駄菓子屋タイムスリップ


  —— あとどのくらい、と問うた夜に ——



著   者:ぼく



まえがき

人は歳を重ねるほど、「あとどのくらいだろう」と考えるようになります。

あと何年働けるだろう。
あと何回、桜を見られるだろう。
あと何人の友人と笑い合えるだろう。

若い頃には考えもしなかった問いが、ある日ふと心に浮かびます。

この物語は、そんな問いを抱えた一人の男が、不思議な駄菓子屋で過去と出会う話です。

昭和の駄菓子屋。
十円玉。
色鮮やかな棒アイス。
ソースせんべい。
そして、もう会えなくなった友人たち。

人は過去へ戻ることはできません。
けれど、思い出の中には何度でも帰ることができます。

もし人生にタイムマシンがあるとしたら、それは機械ではなく「記憶」なのかもしれません。

この物語が、あなた自身の大切な思い出を少しだけ呼び起こすきっかけになれば幸いです。




序章

 これは、還暦を越えたある男の、ひどく奇妙な夜の話である。



 男の名は持田武志(もちだたけし)。六十二歳。元・印刷会社の営業マン。現・無職にして年金予備軍。趣味は特になし。好物は昔の駄菓子と、最近めっきり飲めなくなった缶ビール。



 ある梅雨の夜、武志は長年連れ添った猫のぱふを失った。

 その夜から、彼の時間の流れは少し——いや、かなり——おかしくなった。



 笑えるところは笑っていただいて構わない。

 ただ、最後の数ページは、できれば一人で読んでほしい。






第一章 ぱふの椅子

 六月の終わりというのは、どうしてこんなに蒸し暑いのだろう。


 持田武志は、居間の片隅に置かれた小さなクッションを、もう三日間も動かせずにいた。ベージュ色のそのクッションには、白と薄茶のまだら模様が、長年の毛並みによってうっすらと刻み込まれていた。


 ぱふ。


 十七年と四ヶ月。それだけの時間を、この猫は武志と一緒に生きた。

 引越しのときも、リストラのときも、妻の順子が実家へ帰ったときも——ずっとここにいた。


 「お前のほうが先に行くとは思わなかったぞ」


 武志は独り言を言う癖がついていた。正確に言えば、ぱふに話しかける癖がついていたのだが、その宛先を失っても、声だけは残ってしまっていた。


 夜の十一時。テレビは消えている。ビールは飲みかけのまま、缶の口から微かに炭酸が逃げていく音がする。


 武志は立ち上がり、窓を開けた。梅雨の夜の空気が、ぬるりと部屋に入り込んでくる。


 遠くで犬が吠えた。

 虫が鳴いた。

 そして——。


 甘い匂いがした。


 砂糖と、何か人工的なもの。水あめと、安い着色料。どこか懐かしく、どこか体に悪そうな、あの匂い。


 「……なんだ?」


 武志は鼻をひくひくさせた。還暦を越してから鼻炎がひどくなっていたのに、この匂いだけは、不思議なほどはっきりと嗅ぎ取れた。


 近所のコンビニではない。コンビニは午後十時に閉まる。スーパーは十一時まで開いているが、スーパーはこんな匂いはしない。


 武志はサンダルを突っかけて、玄関を出た。

 路地に出た瞬間、彼は足を止めた。


 電柱の向こう側。

 そこに——あるはずのない建物が、あった。



第二章 夜中の駄菓子屋

 看板には、手書きの文字で「よろず菓子 はなや」と書かれていた。


 武志は目を細めた。ここはシャッターの閉まった理容室のはずだ。三年前に主人が亡くなって、そのままになっている場所だ。


 だが、今、そこには確かに光が灯っていた。

 ガラス張りの戸の向こうに、色とりどりの袋が積み上がっている。蛍光灯の白い光が、それらをギラギラと照らしている。


 武志はゆっくりと近づいた。


 駄菓子屋だ。

 どう見ても、完全に、駄菓子屋だ。


 しかも——。


 戸を引くと、すっと開いた。ベルがチリンと鳴った。

 店内の空気が、まるごと武志の鼻腔に飛び込んできた。


 あの匂いだ。


 砂糖と着色料と水あめとソースせんべいと梅ジャムと、なんとも言えない複合的な懐かしさ。武志の体が、脳より先に反応した。足が自然と前に出る。目が輝き始める。胃袋が「久しぶりじゃないか」とつぶやく。


 棚にはずらりと並んでいた。

 フエラムネ。黒糖ドロップ。コーラアップ。ヨーグルはじけるキャンディ。うまい棒(全フレーバー)。チョコバット。ビッグカツ。スーパーカー消しゴム(なぜか)。


 「いらっしゃい」


 声がした。


 奥のカウンターから、小さなおばあさんが顔を出した。年齢は——どう見ても九十は過ぎている。顔中に皺が刻まれているが、目だけがやたらと若い。黒くて、きらきらして、どこか猫みたいな目。


 武志はドキリとした。


 「……あの」

 「何にする?」

 「いや、その前に——ここ、昨日まで理容室でしたよね?」


 おばあさんはにやりと笑った。


 「昨日はそうだったね」

 「今日は?」

 「今日は駄菓子屋だよ」

 「……そうですか」


 武志は素直にそう言った。還暦を越すと、ある種の非常識に対して、不思議なほど寛容になれる。


 「あんた、ぱふちゃんの飼い主だろう」


 武志は固まった。


 「……知ってるんですか」

 「ちゃんと来てるよ、毎日。猫はね、死んでもしばらくは好きな場所をうろうろするもんだよ」


 おばあさんは平然と言った。


 「じゃあ……ぱふは、今も」

 「さっきもカウンターの上に乗ってたよ。あんたが入ってきた時に逃げちゃったけど」


 武志は思わず涙が出そうになった。出なかった。男の沽券とかではなく、単純に驚きが大きすぎて感情の処理が追いつかなかった。


 「で、何にする?」


 おばあさんは再び聞いた。


 武志は棚を眺め回した。視線が一点で止まった。


 ソースせんべい。

 二枚入り、十円。


 「これ、ください」


 武志は十円玉を取り出した。おばあさんはそれを受け取り、ちらりと見て、何かを確かめるように頷いた。


 「おつりはないよ」

 「わかってます」


 武志はせんべいを受け取り、かじった。


 瞬間——



第三章 昭和四十七年の夏

 世界が変わった。

 蒸し暑さが増した。アスファルトの代わりに土の道が広がっていた。電柱は木製になっていた。空は今より少し——ほんの少しだけ——青かった。


 武志は自分の手を見た。

 六十二歳の手ではなかった。

 小さかった。爪の間に泥が詰まっていた。


 「たけちゃん!」


 後ろから声がした。振り返ると、半ズボンにランニングシャツの男の子が走ってくる。


 幸夫だ。

 隣に住んでいた幸夫だ。中学で転校して、それから年賀状だけのつきあいになって、去年——。


 去年、逝ってしまった幸夫。


 七歳の幸夫が、汗だくで走ってきた。


 「どこ行ってたんだよ!みんな集まってるよ!」

 「み、みんなって?」


 「駄菓子屋に決まってんじゃん!早く来いよ!」


 幸夫は武志の手を引っ張った。武志の体は自動的についていく。足が地面を蹴る感覚が、やけに軽い。


 路地を抜け、少し広い道に出ると——あった。

 本物の、昭和の、夏の駄菓子屋。


 間口二間ほどの小さな店。暖簾の代わりにビニールののれんが下がっている。中には同じ歳くらいの子供が五、六人、狭い空間でひしめき合っていた。


 全員の顔が武志にはわかった。

 小学校のクラスメート。

 今は還暦を過ぎた同世代の友人たち。あるいは——すでに先立った者たち。


 ここにいる。全員が、ここにいる。


 七歳の春男(はるお)が、ソースせんべいの当たり外れに一喜一憂している。

 七歳の信子(のぶこ)が、梅ジャムの瓶に指を突っ込んでなめている。

 七歳の進次(しんじ)が、うまい棒(コーンポタージュ)を三本まとめて口に押し込もうとしている。


 武志は涙が出そうになった。今度は本当に出そうになった。


 「たけちゃん、どうした?変な顔して」


 幸夫が覗き込んでくる。


 「……なんでもない。ソースせんべい、買おうと思って」

 「俺も!」


 二人で十円玉を握りしめて、棚に向かった。


 駄菓子屋のおばちゃんは四十代くらいの女性だった。エプロン姿で、お世辞にも愛想がいいとは言えない。だが子供たちは全員この店が好きだった。


 十円で買えるものがこれだけある、という事実そのものが、奇跡だった。


 武志は棚を眺めた。

 フルーツ味の粉末ジュース(中身は謎)、赤と青と緑の棒アイス(成分表示ほぼなし)、謎のスナック(裏面に「人工着色料使用」と誇らしげに書いてある)。


 今の武志ならラベルを確認する。原材料を読む。何が入っているか気にする。

 七歳の武志は、そんなことより色が派手かどうかのほうが重要だった。


 「これ、赤いじゃん。うまそう」



 七歳の武志はそう言って、なんの躊躇もなく、鮮やかに赤い棒アイスを口に突っ込んだ。

 甘かった。

 化学的に甘かった。

 体に悪そうに甘かった。


 最高だった。



第四章 十円玉の女王

 時間はゆっくりと流れた。


 武志は気づいたら子供たちに混じって、縁台将棋ならぬ縁台めんこをしていた。七歳の体は正直で、六十二歳の記憶と七歳の反射神経が奇妙に共存していた。


 幸夫が「たけちゃん今日強くね?」と言った。


 「年の功だ」と武志は言いかけて、「気合いだ」に変えた。


 日が傾いてきた頃、駄菓子屋の前に一人の女の子が来た。


 年齢は同じくらい——七、八歳だろうか。ただ、他の子と雰囲気が違った。制服ではなく、きれいなワンピースを着ていた。髪が整えられていた。そして手に、十円玉ではなく——百円玉を持っていた。


 当時の百円玉は、子供にとって異次元の財力だった。


 「すごい……百円持ってる……」


 誰かがそっとつぶやいた。全員が固まった。


 女の子は堂々と店に入り、しばらく棚を見回してから、言った。


 「全部ください」


 おばちゃんが「全部って何が?」と聞いた。


 「フルーツ棒、全色。と、ソースせんべい五袋。と、梅ジャム二個」


 子供たちは唖然とした。


 一人の男の子(進次だったと思う)が小声で「金持ちの子だ……」と言った。


 女の子はお釣りを受け取り、振り返った。そして、なぜか子供たちに向かって、買ったものを全部差し出した。


 「はい、みんなで食べて」


 全員が三秒間フリーズした。


 武志が一番に動いた。「ありがとう」と言って、フルーツ棒の黄色を取った。


 それで全員が「ありがとう!」と言って、一斉にたかっていった。


 女の子は微笑んでいた。どこか満足そうに、どこか寂しそうに。


 「あなた、名前は?」


 武志は聞いた。


 「和子」


 「どこに住んでるの?」


 「遠いところ」


 そう言って、和子は来た方向へ歩いていった。


 振り返りながら、一度だけ手を振った。


 武志もつられて手を振った。


 幸夫が「誰だったんだろうね」と言った。


 武志には——なんとなくわかった気がした。でも言葉にはできなかった。


 和子。


 二十年前に癌で逝ったクラスメートの名前だった。


 でも七歳の時には転校してきておらず、武志が彼女と出会ったのは中学校だった。


 だとすれば、あれは誰だったのか。


 武志は考えるのをやめた。

 昭和の、甘くて危うい空気の中で、フルーツ棒をなめながら、とにかく今がここにあることだけを感じていた。



第五章 添加物と免疫力と、あの頃のオレ


 夕暮れの路地で、武志は幸夫と並んで座っていた。


 縁石の上に腰かけて、二人でコーラアップを舐めている。コーラアップとは、コーラ風味のグミキャンディに似た何かで、成分は主に砂糖と「コーラエキス」と着色料である。コーラエキスが何であるかは、製造元も把握していないかもしれない。


 「なあ幸夫」


 武志は言った。


 「なに」


 「俺たち、こういうの食べてきたじゃないか」


 「食べてきたね」


 「将来、体に悪いと思う?」


 七歳の幸夫は少し考えてから、言った。


 「悪いかもしれないけど、今うまいからいいじゃん」


 武志は笑った。


 そうだ。その通りだ。七歳の倫理観は正直だ。


 「六十になったらさ」と武志は続けた。「体のどっかが先に白旗上げると思う?」


 幸夫は怪訝な顔をした。


 「六十って……おじいちゃんじゃん。そんな先のこと知らないよ」


 「そうだな」


 武志は笑った。知らなくて正解だ。知っていたら怖くて生きていけない。


 腰で白旗が上がるとは思っていなかった。

 足がしびれるとは思っていなかった。

 胃が夜中に悲鳴を上げるとは思っていなかった。


 だが、それもまた人生だ。


 この体は、四十年分の添加物と、四十年分の睡眠不足と、三十年分のストレスを積み重ねて、それでもここまで来た。


 「免疫力があったんだな、若い頃は」


 武志は独り言のように言った。


 幸夫が「めんえきりょく?」と聞いた。


 「体が戦ってたんだよ、ずっと。ギリギリで勝ち続けてたんだよ」


 「オレ、強かったんだ!」


 幸夫は誇らしそうに言った。


 武志は頷いた。


 「強かったよ。ずっと」


 幸夫は胸を張った。七歳の胸が、夕日の中でぱっと輝いた。


 武志は泣きそうになった。今度こそ本当に泣きそうになった。


 幸夫は六十一歳で逝った。

 強かったよ。ずっと。ギリギリで戦い続けた。


 「幸夫、お前は——」


 だが、武志の言葉が終わる前に、空気が揺れた。

 世界がにじんだ。

 コーラアップの甘い匂いが消えていった。



第六章 ご近所の先輩たち


 気づいたら、武志は自分の居間に戻っていた。


 缶ビールはまだ飲みかけのままだった。時計を見ると、午前零時二十分。玄関を出てから二十分しか経っていなかった。


 武志はゆっくりとソファに座った。


 頭の中に、いくつかの顔が浮かんだ。


 向かいの田中さん。武志が二十代の頃、よく縁側でお茶を飲んでいた。「若いうちはよく寝ることだよ」が口癖だった。武志が今の年齢になった時、田中さんはもういなかった。


 角の松本さん。定年後に畑を始めて、よく野菜をくれた。背中が曲がっていたが、眼差しは真っ直ぐだった。三年前に施設に入って、去年静かに逝った。


 二軒先の橋本さん。武志より十歳上で、お世辞にも愛想がいいとは言えなかったが、引っ越しの時に黙って手伝ってくれた。去年の秋に逝った。


 みんな今の武志より少し上の年齢で、逝っていった。


 「あの頃の橋本さんって、今のオレくらいだったよな」


 武志は独り言を言った。宛先のない独り言。


 橋本さんは六十五歳だったのか。あの時、橋本さんの背中はどう見えていたか。老人に見えていたか。


 今の武志には、六十五が老人には見えない。見えないはずなのに、橋本さんの引退した背中は、確かに老人だった気がする。


 「歳ってのは、外から見るもんじゃないんだな」


 缶ビールを一口飲んだ。


 ぬるくなっていた。でも、なぜか、うまかった。


 武志はぱふのクッションに目をやった。


 おばあさんが言っていた。「毎日来てるよ」と。


 「そうか。来てるか」


 武志は笑った。


 ぱふは生前、夜中にどこかへ行っては朝に帰ってくる猫だった。鈴のついた首輪を着けていたが、鈴が鳴らない歩き方をしていた。忍者みたいな猫だった。


 死んでからも忍者みたいに来ているとしたら——それは、ぱふらしかった。


 「今夜も来てるか?」


 武志は部屋を見回した。


 何もない。

 何も見えない。


 でも、ふと——足元が、少し暖かかった気がした。



第七章 三十年前と、三十年後


 翌日も、また翌日も、武志は夜になると「よろず菓子 はなや」に行った。


 行くたびに、時間はどこかへ飛んだ。


 二度目は昭和五十五年の夏で、武志は十五歳だった。初めて食べたファストフードのハンバーガーの味を、また味わった。百円で買えたあの奇跡のハンバーガー。肉の質などどうでもよかった。「ハンバーガー」を食べているという事実に、心が震えた。


 三度目は昭和六十年。武志は二十歳で、初めてカップ麺以外のインスタント食品を覚えた。レトルトカレー。湯煎三分で食べられるカレー。こんな便利なものが世の中にあるのかと、感動して三つ買った。その日の夕食と朝食と昼食、全部レトルトカレーにした。翌日、胃がもたれた。それでもまた買った。


 四度目は平成五年。三十歳の武志は、深夜に友人たちとファミレスで話していた。タバコの煙が充満する店内。誰かがシーザーサラダを食べながら「将来どうなりたいか」を語っていた。全員が元気で、全員が若くて、全員が——まだここにいた。


 それぞれの夜に、武志はソースせんべいを一枚かじった。あのおばあさんの店で、十円玉を出して。


 そして帰ってきた。


 毎回、二十分以内に。


 ある夜、帰ってきた武志に、おばあさんが言った。


 「そろそろわかってきたかい」


 「何がですか」


 「あとどのくらい、って聞く前に、どれだけあったか、を考えるほうがいいってこと」


 武志は黙って聞いた。


 「三十年、あったとしよう。三十年前は何してた?」


 「……三十二歳でした。仕事ばかりしてました」


 「三十年、あっという間に来たろう」


 「そうですね」


 「残りの三十年も、同じ速さで来る。怖いか?」


 武志は少し考えた。


 「怖いといえば怖いですが……あの頃より怖くないかもしれません」


 「なんで?」


 「あの頃は、何が来るかわからなかった。今は——来るものが、なんとなくわかる」


 おばあさんはにやりと笑った。


 「それが年の功ってもんだよ」


 武志も笑った。


 「でも」と続けた。「知ってても怖い時もある」


 「当たり前だよ」とおばあさんは言った。「怖くなくなったら、もう終わりだよ」


 武志はうまい棒(チーズ味)を一本買って、帰り道でかじった。


 六十二歳の男が、深夜に路地でうまい棒をかじっている。


 傍から見たら、かなり奇妙な光景だろう。

 だが武志は、人生でこれほど「今ここにいる」と感じたことが、なかったかもしれなかった。



第八章 一緒に年寄りになろう


 七月の初旬、武志は中学の同窓会に出た。


 三十人が集まった。その顔ぶれを見て、武志はまず、欠けているものを数えた。


 五人が、もういなかった。


 幸夫。和子。進次。それから、名前を言うのが辛い二人。


 「久しぶり」「老けたな」「お前こそ」という声の飛び交う中、武志はビールを持ったまま、ぼんやりと立っていた。


 隣に春男(六十二歳、今は自動車修理工)が来た。


 「どうした、暗い顔して」


 「暗くはない」


 「死んだ顔してるぞ」


 「失礼だな」


 「幸夫のこと、考えてるだろ」


 武志は黙って頷いた。


 「俺もだよ」と春男は言った。「あいつ、去年の今頃はまだいたんだよな」


 「今頃は元気だったよな」


 「元気だったよ」


 二人でしばらく黙っていた。


 「怖いよ」と春男が言った。「次は誰かって、毎年思う」


 「俺もだ」と武志は言った。「でも」


 「でも?」


 「一緒に年寄りになろうと思ってる」


 春男は少し驚いた顔をしてから、笑った。


 「何それ、詩みたいだな」


 「詩みたいだろ」


 「悪くない」


 「悪くないだろ」


 ビールで乾杯した。

 うまかった。

 体に少し悪かった。

 それでも、うまかった。


 帰り道、武志は一人で歩いた。


 梅雨明けしたての夜空に、星が見えた。


 「あとどのくらい?」


 また、問いが頭に浮かぶ。


 でも、今夜は少し違う気がした。


 「どのくらい」より「何をするか」が、先に来た気がした。


 武志は足元を見た。

 路地の端に、ベージュの毛のようなものが……いや、気のせいだ。


 でも、気のせいでもいい。


 「ぱふ、今夜も来てるか?」


 夜風が吹いた。


 答えはなかった。

 でも、なかったことが、答えみたいだった。



エピローグ ぱふへ


 ぱふへ。


 お前がいなくなってから、俺の夜はずいぶん変わった。

 あの駄菓子屋に行くようになって、昔の景色をずいぶん見た。


 幸夫がいた。和子がいた。春男の七歳の顔があった。

 そして、七歳の俺がいた。


 あの頃の俺は、本当に何も考えていなかった。

 添加物も、将来も、寿命も、老いも。

 ただ今がうまければよかった。今が派手な色ならよかった。今が楽しければよかった。


 それが悪かったとは思わない。

 むしろ——それが今の俺を作ったと思う。


 体のどこかに、あの頃の赤い棒アイスの成分が残っていて。

 それが俺をギリギリここまで引っ張ってきたんじゃないかと。


 馬鹿げた話だけど、そういうことにしている。


 お前は十七年と四ヶ月、俺と一緒にいた。

 俺がリストラされた夜も。

 順子が出ていった夜も。

 父が死んだ夜も。

 母が死んだ夜も。


 全部の夜に、お前は俺の膝の上か、俺の足元か、俺の枕元にいた。


 何も言わなかった。

 ただ、いた。


 それがどれだけ大きかったか、いなくなってからようやくわかった。


 おばあさんの店で聞いたよ。「毎日来てる」って。

 だとしたら、俺はまだまだ一人じゃないな。


 しばらくついてきてくれ。


 あとどのくらいかは知らない。

 でも、その「どのくらい」を、俺はちゃんと生きるから。


 昭和の添加物をたんまり体に染み込ませた、この体で。

 白旗の上がりかけた膝と腰と胃腸を抱えて。

 それでも笑えるうちは笑って。


 ご同輩と、一緒に年寄りになりながら。


            持田武志 六十二歳 梅雨明けの夜に



 了



 この物語はフィクションです。

 ただし、ぱふへの思いはフィクションではありません。



Amazon Kindle




あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

『駄菓子屋タイムスリップ』は、過去へ戻る物語でありながら、実は「今を生きる」ための物語として書きました。

人は誰しも、会いたい人がいます。

もう一度話したい友人。
もう一度抱きしめたい家族。
もう一度撫でたい愛しい存在。

けれど現実には、時間は戻りません。

だからこそ私たちは、思い出を抱きながら前へ進むしかありません。

主人公の武志は、過去の人々と再会しながら、少しずつ気づいていきます。

「あとどのくらい生きられるか」よりも、
「残された時間で何をするか」のほうが大切なのだと。

年齢を重ねることは、失うことばかりではありません。

出会った人々の記憶が増え、
笑った時間が増え、
誰かを大切に思った証が増えていきます。

もし本書を閉じたあと、
会いたい人の顔が一人でも浮かんだなら、
そして少しだけ優しい気持ちになれたなら、
作者としてとても嬉しく思います。

あなたのこれからの時間が、穏やかで温かなものでありますように。