Do Good
―― 見 え な い 握 手――
【まえがき】
人は人生の中で、たくさんの人や物と出会います。
しかし、その出会いがなぜ起きたのかを深く考えることは、案外少ないのかもしれません。
道端に咲く花。
ふと目に留まった一冊の本。
偶然立ち寄った店。
何年ぶりかに届いた連絡。
それらは本当に偶然なのでしょうか。
私は昔から、「縁」というものに不思議な興味を持ってきました。
人生を振り返ると、大きな出来事はいつも誰かとの出会いから始まっていたように思うのです。
そして、その出会いの背景には、目には見えない何かが静かに働いているのではないか――そんなことを考えるようになりました。
本書は、善い行いを積み重ねながら生きる一人の男と、その周囲に広がる不思議な縁の物語です。
もし私たちの背後に、人生を見守る存在がいたとしたら。
もし誰かとの出会いの前に、目に見えない者たちが先に握手を交わしていたとしたら。
そんな小さな空想から生まれた物語です。
読み終えたあと、今日出会った人や物に対して、少しだけ優しい気持ちになっていただけたなら、作者としてとても嬉しく思います。
序詩
日頃から
縁あってここに来たものは
大切にしたいと思っている
それはすべての物で
店に並ぶ多くの物から
サッと選んだそれですら
わずかな縁だと思いたい
さほど考えずにも出会えたならば
それもまた 縁、
物だけではなく
人は更に 縁、
目の前で咲く花も
そこへと集まる蝶も
ここに今
自分がいたならば
その光景もまた縁かと思いたい
特に人の縁は
ほんのわずかな出会いであっても
最優先にと大事にして来た
それに
相手が振り向いてくれたならば
その方は 友となれた
そして
それはいつも突然 現れて
この方とはこの先もまだ
物語がありそうだと
なんとなく分かるのだろう
それはもしや
お互いに付く
見えない何者か同士が
先に握手しているのかもしれない
と…
すべての行動は彼らが見ていて
どれだけ功徳を積むことが出来ているのかと評価しながら…
そんなことを
大谷くんを見ながら
ふと思ってみる
第一章
微細なる糸の織り成す部屋
海からの湿った風が、古い木製の飾り窓を揺らしていた。坂の上の小さな路地にひっそりと佇むその店には、看板らしい看板はない。
ただ、入り口の煤けた真鍮のプレートに『アルカディア』とだけ刻まれている。そこは、カズという名の男が営む、一風変わったセレクトショップだった。
六十歳を迎えたカズの毎日は、静謐なルーティンに満ちていた。朝、まだ太陽が水平線の向こうで燻っている時間に起き出し、細い坂道を下って海岸まで歩く。足元に落ちているプラスチックの破片や、誰かが置き忘れた空き缶を拾い上げ、持参した小さな袋に収める。
それは彼にとって、誰に褒め
られるためでもない、呼吸と同じくらい自然な「Do Good」――善き行いだった。
店に戻ると、彼は淹れたての珈琲をすすりながら、棚に並ぶものたちを眺める。そこにあるのは、どこか遠い異国で何十年も前に作られた万年筆、時を刻むのをやめた古い懐中時計、少し歪んだガラスの文鎮、そして出所のわからないセピア色の絵葉書。どれも高価な骨董品ではないが、カズの手によって丁寧に磨かれ、それぞれに相応しい居場所を与えられていた。
「日頃から、縁あってここに来たものは、大切にしたいと思っているんだ」
カズは時折、誰もいない店内でそう呟く。それは彼が長い人生の中で培ってきた、確固たる信念だった。
彼にとって、店に並ぶ物たちは単なる商品ではない。誰かがどこかで手放し、めぐりめぐってこの小さな街の、この棚に流れ着いた。それは奇跡に近い確率の糸によって手繰り寄せられたものたちだった。
午後、一人の男子学生がふらりと店に入ってきた。彼は熱心に何かを探している風でもなく、ただ時間を潰すように棚を眺めていたが、ある古びた真鍮の羅針盤の前で足を止めた。
そして、さほど深く考えずに、それを手に取ってレジへと運んできた。
カズは穏やかな微笑みを浮かべ、丁寧に包み紙で羅針盤を包んだ。学生が去った後、カズはその余韻が残る空間に目を向けた。店に並ぶ多くの物から、サッと選んだそれですら、わずかな縁だと思いたい。さほど考えずに出会えたならば、それもまた、大いなる縁なのだと、彼は強く思うのだった。
物だけではない。カズにとって、人はさらに深い縁の結晶だった。店を出て裏庭へ回ると、季節外れの白木蓮が、目の前で小さな白い花を咲かせていた。その蜜を求めて、どこからか一匹のモンキチョウがひらひらと舞い降りてくる。カズはその光景をじっと見つめた。
「ここに今、自分がいたならば、その光景もまた、縁かと思いたい」
もし自分が一分早く、あるいは一分遅くここに来ていたら、この花が開く瞬間も、この蝶の羽ばたきも見ることはなかっただろう。
すべての瞬間は、完璧な調和の中で結ばれている。カズは胸の奥が
じんわりと温かくなるのを感じながら、また静かに店内の椅子へと戻るのだった。
第二章
降霊なる者たちの帳簿
カズには見えていないが、彼のすぐ後ろ、ちょうど肩のあたりに、半透明の淡い光を放つ奇妙な男が立っていた。
男は仕立ての良い、しかしどこか時代がかったフロックコートを着て、手には分厚い革張りのノートを携えている。
彼の名は「ルカ」。人間の世界では「守護霊」や「案内人」などと呼ばれることもあるが、彼ら自身の社会では、単に「観察員」と呼ばれていた。
ルカは真剣な眼差しで、カズが今しがた行った珈琲殻のコンポスト化の手際を観察し、ノートに羽ペンで細かく文字を書き込んでいた。
『対象名:佐伯和彦。本日午前、海岸における微細プラスチックの回収、計二十二片。庭における迷い蝶への空間的配慮、および微笑み。功徳ポイント、プラス三分。累計、極めて良好』
「ふむ、相変わらずカズの奴は、無意識のうちに良いスコアを叩き出すな」
ルカは満足げに頷き、ノートを閉じた。彼ら観察員の仕事は、担当する人間のすべての行動を見守り、どれだけ「功徳(Do Good)」を積むことができているかを厳正に評価することだった。
この功徳のポイントが貯まると、天界の「縁の差配所」から、その人間にふさわしい素晴らしい出会いや、人生の転機となる「美しい縁」が支給される仕組みになっている。
すべての行動は彼らが見ていて、評価している。人間たちはそのシステムを知らないが、カズのように直感的にその気配を感じ取っている者も稀にいた。
ルカはカズの純粋な魂が愛おしかった。カズは若い頃から、特に人の縁を大事にしてきた男だった。ほんのわずかな出会いであっても、それを人生の最優先事項として扱い、傷つけないように、壊さないように、両手で包み込むようにして生きてき
たのだ。
「おーい、ルカ! 調子はどうだい」
突然、店の天井近くの空間がぐにゃりと歪み、別の観察員が姿を現した。それは快活そうな若い女性の姿をした観察員で、やはり手には一冊のノートを抱えていた。
彼女の名は「エーミ」。ルカの古い同僚だった。
「エーミか。珍しいな、君が私の担当区にやってくるなんて。君の担当は、確かあの少し離れた街の、若い女性だったはずだが」
「そうなのよ。私の担当の『ミサキ』がね、今、この店の前の通りを歩いているの。彼女、最近人生に行き詰まっていてさ。何か新しいきっかけが必要なんだけど、彼女の背負っている功徳のポイントが、ちょうど今朝、基準値を満たしたのよ。だから、差配所から『マッチングの許可』が下りてね」
ルカは驚いて、自分のノートを開いた。「まさか、私のカズと、君のミサキを?」
「そう! 運命の交差点ってやつ。カズさんの積み上げてきた莫大な功徳と、ミサキの小さな、でも純粋な善意が、ここで交差するの。ほら、見て!」
店のドアに取り付けられた古い鈴が、カラン、と澄んだ音を立てた。入ってきたのは、薄いトレンチコートを着た、どこか疲れた表情の若い女性――ミサキだった。
その瞬間、人間の目には見えない領域で、驚くべきことが起きた。カズの後ろに立つルカと、ミサキの後ろに寄り添うように入ってきたエーミが、カズとミサキが言葉を交わすよりも先に、ガシッと互いの右手を握りしめ、熱い握手を交わしたのだ。
「素晴らしい縁になりますように!」エーミが笑う。
「彼らの未来に、祝福を」ルカが厳かに応える。
見えない何者か同士が、先に握手をしている。カズは、ミサキが店に一歩足を踏み入れ、自分と視線が合ったその刹那、胸の奥に走った不思議な電流に目を見張った。
言葉などまだ何も交わしていない。しかし、彼は直感した。この方とは、この先もまだ物語がありそうだと、なんとなく分かってしまうのだった。
第三章
振り返る影、生まれる友
「いらっしゃい」
カズはいつものように、しかし少しだけ声を和らげて声をかけた。ミサキはビクッとしたように肩を揺らし、それから申し訳なさそうに小さく会釈をした。彼女の目は、何か重い荷物を背負い込んでいるかのように沈んでいた。
ミサキは都会の喧騒に疲れ、人間関係に深く傷つき、すべてを投げ出してこの海沿いの街へ逃げてきたばかりだった。あてもなく歩いているうちに、気がつけばこの風変わりな店の前に立っていたのだという。
彼女は棚に置かれた、色褪せたいくつかの外国の古い切手を眺めていた。
カズは彼女を詮索するようなことはせず、ただ静かに、温かい麦茶をガラスのコップに注いで差し出した。「外は暑かったでしょう。どうぞ、喉を潤してください」
ミサキは驚いたようにカズを見た。普段なら、見知らぬ他人の親切を警戒してしまうところだったが、カズの持つ不思議な拒絶のなさに、彼女の張り詰めていた心がすっと緩んでいくのがわかった。
彼女はコップを受け取り、一口飲んだ。そして、消え入るような声で「ありがとうございます」と言った。
カズはこれまで、相手が振り向いてくれたならば、その方はすべて友となれた、という経験を何度もしてきた。それは彼が相手を「一期一会の客」としてではなく、今この瞬間に自分の前に現れた尊い魂として、最優先に扱ってきたからだった。
彼が注いだ麦茶一杯にも、その深い敬意が込められていた。
「素敵な切手ですね」ミサキが、一枚の青い切手を指差して言った。それは、北欧の小さな国で使われていた、渡り鳥のデザインされた古い切手だった。
「それはね、遠い国で、誰かが大切な人に手紙を送るために貼ったものです。手紙は無事に届き、役割を終えたはずなのに、この小さな紙切れだけが時間を生き延びて、こうしてあなたの目に留まった。
不思議だと思いませんか?」
カズの言葉は、ミサキの心に染み渡るようだった。彼女は自分が、誰からも必要とされていない、役割を終えて捨てられた存在のように思えて仕方がなかったのだ。
しかし、この老店主の言葉を聞い
ていると、役割を終えたものにも、その先にある新しい縁が待っているのかもしれない、と思えてくるのだった。
二人の会話が静かに紡がれていく間、背後のルカとエーミは、互いのノートを見せ合いながら熱心
に作戦会議を行っていた。
「いいぞ、カズ。彼女の心の氷を、その絶妙な語り口で溶かしていくん
だ」「ミサキも頑張れ! あなたがこれまで、職場で理不尽に耐えながらも、毎朝オフィスの花瓶の水を替えていたあの功徳が、今ここで実を結んでいるんだから!」
見えない世界の住人たちは、まるで自分のことのように一喜一憂し、彼らの紡ぐ「物語」の進展を、最高の評価とともに見守っていた。すべての行動は、常に彼らに見られている。そしてそれは、人間に絶望ではなく、大いなる希望を与えるための愛に満ちた監視だった。
第四章
日常の奇跡と、青空の背番号
ミサキが店を訪れてから、一ヶ月が経った。彼女はあの後、この街で小さな古いアパートを借り、地元の図書館で臨時の司書として働き始めていた。休日のたびに『アルカディア』を訪れ、カズの手伝いをしたり、たわいもない話を交わしたりするのが、彼女にとって最も大切な時間になっていた。
彼女の表情からはかつての暗い影が消え、今ではカズにとって、年の離れた、しかし確かな「友」となっていた。
ある日の午後、店内の小さなテレビが、海の向こうの国で行われている野球の試合を映し出していた。画面に映っているのは、日本中、いや世界中がその一挙手一投足に注目している若きスーパースター、大谷選手だった。
彼は圧倒的な実力でスタジアムを沸かせた後、攻守交代の際、グラウンドに落ちていた誰かのバッティンググラブの破片か、あるいは小さなゴミを、流れるような動作で自然に拾い上げ、自分のポケットへと収めた。
カズはその画面をじっと見つめながら、ふっと深く、温かい微笑みを漏らした。
「大谷くんは、本当に大したものだね」
カウンターで古い書物の修繕をしていたミサキが、顔を上げて言った。
「ええ、本当に。世界的なスターなのに、あんな風にさりげなくゴミを拾えるなんて、なかなか真似できることじゃありませんよね」
「そうだね。でもね、ミサキさん。私は大谷くんを見ていると、ふと思うことがあるんだ」
カズはテレビ画面から、店の窓の外に広がる青空へと視線を移した。
「彼の背後にはね、きっとも
のすごく忙しくて、同時に、ものすごく誇らしげにしている『誰か』がいるんじゃないかってね。彼が誰も見ていないような場所でゴミを拾うたびに、その『誰か』は、大喜びでノートに大きな花丸をつけているはずだよ。
どれだけ功徳を積むことができているかって、いつもワクワクしながら評価しているんだ」
ミサキはカズの言葉に、クスッと笑った。「カズさんらしい、素敵な考え方ですね。でも、本当にそうかもしれません。大谷選手があんなにも多くの人から愛され、素晴らしい縁に恵まれているのは、日頃からそうやって目に見えない善意を積み重ねているからなんでしょうね」
その時、彼らの後ろでは、ルカが大きく腕を組んで、深く深く頷いていた。その目には、心なしか感動の涙さえ浮かんでいるようだった。
「よく分かっているじゃないか、カズ。大谷の担当観察員である『ショウ』の奴なんて、毎日毎日、彼の積む莫大な功徳の計算に追われて、嬉しい悲鳴を上げているよ。
奴のノートはもう、何冊目か分からないくらい金色の星でいっぱいさ。
でも、カズ、お前が毎日やっていることも、あの偉大なスターに負けないくらい、私にとっては誇らしいんだぞ」
ルカはそう言うと、カズの肩をそっと叩くような仕草をした。もちろん、カズにその手の感触は伝わらない。しかし、カズはふと、背中がじんわりと温かくなるのを感じて、もう一度青空を見上げた。
世界は、目に見えるものだけで成り立っているわけではない。私たちがサッと選んだ物、ふと出会った人、目の前で咲く花や、そこに集まる蝶。そのすべてが、誰かの積んだ優しさの記憶であり、背後の彼らが交わした「見えない握手」の結果なのだ。
「さあ、今日も少しだけ、世界を良くする協力をしようか」
カズはそう言って立ち上がり、店先の植木鉢に水をやるために歩き出した。彼の歩みの先で、また新しい花が蕾を膨らませ、新しい物語の始まりを静かに待っていた。彼らの頭上には、どこまでも高く、どこまでも澄んだ、美しい青空が広がっていた。
了
Amazon Kindle
【あとがき】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『Do Good… 見えない握手』は、「善意はどこへ行くのだろう」という素朴な疑問から生まれました。
誰も見ていない場所で拾ったゴミ。
誰にも気づかれない親切。
言葉にしなかった思いやり。
私たちはつい、それらを小さなものだと思いがちです。
けれど本当は、その一つひとつが誰かの人生を少しだけ温かくし、やがて新しい縁へとつながっていくのかもしれません。
作中に登場する観察員たちは架空の存在です。
しかし、もし彼らが本当にいたならば、きっと人間の成功や失敗よりも、その人がどれだけ優しく生きたかを喜ぶのではないでしょうか。
私たちは皆、完璧ではありません。
失敗もしますし、後悔もします。
それでも今日より少しだけ誰かに優しくできたなら、それは立派な「Do Good」なのだと思います。
この本が、あなた自身の人生にある数多くの縁を見つめ直すきっかけになれば幸いです。
そして、これから出会う誰かとの間に、素敵な物語が生まれることを願っています。
ありがとうございました。

