を返した。ちなみに料金は三万円かかった。
三郎は夢の中で連絡することにした。装置を自分に装着し、眠る前に「壱番に会う」と強く念じた。
夢の中に現れたのは、和服を着た小柄な老人だった。白髪で、眼鏡をかけていた。雰囲気は、ちょっと気難しそうな定年退職後の元公務員、という感じだった。
「田中三郎さんですね」「壱番さんですか」「はい。霊界管理局の壱番と申します。担当歴は現世換算で約二百年になります」「二百年!」「霊界は時間の流れが違いますから。まあ座ってください」
夢の中の空間は、不思議な場所だった。広い和室で、縁側から見える庭は、季節が三秒ごとに変わっていた。春の桜が散ったかと思えば夏の緑になり、秋の紅葉になり、冬の雪になる。
「渋滞の件ですが」と壱番は続けた。「あなたの装置を使った人が急増したことで、夢路回廊の特定の区間が詰まっています。特に、現世と霊界の中間エリア、いわゆる『中有(ちゅうう)』の手前です」
「中有って、あの、仏教の?」「そうです。現世を離れた魂が次の行き先を決めるまでの場所です。そこへの出入り口付近が、あなたのせいで渋滞しています」「すみません」
三
壱番の説明によると、夢路には正式なルートがあった。人は眠ると、夢路に入る。多くの夢は「浅夢(あさゆめ)エリア」で完結する。問題なのは「深夢(ふかゆめ)エリア」で、ここには霊界との境界が存在し、生者が亡者に会えるゾーンが含まれる。
三郎の装置は、この深夢エリアへのアクセスを強制的に開いていた。
「あなたの装置がなくても、ごく稀に、自然に深夢にアクセスする人はいます。それは問題ありません。しかし——あなたの場合、同時多発的に多くの人が深夢に侵入しているため、回廊が詰まっている」
「渋滞……どれくらい詰まっていますか?」
壱番は難しい顔をした。「昨日、ある方が亡くなった父親に会おうとして、深夢に入ったところ、出口を間違えて、赤の他人の結婚式の夢に乱入しました。当該の結婚式の夢を見ていた方は大変驚いて、翌朝、動悸がひどくて病院に行きました。この種の事案が、先月だけで七件起きています」
「すみません」
「解決策は、二つあります。一つは、サービスを即時停止すること。もう一つは、当局と協定を結んで、正規ルートで夢路を使うこと」
「協定というのは?」「簡単に言えば、あなたの装置に、夢路交通ルールを組み込むということです。無秩序に深夢に侵入するのではなく、当局が管理する入口から入り、出口から出る。それだけです」
「できるかな……」と三郎はつぶやいた。
「あなたの装置を見る限り」と壱番は言い、少し間を置いた。「鍋の取っ手がついていましたね」「はい」「理由は?」「お守りです」
壱番はしばらく三郎を見た。それから、かすかに笑った。「そういう人が作ったものが、二百年ぶりに夢路の設計を変えたんですね。ほめています」
第五章 現世と来世のあいだの書類仕事
一
霊界との協定交渉は、三ヶ月かかった。壱番は効率的な官僚だったが、霊界の書類仕事は現世のそれより複雑だった。まず、合意事項を「夢路協定書」として文書化しなければならないが、この文書は現世の紙には書けないという。「霊界の公文書は魂の素材で作られている必要があります」
「じゃあどうするんですか」「夢の中で記憶してください。その記憶が、協定の証明になります」「それ、忘れたらどうなりますか」「無効になります」
「それ、現世の契約だったら大問題ですよ」「霊界では記憶力が証拠能力を持ちます」
凪子に報告すると、彼女は三秒固まった。「つまり……霊界との契約は、田中さんの記憶力次第ということですか?」「そうなります」「田中さんの記憶力って、どのくらいですか?」「電池を逆向きに入れて六回実験しました」「そういうことですね」
凪子は翌日からメモ帳を持参して夢に同行するため、自分用の装置の製作を三郎に依頼した(試作三号機は凪子の部屋の電子機器を全部リセットした。試作五号機はなぜか大音量でせんとくんのテーマが流れた)。
二
凪子が初めて壱番に会ったのは、十一月初旬の夢の中だった。「こんにちは」とノートを持って現れた彼女を見て、壱番は感心した。「お分かりになりますか。最初からそう理解できる方は珍しい」「構造的に理解するのが得意なので」「田中さんは?」「三回説明しても、毎回初耳という顔をしていました」
「ところで協定の件ですが」と凪子はノートを開いた。「弊社のサービスが正規ルートで夢路を使う場合、当局側から提供できるサービスはありますか?」
「こちらが夢路のルールを守る。その代わり、深夢エリアへのアクセスを安定化する技術的なサポートを当局側が提供する。利用者が確実に会いたい人に会える確率を上げる、ということです」
「それは……まあ、技術的には可能ではありますが、前例がありません」「前例を作りましょう」
壱番はしばらく凪子を見た。「来栖さん、あなたは会いたい人はいないとのことでしたが」「ええ」「本当に?」
「……一人だけ」と凪子は言った。「でも、もうずっと昔の話なので」
「夢路は、時間の遠さを言い訳にしません」と壱番は静かに言った。
三
協定は最終的に、以下の内容でまとまった。
一、「夢渡り株式会社」は、利用者が深夢エリアにアクセスする際、霊界管理局の正規入口を使用する。
二、霊界管理局は、利用者と接触可能な霊(本人が接触を望む場合に限る)との回廊を優先接続する。
三、「夢渡り株式会社」は、月一回、壱番と進捗を共有する夢上ミーティングを行う。
四、田中三郎は、協定内容を毎朝声に出して復唱することで記憶を維持する(凪子の強い要求による)。
この協定により、サービスの「精度」は劇的に改善した。十七パーセントだった成功率は、三ヶ月後には六十三パーセントまで上がった。残り三十七パーセントについては、壱番によれば「会いたいと思っていても、相手が出てきたくない場合がある」とのことだった。
「亡くなった方も、いつでも会いたいわけではないんですね」「当然です。あなただって、夢に誰かが勝手に入ってきたら困るでしょう」
「それに——」と壱番は少し声を落とした。「残された者が、まだ前を向いていないとき。無理に会わせると、かえって離れられなくなる。そういうときは、当局の判断で接続を遅らせることがあります」
三郎はその言葉を、長い間考えた。
第六章 来栖凪子の夢
一
「夢渡り株式会社」が設立一周年を迎えたとき、利用者は二百人を超えていた。口コミは静かに、しかし確実に広がっていた。倉田スミのInstagramは今や五万フォロワーを超えていた。
凪子は事業拡大を提案したが、三郎は慎重だった。「大きくしすぎたら、変になる気がする。今のお客さんは、本当に会いたい人がいる人たちじゃないですか。でも大きくすると、そうじゃない人が来るかもしれない」
「じゃあ、紹介制にしましょう」と凪子が言った。「既存の利用者から紹介された人だけ受け付ける。そうすれば、ある程度の真剣さは担保される」
三郎はうなずいた。それは良いアイデアだと思った。「凪子さんは、自分では装置使わないんですか」「……まだ」
二
凪子が装置を使ったのは、ある冬の夜のことだった。三郎には告げずに、自分の部屋で、一人で装置を装着した。
会いたい人は、一人だけいた。名前は言えない。顔は、今でも覚えている。笑い方も。癖も。七年前、事故で死んだ。
凪子は普段、そのことを考えないようにしていた。忙しくすれば、考えずに済む。コードを書いていれば、感情は入ってこない。それが、彼女のやり方だった。
夢の中は、静かだった。見知らぬ公園のような場所で、ベンチがあって、木が一本あって、空は夕暮れだった。ベンチに、誰かが座っていた。
凪子は近づいた。その人は振り向かなかった。でも、凪子が隣に座ると、「来たんだ」と言った。
「来た」「久しぶりだね」「七年」「そっか」
しばらく二人は黙って、暮れていく空を見ていた。「元気?」「こっちはそういう概念がないんだよね。でも、悪くない」「そう」「凪子は?」「忙しい」「それが凪子らしい」
笑い声が聞こえた。聞き慣れた笑い声が。凪子は何も言えなかった。
「田中さんとかいう人、面白いね」「なんで知ってるの」「聞こえてくるんだよ、色々。夢路の近くだから」「……そっか」「あの人のこと、ちゃんと見てあげて」
「見てるよ」「そういう意味じゃなくて」
その意味を問い返す前に、夢は終わった。
凪子は朝、目が覚めて、天井を見つめた。泣いてはいなかった。でも、何かが軽くなっていた。長い間、胸の中にあった石のようなものが、少しだけ溶けた感じがした。
三
翌日、凪子は事務所に来て、三郎に言った。「使いました、装置」「え、本当に」「会えました」
三郎は何も聞かなかった。ただ、「良かったですね」とだけ言った。
「田中さん」と彼女は言った。「この会社、続けましょう」「え、やめようとしてましたっけ?」「いいえ。ただ、改めて」
三郎は少し照れくさそうに頭をかいた。「そうですね。続けましょう」
窓の外、冬の光が斜めに差し込んでいた。
第七章 霊界管理局の大改革
一
翌春、壱番から緊急の夢上ミーティングの要請があった。夢の中の和室には、壱番の他に見知らぬ人物がいた。若い——現世換算で三十代くらいに見える男性で、霊界の制服(紺の詰め襟)を着ていたが、なぜかスニーカーを履いていた。
「部下の弐番です。現世出身です。前世が会社員で、まだ感覚が抜けてない部分がありまして」「いつ亡くなったんですか?」「三年前です。過労死です」「……それは大変でしたね」「霊界に来てから、残業がなくなってすごく楽になりました。霊界、ホワイトなんですよ」
要件はこうだった。霊界管理局の上層部で、「夢路のデジタル化」が議論されていた。現世のITとの連携を図る、というものだ。
「デジタル化って……霊界に?」と凪子は驚いた。「霊界も、変化します」と壱番は言った。「現世で亡くなった若い魂が増えるにつれ、古いシステムへの不満が高まっています」
「夢路の予約システムが手書き台帳なんです」と弐番が言った。「一日に何万件もの夢路案件を、全部手作業で。過去二百年分のログが、紙で保存されています」
「そこで、田中さんと来栖さんに、システム設計の協力をお願いしたいのです」「霊界のITコンサル、ということですか」「そうなります」
二
霊界の予約システム再設計は、凪子が主導した。夢の中で打ち合わせをするという特殊な仕事環境の中、凪子は三番の反対を論破しようとした。
「手書き台帳で二百年問題がなかった。変える必要はない」「二百年前と今では、夢路の利用者数が違います。現世の人口は十倍以上になっています」「担当者が増えたから問題ない」「担当者が増えるということはコストが——」「霊界に人件費はない」「……」
「では何を目的としていますか」「誰もが正しく前へ進むことです」
凪子はしばらく黙った。「それは、賛成です。システム化は、それを助けるためにあります。妨げるためではない」
三番は長い間凪子を見た。それから、ゆっくりうなずいた。「一度だけ、試してみましょう」
三
システムの基本設計は、凪子が夢の中で構築し、三郎が現世側のインターフェースを作った。三郎の担当部分は技術的には単純だったが、なぜか毎回微妙に動かなかった(電池の向きは今回も一本逆だったが、三郎はそれが良い効果を出していると主張した)。
半年後、霊界夢路管理システム——弐番が「DREAMOS」と命名しようとして三番に却下された——が稼働した。渋滞は劇的に解消した。
壱番は三郎に、「来世でも仕事をお願いするかもしれません」と言った。三郎は少しびっくりして、「来世、私はどんな仕事をしているんですか」と聞いた。「さあ。それを決めるのはあなた次第です。霊界の仕事は決まっていますが、来世の仕事はまだ白紙です」
第八章 夢は通い道
一
「夢渡り株式会社」は、設立二年で、利用者四百人を超えた。広告は出していない。ウェブサイトは最低限だ。それでも人は来た。
「なんで来るかわかりますか?」と三郎はある日、壱番に聞いた。「夢で誰かに会いたい人は、世界中にいます。その気持ちは、人が人である限り消えない。あなたの装置は、そのための道具の一つです。ただ、道具があればいいというわけでもない」
「どういう意味ですか?」「会う準備ができていない人には、届かない。装置は使えても、夢路に入れない人もいます。まだ会う時ではない、ということです」「会う時って、どうやってわかりますか?」「わかりません。でも、来ます。必ず」
二
倉田スミが、ある夜の夢の後で三郎に電話してきた。「息子が、夢の中で言ったんです。『もう大丈夫だよ』って。……もし、『大丈夫』ってことは、もう会いに来なくていいってことなのかな」
翌日の夢の中で、三郎は壱番に伝えた。壱番は穏やかに答えた。
「『大丈夫』とは、別れの言葉ではありません。霊界では、つながりは切れません。ただ、いつも夢で会わなくても、そばにいる、ということです。夢は通い道ですが、道はいつも開いています。歩かない日があっても、道は消えない」
三郎はその言葉をスミに伝えた。スミは「そうですか」と言って、それから少し笑った。「じゃあ、次は正吉の夢に出てきてもらわないとね。あの人、なかなか深く眠れないから」「試作九号機、正吉さん向けにもう少し調整します」
三
ある夜、三郎は一人で装置を使った。壱番から贈られた「確実に会える夢路」。それを、ずっと使えずにいた。
夢の中は、例の喫茶店だった。夕暮れの光。コーヒーの香り。向かいの席に、誰かが座っていた。今度は、消えなかった。
三郎はその人を見た。見覚えがあるような、ないような。でも、その笑顔を見た瞬間——目の端のしわを見た瞬間——何かがすとんと胸の中に落ちた。
「久しぶり」とその人は言った。「やっと来た」「……会いに来ようと思って、装置を作りました」「知ってる。鍋の取っ手、お守りにしてくれたんでしょう」「わかったんですか」「夢路から見えてたから」
三郎は何から話せばいいかわからなかった。積もる話はたくさんあるはずなのに、何も出てこなかった。「何も言わなくていいよ」と相手は言った。「ここに来たことが、全部だから」
コーヒーが、二つあった。二人はしばらく、黙って夕暮れを見ていた。それで、十分だった。
エピローグ 翌朝
朝、三郎は目を覚ました。天井のシミが、十七個。変わらない。だが、何かが変わっていた。
胸の中に、ずっとあった何か——不眠の理由、眠れない夜の理由、装置を作り始めた理由——それが、きれいに満ちていた。
携帯が鳴った。凪子からだった。「今日、新しい利用希望者の方が来ます。九十一歳のおじいさんで、戦争で亡くした戦友に会いたいそうです」「わかりました。準備します」
「田中さん、昨夜装置使いましたよね」「わかりましたか」「装置のログが残ってます。会えましたか?」「……会えました」「そうですか。良かったですね」
「凪子さんも、また使いますか?」「いつか」「そうですね」
窓を開けると、春の匂いがした。
夢は通い道。
道はいつも、開いている。
ただ歩く人が来るのを、静かに待っている。
——おわり——
あとがき
霊界管理局・現世夢路管理課の実在は確認されておりませんが、確認されていないことは、存在しないこととは別の話だと、筆者は考えています。
鍋の取っ手は、お守りです。理由は聞かないでください。
それから——もし夢の中で誰かに会えたなら、それは装置のせいではないかもしれません。あなたが、ちゃんと準備できていたのだと思います。

