Do Good

――縁の番人たち――

縁あってここに来たものは
大切にしたいと思っている
それは すべての物で
――「Do Good…」より



〜まえがき〜

人は生きていると、
「あの出会いは偶然だったのだろうか」
と思うことがあります。
ふと立ち寄った店。
たまたま隣に座った人。
何気なく手に取った一冊の本。
振り返ってみると、その出来事が人生の流れを変えていた。
そんな経験を持つ人は少なくないでしょう。
この物語は、目には見えない「縁」をテーマにしています。
もし誰かが私たちを見守っているとしたら。
もし善意がどこかに積み上がっているとしたら。
そんな空想から生まれた物語です。
読み終えたあと、
あなたが誰かとの縁を少しだけ大切にしたくなったなら、
作者としてとても嬉しく思います。



序章 見えない者たちの声

わたしたちは、名前を持たない。
光でもなく、影でもなく、風でもない。強いて言えば、縁(えん)の番人とでも呼ぼうか。
人間たちは気づいていないが、ひとりひとりの肩のあたりに、わたしたちはひっそりと寄り添っている。彼らが選んだすべてのことを、目の前を流れる川を眺めるように、静かに見守りながら。
今日、わたしたちは一人の若者の話をしようと思う。
名前は、蒼(あおい)。二十三歳。大きなリュックを背負い、行き先も定めずに旅をしている青年だ。
なぜ旅に出たのかを、本人はうまく説明できない。就職が決まらなかったわけでも、失恋したわけでもない。ただ、ある朝目が覚めたとき、自分の部屋の天井がひどく遠く感じられて、そのまま荷物をまとめて外へ出てしまったのだ。
それがいつのことだったか、もう蒼自身も覚えていない。
わたしたちはその日から、ずっと彼を見ている。



第一章 棚の前で

その古本屋は、路地の奥にひっそりと佇んでいた。
蒼は地図も持たず、その町に着いたばかりで、ただ歩いていた。小腹が空いていたが、財布の中身を思うと贅沢もできない。そんな気持ちで曲がった路地の先に、「縁書房」という墨書きの看板を見つけた。
「縁書房」。
その名前が、なぜか足を止めさせた。
店の中は薄暗く、天井まで届く本棚が迷路のように並んでいた。奥から老いた店主がひとり、眼鏡の奥の目を細めて蒼を見た。何も言わない。
蒼は棚の間をゆっくり歩いた。特に目的はなかった。手が、何かに引き寄せられるように動いた。
引き抜いた一冊の文庫本。タイトルも著者名も見たことがない。表紙は色褪せていて、誰かの書き込みが余白に残っていた。
「これ、いくらですか」
「その本はね」と老店主は言った。「値段がついていないんですよ。でも、あなたが手に取ったなら、持っていきなさい。そういう本なんです」
蒼は戸惑ったが、店主はもう奥の暗がりへ消えていた。
――見たか、と、わたしたちは互いに言いあった。あの本は三十年、棚に刺さっていた。それが今日、この青年の手に渡った。



第二章 雨の駅で

次の町へ向かう列車を待つ間、蒼はホームのベンチに座って古本を読んでいた。
雨が降り始めた。梅雨の終わりのような、重い雨だった。
隣に、女が座った。年は三十代だろうか、濡れた傘を足元に立てかけ、スマートフォンの画面を見つめている。何かを検索しているようだったが、やがて手を止めて、ため息をついた。
「その本、面白いですか」
突然話しかけられて、蒼は顔を上げた。女は照れたように笑った。
「すみません、表紙が気になって。私、その著者の本を昔読んだことがあって」
蒼は表紙を見せた。「縁書房で拾ったんです。知ってる著者ですか?」
「知ってる、というか……私の祖父なんです」
雨音が、少し大きくなった気がした。
女の名前は、里佳(りか)といった。祖父が書き、ほとんど流通しなかったその本が、今日この雨の駅で、全く見知らぬ若者の手にあった。里佳はしばらく言葉を失っていたが、やがて静かに笑った。
「おじいちゃん、どこかで見ていたのかもしれないね」
わたしたちは知っている。里佳の祖父の番人が、今日の朝、わたしたちに向かって静かに頭を下げたことを。



第三章 功徳の話

里佳とは、同じ列車に乗ることになった。
偶然ではなかった。少なくとも、わたしたちにとっては。
車窓を流れる田んぼを眺めながら、里佳は祖父のことを話した。生前、祖父は小さな診療所を開いていた。儲かる医者ではなかったが、お金のない患者からは診察代を受け取らなかった。
「誰かに見てもらっていると思っていたのかな、っていつも言ってたんです。いいことをすると、どこかに積み上がっていくって」
「功徳、みたいな」と蒼は言った。
「そう。でもおじいちゃんは宗教には興味なかった。ただ、もし誰かが見ているとしたら、恥ずかしくない行動をしたい、って」
蒼は窓の外を見た。
蒼自身も、なんとなくそれに似たことを感じながら旅をしていた。誰かが見ているような気がする、という感覚。でもそれをうまく言葉にできなかった。
「あなたはどうして旅をしているの?」と里佳は訊いた。
「わかりません」と蒼は正直に答えた。「でも、どこかへ引っ張られているような感じがするんです。自分で選んでいるんだけど、選ばされているような」
里佳はしばらく黙って、それからこう言った。「それ、きっと正しい旅だよ」



第四章 蝶のいる庭

里佳と別れてから、蒼はある小さな宿に泊まった。
宿の庭に、古い梅の木があった。季節は外れているのに、その木の周りには蝶が集まっていた。アサギマダラという種類で、翅に水色の斑紋を持つ、遠くへ渡る蝶だ。
蒼はしゃがんで、しばらく蝶を見ていた。
宿の女将が縁側から声をかけた。「毎年来るんです、あの蝶。この木が好きみたいで。不思議でしょう」
「不思議ですね」
「うちのお客さんが言ってたんですけどね、蝶が来る場所には、いい縁が集まるって。迷信かもしれないけど、この宿に来た人たちは、なんだかんだいい出会いをして帰っていくんですよ」
蒼は蝶を見続けた。一羽が、蒼の手の近くに降りてきた。翅がゆっくり開閉する。何かを伝えようとしているみたいに。
――その蝶は、わたしたちの仲間ではない。でも、縁が濃い場所には、そういう生き物が集まってくる。なぜかはわたしたちにもわからない。宇宙の設計図を、わたしたちも全部は知らないのだ。



第五章 少年と野球

次の朝、宿の近くの公園で、蒼は少年がひとりで素振りをしているのを見た。
バットの振り方が、どこかおかしかった。肘が下がっている。蒼は高校まで野球をやっていた。
「ちょっといいか」と声をかけた。少年は警戒した目で振り向いたが、蒼がバットの持ち方を直してやると、次の素振りで空気が変わった音がした。
「うわ」と少年は言った。「全然違う」
そこから一時間、蒼は少年につきあった。名前は健(たける)、十二歳。地元のチームでなかなか試合に出られないと言った。
「大谷選手みたいになりたいんです」と健は言った。
「大谷は毎日どれだけ練習したと思う?」
「めちゃくちゃ」
「そう。でもたぶん、練習以上に、自分の見えない部分を大事にしてたと思う。試合に出られなくても、誰も見ていなくても、手を抜かなかったはずだ」
健は真剣な顔でうなずいた。
公園を出るとき、蒼は少年に一枚の紙を渡した。その古本から落ちてきた栞だった。折り目がついていたが、そこには一行だけ、筆で書いてあった。
「Do Good」
――蒼は気づいていなかったが、あの栞は祖父が書いたものだった。里佳の祖父が、若いころに挟んでおいたものだ。縁は、形を変えて流れ続ける。



第六章 夜の海で

旅は海辺の町に蒼を連れてきた。
夜、蒼は防波堤に座って、暗い海を見ていた。波の音だけがあって、人影はなかった。
そこへ、中年の男が歩いてきた。缶ビールを持っている。男は蒼に気づかないまま隣に座り、海を見て、しばらくしてから缶を開けた。
「あんた、旅人?」
「そんなところです」
「俺もむかし旅した。金もなくて、目的もなくて。でも今思えば、あの旅で会った人たちが今の俺をつくったんだよな」
男は造船所で働いていると言った。三十年同じ仕事をしてきた。若い頃は不満もあったが、今は、自分がつくった船が世界のどこかを走っていると思うと、悪くないと言った。
「見えないとこで誰かの役に立ってる、ってのが一番いいんじゃないか」と男は言った。「表彰されなくても、感謝されなくても」
蒼は何も言わなかった。でも、深いところで何かが響いた。
男は缶を飲み干して、「じゃあな、旅人」と言って歩いていった。名前も聞かなかった。でも蒼は、長い間その背中を見送った。
――この男の番人は、長年の功徳でずいぶん輝いている。わたしたちの中では、そういう人間がいちばん美しく見える。



第七章 電話

その夜、蒼は久しぶりに母親に電話をした。
母は、怒るでもなく泣くでもなく、「元気にしてるの」とだけ聞いた。
「うん。元気」
「そう。よかった」
長い沈黙があった。でもそれは、嫌な沈黙ではなかった。
「お母さん」と蒼は言った。「俺、ちゃんとするよ」
「ちゃんとって何?」と母は笑った。
「わからないけど……まあ、ちゃんと」
母はまた笑った。蒼も少し笑った。
電話を切ったあと、蒼は空を見上げた。星がいくつか見えた。
こんなに星を見たのは、いつ以来だろうか。
――母親の番人と、蒼の番人が、その夜、長いこと言葉を交わしていた。わたしたちにも秘密がある。


第八章 終わりのはじまり

旅の終わりが近づいていることを、蒼は感じていた。
どこかへ帰らなければならない、というよりも、そろそろ次の場所が決まってきた、という感覚だった。
最後の夜、蒼は例の古本の最後のページを読んだ。
そこには、こんな一節があった。
「縁とは、出会うためにあるのではない。出会ったあと、どう大切にするかのために、縁はある」
蒼は本を閉じた。
旅の間に会った顔が、次々と浮かんだ。里佳。健。防波堤の男。古本屋の老店主。宿の女将。そしてアサギマダラの翅。
誰一人、もう会えないかもしれない。でも、それぞれの縁は確かに、蒼の中に何かを積み上げていった。
翌朝、蒼はリュックを背負って、駅に向かった。
――行き先は、わたしたちも知らない。でも、行き先より大切なことがある。旅人が歩くたびに、縁の網は少しずつ形を変える。どの糸を手繰るかで、次の物語が変わる。
蒼がどこへ向かうのかは、蒼だけが決めることだ。
わたしたちはただ、見守る。



終章 握手

大谷翔平がホームランを打ったあの日、スタジアムを埋めた何万もの人々が歓声を上げた。
わたしたちはスタンドの上空から、その光景を見ていた。
一本のバットが生み出した縁の波紋が、どこまでも広がっていくのが見えた。
遠い日本の、小さな公園で、健という少年が素振りをしていた。
海辺の宿で、女将がアサギマダラを眺めていた。
里佳が、祖父の書いた本をもう一冊、本棚から取り出していた。
そして蒼は、ある町の小さな事務所のドアを開けた。面接を受けに来た、と告げた。それはあの旅の途中で見つけた求人だった。子どもたちに勉強と野球を教える、小さなNPOだった。
受付の女性が顔を上げた。
どこかで会ったような気がする、と二人は同時に思った。
わたしたちは、互いの顔を見た。
そしてゆっくりと、手を握った。

縁は、今日も続く。
どこかで誰かが、ほんの少しいいことをするたびに。
どこかで誰かが、行きずりの出会いを大事にするたびに。
見えない何者かたちが、静かに微笑む。

Do Good.

――了――



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〜あとがき〜

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
蒼の旅は終わりました。
けれど縁は終わりません。
人生は不思議なもので、
忘れた頃に再会する人がいます。
何十年も前の一言が、
誰かの支えになっていることがあります。
そして自分では覚えていない親切が、
巡り巡って返ってくることもあります。
私は、それを「縁」と呼びたいと思います。
この作品を書きながら、
私自身も過去に出会った多くの人たちを思い出しました。
今こうしてこの本を手に取ってくださったあなたとも、
ひとつの縁が結ばれたのかもしれません。
その縁に感謝します。
またどこかの物語でお会いしましょう。