昨今
1つの思いから並行して
いくつかの違う物語へと進むことが増えて
ならばと
それらを全部書くことにしました。
その1つはKindleに
その他はここに…
『一瞬の罪と、脳裏の光』
プロローグ
手のひらの上の強制終了
パチッ。
静まり返った夜の書斎に、乾いた、しかし容赦のない音が響いた。
自分の右手と左手のひらが合わさり、その隙間でひとつの営みが終わりを迎えた音だ。
「……あ」
そっと手を広げると、そこにはほんの数秒前まで部屋の空気を小さく揺らして飛んでいた、一匹の蚊の残骸があった。
人間にとっては、ただ「血を吸う邪魔な存在」に過ぎない。
僕は机の上のティッシュを一枚引き抜き、それを包んでゴミ箱に捨てた。いつものことだ。誰もがやる、日常の、ごくありふれた光景。
しかし、なぜだろう。今夜に限って、ゴミ箱に落ちたその白い塊から、目が離せなくなってしまった。
時計の針は午前二時を回っている。
あの小さな虫だって、今日、この僕の部屋の、この瞬間に辿り着くまでに、どれほど多くの時間を費やしてきたのだろう。
ボウフラとして水の中で耐え、羽化し、風に流され、外敵から逃れ、ようやく手に入れた「ひとつの命」だったはずだ。
それを、僕らはどうだ。
ちょいとばかし邪魔だから。ちょいとばかし害だからと。
そんな人間の、一方的で気まぐれな一瞬の判断だけで、その命を強制的に終わらせてしまう。
僕ら人間たちの、一方的な勝手の中で行動に起こす、そんな一瞬の罪。
それは、その場でやわては「いつものこと」として処理され、明日になれば綺麗さっぱり忘れ去られてしまう、あまりにも小さな出来事だ。
果たして、それで良いのだろうか。
そんな疑問が、まるで胸の奥に冷たい水滴が滴るように、じわりと広がっていく。
大きな命も、小さな命も、本当は同じ価値があるのではないだろうか。
いや、そもそもその大きさを比べること自体が、本来はいけないことのはずなのに……。
「……気にしすぎだな」
頭を振って、僕はノートパソコンを閉じた。液晶の明かりが消え、部屋が一気に暗くなる。
しかし、それでも部屋は「真っ暗」にはならなかった。
現代社会において、真っ暗という世界は、なかなか体験できなくなった。
夜となっても、どこぞやからかのわずかな光は差し込んでいるものだ。
遮光カーテンの隙間から漏れる街灯の青白い光。家電製品が放つ小さなLEDの瞬き。
自ら押入れにでも飛び込んで、強制的にそんな状況でも作らないことには、光は僕らから離れてくれない。
そのまぶしすぎる世界の中で、僕らは大切なものを見落とし、一瞬で命を奪うような「小さな罪」に鈍感になっていくのかもしれない。
その時だった。
コンコン、と。
誰もいないはずの書斎の窓を、小さな指先が叩くような音がした。
見上げると、そこには夜の闇に溶け込みそうなほど、透き通った瞳をした一人の少女が、窓の外のベランダに佇んでいた。
彼女の足元には、なぜか一匹の、先ほど僕が仕留めたはずの虫が、小さな光を放ちながら静かに浮かんでいた。
第1章
光に追われる街と、謎の少女
「こんばんは、加藤さん」
少女は窓ガラス越しに、僕の本当の名前を呼んだ。声は直接耳に届いたのではなく、脳裏に直接染み込んできたような錯覚を覚える。
慌ててサッシを開けると、夜の生ぬるい風と共に、かすかな潮の香りと、遠い記憶の匂いが部屋に流れ込んできた。
「君は……誰だ? どこから入ってきた?」
ここはマンションの3階だ。ベランダに人が立っていること自体がおかしい。
しかし、少女は僕の狼狽など気にも留めず、すっと右手を差し出した。彼女の手のひらの上には、さっき僕がゴミ箱に捨てたはずの、あの小さな命の残骸があった。いや、それは残骸ではなかった。蛍のようにはかない光を放ちながら、弱々しく羽を震わせている。
「この子はね、あなたに会うために何キロも旅をしてきたのよ」
少女は静かに言った。その声には責めるような色はなく、ただ淡々とした事実だけが含まれていた。
「ほんの少し邪魔だからって、人間の気まぐれで終わらせてしまうには、この子が旅してきた時間は長すぎたと思わない?」
胸がズキリと痛んだ。さっき僕がノートに書き連ねていた思考を、そのまま覗き見されたかのようだった。
「僕は……」
「現代の人間はね、光が多すぎる場所に住んでいるから、感覚が麻痺してしまっているの。真っ暗な闇を知らないから、自分が犯している『一瞬の罪』の形も見えなくなっている」
少女はそう言うと、ふっと微笑んだ。
「もし、本当の光を見つけたいなら、本物の闇を探しに行ってみて。信州の、あの場所へ」
「待ってくれ!」
僕が手を伸ばした瞬間、彼女の姿はかき消えるように消えていた。
手のひらに残されたのは、小さな、しかし妙に温かい熱の余韻だけだった。机の上の時計を見ると、針は二時十五分を指している。夢を見ていたのだろうか。しかし、ゴミ箱の中を確認すると、先ほど捨てたはずのティッシュの塊は、どこを探しても見当たらなかった。
第2章
信州へ、闇を探す旅
翌週、僕は気がつくと長野行きの新幹線に乗っていた。
少女が残した「信州の、あの場所」という言葉。それは、僕の記憶の引き出しを一つ、ピシャリと叩いた。
善光寺だ。
あそこには、現世の光を完全に遮断した、本当の暗闇が存在する。
善光寺の本堂に足を踏み入れると、線香の香りと、低く響くお経の声が堂内を満たしていた。観光客たちの賑やかな声に混じりながら、僕は目的の場所へと向かう。
「戒壇巡り(お戒壇巡り)」の入り口だ。
御本尊の床下にある真っ暗な回廊を巡り、途中の「極楽の錠前」に触れることで、御本尊と結縁(けちえん)できるという道場。
「ここから先は、一切の光が届きません。壁に右手を当てて、ゆっくりとお進みください」
案内人の声を聞きながら、僕は階段を降り、地下へと進んだ。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
世界が、消えた。
ざわざわしながら笑顔で体験する観光客たちの声が、遠くの方で反響している。
しかし、僕の目の前にあるのは、ただの「黒一色」だった。
目をいっぱいに開いても。
角膜が目一杯に開いたとしても。
そこには、闇という名の圧倒的な壁があるだけだった。
「うわ、本当に何も見えない」
「怖いな、これ」
前後の参拝客たちの声が聞こえるが、その姿は全く見えない。
一瞬、底知れない不安が心の中を支配する。もしこのまま、一生光が戻らなかったら。もし自分が、この世界のどこにいるのか分からなくなってしまったら。
闇というものは、こんな世界なんだ。
僕は右手を冷たい壁にぴったりと押し当て、手探りでゆっくりと歩みを進めた。
光に慣れきった現代社会において、これほどの恐怖と孤独を味わうことはない。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
その時、ふと、不思議な感覚が僕を包み込んだ。
第3章
脳裏に煌めく幻の光
暗闇の中に佇んで、どれほどの時間が経っただろう。
数分かもしれないし、数時間にも感じられた。
最初は目を開けても閉じても変わらない漆黒に怯えていたが、徐々に心が静まっていくのを感じた。
そして、それは訪れた。
目から入る光ではない。
おそらく、脳裏の中でなんとなく煌めく、幻の光。
完全に視覚を奪われたはずの暗闇の奥底で、小さな、しかし確かな光の粒子が、ぽつり、ぽつりと灯り始めたのだ。
それは、僕のこれまでの人生の中で出会ってきた、さまざまな「命の記憶」だった。
幼い頃に触れた、夏の終わりの冷たい川の水。
かつて僕のそばにいて、13年近くを共に過ごし、フリスビーを追いかけるのが大好きだった、あの愛犬の温かい毛並み。
旅先の海岸で、波しぶきの中で見上げた、まぶしい太陽。
それらの記憶が、暗闇の中で不思議な光となって、僕の脳裏を優しく照らし出す。
「現代社会は、心の闇だというけれど……」
僕は闇の中で呟いた。
僕らの時代には、まだ、どこからともなく灯る光が見えているはずだ。
どれほど社会が冷たくなり、人々が自分のことばかりを考えて生きるようになったとしても、僕らの根底には、あの温かい記憶の光が眠っている。
その時、僕の右手が、カチャリと冷たい金属に触れた。
「極楽の錠前」だ。
その錠前に触れた瞬間、地下の回廊の空気が一変した。
僕の目の前に、あのベランダに現れた少女の姿が、今度ははっきりとした光の輪郭を持って現れた。彼女の隣には、僕がこれまでの人生で、無意識のうちに、あるいは自己中心的な理由で傷つけ、終わらせてきてしまった、小さな虫たち、植物たち、すべての「小さな命」の魂が、満天の星空のように瞬いていた。
「気づいてくれた?」
少女は優しく微笑んだ。
「あなたが『一瞬迷ったその罪』の中にこそ、本当に大切な光があるのよ」
エピローグ
一瞬の迷い、永遠の差す光
地下の回廊を抜け、再び地上の光の中に飛び出したとき、僕はまぶしさに目を細めた。
太陽の光が、これほどまでに有り難く、そして強烈なものだとは知らなかった。
周りの観光客たちは「すごかったね」「何も見えなかった」と笑顔で通り過ぎていく。
しかし、僕の胸の中に残ったものは、さっきまでの僕とは明らかに違っていた。
東京に戻る新幹線の中で、僕は再びノートを開いた。
現代社会は便利になりすぎた。
真っ暗闇を失った私たちは、同時に、心の奥底で静かに輝く「本当の光」を見る力をも失いかけているのかもしれない。
だからこそ、他者の痛みに疎くなり、小さな命を「邪魔だから」という一瞬の判断で終わらせてしまう。
だけど、人間はそれほど愚かではないはずだ。
パチッと虫を叩き潰してしまったあと、ふと立ち止まり、「果たしてこれで良いのだろうか?」と葛藤する、あの心の揺らぎ。
自分の傲慢さに気づき、胸を痛めるあの「一瞬の迷い」。
それこそが、私たちがまだ失っていない、人間としての尊厳の光なのだ。
一瞬迷ったその罪の中にも、光は必ず、差すはずだと――。
夜、自宅の書斎に戻った僕は、もう明かりをつけなかった。
カーテンを開け、街のわずかな明かりを受け入れながら、静かに手のひらを見つめる。
そこにはもう、奪われた命の残骸はない。
ただ、暗闇を経験した僕の脳裏には、いつまでも消えない、小さくも温かい幻の光が、静かに灯り続けていた。
(了)
Amazon Kindle
〜あとがき〜
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、一匹の蚊を叩いてしまった夜の、ほんの小さな違和感から生まれました。
私たちは日々、多くの選択をしています。
道端の草を踏むこと。虫を追い払うこと。急いでいるからと誰かの言葉を聞き流してしまうこと。
それらはあまりにも些細で、翌日には忘れてしまうような出来事です。
けれど、ある日ふと立ち止まったとき、
「あれで良かったのだろうか」
そんな思いが胸をよぎることがあります。
本作で描きたかったのは、その「迷い」そのものです。
人は決して完璧ではありません。
生きるということは、知らず知らずのうちに何かを傷つけながら進んでいくことでもあります。
だからといって、自分を責め続ける必要はないと思うのです。
大切なのは、ほんの一瞬でも立ち止まり、考えること。
その心の揺らぎこそが、人間らしさであり、優しさであり、良心なのではないでしょうか。
善光寺のお戒壇巡りのような完全な暗闇を体験すると、不思議なことに目ではなく心が働き始めます。
何も見えないはずなのに、忘れていた記憶や大切な人の面影が、かえって鮮やかに浮かび上がってくる。
私たちの人生にも、そんな瞬間があるように思います。
暗闇は決して光の反対ではありません。
本当の光を知るために必要な場所なのかもしれません。
もしこの物語を読み終えたあと、夜空を見上げたり、小さな虫の羽音に少しだけ耳を傾けたり、あるいは誰かに少しだけ優しくなれたりしたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
あなたの人生にも、目には見えなくても、脳裏に静かに灯り続ける光がありますように。
そして、その光がこれから先の道を、そっと照らしてくれますように。
感謝を込めて。

